Music: 琵琶湖周航の歌
[琵琶湖周航の歌]資料館
2008年4月27日 滋賀県高島市今津町
<琵琶湖周航の歌資料館> 〒520-1622 滋賀県高島市今津町中沼1丁目5-7
高島市では、平成10年4月に「琵琶湖周航の歌資料館」を整備し、館内のビジターセンターで、歌にちなんだ土産や今津町の特産品
を揃えて、琵琶湖周航の歌の啓蒙に努めている。こんな博物館があるのは驚きだったが、それだけこの歌が日本中で唄われていると言
うことなのだろう。
われは湖の子〜」で知られる「琵琶湖周航の歌」が誕生したのが今津町である。作曲の経緯や歌詞の変遷、作詞者(小口太郎)・作曲
者(吉田千秋)についてなど、この歌に関する様々な資料が常設展示されている。また様々な歌手・演奏家による「琵琶湖周航の歌」
を聴くことも出来る。開館時間は 9時〜17時(月曜および祝日の翌日は休み)。 館内は写真や解説のパネル展示が主である。
大正6年6月、第三高等学校(現京都大学)二部クルーは学年末(当時7月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていた。小口太郎
ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出て、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で、疲れ
をとっていた。その夜、クルーのひとりが「小口がこんな歌をつくった」と同行の漕友に披露し、彼らはその詞を、当時彼らの間で
流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、喜んで合唱したという。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間だった。
「琵琶湖周航の歌」に原曲があるのもしらなかったし、「ひつじぐさ」という曲だったのもはじめて知った。
歌詞はその後、補完され、翌大正7年に6番までの全歌詞が完成した。そして三高の寮歌として、学生たちの愛唱歌として広まって
いった。また幾多の歌手がレコードに吹き込み、昭和46年夏、加藤登紀子の大ヒットへとつながってゆく。このころの歌集には、
作詞作曲小口太郎、または三高ボート部となっていたが、小口太郎の人物像すら不詳で、熱心な研究者の手で究明が始まる。そして
冒頭のような事実が判明していった。曲は「ひつじぐさ」のメロディを借りたものとわかり、昭和54年には「作曲者は吉田千秋」
と名前まで特定できたが、身元は不明のまま。平成5年6月に、今津文化会館で開催された「琵琶湖周航の歌開示75周年記念イベ
ント」の準備のさなか、実行委員会は「吉田千秋は大正4年に東京から新潟県に転居している」との手がかりで、新潟県の地元新聞
に消息探しを依頼したところ、偶然にも関係者の目に止まり、ついに作曲者の詳細な人物像が判明した。大海から針を探すにも等し
い吉田千秋探しは、急転直下の展開をみせたのだった。
吉田千秋
明治28年生まれ。新潟県新津市出身。若くして肺結核を患う。現東京農業大学に学びながら、音楽やローマ字関係の雑誌に投稿を
始め、大正4年、雑誌「音楽界」8月号に「琵琶湖周航の歌」の原曲とされる「ひつじぐさ」を発表した。24歳で永眠。
小口太郎
明治30年生まれ。長野県岡谷市出身。第三高等学校(現京都大学)に学び、のち東京帝国大学(現東京大学)に進む。三高在学中
の大正6年6月28日、ボートで琵琶湖周航の途次、今津の宿で周航の歌の詞を仲間に披露した。「有線および無線多重電信電話法」
の特許を取るなど、多才であった。26歳で永眠。
小口太郎が今津から友人に宛てた、大正6年6月28日午後9〜12の消印があるハガキに、
「昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松まで来てしまった。雄松は淋しい所で松林と砂原の中に一軒宿舎があるだけだ。
羊草の生えた池の中へボートをつないで夜おそくまで砂原にねころんで月をながめ美人を天の一方に望んだ。今朝は網引きを
やって面白かった。今夜はこの今津に宿る。 今津で 小口」
このハガキと当時のクルーの証言から、今津での開示が立証された。
<琵琶湖周航の歌>
「今日は今津か、長浜か」と歌われる「琵琶湖周航の歌」。琵琶湖の美しい自然と、周航のロマンを情緒豊かに歌い上げたこの歌は、
大正6年に高島市今津町で生まれた。
作詞 小口 太郎
原曲 吉田 千秋
1 われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと
のぼる狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば
2 松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は
赤い椿の 森蔭に はかない恋に 泣くとかや
3 浪のまにまに 漂えば 赤い泊火 なつかしみ
行方定めぬ 浪枕 今日は今津か 長浜か
4 瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの 竹生島
仏の御手に いだかれて ねむれ乙女子 やすらけく
5 矢の根は 深く埋もれて 夏草しげき 堀のあと
古城にひとり 佇めば 比良も伊吹も 夢のごと
6 西国十番 長命寺 汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて
黄金の波に いざ漕がん 語れ我が友 熱き心
学生時代、私はワンゲルだったのでこの歌はよくうたった。でも6番まであるのは知らなかった。作曲者も作詞者も20代という若
さで夭折しているが、若い感性が作り上げた歌というよりも、落ち着いて哀愁に満ちたいい歌である。
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