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牽牛子塚古墳

歴史倶楽部 第162回例会 2011.1.30(日曜)雪




	
	●牽牛子塚(けんごしづか)古墳(明日香村HPより)

	牽牛子塚古墳は明日香村大字越に所在する終末期古墳で別名「御前塚」「あさがお塚古墳」と呼ばれています。墳丘は対角長18.5m高さ
	約4mの八角形墳で版築によって築かれています。
	埋葬施設は二上山の凝灰角礫岩の巨石を刳り貫いた横口式石槨で中央に間仕切り壁を有しています。両側には長さ約2mの墓室があり、
	壁面には漆喰が塗布されています。床面には長さ約1.95m、幅約80cmの棺台が削り出されています。閉塞石については内扉と外扉の2
	石からなり、内扉は凝灰岩製で高さ約1.12m、厚さ約62cm、幅1.47mを測ります。
	内扉の四隅には方形の孔が穿たれており、扉飾金具が装着されていたものと考えられます。外扉については安山岩系の石材を用いて
	おり、幅2.69m、厚さ約63cm、高さ2.4mあり、現地で斜めに倒れた状態で残っています。
	飛鳥の刳り貫き横口式石槨墳については益田岩船や鬼の俎・雪隠古墳があり、牽牛子塚古墳と益田岩船は巨石を刳り貫いたタイプで
	鬼の俎・雪隠古墳(石宝殿古墳(寝屋川市)では床石と蓋石が別々に構成されています。この二つのタイプの前後関係については石宝殿
	古墳に羨道が存在することから羨道を持つタイプから持たないタイプへと変化していったものと考えられます。
	また一石の巨石を刳り貫いたタイプよりも床石と蓋石が別々に造られたタイプの方が先行すると考えられます。

	更に使用されている石材については鬼の俎・雪隠古墳や益田岩船では硬質の石英閃緑岩が、牽牛子塚古墳では軟質の凝灰岩が使用さ
	れています。他の飛鳥地域の古墳をみると6世紀から7世紀中頃にかけて硬質の花崗岩等が使用され、7世紀後半以降になると軟質の
	二上山系凝灰岩へと変化していきます。
	このように考えると飛鳥の刳り貫き式石槨墳は鬼の俎・雪隠古墳から益田岩船、そして牽牛子塚古墳の順に築かれていったと考える
	ことができます。出土遺物については夾紵棺片や七宝亀甲形座金具、ガラス玉等があり、夾紵棺の一部や閉塞石の内扉は明日香村埋蔵
	文化財展示室で常設展示されています。築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃と考えられます。被葬者については古墳の立
	地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力です。 
	
	牽牛子【ケンゴシ】とはアサガオの別名で、デジタル大辞泉の解説によると、
	
	けんご‐し 【×牽▽牛子】  アサガオ。また、アサガオの種子を乾燥したもの。漢方で下剤などに用いる、となっている。



	
	牽牛子塚古墳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	所在地 : 奈良県高市郡明日香村大字越 
	形 状 : 八角墳 
	規 模 : 墳丘対辺長約22m(石敷・砂利敷部分を含むと32m) 
	築造年代: 7世紀中葉-8世紀初頭 
	被葬者 : 不明。斉明天皇説が有力 
	出土品 : 夾紵棺、七宝飾り金具、臼歯など 
	史跡指定: 国史跡
	別 名 : アサガオ塚、御前塚 
	墳 形 : 径約30m、高さ推定約5mの円墳、または二段構成の八角形墳 
	石 槨 : 巨大な凝灰岩を切り抜いた横口式石槨 
		  中央を仕切った二室構造。天井はアーチ状 左右の床には長さ1.9m、幅0.8m、高さ0.1mの棺台を削り出す 

	牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越に所在する終末期古墳である。1923年(大正12年)3月7日、
	国の史跡に指定された。指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。「御前
	塚」と呼称されることもある。2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)で
	あることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇と天武天皇の母とされる斉明天皇の陵墓である可能性が高まった。

	<概要>
	橿原市との村境に近い明日香村大字越の丘陵先端部の一番幅広で、高所の安定した場所に位置しており、戸の古墳の墳頂部の標高
	は126.3メートルであり、国の史跡である岩屋山古墳(明日香村大字越)の西方約500メートルの地点に立地する。
	以前より、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造で知られており、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天
	皇の皇后)の合葬墓とする説があった。また、1977年(昭和52年)から1978年(昭和53年)にかけて環境整備事業の一環として発
	掘調査がおこなわれており、その際、実際の測量をもとにした実測図が作成され、円墳と報告されながらも八角墳の可能性が高い
	こともあわせて指摘されていた。
	2009年9月より2010年9月にかけて、明日香村教育委員会による学術目的の発掘調査がおこなわれ、2010年(平成22年)9月9日、村
	教育委員会は調査成果を発表した。
	それによれば、墳丘は地震により崩落していたが、高さ約4.5mと推定され、版築による三段築成の八角墳であることが判明し、
	墳丘の裾(すそ)は平面八角形状に削られており、対辺の長さは約22mにおよぶことを確認した。墳丘周囲では外側を八角形に
	かこむ石敷遺構が確認されており、北西の裾からは三辺分の石敷を検出している。うち一辺(約9m)はほぼ完全なかたちで遺存
	しており、幅は約1mでブロック状の切り石が3列にすき間なく敷き詰められていた。石敷遺構そのものも、正八角形になるよう
	途中で約135度の角度で屈曲しており、上空から鳥瞰した場合、共通の中心をもち、大きさの異なる、墳丘部分3段、平地の石
	敷部分3列の相似八角形が重なるかたちとなる。石敷の外側には、さらに砂利が敷き詰められ、その部分も含めると全体では32
	mほどの規模になると推定される。
	また、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石やその破片が数百個以上出土しており、調査者は、これらの切り石はピラミッド状に
	積み上げて墳丘斜面を装飾していたとしており、その総数は約77,200個におよぶと推定している。
	墳丘一段目は一辺12.2m、対角線約33m、墳丘二段目は一辺約7m、対角線約18.5m、高さ4mである。



	
	<内部施設>
	内部施設は、南にむけて横穴が開口するかたちの横口式石槨であり、2009年段階ではすでに一部露出していた。横口式石槨は、約
	80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもので、巨石は約15キロメートル離れた
	二上山西麓より運搬したものと考えられる。
	石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5
	センチメートルの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。刳りぬき部分の規模は、幅1.41メ
	ートル、高さ1.01メートル、長さ0.63メートルである。また、巨石の外側を取り囲むように丁寧な加工の施された直方体(縦2.7メ
	ートル、横1.2メートル、厚0.7メートル)をなす巨大な石英安山岩製の切り石を3点確認し、本来的には16点整然とならんでいた
	であろうことも確認している。
	石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2メートルの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られて
	いる。左右両室ともに天井は丸みをおびており、高さはともに約1.3メートルである。また、左室は長さ2.1メートル、幅1.14メー
	トル、右室は長さ2.08メートル、幅1.16メートルでほぼ同規模である。床面には長さ約1.95メートル、幅約0.78メートル、高さ0.08
	メートルの棺台(棺床)が削り出しによってつくられており、これも左右両室とも同一規模である。閉塞石は内扉と外扉より成っ
	ていて、内扉は凝灰岩製で高さ約1.12メートル、厚さ約0.62メートル、幅約1.47メートルであるのに対し、外扉は安山岩系の石材
	を用い、高さ約2.4メートル、厚さ約0.63メートル、幅約2.69メートルの大きさであった。また、内側の扉の四隅からは方形の孔
	(あな)を確認しており、扉飾金具が装填されていたことが推定される。
	なお、古墳全体に使用された石の総重量は550トン以上と考えられる。運搬には丸太(ころ)を用いても数百人、地面を引きずった
	とすれば1,400人もの人員が必要であり、これについては、巨石を大勢で長距離運ぶこと自体に律令国家の権力を誇示する意図があ
	ったという見方がある。



	
	<出土遺物>
	以前の調査や採集によって、すでに夾紵棺(きょうちょかん)の破片や金銅製の棺金具(七宝亀甲形座金具、八花文座金具、六花
	文環座金具、円形座金具、綾隅金具)、また鉄製の鎹(カスガイ)、鉄製の釘、ガラス玉などの玉類、人骨(臼歯)などの遺物が
	出土している。「夾紵棺」(きょうちょかん)とは麻布を漆で何重にも貼り重ねてつくった当時としては最高級の棺であり、貴人
	の葬送に用いられたことは疑いない。
	1953年(昭和28年)11月14日、遺物は考古資料としてきわめて重要であるとして、一括して「大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品」
	として国の重要文化財に指定された。なお、臼歯は間人皇女のものとの説がある。

	飛鳥地方の横口式石槨墳については、益田岩船(橿原市白橿町)や鬼の爼・鬼の雪隠(明日香村野口・同平田)の遺構が知られ、
	前者は本古墳と同じく刳り抜き式の横口式石槨、後二者は床石と蓋石が別々に構成されるタイプの石槨と考えられる。大阪府寝屋
	川市に所在する石宝殿古墳の石槨は後者の類型に属するが、羨道をともなっており、そのことより、

	羨道をもつタイプ → 羨道をともなわないタイプ
	床石と蓋石が別々に構成されるタイプ → 刳り抜きタイプ

	の編年が考えられる。つまり、石宝殿古墳の石槨は、このなかでは最も旧いことになる。

	石材から年代を検討すると、益田岩船や鬼の爼・鬼の雪隠では硬質の石英閃緑岩が、本古墳では軟質の凝灰岩が使用される。飛鳥
	地方の他の古墳の事例からは、6世紀から7世紀中葉までは、やはり花崗岩等の硬質な石材、7世紀後半からは大阪・奈良の府県
	境にある二上山系の凝灰岩に推移する傾向がみてとれる。
	以上を総合すると、飛鳥地方の横口式石槨墳は、鬼の爼・鬼の雪隠 → 益田岩船 → 牽牛子古墳	の先後関係が考えられる。







	
	この石室は、初めから追葬を考えて巨大な花崗岩をくりぬいて作られている。追葬が行われた墓はいくつもある。飛鳥地域だけに
	限定しても、天武・持統合葬陵や丸山古墳、あるいは数年前話題になった植山古墳などがあげられる。夫婦あるいは親子を葬った
	墓であるが、これらはいずれも最初から追葬を前提として作られたものではない。
	ここからは、夾紵棺や七宝金具など優れた品を出土していることから、被葬者はそうとう高貴な身分であったと想像される。
	石槨は高さ2.7m、幅6m以上、奥行き4mの巨石をくりぬいて棺をおさめる2室をつくっている。その蓋石も80立方メートル
	あって、石舞台古墳の天井石をしのいでいる。この石槨の石材は二上山の寺山付近の石英安山岩(凝灰岩)をくりぬいて二つの墓
	室を作ったものであるという。推定の重さは100トン程度であるとされている。
	しかし、石槨を、ほんとに二上山から現在地へ運んできたのだろうか。私は近場にあった巨石を加工したのではないかと考えてい
	る。大昔の二上山噴火で、石英安山岩(凝灰岩)の岩石層がこのあたりにあるのではないか。しかしながら、いったいそれらの作
	業にどのような技術を用いたのであろうかという疑問はわく。
	石槨は墳墓のある場所で制作されたのか、他の場所で作られて運び込まれたのか。それにしても丘陵の頂など急坂を登ったところ
	に位置している。飛鳥には似たような例が幾つかあるが、その最たる例は、この近くにある益田岩舟である。修羅などの道具を利
	用して運搬したと思われるが、大変な労力だったにちがいない。 

	
	<被葬者>

	斉明天皇の夫舒明天皇の陵墓(忍阪段ノ塚古墳)、子の天智天皇の陵墓(御廟野古墳)および天武天皇の陵墓(野口王墓、持統天
	皇との合葬墳)がいずれも八角墳であり、今回の精査によって、本古墳もまた当時の皇族の陵墓に特徴的な八角墳であることが確
	認された。また、本古墳が築造当初より合葬が明確に計画されていたことは調査成果によっていっそう明らかになった。さらに、
	加工石をこれほどふんだんに用いた古墳は他に類例がなく、古墳自体が巨大な石造記念物であることも明らかとなった。以前より
	知られていた夾紵棺や臼歯の存在、また『日本書紀』における斉明天皇・間人皇女合葬の記述とあわせて、本古墳が斉明天皇陵で
	ある可能性はさらに高まった。
	いっぽう宮内庁は、本古墳から西南西の方向へ2.5キロメートル離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古
	墳を斉明天皇陵として治定してきたため、おおかたの研究者との見解とのあいだに齟齬が生じている。そのため、真の継体天皇陵
	として有力視される今城塚古墳(大阪府高槻市)や真の文武天皇陵として有力視される八角墳中尾山古墳(奈良県明日香村平田字
	中尾山)などと同様、従来の陵墓の治定を見直す必要があるのではないかという議論が起こっている。しかし、宮内庁書陵部では
	斉明天皇陵「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」の候補地として牽牛子塚古墳が有力であるとする説があることを認めな
	がらも、墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はないとしている。



	
	<葬送者>
	『日本書紀』には、「天智天皇は、母である斉明天皇の命令を守り、大工事をしなかった」と記している。これは、被葬者を斉明
	天皇とみなすことについての慎重論の根拠たりうるが、被葬者が斉明天皇であるとした場合でも、葬送者は天智天皇ではないこと
	の論拠ともなりうる。そのいっぽうで『続日本紀』には、斉明天皇陵(越智崗上陵)が「修造」されたとの記事が文武天皇3年
	(六百九十九年)のこととして記されており、この記載を根拠に、この年、斉明天皇が文武天皇により改葬されたのではないかと
	考える研究者もいる。なお、文武天皇は斉明天皇からみれば曾孫にあたる。





	
	<隣接する古墳の発見>
	明日香村教育委員会は牽牛子塚古墳隣接地より古墳を検出したことを発表した。牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓であるならば、新
	発見の古墳は、斉明陵墓の前に孫の大田皇女を葬ったという『日本書紀』の記載より、大田皇女の墓である可能性が高い。





新たに発見された石室。大田皇女の墓と見られる。(後段の新聞記事参照)




	
	中大兄皇子の娘「大田皇女」の墓か 牽牛子塚古墳の近く 2010年12月9日17時17分 asahi.com

	
	新たに発見された石室。大田皇女の墓と見られる=奈良県明日香村、矢木隆晴撮影

	
	新たに発見された石室。発表には大勢の報道陣がつめかけた=奈良県明日香村、矢木隆晴撮影

	
	新たに発見された石室。後方は牽牛子塚古墳=奈良県明日香村、矢木隆晴撮影

	 

	飛鳥時代の女帝・斉明(さいめい)天皇(594〜661)の陵墓とする説が有力視されている奈良県明日香村の牽牛子塚(けん
	ごしづか)古墳(7世紀後半)の約20メートル南東で新たに棺を納める別の石室が見つかり、同村教育委員会は9日、この石室
	周囲を地名から「越塚御門(こしつかごもん)古墳」と名付けた、と発表した。石室の位置関係などが、斉明天皇の墓の前に中大
	兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)の娘「大田皇女(おおたのひめみこ)」が葬られたとする奈良時代の歴史書
	「日本書紀」の記述と符合しており、専門家は日本書紀の記述を裏付ける歴史的な発見として注目している。 

	新たな石室は木棺を置く床石と、それを覆う天井石を組み合わせたドーム状。幅3メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.6
	メートル。天井石は壊れ、一部しか残っていないが、床石はほぼ完全な状態で出土した。 

	大田皇女は飛鳥時代の政治改革「大化の改新」の立役者・中大兄皇子の娘。夫は中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)
	(後の天武天皇)だが、夫の即位前、2人の子どもを残して他界したとされている。 

	現地見学会は11、12日の午前10時〜午後4時。近鉄飛鳥駅から徒歩15分。問い合わせは村教委文化財課(0744・54・
	5600)へ。(渡義人)



	「大田皇女の墓」に人の波	 奈良・越塚御門古墳で見学会	2010年12月11日11時39分 asahi.com

	
	大勢の人が訪れた越塚御門古墳の現地見学会=11日午前、奈良県明日香村、小玉重隆撮影

	大化改新(たいかのかいしん)の立役者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)の娘「大田皇女(おおたのひめみ
	こ)」(生没年不詳)が葬られた可能性が高い奈良県明日香村の越塚御門(こしつかごもん)古墳で11日、現地見学会が始まり、
	多くのファンが訪れた。 
	飛鳥時代の女帝・斉明(さいめい)天皇(594〜661)の陵墓と有力視されている牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後
	半)のそばで棺を納める石室が見つかり、「日本書紀」の記述と合致した。 
	大阪府東大阪市北石切町の無職小北博孝さん(71)は「こんな美しい石室が残っているのは初めて見た。すごい古墳で驚いた」
	と話した。見学会は12日も開かれ、午前10時〜午後4時。小雨決行。近鉄飛鳥駅から徒歩15分。 





























	わたしが昨年の夏、発掘調査・現地説明会に行った時の「牽牛子塚古墳」の様子は以下にあります。八角形が綺麗に出てました。

	2010年9月12日・牽牛子塚古墳・発掘調査現地説明会

	以下は、「KKベストセラーズ」から発行された「歴史人」12月号から転載した。この雑誌は2010年10月号発刊で、12月号
	で第三号ということになる。この12月号は「天皇特集」で、実はこの雑誌の「神武天皇」のコーナーに、我が歴史倶楽部例会で行っ
	たときの「神武天皇陵」の写真が掲載されている。掲載依頼が来たので了承していたら、掲載された雑誌を送ってきた。読んでいたら、
	牽牛子塚古墳のCG再現記事があったので、ここに掲載させて貰う事にした。


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上が掲載された写真だが、勿論雑誌では、MINI disk程の小さな写真になって載っていた。




上図をクリックしていただくと大画面がみれます。










 邪馬台国大研究 /歴史倶楽部HP/ 飛鳥の西を歩く