Music: ゴンドラの唄

第130回例会

櫟本高塚公園・東大寺山古墳 2008年3月16日(日)




 

赤土山古墳を降りて、今日の昼食場所に予定している櫟本高塚公園を探す。なかなか見つからなかった。


櫟本高塚公園の案内図。櫟本高塚遺跡発掘時の現場写真


	<櫟本高塚公園>
	東大寺山丘陵の北西側に位置する公園。平成13年(2001)3月に完成した近隣公園である。昭和57年の発掘調査で6世紀末の竪穴住
	居跡、広い空間にぽつんと建てられた祠のような特殊な建物跡、多数の祭祀土器などが見つかった。この地域に居住した豪族の祭祀
	施設と考えられている。奈良盆地を見下ろす丘陵の上に築かれている立地条件を考慮すると、古代の祭祀場だったという可能性は高
	いかもしれない。現在は公園としてグランドや遊具などが整備され、市民の憩いの場となっている。





櫟本高塚公園より和邇町を見る、遠方の禿げ山は三笠山




	昼食後、東大寺山古墳を探してヤブこきを繰り返す。途中で「鴨神社」に出くわす。なかなか古墳への道がわからず、森の中で作業
	をしているオジサン達に聴くと、「ああ、天理教の脇から登るんや。」との事。




	天理教城法大教会の本館(上右)。

	和爾下神社古墳の東側の小高い丘に、天理教城法大教会の巨大な建物が聳えている。その背後に南北方向に横たわる竹藪の小山が、
	東大寺山古墳だ。この古墳へは、教会の中の敷地を通らなければならない。墳丘への登り口に天理市教育委員会が立てた説明板があ
	る。東大寺山古墳は、奈良盆地を見下ろす東大寺山丘陵の西端部の一番高いところに北向きに築かれている。自然の丘陵地形を巧み
	に利用し、盛り土を行なって墳丘を整えてある。








	<東大寺山古墳>(とうだいじやまこふん)

	東大寺山古墳は、奈良県天理市に所在する、古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。和爾下神社古
	墳の東に、かつて東大寺の社領であった小高い丘陵があり、その中腹に天理教の教会がある。その脇から丘を登っていくと東大寺山
	古墳がある。和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては和邇氏族の拠点であり、関連一族が築造したと推定される古墳が丘陵
	上に点在しており、この古墳はその中でも最大級である。
	丘陵の西端に築かれた全長140m、前方部幅50m、後円部径84m、高さ15m。竹林造成のため相当変形している。昭和35
	年(1960)の発掘調査で、多量の碧玉製腕飾りなどが出土し、墳丘裾と中腹には円筒埴輪や朝顔形埴輪があり、墳丘全面に葺石が敷
	かれていた。翌36年(1961)の調査で、後円部中央に、古墳の主軸と同じ方向に長軸をもつ長さ12m、幅8mの墓壙があり、底
	に砂利を敷き、排水溝を設けていた。砂利の上に 全長7.4mと推定される割竹形木棺を安置した粘土槨が検出された。また、この
	埋葬施設の周りに、家形、楯形、蓋形などの埴輪が置かれていた。




	木棺の副葬品は豪華で大量に出土している。27点の鍬形石、26点の車輪石、石釧、40点以上の鏃形石製品などの腕飾り、硬玉
	製勾玉、棗玉、碧玉製管玉などの頸飾り、坩形石製品等々であった。棺外にも、銅鏃、巴形銅器とともに、刀剣類があって、鉄刀20
	振、鉄剣9口のうち、5振の銅製装飾環頭太刀と7振の鉄製素環頭太刀は注目される。東側の5本の鉄刀は銅製の三葉文を鋳出した
	環頭刀で直弧文、竜文、家屋文など意匠を凝らしたものが目を引く。特に、金象嵌の「中平」紀年銘が有名。
	装飾環頭太刀5振は、いずれも環頭に三葉文を表し、うち2振は環体に家形を表現している。この家形は、佐味田他宝塚古墳出土の
	家屋文鏡の竪穴住居に似ている。銅製環頭つきの他の3振は環体に鳥形を表現していたが、うち長さ110cmの刀の背に、金象嵌
	の銘文のあることが、判明した。室町時代にも盗掘を受けており、本来はもっと副葬品があったと考えられる。他の素環頭太刀も中
	国製の可能性があるといわれ、 古代豪族和邇氏とみられる被葬者の勢力の強さがうかがえる。



天理教教会敷地から細い道を一列で古墳のある竹林へ。




	50年以上も前に行われた発掘調査の跡は、堆積した笹の落ち葉に埋もれてどのあたりだったか見分けられない。行き着いた最高部
	には、「XX天皇野点の跡」という碑が建っていて、ここが古墳の跡だったのかと、その形跡を探してみるがどうも良くわからない。




	手分けして周辺を散策するが、どうも前方後円墳らしき痕跡はない。しかしここ以外に小高い憤丘らしき処はないので、たぶんもう
	削り取ってしまったのだろう、ここがその跡にちがいない、と全員で記念撮影(下)。ん、何か一人だけ浮いてるねぇ。





天理教本部のほうへ戻り掛けたら、手前に登り口があって、奥の方へ入っていく踏み分け道があった。




	「もしかしたらここかな。」「ううーん、ここもどうも良く分からんな。」「でもこっちの方がさっきより古墳っぽいで。」などと
	あっちこっちを調べてみる。そのうち郭公さんが、「あっちが前方部っぽいですね。」と先の方を調べに行く。






	上右、まさしく前方部の端のようだ。(郭公さん撮影)。やっぱりここが東大寺山古墳だったのか。しかしさっきの処は何であんな
	処で野点など。よくわからん。

	昭和36、37年の発掘調査で、主体部から多くの武器や武具、石製品などが出土し、その中に刀背に24文字の銘文(冒頭の写真
	と文字)をもつ鉄刀1振が含まれていた。
	「中平口□(年)五月丙午造作(文/支)刀百練清(剛)上應星(宿)(下)(辟/避)(不)(祥)」(口は文字不明、かっこ内は推定文字)
	「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避ける
	ことができる」といった意味だろうか。金象嵌で、中国、後漢末の年号、「中平」(紀元184〜188年)が刻まれていた。

	中平とは後漢の霊帝の年号で、184〜189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)、「倭国大乱」(宋書)が終結した時期である。
	後漢末「中平」の頃、倭国は大いに乱れ、その為、擁立されて卑弥呼が女王となった。卑弥呼は五尺の鉄刀を中国から貰っている。
	この鉄刀がそれだと言う向きもあるが、それはあり得ないと思う。東大寺山古墳の築造は4世紀後半から5世紀初頭と考えられるの
	で、「中平」の時期とは2世紀のズレがある。卑弥呼は古墳時代の人ではなく弥生時代に生きていたし、伝世したとしても、刀だけ
	が伝世するわけはないのだ。中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものである。

	出土した、中平銘鉄刀をも含む五本の鉄刀の環頭は、それぞれ様々な形をしている。基本的には環の中に三葉形を入れた三葉環であ
	り、鉄製の刀身は内反りである。本来は飾りのない素環頭であったものを、青銅製の環頭に付け替えたものと考えられる。花形飾り
	をもつものが3本、家形飾りをもつものが2本出土し、家形の環頭をもつ刀は、奈良県河合町の佐味田宝塚古墳(馬見古墳群)出土
	の家屋文鏡の図形と似ている。日本出土の最古の銘文大刀である。
	この丘陵には奈良県では最大規模の弥生後期の高地性遺跡がある。東西約400m、南北300mの範囲内に竪穴式住居があって、
	二重の空堀が巡る。この古墳は、この高地性遺跡と重複するようにして存在し、その遺跡の役割が終わって150〜200年ほど後に築造
	されたものと考えられている。



	上は、天理市の「黒塚古墳資料館」にあった東大寺山古墳の解説。前半はともかく、後半の解説は全くいただけない。こんな刀を伝
	承などするものか。使っていた人が古墳に収めたと考えるのが常識である。この刀は古墳時代のものなのだ。弥生時代に、近畿にも
	鉄剣があったと主張したい意図が見え見えである。弥生時代、近畿には鉄がない事は考古学界の常識なのだが、一部の近畿人たちは
	あくまでもその事実を認めようとしない。「近畿では鉄は溶けやすい。」とか、「あったが全て溶かして別な製品を作った。」とか、
	小学生でも分かるような詭弁を弄して、弥生時代の優位性を説く。こんなセンスで学問をやっていても、ロクな成果は上がるまい。

	やれやれ、やっと今日のメインの訪問地を特定できて、まずは良かった。



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