Music: ゴンドラの唄

第130回例会

和爾坐赤阪比古神社・ベンショ塚古墳 2008年3月16日(日)







	天神山古墳から降りてきて、ぐるりと櫟本高塚公園を一周してまた和邇の集落へ降りてくる。民家が建て込んだ狭い坂道を上ってい
	くと、不意に赤坂比古神社の前に出る。神社は櫟本町を西南に望む標高約90mの台地に鎮座する。石の鳥居をくぐると、正面に拝
	殿があり、いかにも村の中の旧村社という雰囲気である。主祭神として阿田賀田須命(あたかたすのみこと;赤坂比古命)と市杵嶋
	比賣命(いちきしまひめのみこと;宗像三女神の一人)を祀っている。口碑に依れば、神社の本殿は横穴式古墳の上に鎭座している。
	数十年以前までは石郭をみることができたが、今は入口を閉さされているという。




	<和爾坐赤阪比古神社>(わににますあかさかひこ)

	祭神 : 阿田賀田須命(赤坂比古命)、市杵嶋比賣命 
	摂社 : 山之神神社「大山祇命」

	由緒 : 赤阪比古神社の旧地は、現在地よりさらに北東に登った和爾池の南、天神山にあったという。『新選姓氏抄録』摂津国皇
		 別に和爾部を大春日朝臣同祖、天足彦国忍人命之後也、また、同書の山城国皇別にも和爾部を小野朝臣同祖、大天足彦国
		 押人命六世孫米餅搗大使主命之後、と記されている。
	交通案内: JR櫟本駅 東へ1500m 

	和爾集落内、伝和珥坂の上に祀られる和爾座赤坂比古神社。天平2年の「大倭国正税帳」には丸神として出てくる。記紀には崇神10
	年の条に反乱軍討伐に際し和珥坂に忌瓮を据えて祭祀を行ったとの記事がある。現在の祭神は阿田賀田須命で、和邇氏の祖神を祀っ
	た神社ではないかとされている、神社名や式内大社という社格を考えると、応神天皇の歌にある和邇坂の霊力豊かな赤土そのものを
	祭った神社と解することもできる。


	「……櫟井の和邇坂の土(に)を、初土は肌赤らけみ、しは土は丹黒きゆえ、三栗の、その中つ土を、かぶつく、真ひには当てず、
	眉書き、濃に書き垂れ、遇わしし女人、かもがと、我が見し子ら、かくもがと、我が見し子に、うたたけだに、向かいおるかも、い
	添いおるかも。」(応神記:応神天皇が丸邇之比布禮能意富美の娘、宮主矢河枝比売との婚礼時に詠んだ歌の一部)



赤坂比古神社の鳥居と拝殿。下左が本殿。




	和邇氏の奥津城とされる東大寺山古墳群、そして和邇氏の祖神だったのではと推察されている赤阪比古神社。この神社が成立したの
	は相当古く、奈良時代の神亀元年(724)以前にすでに神戸の施入があったことが記録に残っている。また、平安時代の初めには、從
	五位下の神階が与えられていたが、『三代實録』 によれば、貞観元年(859)正月に從五位上に進められたという。和爾庄が、東大寺
	尊勝院根本所領の一庄として、既に康保4年(967)には成立していた。そのため、この神社は東大寺守護神として和爾庄の鎭守的性
	格を帯びるようになったとされている。 


	<善福寺> (ぜんふくじ) 
	善福寺は1477年に創建された。浄土宗知恩院、第14世助阿上人を開基とする寺で、本尊の木造阿弥陀如来坐像は国の重要文化財に
	指定されている。仏像拝観は申込みが必要。(問い合わせ=〒632-0002 奈良県天理市和爾町1217 TEL 0743-65-5211 善福寺)



	赤阪比古神社の隣、善福寺の門の側に建つ「和邇坂下伝承の地」の碑。この辺が和邇族の中心地だったのだろうか?

	和邇氏は、第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)を始祖と仰ぐ古代豪族で、もともとの本拠地は現在
	の天理市和爾や和爾下神社のある一帯だった。やがて、本拠地を少し北の春日のあたりに置き、春日氏を称するようになる。さらに
	その後、六世紀に入ると、大宅、栗田、小野、高橋、柿本、櫟井、和仁などの多くの氏族を分立させ、更に非血縁の氏族をも同族化
	して、巨大豪族の一つへと成長していった、とされている。 
	その発展のきっかけとなったのが、記紀に記す武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱ではなかったか。崇神天皇10年9月、当時南
	山城に勢力を持っていた武埴安彦が反乱を企てたので、崇神天皇は伯父にあたる大彦命(おおひこのみこと)と和邇氏の彦国葺(ひ
	こくにぷく)を迎撃に向かわせ、反乱を起こした武埴安彦を討たせた。その時、彦国葺は和珥(わに)の「武すき坂」(たけすきの
	さか)で、祭祀用の甕(かめ)である忌瓮(いわいべ)をすえて神を祀ったとある。その「武すき坂」が和珥坂として伝承されてい
	る。 





 


	<ベンショ塚古墳>
 
	JR帯解駅から柴屋町を通って 169号線下山町の信号に出ると、すぐ東側に真っ赤な鳥居が並ぶ墳丘がある。墳頂に森常稲荷が祀ら
	れたベンショ塚古墳である。この地域では数少ない古墳時代中期(5世紀中葉)の前方後円墳で、全長70m、3段に築成され、葺
	石、円筒埴輪列を持ち、周濠がめぐる。ほぼ西向きの前方部は破壊されて、後円部のみが残っている。後円部に3ヵ所の埋葬施設が
	あり、保存のよかった第2主体は粘土槨であった。武器・武具(鉄鏃、革盾、槍、三角板革綴短甲)馬具(鞍、環状雲珠)、砥石な
	ど工具、ガラス小玉、滑石製小玉、勾玉、銅製品が出土した。




	下から憤頂まで鳥居が並んでいる。頂上には稲荷が祀ってあり、ベンチも幾つかある。ここで小休止。ベンショ塚とはまた変わった
	名前である。「紅ショウガ、やろか?」「ベンジョがなまったんちゃうか?」「古墳にベンジョはないやろ。」「ベンというのは紅
	やろなやっぱ。」などと名前の由来をめぐってしばし雑談。





憤頂から見た後円部。すっかり果樹園になっている。



ベンショ塚古墳全景。


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