vlink=red alink=yellow>

Music:荒城の月

2010年12月4日(日曜)

WIFEと訪れた安倍文殊院





	20数年ぶりで徹夜の仕事があった。頭がぼんやりしている週末の日曜、WIFEが「私、まだ今年は本格的に紅葉を見ていない。」
	と言い出した。折も折、先日の新聞に、今日は奈良の飛鳥で「水落遺跡」の現地説明会があると書いていたので、これ幸い、この
	説明会を聞きに行って、帰りに紅葉を見ようと提案した。
	飛鳥の説明会はいつも人だかりなので、また長いこと待たされるのかと覚悟したが、ずいぶん少なくて拍子抜けした。しかし行っ
	てすぐ説明を聞けたし、駐車場にもうまく停められて良かった。WIFEは説明会の間中、資料館の隣にある物産屋で買い物をしてい
	て、すぐ側でやっている説明会にはとうとう一度も来なかった。その時の模様は、「遺跡・旧蹟めぐり」の「現地説明会案内」の
	コーナーに入れてある。

	その説明会が終わって、紅葉を見に談山神社へ行った。安倍文殊院近くのパン屋さんんで昼食を食べて文殊院へやってきた。談山
	神社にはあまり紅葉が無かったので、ここへ来たのだが。ここにはまだ紅葉が最後の色づきを見せていた。私はもう何度もここへ
	は来ているが、WIFEは初めてだという。子供達が小さい頃、家族で一度来たのだが、すっかり忘れてしまっている。

	今年は、本尊の文殊菩薩が、いつもは獅子の背中に乗っている姿なのを、獅子から降りた姿で公開されている。700円の入館料
	を取られるので、歴史倶楽部の例会やその他で来たときは本殿の中へは入らないのだが、今日はWIFE持ちなので、ありがたく抹茶
	をいただいて文殊菩薩像を拝観した。














	今年は私の本厄だったのか。それにしてはそんなやっかい事はなかったなぁ、と思ったら、もしかしたら今年こうやって拝観して
	いった多くの寺社仏閣の、仏様・神様達のおかげかも知れない、と思い直した。ありがたや、ありがたや。

	しかし廻りでは、高校時代の友人が今年2人も死んだ。一人は目のガンで、取締役営業部長になったばっかりだったし、もう一人
	は大手銀行で40年働いて食道ガンになった。銀行も辞めて自宅療養していたが、とうとう逝ってしまった。死ぬ一月前くらいに
	電話したら、食道ガンなのでとぎれとぎれながら、自分から「末期ガンだからもうダメだよ。電話ありがとう。」と言っていた。
	その時は掛ける言葉もなかったが、奥さんからの電話が入ったときは、話す前に「あ、逝ったか。」と涙がこぼれた。



釈迦三尊像。釈迦如来を中心に、日光菩薩、月光菩薩が両脇を固める、典型的な三尊像だ。






	通常はこのように獅子の背中に文殊菩薩が乗っている。右手に剣、左手に蓮華という、考えさせられる姿である。文殊菩薩という
	のは、もともとこういう姿なのか。獅子に乗っている菩薩などというのは、ここで初めて見たが他にもあるのだろうか。私の父は
	敬虔な仏教徒でよく仏教関係の本を読んでいたが、私はまだまだその領域には入りたくない、と思っているうちにもう還暦を迎え
	てしまった。(あとで調べたら、この姿は文殊菩薩の一般的な姿らしい。以下ウィキペディア参照。)


	文殊菩薩	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	
	文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、梵名マンジュシュリー ( [maJjuzrii])は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧
	を司る仏とされる。
	文殊は文殊師利(もんじゅしゅり)の略称。また妙吉祥菩薩(みょうきっしょうぼさつ)などともいう。曼殊室利等とも音写し、妙
	吉祥、妙徳、妙首などとも訳す。文珠菩薩とも書く。三昧耶形は青蓮華(青い熱帯スイレンの花)、利剣、梵篋(ヤシの葉に書か
	れた経典)など。種子(種字)はマン(maM)。

	『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。また一説に釈迦十大弟子とも
	親しく仏典結集にも関わったとされる。『維摩経』には、維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理と
	して見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記され、智慧の菩薩としての性格を際立たせている。この教説に基づき、維摩
	居士と相対した場面を表した造形も行われている。

	文殊菩薩はやがて『維摩経』に描かれたような現実的な姿から離れ、後の経典で徐々に神格化されていく。釈迦の化導を扶助する
	ために菩薩の地位にあるが、かつては成仏して龍種如来、大身仏、神仙仏などといったといわれ、また未来にも成仏して普見如来
	という。あるいは現在、北方の常喜世界に在って歓喜蔵摩尼宝積如来と名づけられ、その名前を聞けば四重禁等の罪を滅すといわ
	れ、あるいは現に中国山西省の清涼山(五台山)に一万の菩薩と共に住しているともいわれる。また『法華経』では、過去世に日
	月燈明仏が涅槃した後に、その弟子であった妙光菩薩の再誕が文殊であると説かれる。

	なお、これらはすべて大乗経典における記述によるものであり、文殊菩薩が実在したという事実はない。しかし文殊は観世音菩薩
	などとは異なり、モデルとされた人物が存在していたと考えられており、仏教教団内部で生まれた菩薩であると考えられている。

	文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。ここでは釈迦仏に代って般若の「空(くう)」を説いている。ま
	た文殊菩薩を「三世の仏母(さんぜのぶつも)」と称える経典も多く、『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で
	描かれるなど、これらのことからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。尚、本来悟りへ
	到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人
	寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。

	また、中国の娯楽小説『封神演義』には普賢真人、文殊広法天尊という仙人が登場しており、彼等が後に仏門に帰依しそれぞれ普
	賢菩薩、文殊菩薩となったという設定になっているが、これは後世の全くの創作である。
	中国においては、山西省の五台山が文殊菩薩の住する清涼山として古くより広く信仰を集めており、円仁によって日本にも伝えら
	れている。
	また中国天台宗系の史書である『仏祖統紀』巻29には、「文殊は今、終南山に住み給えり。杜順和上はこれなり」と、中国華厳宗
	の祖である杜順を文殊菩薩の生まれ変わりであるとしている。
	建州女真族の本尊とされ、その名にちなみ満洲(満州)と自称。ホンタイジ以降、全ての女真族の呼称に代え満洲族と呼称するよ
	うになった。したがって満州の名は文殊が語源であるとされる。

	鎌倉時代、真言律宗の僧叡尊・忍性は深く文殊菩薩に帰依し、1240年以後、各地で文殊供養と大規模な非人布施を行った。

	文殊菩薩像の造形はほぼ一定している。獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せ
	た青蓮華を持つ。密教では清浄な精神を表す童子形となり、髻を結う。この髻の数は像によって一、五、六、八の四種類があり、
	それぞれ一=増益、五=敬愛、六=調伏、八=息災の修法の本尊とされる。
	また、騎獅の文殊、先導役の善財童子、獅子の手綱を握る優填王、仏陀波利、最勝老人を従える文殊五尊像も造形された。
	また禅宗においては、修行僧の完全な姿を表す「聖僧」(しょうそう)として僧堂に安置され、剃髪し坐禅を組む僧形となる。こ
	の場合、文殊もまた修行の途上であるとの観点から、菩薩の呼称を避け文殊大士(だいし)と呼ぶことがある。
	日本における作例としては、奈良の興福寺東金堂の坐像(定慶作、国宝)や安倍文殊院の五尊像(快慶作、重要文化財)、高知の
	竹林寺の五尊像(重要文化財)などが見られる




	今年は文殊が獅子から降りて、台座の上に鎮座している。この姿は今年しか見れないそうだ。何十年ぶりかの姿だそうで、また当
	分は無いという。この姿になっているのは11月終わりくらいまでの期間だったのだが、我々が行った今日12月4日でもまだこ
	の姿をしていた。獅子にまたがり、右手に剣、左手に経巻を持つのが一般的とされているが、必ずしも一定していないという記事
	もある。
	『釈迦の弟子たちが、非常に聡明で大乗仏教の奥義に通じた維摩居士に議論を挑んだが、次々とやりこめられた。しかしただ一人、
	文殊菩薩だけは、対等に論議することができた』
	奈良法隆寺五重塔、興福寺東金堂には、その問答を表現した塑像があるそうだ。この文殊菩薩の智慧は純粋に理性的なもので、も
	のごとを全く主観を交えないで判断することができる、いわゆる悟りの智慧といわれている(らしい)。経巻は智慧の象徴、剣は
	その智慧が鋭く研ぎ澄まされている様を、獅子はその智慧の勢いが盛んであることを表現している、と言う。獅子にまたがる像は、
	平安中期に盛んに作られ、それ以降の模範となった。

	ちなみに、日本三大文殊と言われているのは、ここ安倍文殊院(奈良桜井市)と、切戸文殊(京都天橋立(知恩寺))、黒谷文殊
	堂(京都東山金戒光明寺)である。



下は、王冠、剣、教典(蓮華)を取り除いた時の珍しい写真。





雨期御堂前の紅葉。もう最後の最後という色合いだ。



この石室にはWIFEも驚いている。だれだって驚くと思う。







安倍晴明堂からみたコスモス広場。秋にはコスモスの迷路が造ってあるが、今は来年に向けた花が、何か植えられている。









私の説では、安倍晴明の生まれ故郷は、ここではなくて大阪の阿倍野だと思う。







 邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部例会/メスリ山古墳-ANNEX