Music: ゴンドラの唄

第129回例会

桂から嵐山へ 2008年1月27日(日)京都市右京区



	「唐櫃越え」から松尾・嵐山へ下る

	日時  : 2008年1月27日(日)AM9:00 阪急「桂駅」改札前集合
	アクセス: 阪急梅田駅(8:19)− 阪急特急河原町行 − 阪急桂駅着(8:55)
	行程  : 阪急桂駅西口(9:15)−京大桂キャンパス前−桂坂小学校前下車 桂坂野鳥園(10:00頃)−唐樋(カラト)越え
		  −苔寺(昼食)	月読神社−松尾大社−酒の資料館ー淀川沿いに嵐山へ  
		  嵐山にて「湯豆腐定食」(3500円程度)で 新年会 解散
	持参する物: 弁当・水筒・防寒具・タオル・替え下着・替え上着・その他
	見所 : 午前中はどちらかと言えばハイキングです。こんな処をほんとに光秀軍が鎧甲で抜けていったのかと驚きます。午後は嵐山
		 の里と神社を歩きます。京都の西部が尾根沿いに見えて、なかなかすばらしい隠れたハイキング・コースです。

	●桂坂野鳥園
	・都西京区の桂坂にある野鳥園。土曜日曜開園(10:00〜17:00)。阪急線桂駅から桂坂行き市バス25分「桂坂小学校前」下車、徒歩3
	 分。風情のある門をくぐって入り、季節感のある木々の緑がとても豊か。バードウォッチングしてゆきます。
	・明智光秀が愛宕山から本能寺へ向かったとき通ったと言われる「唐ト越え」
	●衣笠地蔵院
	・衣笠山と号する臨済禅宗の寺で、通称、谷の地蔵又は、竹の寺とも呼ばれている。この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良の山
	 荘があったが、家良の没後、貞治6年(1367)に、官領の細川頼之が、宗鏡禅師に深く帰依して当寺を建設した。
	 宗鏡は、恩師夢窓国師を開山に請じて、自らは第二世となった。以後、当寺は細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭
	 三院、末寺二十三寺数える一大禅利となったが、応仁の乱により堂舎悉く消失してしまった。その後、江戸時代の宝永元年(1704)
	 に、第十四世古霊和尚によって寺観が整えられた。現在の本堂は(地蔵堂)は、昭和十年(1935)に再建したもので、堂内には、夢
	 窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。また、方丈前には、「十六羅漢の庭」と呼ばれる枯山水庭園があり、本堂南に
	 は、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。
	●苔寺
	・奈良時代、行基の開創と伝えられる古刹で、暦応2(1339)年に造園にすぐれた夢窓国師が復興した。約120種の苔が境内を
	 覆い、緑のじゅうたんを敷きつめたような美しさから苔寺と呼ばれる。園内の茶室・湘南亭は、重要文化財に指定されているが、境
	 内は事前に申し込みが必要なので、今回は脇を素通り。
	●月読神社境内
	・月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたもの。
	 文献によれば、顕宗三年(四八七)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天
	 皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡三年(八五六)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝える。境
	 内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御船社、聖徳太子社などから構成されている。月読神社が京都へもたらされるに
	 あたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える
	 上で重要な意味をもつ神社であるといえる。 
	●松尾大社
	・松尾大社は京都最古の神社で、秦一族の氏神であった。秦一族は、四世紀から六世紀ごろ韓半島から大挙して渡来、瀬戸内海を東上、
	 畿内、山城葛野郡に入植し、長岡京、平安京の造営に貢献した渡来系の集団。大山昨神と市杵島姫命を祭神とする古社で、平安遷都
	 後は、上賀茂神社、下鴨神社とともに王城鎮護の神として祀られ、歴代天皇の行幸が度々あり、由緒ある神社。
	●嵐山料亭「嵯峨野」にて「湯豆腐定食」で新年会。いかにも嵐山らしい、いい店です。




桂坂野鳥園














唐櫃越え





	唐櫃越(からとごえ)は、かつて関所破りの間道として、また明智光秀の本能寺攻めの道としても使われた古道である。京都市西京区
	山田から、「沓掛山」「みすぎ山」とつながって、亀岡市馬堀までの道である。天正10年、明智光秀が「本能寺の変」を引き起こし
	たとき、総勢13,000人のうち4,000人がこの唐櫃越を越えていったとされる。




	天正年間、信長は石山本願寺との戦いで大苦戦を強いられていた。長島でも一向宗争乱に手を焼き、北陸では柴田勝家が、関東では滝
	川一益などが苦戦中だった。加えて将軍足利義昭は、武田信玄に向けてなにやら画策している様子が窺え、難問山積み。そこへ光秀の
	働きで、四国の覇者「長曾我部元親」が信長に加わることになる。喜んだ信長は、光秀を通じて元親に「四国は切り取り次第」と話す。
	つまり「取っただけお前にやる。」という事だ。発奮した元親はたちまち全四国を統一した。しかし信長は、土佐・阿波2国のみを元
	親に与え、他は取り上げてしまった。元親に光秀はなじられ、その面目丸つぶれである。

	以前にも、八上城の「波多野秀治」を投降させる為、光秀は自分の母親を人質に差し出して波多野秀治を陥落した。秀治を信長の前に
	連れだした光秀は、もちろん波多野陣営でも、光秀の母が人質として八上城にいるので、当然秀治は無事八上城へ戻されると思ってい
	た。しかし信長は秀治の首をはね、主君が殺されたと知った八上城では光秀の母親が磔にされた。光秀が信長を殺したいと思っても当
	たり前だろうと思う。




	天正10年(1582)、毛利軍との戦いに苦戦している秀吉の要請を受けた信長は、中国征伐にみずから乗り出すべく6月1日京都本能
	寺に宿泊した。中国の秀吉を救援するという名目の明智軍も、亀山城を出発した。13,000人が、老の坂、明智越、唐櫃越えを越
	えた。丹波街道はやがて桂川にぶつかる。南に道をとれば秀吉の待つ中国路へと至る。しかし信長が本能寺に居ることを知った光秀は、
	桂川を渡るように命じた。そして全軍にはじめてその攻撃目標を明かすのである。わが敵は本能寺にあり。

	6月2日早朝、光秀の軍は本能寺を囲んだ。本能寺は廻りに塀をめぐらし木戸を設けていた。しかしあまりにも守護兵の数が少なかっ
	た。またたくまに光秀軍は乱入した。一説によると、この時信長は側の者に反乱者は誰だと聞いたと言う。光秀だと従者が答えると、
	「光秀か、是非もない。」と答えたそうである。真偽のほどは定かではないが、これは非常に考えさせられる逸話のように思える。こ
	の話が真実であれば、信長も、自分が光秀に殺されても仕方ない事を知っていたのだ。

	前人未踏の唐櫃超えをした4,000人は、本能寺には間に会わなかったが、それに続く二条御所の「織田信忠」襲撃には間に合った。






	NET内を検索していたら以下のような記事があった。ここをマラソンで走る! のだ。錦織さん、参加してみたら。

	大会名 「敵は本能寺にありマラニック」 約50キロ 
	開催地 京都府亀岡市内〜唐櫃超え・上桂・京都市内松原通・本能寺跡・山科〜竹田力の湯 
	開催日 平成20年6月1日 申込受付開始2月1日より締切5月6日迄 
	開催種目 マラニック<マラソン
	参加資格 18歳以上 
	参加料 3,000円・荷物搬送料500円  








衣笠山・地蔵院











	衣笠山・地蔵院 (竹の寺)  臨済宗  〒615−8285 京都市西京区山田北ノ町23 TEL 075−381−3417 

	衣笠山(きぬがさやま)と号する臨済禅宗の寺で、通称「谷の地蔵」又は「竹の寺」とも呼ばれている。昔からこの一帯は竹が生い
	茂る所で、「衣笠山地蔵院」として室町幕府菅領「細川頼之」(ほそかわよりゆき)の帰依を受けて創建した寺である。
	この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良(ふじわらのいえよし)の山荘があったが、家良の没後、貞治6年(1367)に、管領の
	細川頼之が宗鏡禅師に深く帰依して当寺を創建した。開山である「宗鏡」(そうきょう)は、恩師夢窓(むそう)国師を追請開山と
	して請じ、自らは第二世となった。以後、当寺は、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺23寺を数える
	一大禅刹となったが、応仁の乱により堂舎は悉く焼失してしまった。その後、江戸時代の宝永元年(1704)に、第14世古霊和尚に
	よって伽藍を整え、現在に至っている。
	現在の本堂(地蔵堂)は、昭和10年(1935)に再建したもので、堂内には、本尊の延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、
	細川頼之の木像を安置している。また、方丈前には、「十六羅漢の庭(じゅうろくらかんのにわ)」と呼ばれる枯山水庭園があり、
	本堂南には、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。本尊は、延命安産の地蔵菩薩で、伝教大師の作と伝えられる。






	京都洛西にあって、竹と苔が美しい閑静な寺である。有名な「鈴虫寺「苔寺」も近くにあるし。一休禅師が幼少の頃修養した寺ともい
	う。一休禅師は「後小松天皇」の皇子と伝わり、応永元年(1394)京都に生まれ地蔵院で成長し、6歳で安国寺に移って本格的な修行
	に入った。その後は京都や堺などで大衆に禅の道を教化して、大徳寺に住んでいたが、晩年には南山城の妙勝寺を復興してそこに住ま
	い、文明13年(1481)に88歳で没した。




	落胤説が現れたのは一休死後のことであり、確かな史料による限り、彼の生涯に皇胤である証拠や生まれによる影響を見出すことは出
	来ない。時は南北朝から室町へ移行していく時代である。よく知られる一休宗純の姿は、頓知で有名な「一休さん」だが、漫画の世界
	と実像はかけ離れている。一休の実像は書くのもはばかるような、僧侶として、時には人としてあるまじき逸話が幾つも残っている。
	うわべ、見かけの道徳観を嫌い、民を省みず遊興に耽る為政者、権威に追従する宗派禅仏教を痛烈に批判した人物が一休宗純だった。



	正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し、伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位した。血縁関係は後小松天皇の落胤
	といわれた一休のほうが近いため、それを差し置いての即位であるとして、後世様々な憶測を呼んだ。しかし、前述のように落胤説に
	は疑問がある。当時は一休が皇子であると一般に認知されていなかったことが、ここから伺えるという説もある。
	応仁の乱後の文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽
	力した。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
	88歳で酬恩庵に没した。臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。酬恩庵は通称「一休寺」と言い、京都府京田辺市の薪地
	区にある。康正2年(1456)に荒廃していた妙勝寺を一休が再興したものである。墓は酬恩庵にあり、「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内
	庁が御廟所として管理している施設であるため、一般の参拝は不可能である。
























	開基は細川頼之(よりゆき)、開山はその仏寺を創建した人物、開基は財政的に支援した人物、特に禅宗では檀越(施主)を開基とし
	て区別することがある。細川頼之は室町幕府の基礎を築いた人物だが、世間には案外知られていない。それは、明治以降の国家総動員
	態勢の中で、頼之を後醍醐天皇に背いた国賊と教えていた教育によるのかもしれない。頼之は三代将軍義満の管領の命を受け幕府政治
	に十二年間の長きにわたり関与することになり、南朝軍を壊滅させ全国制覇を実現する。頼之は武もさることながら知的な将としても
	知られ、漢詩文を好み、和歌にも堪能で頼之が詠んだ和歌十三首は勅選集にも入っている。戦乱に明け暮れ、幕府内の権謀術数と格闘
	する中で頼之は宗鏡禅師の門をたたき、やがては地蔵院を建立するに至る。頼之の墓は遺言通り宗鏡禅師の傍に寄り添ってある。

	<細川家系図>

	公頼−頼春−頼之−頼元−持之−勝元(龍安寺開基)−政元
	    └−頼有−(七代略)−藤孝−忠興(夫人=ガラシャ)−忠利−(十三代略)┐
	                        細川護煕(元総理大臣)−護貞−┘




	拝観時間:	9:00〜17:00 12/1〜3/31は16:30
	拝観料 :	大人、高校500・小中学300 抹茶菓子付400・団体30名以上予約要 学生引率者無料・車椅子拝観(境内可・介添人要)
	アクセス:	市バス苔寺道・京都バス苔寺・阪急電車上桂 













苔寺山門。苔寺は、今は事前にハガキで申し込まないと庭は見学できない。










昼食




以前来たときと同じ民家のテーブルを借りて昼食にした。



また、オバサンがポットに入った熱いお茶とクッキーを持ってきてくれた。ありがたや、ありがたや。




月読神社







	京都洛西、松尾山から下りてきて松尾の里へ入った処、児童公園の向かいに「月読神社」がある。道路に面して鳥居があり、石段
	を登ると境内である。「月読神社」は以下の解説にもあるように、「月読神」を祭神として祀るが、この神は神話には非常に登場
	回数が少ない。有名な天照大神(アマテラスオオミカミ)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と三兄弟でありながら、その事さえも
	一般にはあまり知られていない。また、この神を研究した書物もほとんどないと言ってよい。いったいこれはどうしたことだろう
	か。
	また、「月読神社」も全国には80数社しかない。天照大神や素戔嗚尊を祀る神社は数万とも数十万とも言われ、八幡社ですら4、
	5万社はあるというのに、80数社というのはあまりにも数が少ない。いったいこの神はどのような神で、何故人々はその存在を
	忘れてしまっているのだろうか。



	葛野坐月讀神社(月読神社)  松尾大社摂社 <京都市指定史跡>

	<祭神>
		月読神	(月読尊を主祭神とし、高皇産霊尊を相殿に祀る。)
	<境内社>
	聖徳太子社	月読尊を崇敬した聖徳太子を祀る 
	御船社		天鳥船神を祀る。神幸祭の前には、この社において渡御安全祈願祭が行われる。 
	月延石(安産石)元は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産したものと伝えられ、舒明天皇の時代
			に月読尊の神託によって当社に奉納された。安産の霊験があるといわれている
	<由緒>
	約1500年前に鎮座したという古社で、山城国葛野郡の式内社。創建の由緒が『日本書紀』に記されている。
	「顕宗天皇3年( 487)阿閉臣事代、命を衝けて、出でて任那に使す。是に、月神、人に著りて謂りて曰はく。 「我が祖高皇産霊、
	預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。民所を以て、我が月神に奉れ。 若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、
	是に由りて、京に環りて具に奏す。 奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は。山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に
	侍ふ。
	日本書紀によれば、阿閉臣事代が任那に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があったのでこれを天皇に奏上し、顕宗天皇3年
	(487年)、「山城国葛野郡歌荒樔田」に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請し、壱岐県主・押見宿禰に祀らせたのに始まる。
	歌荒樔田の比定地は、上野村、桂里、有栖川流域説など諸説ある。斉衡3年(856年)、水害の危険を避けるために、現在地の松尾山
	麓に遷座された。押見宿禰の子孫は卜部氏を称し、代々神職をつとめた。

	<所在地>	京都府京都市西京区松室山添町15 
	<拝観>	境内参拝自由 5:00〜18:00
	<社格等>	式内社(名神大) 
	<創建>	顕宗天皇3年(487年) 
	<本殿の様式>	流造 
	<アクセス>	市バス 28番・京都バス73番で松尾大社前下車すぐ。阪急電鉄嵐山線松尾下車すぐ。




	月読神社は、松尾大社から南へ4m500mのところにある。もとは大堰川(桂川)の川べりにあったが水害に遭い、水害を避ける
	ため斉衡(さいこう)3年( 856)に現在地(西京区松室山添町)へ移ったという。創建は、阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が
	朝鮮半島へ派遣される途中の壱岐島に寄ったとき、月読神があらわれて自分を祀れといったので、都に帰ってこれを天皇に奏上し、
	顕宗(けんぞう)3年( 487)に、山城国葛野郡(かどのぐん)に松尾社を建てたという。当初の社家は秦氏で、秦氏は松尾社の禰
	宜(ねぎ)をかねていた。祭神である月読神は、もとは航海の大族である壱岐氏が壱岐島(長崎県)で祀っていた航海の神である。
	壱岐島から京都へ分祀されるにあたっては秦氏が関わった可能性が強いといわれている。壱岐氏は航海の大族で、秦氏の新羅からの
	渡来活動に協力した親縁ともいう。秦氏が、渡来人たちの渡日ルートである韓半島 → 対馬 → 壱岐 → 九州の航海安全を祈
	るため、月読神の勧請に応えたとされる。壱岐郡の、式内の名神大社である「月讀神社」には、祭神は中月夜見尊、左月弓尊、右月
	讀尊とあり、 対馬の古族が日神、壱岐は月神を祀った。

	大宝元年(701年)には例祭が勅祭と定められ(『続日本紀』)、延喜6年には最高位となる正一位の神階を受けている(扶桑略記)。
	延喜式神名帳では「葛野坐月読神社」と記載され、名神大社に列している。延喜6年( 906)正一位勲一等、名神大社に叙せられ、
	天慶4年(942年)には神宮号の宣下を受けた。以後、朝廷の奉幣が行われ慶福の神として尊崇されていたが、江戸時代には衰退し、
	歴史も古く、高い格式を持つ独立の神社であったが、松尾大社の勢力圏内にあることから古くからその影響下にあり、「松尾七社」
	の一社とされた。明治10年(1877年)3月21日に松尾大社の境外摂社と定められた。
	境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に御船社、聖徳太子社などから構成されている。本殿北には、神功皇后が腹を撫で
	て安産を祈願したと伝わる「月延石(通称安産石)」がある。現在でも、この石の前で手を合わせ、安産を祈願する女性を見かける。




	<ツクヨミ>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ツクヨミ(月讀、ツクヨミノミコト)は、日本神話の神。記紀においては、イザナギによって生み出されたとされる。普通には月を
	神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。名前の読み方はツキヨミとも。
	日本書紀に保食神を斬り殺す話が存在する為、一般には男神と考えられているものの、記紀の中では性別を決定づけるような描写は
	ない。他国神話では月神が女神である場合も多く、更に好戦的な性格の女神も他国の神話では多く登場する為、保食神殺害の話が男
	性神だと断定する要素にはなり得ないとして、女神説を唱える学者も存在する。

	ツクヨミは、月の神とされているが、その神格については、文献によって様々な相違がある。『古事記』では伊邪那伎命が黄泉国か
	ら逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた建速須佐之男命と共
	に重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、『日本書紀』では『古事記』とは逆に左目から生まれたという話、右手に持った白銅鏡
	から成り出でたとする話もあり、支配領域も天や海など一定しない。
	ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になって誕生するが、比較神話学の分野では、様々な神話に同様の発想があることが指摘
	されている。例えば、中国の盤古伝説(『五運歴年記』)には、盤古が死してその左眼が太陽に、右目が月になったという起源譚が
	あり、ギリシア神話においても太陽神アポロンと月の女神アルテミスが双子とされる。(ただしアポロンはもともとは太陽神ヘリオ
	スとは別の神で、両者が同一視されるに至ったのは後代の事である。)また、旧約聖書の創世記では、天地創造の四日目に、神が空
	の中に「二つの巨いなる光」、すなわち太陽と月を創り上げて、それぞれに昼と夜を司らせ、光と闇を分けたという日月の創造が語
	られている。アマテラスとツクヨミの誕生もまた、太陽と月が対として誕生したという、世界中に共通する日月起源譚のパターンに
	沿ったものと考えられる。

	日本神話において、ツクヨミはアマテラス・スサノオと並ぶ重要な神とされているにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』の神話
	にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに『日本書紀』第五段第十一の一書で、穀物の起源が語られているぐらいであ
	る。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に何もしない神を置くことでバランスをとっているとする説も
	ある。同様の構造は、タカミムスビとカミムスビに対する天之御中主神、ホオリ(山幸彦)とホデリ(海幸彦)に対するホスセリな
	どにも見られる。これを日本神話の中空構造と言う。スサノオとは支配領域やエピソードが一部重なることから、同一神説を唱える
	者もいる。




	<ツクヨミ>(続き)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	古事記上巻では、伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成され、アマテラスやスサノオとともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月読命
	は「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切無い。伊邪那美神のいる夜見の国という説もある。
	日本書紀神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と
	簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日?尊を生み、右の
	手に白銅鏡を取り持って月弓尊を生んだとされる。
	支配領域については、天照大神と並んで天を治めよと指示された話が幾つかある一方で、「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じ
	られたという話もあり(これは月が潮汐を支配しているという発想からきたものらしい)、複数の三神生誕の話が並列している。

	書紀第五段第十一の一書では、天照大神と月夜見尊がともに天を治めるよう命じられたが、のちに天上で天照から保食神(ウケモチ)
	と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は
	「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で撃ち殺してしまったという神話がある。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これ
	が穀物の起源となった。天照大神は月夜見の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住
	むようになったという。これは「日月分離」の神話、ひいては昼と夜の起源である。
	しかし、古事記では同じようにして食物の神(オオゲツヒメ)を殺すのはスサノオの役目である。この相違は、元々いずれかの神の
	神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある。

	ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代にもまた現れる。書紀巻十五の顕宗紀には、高皇産霊をわが祖
	と称する月の神が人に憑いて、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、
	壱岐県主の祖・押見宿彌(オシミノスクネ)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月読神社の由来であり、宣託された壱岐
	にも月読神社が存在し、山背国の月読神社の元宮と言われている。

	『出雲国風土記』の嶋根郡の条には、伊佐奈枳命の御子とされる「都久豆美命」が登場する。
	「千酌の驛家 郡家の東北のかた一十七里一百八十歩なり。伊佐奈枳命の御子、都久豆美命、此處に坐す。然れば則ち、都久豆美と謂
	ふべきを、今の人猶千酌と號くるのみ。」
	「ツクツミ」は、海神ワダツミや山神ヤマツミなどと同じように、月の神霊を意味するものと考えられている。

	『山城国風土記』(逸文)の「桂里」でも、「月読尊」が天照大神の勅を受けて、豊葦原の中国に下り、保食神のもとに至ったとき、
	湯津桂に寄って立ったという伝説があり、そこから「桂里」という地名が起こったと伝えている。これは月と桂を結びつける古代中
	国の伝説から月読命が桂のもとに立ったとされたのであろう。万葉集にも月人と桂を結びつけた歌がある。日本神話において桂と関
	わる神は複数おり、例えば『古事記』からは、天神から天若日子のもとに使わされた雉の鳴女や、兄の鉤をなくして海神の宮に至っ
	た山幸彦が挙げられる如く、桂は神が降り立つものとされていた。

	『万葉集』の歌の中では、「ツクヨミ」或いは「ツクヨミヲトコ(月読壮士)」という表現で現れてくるが、これは単なる月の比喩
	(擬人化)としてのものと、神格としてのものと二種の性格をみせる。また「ヲチミヅ(変若水)」=ヲツ即ち若返りの水の管掌者
	として現れ、「月と不死」の信仰として沖縄における「スデミヅ」との類似性がネフスキーや折口信夫、石田英一郎によって指摘さ
	れている。なお、万葉集中の歌には月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現も見られる。

	『続日本紀』には、光仁天皇の時代に、暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜したところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たの
	で、荒御魂として馬を献上したとある。

	『皇太神宮儀式帳』では、「月讀宮一院」の祭神に、「月讀命。御形ハ馬ニ乘ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ。」 
	と記しており、記紀神話では性別に関する記述の一切無い月読命が、太刀を佩いた騎馬の男の姿とされている。

	逆に月を女と見た例としては、『日本三代実録』における、貞観7年(865年)10月9日の記事や、貞観13年(871年)10月10日に出雲
	国の「女月神」(「めつきのかみ」、あるいは「ひめつきのかみ」)が位階を授けられている記事が挙げられる。これは月の女神を
	祭った神社らしい。この神は記紀万葉には登場しないが、出雲国風土記の意宇郡の条には「賣豆貴社」とあり、同一の神社と考えら
	れる。しかし、『三代実録』には「女月神」とは別に、貞観元年(859年)9月8日に「山城国月読神」の記事があるので、ツクヨミ命
	とは別系統の月神であると考えられる。






	<ツクヨミ>(続き)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ツクヨミの神名については、複数の由来説が成り立つ。
	まず、最も有力な説として、ツクヨミ=「月を読む」ことから暦と結びつける由来説がある。上代特殊仮名遣では、「暦や月齢を数
	える」ことを意味する「読み」の訓字例「余美・餘美」がいずれもヨ乙類・ミ甲類で「月読」と一致していることから、ツクヨミの
	原義は、日月を数える「読み」から来たものと考えられる。例えば暦=コヨミは、「日を読む」すなわち日読み=カヨミであるのに
	対して、ツクヨミもまた月を読むことにつながる。「読む」は、万葉集にも「月日を読みて」「月読めば」など時間(日月)を数え
	る意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると、月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、世界的に太陰暦が
	太陽暦に先行して発生したのである。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深い。つま
	り、ツクヨミは日月を数えることから、時の測定者、暦や時を支配する神格であろうと解釈されている。

	一方、『日本書紀』に見える「月弓」は、三日月と弓が結び付けられたものであろう。万葉集の歌には、上弦や下弦の弦月を指して
	「白真弓」と表現した歌があり(巻十・二〇五一)、「月弓尊」の表記は、このような発想から呼ばれた異名と考えられる。
	その他にも、海神のワタツミ、山神のヤマツミと同じく、「月夜のミ」(ミは神霊のミ)、あるいは「月夜のミ」から「夜の月の神」
	とする説がある。
	このようにはっきりと甲乙の異なる「ヨ」や、発音の異なる「ユ」の表記が並行して用いられていること、そして記紀万葉のみなら
	ず延喜式などやや後世の文献でも数通りの呼称があり、表記がどれかに収束することなく、ヨの甲乙が異なる「月読」と「月夜見」
	表記が並行して用いられていることから、ツクヨミの神格は一義的に決定できるようなものではないことは明らかである。ツクヨミ
	の管掌についても、『古事記』や『日本書紀』の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することで
	ほぼ「天上」に統一されているのに対し、月神の支配領域は、『日本書紀』に「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜
	の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている話もある。支配領域の不安定ぶりも、ツクヨミの神格は複数の観念が統
	合された、不安定かつ多様なものであることを意味している。




	松尾山南麓に静かに佇む。人影もなく静かな境内と拝殿である。ここの祭神「月読命」とは、いったい何と読むのだろうか。「つき
	よみのみこと」とか「つくよみ」とか記されるが、古事記では、「月読命」と書かれ、日本書紀には、月弓尊(つくゆみのみこと)、
	月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと) などと書かれている。さすればどうやら「ツキヨミ」でいいようである。
	ではこの「月読命」とはいったい何者なのだろうか。

	日本書紀に依れば、国生み、神生み神話の後半部分、伊奘諾尊(いざなきのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)のまぐわいによっ
	て、自然物やそれを司る神々が次々に生まれ、最後に三貴子が出現した。すなわち、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命
	(つきよみのみこと)、そして素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。

	日本書紀本文では、伊奘諾尊と伊奘冉尊のうけひにより、海、川、山が出現し、木祖(句句廼馳)、草祖(草野姫,野槌)、と出現したあ
	と、日神(大日?貴、天照大神、天照大日?尊)、月神(月弓尊、月夜見尊、月読尊)が生まれ、その後「蛭児」が現れたのでこれを海
	に流し、その後に素戔鳴尊(神素戔鳴尊、速素戔鳴尊)が登場する。

	日本書紀一書の1には、伊奘諾尊によって三貴子が出現したとなっており、大日?尊、月弓尊、素戔鳴尊が出現した。

	また、日本書紀一書の6では、伊奘諾尊と伊奘冉尊のうけひによって次々と神々が出現した。八十枉津日神、神直日神、大直日神、
	底津少童命、底筒男命、中津少童命、中筒男命、表津少童命、表筒男命、天照大神、月読尊、素戔鳴尊である。

	そして伊奘諾尊は三貴神たちに以下のように命令する。

	古事記では、天照大神は高天の原を、月読命は夜の食国を、建速須佐之男命は海原を治めよ。
	日本書紀本文では、天照大神は高天の原を、月読命は青海原の潮の八百重を、素戔鳴尊は天下を治めよ。
	日本書紀、第十一の一書には、天照大神は高天の原を、月夜見尊は日の神とならんで天を、素戔鳴尊は青海原を治めよ。

	と。

	月読神に関する神話は少なく、日本書紀にただ一つあるだけである。

	伊耶那岐尊の命で天界を治める事になった天照大御神と月読尊であるが、ある時天照大御神が月読尊に命じた。「葦原中国(あしは
	らのなかつくに)に保食神(うけもちのかみ)という者が住んでいる。月読尊、行って調べてこい。」
	月読尊は、天照大御神の命に従い保食神に会うため下界に降りた。月読尊の訪問を受けた保食神は、尊を歓迎し、保食神が首をまわ
	して、陸に向けた。すると口から米の飯が出てきた。また海に向かって首をまわすと、口から大小の魚が出てきた。また山に向かう
	と獣が出てきた。食材を用意し終わった保食神は、それを机にのせて月読尊をもてなそうとした。それを見た月読尊は、怒りにふる
	えて言った。「口から吐き出したものを、この私に食わそうというのか。なんと汚らわしいやつだ。」そして、腰の刀を抜き保食神
	を斬り捨てて天界に戻り、天照大御神に事の次第を報告した。
	天照大御神はそれを聞き、「お前はなんという事をしてくれたのだ。彼は下界の民の食べ物を生む尊い神であるぞ。お前の顔など二
	度と見たくない。」月読尊を下がらせると天照大御神は、二度と月読尊と会おうとはしなかった。これによって天照大御神と月読尊
	は、昼と夜に別れて暮らすようになった。昼夜起源の話として伝わるが、しかし、この話は古事記では須佐之男神の話になっている。

	この後、天照大御神は天熊人(あまのくまひと)を遣わして、保食神の様子を見に行かせた。保食神は本当に死んでいたが、その頭
	からは牛馬が、額の上には粟が、眉には蚕、目には稗、腹の中には稲が、さらに陰部に麦と大豆と小豆が生まれていた。天熊人は、
	それをすべて持ち帰って天照大御神に献上した。それを見た天照大御神は、大変喜んだ。そこで粟、稗、麦、豆を畑の種として、稲
	を水田の種とした。さらに天の邑君(あまのむらきみ)を定めた。その稲種を天狭田(あまのさなだ)と長田に植えた。その年の垂
	穂は、八握りもあるほどしなって、たいそう気持ちよかった。また天照大御神は口の中に、蚕の繭を含んで糸を抽ことが出来た。こ
	れから初めて養蚕が出来るようになった。また、日本書紀の顕宗紀(3年2月)には月読神が高御産巣日神に土地を献じるよう託宣し
	たという記事がみえる。







舞殿から見る拝殿。


	月読神を祀る神社については、その性格上基本的に3系統にわかれるようである。ひとつは天照大神の兄弟神として祀られる立場で、
	伊勢神宮内宮の月読神社がその代表であろう。ここは内宮の十所別宮のひとつで、伊勢神宮を創建した倭姫が建てた神社のひとつと
	されている。同じ神域には月読荒魂神社もある。また、外宮の四所別宮の一つ、月夜見宮も、月夜見尊・月夜見荒魂尊を祀っている。
	これは延喜式神名帳に「度会郡月読宮二座・月夜見神社」とある。延喜式神名帳には、ほかに、山城・丹波・壱岐などにも月読神を
	祀る神社が見受けられる。

	山城国葛野郡 葛野坐 月読神社
	山城国綴喜郡 樺井  月神社・月読神社
	丹波国桑田郡 小川  月神社
	壹岐国壹岐郡     月読神社
	出羽国飽海郡     月山神社

	もうひとつの月読神社の系統は、一般に月の神を祀るところから出発し、後に、祭神が月の神様なら月読神であろうということにな
	ったと思われる神社である。同様の現象は天神、白山などにも見られる。この系統の代表は、上記にもあげた、山形県・出羽三山の
	月山神社である。出羽三山では、出羽神社で宇迦之御魂神、月山神社で月読神、湯殿山で大山祇神を祀っている。月山神社の社伝に
	よれば崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(大伴小手子の子)が、崇峻天皇暗殺後、飛鳥の地を出てやがてこの出羽三山に流れ着き、羽黒山
	で出羽大神の御顕現を感得。そこでこの三つの山にそれぞれ神社を創建したという。全国の月山神社の多くはこの山形の月山から勧
	請されたものではないかと思われる。

	そして最後の例は、月読神を文字通り「月を読む神」すなわち月の神として祀るものであり、壱岐の「月読神社」は、海洋民として
	の、月と潮汐の関係から来たものと思われる。この神社も壱岐の「月読神社」を勧請してきたのでこの範疇に属する。古来月を読む
	こと、すなわち月の満ち欠けが生活に及ぼす影響は大きいとされ、当社は暦数、天文、占い、航海の神として信仰を集めてきた。
	「月を読む」とはなんとも神秘的な表現だが、直截的には月の運行から暦を読みとることを表していると思われる。また月の満ち欠
	けは、死と再生の象徴であるという。満月の日には子供が生まれやすいと言う伝承もあるが、実際に月に関連して生命の営みが観察
	される生物もあることを考えると、潮の満ち干をコントロールする程の強い力が、天空の高みから地上の森羅万象を操っているとも
	考えられる。
	月読命は、古事記では「夜の食国」を、日本書紀では「青海原の潮の八百重」を治めることになっている。日本書紀の記事は、海原
	にわざわざ「青」が付き、「潮の八百重」と記しているから、まず「海」のことと考えて問題はない。古事記の「夜の食国」は元々、
	「夜食之国」と書かれていたものを、このままでは、どこか判ってしまうので、判らないように、「夜之食国」と書きなおしたとい
	う説もある。この説では「夜食之国」(やすのくに)と呼べなくもない。倉野憲司氏は、「夜の食国」の食は、治めるという意味で
	あると注釈している。築後国(久留米市)の高良大社の祭神について、「月神の垂迹」とあり、住吉神とともに神功皇后の船を先導
	したと云う。月読神が海の支配神であると考えれば、神功皇后の守護に当たる神としてはふさわしいかもしれない。

	さて、「月読命」を巡っては、月神は女神か男神か、という問題もある。これについては記紀からは何も読み取れない。性別を示唆
	する記事は一切ないからである。月読尊が保食神を殺し、その死体から作物が生じる神話があるが、これで「刀」「斬り殺す」とい
	う表現から男だとする意見もあるし、作物を生じる、地母神の性格があるとして女だとする意見もある。後の「皇太神宮儀式帳」で
	は、月読神は馬上で太刀を佩いた男形で記述されていて、ここでは「男神」としてとらえられている。夜の神、暦を司る農事の神と
	いう性格を考えると男のような気もするし、Lunatic(狂人)、Lunacy	(精神異常)の語源がLuna(月)であることを考えると、女
	のような気もするが、今の世の中、その判断基準そのもが役にはたたないのも確かである。



	<万葉集におけるツクヨミを詠んだ歌>

	巻四・六七〇		月讀の 光に来ませ 足疾(あしひき)の 山寸(やまき)隔(へ)なりて 遠からなくに 
	巻四・六七一		月讀の光は清く 照らせれど 惑へるこころ 思ひあへなくに 
	巻六・九八五		天に座す 月讀壮士 幣(まひ)はせむ 今夜の長さ 五百夜継ぎこそ 
	巻七・一〇七五		海原の 道遠みかも 月讀の 明(ひかり)少なき 夜は更けにつつ 
	巻七・一三七二		み空ゆく 月讀壮士 夕去らず 目には見れども 因るよしもなし 
	巻十三・三二四五	天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てる越水(をちみづ) い取り来て
			 	公(きみ)に奉りて をち得てしかも 
	巻十五・三五九九	月余美の 光を清み 神嶋の 磯海の浦ゆ 船出すわれは 
	巻十五・三六二二	月余美の 光を清み 夕凪に 水手(かこ)の声呼び 浦海漕ぐかも 




「すまんのう、儂に甲斐性があればお前達もこの世に出てきていたものを。」と流した水子に詫びている河内さん。







松尾大社・酒の資料館







	松尾大社の二の鳥居の横にあり、酒ができるまでの工程が、全国の酒造業者らから寄贈された古くから伝わる酒造道具などとともに
	展示されている。また、信楽焼、備前焼、有田焼など、名陶芸家によって作られたとっくりや杯などの酒器約100点も展示されて
	いる。季節に応じて様々な特別展なども開催されているようである。ここでは小さなスペースながらも日本酒の文化をいろいろと楽
	しむことができる。しかし日本酒の試飲がなかったのは残念だった。もっとも、隅っこにある売店で日本酒を売ってはいたが。試飲
	したら飲むだけ飲んで買わない我々のような輩がいるので、おそらく金を出して買えという事だろうな。












	「神代の昔、八百萬神々が分土山(松尾山)に集い給いて神議りをなされた。しかし、当時はまだお酒と言うものがなく、そこで松尾
	大神が付近一帯の山田の米を蒸し、御手洗の泉より涌き出る清らかな水を汲み、一夜にしてお酒をお造りになり、大杉谷の杉の木で
	こしらえた器で、諸神を饗応せられると・・・盡せしな甕の酒を汲上て豊の圓居をするそたのしき・・・と諸神等はうたわれ大いに
	喜ばれ給うた。」 (松尾大社ホームページより)。












	松尾大社は、室町時代末期から安土桃山時代あたりには既に酒奉行(醸造祖神)として多くの人に仰がれていたそうである。室町時代
	と言えば、今でいう麹と蒸米と水を2回に分けて加える段仕込みの方法や乳酸発酵の応用、木灰の使用などが行われ始めた時代であ
	り、安土桃山時代も麹米・掛米のどちらも精白した「諸白」の仕込みが完成した時代であり、ちょうどこの頃に今日の日本酒造りの
	原型が完成したと言われている。そしてこの日本酒造りの原型が完成した時期というのは、京都を中心に朝廷や寺院、寺社ではない
	造り酒屋が隆盛し始めた時期でもあり、「柳酒屋」「梅酒屋」などが大手の酒屋として当時の記録に残っている。
	もともと松尾大社は、松尾大社のある地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って生活守護神としたことを起源としており、
	当初は今のような酒の神様としてではなく、氏族の総氏神と仰がれていた。






	大山咋神は当社社殿建立の奈良時代の頃、はじめてここに祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでい
	た住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのがはじまりと云われ
	る。5、6世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされているが、)秦(はた)氏の大集団が朝
	廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開
	拓に従事したと伝えられる。伝説によると、
	「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。
	そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波
	の開発につとめられた神である。」と。秦氏がこの大山咋神の神威を仰ぎつつこの地方一帯の開拓に当たったことを示す。 
	また秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき)(大堰・大井という起源)を作
	り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられている。
	その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地を通っており、嵐山にはそれを顕彰した大きな石碑が建っている。 




	農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになった。酒造については秦一族の特技とされ、桂川に堤
	防を築き、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できる。時代と共に経済力と工業力
	を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘
	引したのも、秦氏の膨大な勢力によるものであったことはほぼ定説となっている。
	文武天皇の大宝元年( 701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊を
	この社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させた。この子孫が明治初年まで松尾大社の幹部神職を勤めた秦氏
	(松尾・東・南とも称した)である。

























松尾大社


	松尾大社

	<祭神>
	・大山咋神(おおやまぐいのかみ)
	 上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命の父神。山の上に鎮座し、山及び山麓一帯を支配している神であり、比叡山と松尾山を支配する神
	 だったといわれている。
	・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
	 福岡県の宗像大社に祀られている三女神の一神で、海上守護の神様といわれている。別名は中津島姫命(なかつしまひめのみこと)。 

	<由緒>
	松尾大社は賀茂神社と並び京都最古の神社といわれている。現在の松尾大社の後方にある松尾山中頂上近くにある巨岩を信仰の対象
	とし、一帯の住民の守護神としたのが神社の起源とされているようである。朝鮮半島から渡来した秦氏がこの地に移住し、農業や林
	業を興したが、大宝元年(701年)に現在の地に社殿を建立し、一族が社家をつとめたという。
	平安遷都以後は皇室鎮護の社となり、行幸も数十回行われたとされ、貞観8年(866年)には正一位の位が与えられたといわれている。 
	中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めている。これは、天平5年(733年)に社殿背後より泉が湧き出たとき、
	『この水で酒を醸すとき福が招来し家業繁栄する』との松尾の神の御宣託があったことに由来しているという。




	月読神社から歩いてくるとすぐ松尾大社に着く。新撰田という小さな田んぼ(の跡地)のようなところを通って一の鳥居の方へ歩く。
	ここで時期が来れば田植え、稲刈りが神事として行われているのだろう。左手に駐車場へ行く道があり、ここに二の鳥居が建ってい
	る。




	酒の神様として有名な神社。松尾大社は京都最古の神社で、秦一族の氏神であった。秦一族は、四世紀から六世紀ごろ韓半島から大
	挙して渡来、瀬戸内海を東上、畿内、山城葛野郡に入植し、長岡京、平安京の造営に貢献した渡来系の集団である。飛鳥時代の大宝
	元年( 701)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)がこの地一帯に住んでいた民が神として崇めていた松尾山頂の磐座(いわくら)を
	麓へ勧請し、一族の氏神として社殿を建立、秦氏が神職を受け継いできたのが起りとされている。その後、奈良時代の天平2年(730)
	朝廷から大社の号が勅許され、平安時代には皇城鎮護の神として東の「賀茂の厳神」、西の「松尾の猛霊」と称された。中世(一般
	的に鎌倉・室町時代)以降は秦氏の技術に由来する醸造祖神として崇敬を集めた
	酒の神様を奉った神社というのは、全国にもいくつか存在するが、ここ京都では松尾大社や梅宮大社、北野天満宮といった神社が酒
	にかかわる神社として有名である。中でも松尾大社は、京都最古の神社でもあり、日本第一醸造之神として全国的にも非常に有名な
	神社となっている。




	朱塗りの鳥居をくぐって広い境内に入ると、楼門、拝殿、その奥に本殿が建っている。本殿は松尾造りと呼ばれるもので、中世の様
	式をよく伝え、社宝の三体の木造神像とともに重要文化財に指定されている。真正面にある楼門をくぐり抜けると、目の前に本殿。









上の一行は、苔寺で「もう30年前から事前予約をしないと庭は見れない制度になっている。」と聴いて憤慨していた3人組だ。















松尾大社を後にして、桂川沿いに渡月橋へ向かう。






新年会
嵐山・湯豆腐「嵯峨野」












	渡月橋を渡って左へ折れ、そこから3分ほど歩けば、有名な料亭「嵐山吉兆」がある。その裏に、幽玄な雰囲気が漂い、竹林に
	囲まれた数奇屋風の「湯豆腐 嵯峨野」がある。900坪の広大な敷地にある庭園の紅葉を眺めながら、おいしい豆腐が味わえ
	る名店だ。大阪に来たときから来ているのでもう30年以上通っている。店は新館と本館に分かれ、テーブル席と縁側のある新
	館か、座敷の本館かのどちらかを選ぶことができる。春や秋は、赤い毛氈を敷いた縁側が断然いい。竹林に囲まれて、時折桜の
	花や紅葉が杯に落ちてきたりする。
	しかし冬はやはり座敷である。この日はたまたま、前組が帰った直後の個室が空いていて、我々6人がちょうど座れる離れの座
	敷に上がった。靴を脱いで畳の上でゆったりとくつろいだ時間を過ごした。木々そよぐ庭を抜け、2階建ての純日本建築の建物
	に入ると、見事に磨かれた廊下や床の間が現れ、昔は料理旅館だったという品格に溢れている。また、新館には壁一面に、先代
	のコレクションである古伊万里の器と蕎麦猪口がズラリと並ぶ。嵯峨野の幽玄な雰囲気と料理旅館の趣が残る品格は、そのまま
	料理にも反映されている。






	脇坂安親	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	脇坂 安親(わきさか やすちか)は、播磨龍野藩の第7代藩主。
	元文3年(1738)12月19日、近江宮川藩主・堀田正陳の4男として生まれる。龍野藩の第3代藩主・脇坂安清の弟・脇坂安
	利は宝永7年(1710年)に2千石を分与されて旗本となっていたが、その息子である脇坂安種には嗣子が無かった。このため、
	安親が養子となって2千石の家督を継いでいた。しかし宝暦9年(1759)に本家の第6代藩主・脇坂安実が早世する。安実には
	嗣子が無かったため、安親が養子となり、その家督を継いで龍野藩の第7代藩主となった。12月に従五位下・淡路守に叙位・
	任官する。幕命により、追手組防火職・桜田防火職・江戸城桜田門番・勅使や朝鮮通信使、大納言などの接待役などを務めた。
	天明4年(1784年)4月13日、次男の脇坂安董に家督を譲って隠居する。文化7年(1810)5月14日、江戸で死去した。
	享年73。その鎧・甲がなぜここにあるのかは分からないが、おそらくオーナーの収集品だろう。本物である。




	看板メニューの湯豆腐は、選りすぐりの大豆と嵯峨の地下水で作られた「森嘉」の豆腐を使用。毎日、その日の作りたてが味わ
	える。コースは「湯豆腐定食」の1つしかないが、絹のようになめらかな湯豆腐に加えて、琵琶湖のゴリ、こんにゃくの刺身、
	ひろうす、天ぷらなどもついて3,800円。昔は確か2,500円だったが、30年の間に、3,000円になり3,500
	円になり、3,800円になっている。








	豆腐が湯炊つのを待つ間に、先付けと一品料理がでる。京都の柚子味噌がかかった刺身コンニャクや、自家製のダシが絶品の温
	泉卵、生麩、自家製の胡麻豆腐と「森嘉」特製の飛龍頭(ひろうす)、琵琶湖のゴリ。動物性タンパクはこのゴリだけである。
	湯豆腐は、根昆布の風味がほのかに移ったところを、まろやかなツユでいただく。まるで絹ごし豆腐のようなキメ細かな舌触り
	で、大豆のほんのりと上品な甘味が口の中に広がる。噛まずともホロリと崩れて無くなってしまう程の柔らかさで、ツルンと喉
	を通るたびにほっこりとした暖かい気分になる。また、季節野菜の天ぷらは、揚げたてをご飯と共に味わえる。デザートは湯葉
	のプリン。ボリューム充分ながらも、体に優しいメニューである。 





 




	以前店の裏庭に、人間魚雷が設置されていた。天竜寺の裏になる。今は広島の呉にある「大和博物館(だったかな?)」に寄贈
	したとかで、その場所は石庭になっていた。
	人間魚雷「回天」は一型、二型、四型が一般に知られるが、十型は本土決戦用として開発途中で終戦を迎え実戦には使用されな
	かった。ここの魚雷は、昭和40年頃、ホノルル空港入口の中古自動車屋に展示されていた。現在の潜望鏡とハッチ蓋はこの当
	時取り付けられたらしく、生産当初のものではない。その後、ホノルル市会社員の自宅庭に移されたものを、昭和52年に日本
	人の航空会社社員・山田氏によって神戸に輸送された。当時、マスコミでは「大戦中に使用された回天である」とか「真珠湾に
	侵入した酒巻少尉の甲標的」などと報道されたが、当然ながら全くの別物である。全国回天会にて現地調査した結果、記録に残
	る「回天十型」と採寸結果がほぼ合致し、横須賀工廠で本格生産される前に呉工廠で試作されたうちの一基である可能性が極め
	て高いと考えられる。(全国回天会資料)


	次回から例会は、松田さんの要請により月初めの日曜日になりました。2月はパスで、3月2日が「130回例会」となります。
	皆さん、またコースを考えてくださいね。お疲れ様でした。



邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部/ 桂から嵐山へ