Music: ゴンドラの唄

第130回例会のオマケ

和邇氏の郷を歩く、一人旅 2008年3月22日(土)ぶらり散歩



	先週の例会から1週間、前回圓照寺裏の御陵を見逃したのと、先週歩いていて結構野鳥が居たので、次回はBird Watchingでこのあ
	たりを歩きたいなと思っていた。今日、天気予報が「久しぶりに青空の見えるいい天気になるでしょう。」とのたまわったので、
	何も予定がなかったし、「よし、行ってみよう」と突然家を飛び出した。



	環状線で大和路快速に乗ろうとしたら、女優の水野真紀がやってきて、渡邊なんとかといきなり環状線のホームでロケをし出した。
	二人とスタッフは、そのまま環状線に乗り込んで行ってしまったが、しかし女優というのはナマで見てもやっぱり美人だねぇ。あの
	足の細かったこと。

	大阪駅から大和路快速で奈良まですぐである。30分くらいかな。車中から大和川やぶどう園などを見ながらうつらうつらしている
	とすぐ奈良だ。ここから桜井線にのって三輪方面へ南下する。4っ目(だったかな)が「帯解(おびとけ)駅」。「帯解」というと
	私などはすぐ艶っぽい帯を想像してしまうが、安産のほうの帯なのだった。



ついでに帯解寺にも行ってみることにした。この駅で降りるのは初めてじゃなかろうか。








	<帯解寺 (おびとけでら) >	〒630-8444  奈良市今市町734 TEL:0742-61-3861/FAX:0742-63-0825

	JR奈良駅より桜井線に乗り、2つ目「帯解駅」で下車する。徒歩2,3分で帯解寺の大きな看板があってすぐわかる。美智子皇后、
	紀子妃殿下ともここの安産帯を召されたという皇室ゆかりの寺である。縁起によれば、文徳天皇の妃染殿皇后が当山の帯解子安地蔵
	菩薩に祈願し、子(清和天皇)を授かり天安2年(858年)伽藍を建立、それまでの霊松山から帯解寺と勅命された。徳川家光も
	世継ぎがなく、御楽の方がここで祈願し竹千代丸(家綱)を産んだという。安政5年(1854年)に再建された本堂に祀られている、
	本尊の木造地蔵菩薩半跏像は鎌倉期の作で重要文化財に指定されている。




	[帯解寺縁起]
	当山は弘法大師の師である勤繰大徳の開基巖渕千坊の一院で霊松山と申しました。そして、今から約千年前、人皇55代文徳天皇の御
	妃染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、早速勅使をたてられて帯解
	子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、月満ちて惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。文徳天
	皇はお喜びのあまり、天安二年( 858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改められ、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)
	と勅命せられました。帯解の名称はここから始まりました。




	帯解寺は華厳宗の古い寺院で、本尊は地蔵菩薩。俗に帯解地蔵と呼ばれている。弘法大師の師である勤繰大徳の開基した巖渕坊(い
	わぶちぼう)の一院で霊松山と称した。文徳天皇の勅命以来信仰をあつめ、家光の故事もあって、江戸期には徳川将軍からも厚い信
	仰をうけた。現代でも、美智子皇后、雅子皇太子妃をはじめ、三笠宮、高円宮、秋篠宮などの皇族が当寺において安産祈願を行って
	いる。安産祈願の寺として知られ、現在の山号も子安山である。




本堂前には4代将軍家綱が寄進した石の手水鉢がある。



もう桜は満開で、こりゃ我々の花見も早くしないといかんなぁ。



「大和名所図絵」より。江戸時代。帯解寺全景。



	帯解寺を出て、帯解の町を抜け国道を横切り30分ほど歩くと、先週行った円照寺の裏手に出る。
	途中でセグロセキレイの交尾を見た。鳥の交尾は、写真集ではよく見るが、実際に自分の目で見たのは初めてだった。一寸あっけに
	とられたが、すぐ気を取り直してデジカメを構えたら、たちまちどっかへ飛んでいってしまった。鳥のSEXは一瞬である。



	大きな溜め池があった。ここでホオジロを見た。木の天辺で長いこと囀っていた。カヤクグリとシジュウカラとヒガラ(と思う)も
	見た。やっぱりここらは鳥が多い。BIRD watcherなど見たこともないのだろう、田んぼにいたおじさんは、「こいつ何しとんじゃろ
	う、双眼鏡であんなヤブを見とるが。」というような顔をしていた。




池のそばの鳥居をくぐっていくと、太子堂を経て円照寺の正門脇へ出る。



円照寺へは帰りに寄る事にしてさらに道を行くと、何やら立て看板が見えてくる。






	<五つ塚古墳>	史跡 古墳 帯解 山町989 個人所有地

	円照寺墓山古墳群のある丘陵の裾、道と田圃の間の土手に、道に沿って東西に並んでいる。その名のとおり、5基の古墳からなる古
	墳群。円墳3基、方墳2基が手前から1号墳−5号墳と繋がっている。山裾を掘削、盛土して作られている。1号墳、3号墳、5号
	墳は、いずれも径18mの円墳。2号墳、第4号墳は14m、17m前後の方墳。いずれも南に開口する横穴式石室があり、円墳は
	古墳時代後期(6世紀後半)、方墳は7世紀初頭の築造とされるが、現在内部は土砂で埋没している。平成8年4月、奈良市文化財
	に指定された。

	■所在地;奈良市山町円照寺五つ塚
	■規模;18メートルの円墳または14〜17メートルの方墳
	■築造時期;古墳時代後期 



上の図を見ても、もう方墳やら円墳やら区別は付かないほどである。



奧から1号墳、2号墳。



上が3号墳。先の方に「円照寺宮墓」の石段が見えている。



上左が4号墳と5号墳。上右は3号墳を道の下、田んぼの方から見たところ。下の写真も田んぼから見た2号墳、1号墳。



開いていたら覗こうと道路下へ廻ってみたが、すっかり土砂に埋まっている。埋めているのではなく、まさしく埋まった感じだった。





「円照寺宮墓」の石段と、この石段を登ったところから見た五つ塚古墳(3,4,5号墳)。




	<円照寺宮墓>

	寛永17年(1640年)後水尾天皇の第1皇女であった文智女王(幼名、梅の宮)が、22歳で仏頂国師を師として出家し、大通文智
	となる。以後、皇族が代々門跡を勤めている。山本靜山門跡が、三笠宮の双子の妹との噂がある人である。真偽のほどはわからない。

	(歴代門跡)
	文智 深如海院大通大師   後水尾天皇皇女 
	文喜 菩提心院大歓尼大禅師 霊元天皇皇女 
	文応 清浄院大寂尼大禅師  霊元天皇皇女 
	文亨 歓喜心院大徹尼大禅尼 桜町天皇養子(有栖川宮) 
	文乗 常応院大機尼大禅尼  光格天皇養子(有栖川宮) 
	文秀 最勝心院大知尼大禅尼 孝明天皇養子(伏見宮) 
	− 
	− 
	文孝 廣厳心院秀山尼大禅師 近衛忠煕(旧公爵)養女 
	文線 大慈心院靜山尼大禅師 山本実康(旧子爵)女 靜山
	村上亮順







	【第108代 後水尾(ごみずのお)天皇】
		
	異名異称: 政仁(ただひと)
	生誕没年: 文禄5年(1596) 〜 延宝8年(1680)(89歳)  
	在位期間: 慶長16年(1611)〜 寛永6年(1629)
	父:    後陽成天皇 第3皇子
	母:    近衛前子
	皇后:   徳川和子
	皇妃:   藤原某、藤原某、櫛笥隆子、園光子、園国子、藤原氏子、藤原継子
	皇子女:  文智女王、興子内親王(明正天皇)、高仁親王、昭子内親王、理昌女王、賀子内親王、
		  紹仁親王(後光明天皇)、光子内親王、守澄親王、性承親王、元昌女王、良仁親王(後西天皇)、
		  宗澄、性真親王、堯恕親王、理忠女王、常子内親王、穏仁親王、尊光親王、道寛親王、真敬親王、
		  尊証親王、盛胤親王、識仁親王(霊元天皇)、文察女王、永亨女王  
	この天皇と徳川秀忠の時期に、徳川幕府の朝廷支配が完成したというのが通説である。徳川家康と秀忠は、形式上は朝廷を補佐する形
	で、天下を支配した。ところが、三代家光の代になると、ほとんど江戸から幕府の命令として天下に号令しているのだ。徳川幕府の支
	配体制は、家康、秀忠、家光の三代で完成を見るが、朝廷との関係はとくに、秀忠時代の後半に完成したと見られる。
	徳川将軍秀忠は、娘「和子」をこの天皇に嫁がせ幕府による皇室管理の強化を図った。後陽成天皇の第3子にあたる後水尾天皇は、生
	涯幕府に対する抵抗の姿勢を崩さず、和子の産んだ興子内親王(おきこないしんのう)に独断で皇位をゆずり、自らは明正、後光明、
	後西、霊元と51年に渡る院政を引き、皇室に大きな影響力を及ぼした。学問を好み、55才で出家してのちも30年を生き天皇とし
	ては異例の長寿を全うした。




	第112代 霊元天皇(れいげんてんのう)
	異名異称: 識仁(さとひと)
	生誕没年: 承応3年(1654) 〜 享保17年(1732)(79歳) 
	在位期間: 寛文3年(1663) 〜 貞享4年(1687)
	父:    後水尾天皇
	母:    園国子
	皇后:   鷹司房子
	皇妃:   明子女王、清閑寺共子、源氏、藤原氏、藤原定子、藤原条子、菅原氏 
	皇子女:  憲子内親王、済深親王、寛隆親王、栄子内親王、朝仁親王(東山天皇)、福子内親王、
		  堯延親王、永秀女王、文仁親王、勝子内親王、性応親王、文喜、元秀、尊賞親王、永応女王、
		  職仁親王、吉子内親王、尊胤親王、堯恭親王、他皇女某・皇子某

	聡明ゆえに、後水尾天皇はこの親王(霊元天皇)をとくに可愛がった。深い教養を持ち文学管弦にも通じていたが、その聡明さゆえに
	幕府の監視は強化された。
	当時の朝廷中枢では、朝廷運営について、天皇親政を理想とする霊元天皇と、天皇の意向を受けつつ関白ら臣下の者たちの合議体制に
	よって行うのが基本という近衛基熈らの、二つの相反する考え方が存在していた。上皇となっても霊元帝と近衛基熈は、たびたび衝突
	し、対幕府についても、自己主張を強引に進める上皇に対し、近衛は幕府との対立を避けて朝廷の繁栄の道を模索していた。全体的に
	は、近衛基熈・家熈父子優位の形で朝廷運営がなされたが、家熈が摂政を辞任し、基熈の娘婿である将軍家宣が死去すると、霊元上皇
	の意向を受けた朝幕関係が進められた。霊元天皇の在世中に高まった朝儀の再興・充実への機運は、桜町天皇の在世中までは引き継が
	れたが、桜町上皇の没後、天皇の早世が続くという皇統の危機を迎え、「朝廷復古」に向けて主導権を発揮する者が現れにくい状況と
	なり、朝儀再興の実現は事実上頓挫した。

	この天皇の皇女は二人が円照寺の門跡を努めている。







「文亨女王墓」 歓喜心院大徹尼大禅尼 桜町天皇養子(有栖川宮)



「文乗女王墓」 常応院大機尼大禅尼  光格天皇養子(有栖川宮)







ここで暮らした、多くの皇族の女性が眠っている。山一面が墓で埋め尽くされている。南無阿弥陀仏。



「円照寺宮墓」を出て、また五つ塚古墳の前を通って、先ほどの鳥居から円照寺へ行く。



途中に聖徳太子を祀った「太子堂」がある。












	参道に、女帝で奈良朝2代目、第44代元正天皇と、天武天皇第5皇子で日本書記を編纂主宰した舎人親王の万葉歌碑2基が、建って
	いる。平成10年12月に建られた。

	あしひきの 山ゆきしかば やま人のわれに得しめし 山つとぞこれ   万葉集巻20−4293(元正天皇作)

	あしひきの 山に行きけむ山人(やまびと)の  心もしらず 山人や誰  万葉集巻20−4294(舎人皇子作)




	以下は山崎さんが送ってくれた写真の解説から。

	けむ
	(1)過去推量…[〜ただろう]
	(2)過去の原因推量…[どうして〜したのだろう・〜したのだろう]

	あしひきの やまにいきけむ やまひとの こころもしらず やまひとや たれ
	【通釈】(そもそも山にお住まいのはずの)仙女様であられる陛下が、山へ行かれたとかおっしゃるのは、お心がわかりません。陛下
	のおっしゃる「山人」とは誰のことでしょう。(つまり、「山村」の村人のことなのですね。

	【補記】元正太上天皇が山村に行幸した時の詠、
	あしひきの山行きしかば山人の我に得しめし山つとそこれ(万)に和した歌。第三句にいう「山人」とは、深山に住む絶世の美女とし
	ての仙女(神仙)を意味する。上皇の御所を仙洞―藐姑射(はこや)の山―というので、戯れに上皇を仙女に擬えたのである。



円照寺への参道から入り口へ。



先週はここからバスで奈良公園へ出て、奈良駅から家へ帰ったのだが、
今日は、また20分歩いて「帯解駅」まで戻った。さぁ、どうしてでしょう。








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