Music: ゴンドラの唄

第130回例会

和爾下神社 2008年3月16日(日)






	10分ほどで国道169号線にぶち当たり、櫟本バス停の前に「和爾下神社」参道入り口の鳥居が見える。しかしここから本殿まで
	は、まだしばらく歩く。「和爾下神社」は「和邇神社古墳」の後円部の上に建てられた神社で、古代豪族の和爾氏の氏神といわれて
	いる。




	天皇家に9人の后妃を出したというのは、当時の諸豪族の中で最も多く、和邇氏と天皇家との関係の深さを物語る。岸俊男氏は、
	和邇氏の居住地を現在の和爾の集落とし、この地は交通の要衝であり和邇氏は初期大和王権の成立に重要な役割を果たした集団と位
	置づけ、6世紀中頃の欽明朝に「春日」と氏を改め、本拠を北方の春日地域に移したという。改姓と本拠の移転については異論もあ
	るが、この地に和邇氏の本拠があったことは、ほぼ異論がないようである。



	和邇氏と天皇家との関係は、後世の蘇我氏や藤原氏にも繋がるいわゆる「閨閥氏族」として勢力を確保していくやりかたであり、皇
	親氏族としてのオリジンは和邇氏にあるのかもしれない。また和邇氏は、大宅、柿本、櫟井、粟田、小野などの諸氏に分かれている。
	これらの氏族からは、粟田真人、柿本人麻呂などが輩出している。初代遣隋使だった小野妹子は大津市志賀町の南に位置する小野の
	出身とされているが、その妹子が出た小野氏は、6世紀後半に和邇氏から別れた氏族の一つであるという。継体天皇の后妃の一人に
	□媛(はえひめ)という女性がいるが、彼女は和珥臣(わにのおみ)河内の娘とされている。
	「新撰姓氏録」に「和邇部朝臣同祖、彦姥津命の五世の孫、米餅舂大使命の後」とある事から、和邇(和珥)部、丸部、丸子(和仁古)、
	丸子部の各氏についても、「部」や「子(古)」を和邇氏に隷属していた氏族、あるいは同族から派生した支族とみる見方もある。









柿本人麻呂の像と、像の周りに置かれた蛙




	柿本寺は当時、東大寺の末寺として規模も大きく立派な伽藍が立ち並ぶ寺だったと思われる。延久二年(1070年)の興福寺雑役免帳東
	諸郡にも寺名が記されていて寿永二年(1183年)の『柿本朝臣人磨勘文』にも「春道社の杜の中に寺あり柿本寺と称す」と記されてい
	る。大和文華館に保管されている柿本寺曼陀羅【重要文化財】は鎌倉時代の作。江戸時代には学僧が歌・茶道に親しんだ寺だった。
  	創建時の柿本寺は、規模も大きく立派なお寺だったようである。神社下の森の中には現在も礎石の一部が残り、奈良時代の古瓦も出土
	している。柿本寺の初見は、延久2年(1070)の「興福寺雑役免帳東諸郡」で、そこには「柿本寺田一町百廿歩、」と書かれている。
	「東大寺要録」によれば、当時は東大寺の末寺だった。寿永3年(1184)に顕昭が筆写した「柿本朝臣人磨勘文」にも「春道社の杜の
	中に寺あり、柿本寺と称す」と書かれている。




歌塚は、かっての柿本神社跡という。前の広場は、現在ゲートボール場になっている。




	<歌 塚>

	和爾下神社が鎮座する前方後円墳の陪家の一つとされる墳丘にある。この墳丘は、古くから柿本人麻呂の墓と伝えられており、平安末期、
	歌人の藤原清輔がこの地を訪れて卒都婆を立て、その裏に、

    世を経ても あふべかりける 契こそ 苔の下にも 朽ちせざりけれ

	の歌を記したという。

	今の「歌塚」と刻まれた石碑は、享保17年(1732)、医者で歌人でもあったこの地の森本宗範らによって立てられたもので、「歌
	塚」の二字は、後西天皇(ごさいてんのう)の皇女宝鏡尼の筆になるものである。歌塚の近くに柿本寺があり、中世には和爾下神社とと
	もに栄えたというが、明治初年に廃寺となり、現在は柿本神社となっている。近くの極楽寺に、柿本寺にあった歌塚の文字の原本や文明
	8年(1476)造立の柿本人麻呂像、明和7年(1770)の写本、歌塚縁起などが伝えられている。
	任地の石見国(いわみのくに)で死んだ人麻呂の遺髪を後の妻である依羅娘女(よさみのおとめ)が大和に持ち帰り、この境内で葬った
	と伝えられている。人麻呂崇敬が盛んになり歌塚としても有名になった


	<柿本人麻呂>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	柿本人麻呂(百人一首より)柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、男性、660年頃〜720年頃)は、飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。
	後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
	彼の経歴は定かではないところが多く、史書にも書かれておらず、『万葉集』が唯一の資料である。草壁皇子の舎人として仕え、石見
	国の官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとされている。柿本氏は孝昭天皇後裔春日氏族で、父は柿本大庭、柿本朝
	臣サル(けものへん+援のつくり)は兄弟とされる。
	彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌
	風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複
	雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は
	人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。

	次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。

	万葉仮名	足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿  
	平仮名		あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 
	訳		夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝る
			のだろう。 


	代表歌
	天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながぢ)を恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ 
	東(ひむがし)の野にかげろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 
	ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみぢば)の過ぎにし君が形見とぞ来し 

	また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも 」という天皇を称えた歌が採られている。

	上記の通り、人麻呂について史書に記載がなく、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示
	す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕
	事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
	江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされ、以降現在に至る
	まで歴史学上の通説となっている。五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史
	に見られない。律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、『万葉集』の人麻呂の死を
	めぐる歌の詞書には「死」と記されている。 
	その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地として
	は既成事実としてとらえ、柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされ
	る、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝え
	られた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この水没については、1993年に調
	査され、科学的に認められたため、ほぼ史実であると明らかになった。しかしこの史実と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中
	にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合い、伝説の域を出るものではない。

	その通説に梅原猛は『水底の歌−柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの
	「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。しかし、学会に
	おいて受け入れられるに至ってはいない。古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻
	呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を基
	にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。

	続日本紀、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣サル(けものへん+援のつくり)の死亡記事がある。この柿本サルこそ
	が、政争に巻き込まれ皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。しかし、当時、藤原
	宇合・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いこと
	はすでに指摘されている。このため、井沢元彦は『逆説の日本史』で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。しかし、
	「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論とおなじ問題点を抱えている。柿本サルについては、ほぼ同時代を生き
	た人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。





	柿本寺跡へ続く参道の左手に大きな歌碑が建っている。碑に刻まれているのは、『日本書紀』の武烈紀に記載された影媛の悲恋の歌で
	ある(上)。

	石の上 布留を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かす
	が)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯さへ盛り 玉もひに水さへ盛り 泣き沽(そほ)ち行くも 
	影媛あはれ




	影媛は物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじ・あらかひ)の娘で、平群大臣真鳥(へぐりのおおおみ・まとり)の息子・ 鮪(しび)
	と愛し合っていた。ところが、小泊瀬稚鷦鷯皇子(おはつせわかさざきのおうじ:武烈天皇)が影媛に求婚してきた。皇子の求めに影
	媛が応じなかったため、皇子は鮪を乃楽山(ならやま)で攻め殺させてしまう。そのことを知った影媛は、鮪の後を追って乃楽山へ行
	き、恋人が殺されてしまったことを見届けて、泣きながらこの歌を詠んだという。 








	<和爾下神社古墳>
	後円部に和爾下神社。北向きの前方後円墳で全長107m、後円部径40m。後円部には重要文化財の和爾下神社の社殿がある。長い
	間、前方後方墳と考えられていたが、測量調査で前方後円墳とわかった。前方部東側に小さな陪塚がある。くびれ部付近から円筒埴輪
	棺が検出されている。4世紀末から5世紀初頭(古墳時代前期末〜中期前葉)のもので、4本の突帯と方形透かしがある。
	ほかにも複数の埴輪棺があるという。この古墳は、東大寺山古墳、赤土山古墳、およびシャープ開発センター内にある古墳などととも
	に東大寺山古墳群を構成している。




	古墳の墳丘はかなり変形しているため、以前には前方後方墳とする説もあった。実測調査の結果、前方後円墳であることが判明した。
	ただし、後円部の墳頂が削平され神社の社殿が建てられていて、埋葬施設や副葬品などは明らかでない。昭和59年(1984)の防災工
	事に伴う小規模な調査で、くびれ部付近から埴輪円筒棺が1基見つかっている。円筒棺には4本の突帯が付けられ、また対向方向に交
	互に方形の透かしが配されていた。さらに縦ハケの後に横ハケが施されていた。円筒棺のこうした形状から判断して、古墳の築造時期
	は4世紀末から5世紀初め頃と推測されている。







和爾下神社正面の急な石段

	和爾下神社の本殿にたどり着くには、柿本寺跡に至る参道を右に折れて、後円部の急な斜面に築かれているかなり長い石段を上らな
	ければならない。石段を上り切ると、まるで深山のような森厳な気の漂う神域の中央に、拝殿が聳えている。




	<和邇下神社>

	祭神 : 素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、稻田姫命(いなだひめのみこと)
	創建 : 不明。古代豪族和爾氏の氏神として創建されたと考えられる。
	本殿 : 安土桃山時代の建立。桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺、桃山時代の様式をそなえ、古建築として
		 昭和13年国宝に指定、現在重要文化財に指定されている。昭和46年(1971)に国の補助金と氏子の寄付で屋根の葺き替
		 えが行われた。 
	拝殿 : 桃山時代の建築様式を今に伝える拝殿は重要文化財。旧柿本寺の仏像・宝物は極楽寺に残されている。




	また和爾下神社は、ここの「上治道天王神社」と、ここから西へ2,3km行ったところにある「下治道天王神社」(奈良県大和郡
	山市横田町字治道)の2座あるが、いずれも今の祭神は、素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命であり、古くは、天足彦国押人命、彦姥津
	命、彦国葺命、難波根子武振熊命などを祀っていたようである。延喜式神名帳に「和爾下神社二座」とある。本殿は桃山時代の様式
	をそなえた三間社流造・桧皮葺き一間向拝付き。古代豪族の櫟井臣、和邇臣、柿本臣、布留臣など櫟本郷*の南北に栄えた氏族の祖
	神を奉斎した。横田の方は「下治道牛頭天王」といい横田物部氏の氏神であったらしい。
	古代、このあたりは交通の要衝であった。神護景雲3年( 769年)、東大寺領であった櫟庄へ水を引くために、高瀬側の水路をいま
	の和邇下神社の参道に沿った線に移し、道も新しく真っ直ぐに造られたので、この森を「治道の森」といい、宮を「治道社」と読ん
	だ。明治の初年、延喜式内の和邇下神社がこれにあたると考証され、社名を和邇下神社と定めた。

	櫟本町の上治道天皇神社は、前方後円墳の後円部上に建っている。石棺、埴輪円筒棺などから築造は4世紀末から5世紀初めと考え
	られる。大きさは全長120m、直径70m、高5m、東大寺山古墳群に属する。当古墳から東北800mに和爾の里があり、天理
	市の教育委員会によれば、この古墳群は和爾氏の奥津城と考えられるという。境内に、同族の柿本氏の氏寺、柿本寺(しほんじ)跡が
	あり、柿本人麻呂の生地と伝えられるとともに、遺髪を埋めた墓だと伝わる「歌塚」が立っている。牛頭天王社の故か、拝殿前左右
	に天神社のような寝牛の石像がある。



和爾下神社の拝殿と本殿




	案内板によれば、この神社の本殿は三間社流れ造りで、檜皮葺一間の向拝が付いていて、桃山時代の様式を備えているため、古建築
	として重要文化財に指定されている。だが、戦前の昭和13年(1938)に国宝に指定されたことがある。それが、現在はワンランク
	下がって重要文化財になっている。内部に書かれたきれいな画が消えてしまったことがその理由らしい。





和爾下神社古墳を南から遠望。遠く東大寺山古墳あたりを見ているのは、今日初参加で会員になった、山崎に住む山崎さん。



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