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許世都比古命神社
歴史倶楽部 第162回例会
2011.1.30(日曜)雪
上左、河内さん、靖さんの頭上にある白い点々は、舞う粉雪である。この辺りへ来たとき急に吹雪いてきた。結構横殴りの雪が
降っていたのだが、電子の目ではうまく捉えられていない。やっぱり、人間の目が一番正確なカメラやねぇ。
牽牛子(けんごし)塚古墳を目指して歩き出して程なく、道標が立っていて、何と読むのか苦労している。江戸時代の人々は越
村を通じて法隆寺、久米寺、大坂、伊勢、京方面の名所を巡歴したそうで、その証しがこの村道標である。
上右、神社入口。道の際にひっそりと鳥居が立っていて、急いでいたらうっかり通り過ぎてしまうかもしれない。石垣と広い階
段で、古式豊かな風格のある神社である。
鳥居の扁額
許世都比古命神社(こせつひこのみことじんじゃ)
所在地 : 奈良県高市郡明日香村越555 (越と真弓の境に鎮座)
祭 神 : 許世都比古命 (こせつひこのみこと)
社 格 : 式内社 旧村社
奈良県の明日香村、近鉄吉野線・飛鳥駅から西へ約500m「越」の丘の南、「真弓」との境に鎮座する。「許世」→「越」と
なったとも言う。拝殿は無く、一段高いところに祠がある。創祀年代は不詳。「延喜式」神名帳の高市郡「許世都比古命神社」
に比定される。祭神・許世都比古命(巨勢小柄宿禰)は、巨勢氏の租とされる武内宿禰の第五子であるため、五郎神、五老神と
も称された。
「大和志」に「在越村、今称五老神」とみえ、境内の文化一〇年(一八一三)の石碑によると、巨勢小柄宿禰の霊を祀り、巨勢
氏の祖武内宿禰の第五子にあたるので五郎社とも称するとあり、その子孫が後に葛上郡の古瀬(現奈良県御所市)に移ったと記
す。しかし小柄宿禰は第二子であり(古事記)、五郎はおそらく御霊の転訛と思われる。南方の於美阿志神社も御霊大明神と称
していた。御霊信仰の影響であろう。 −『大和・紀伊 寺院神社事典』−
近鉄南大阪線飛鳥駅から約500メートル越の丘の南、真弓との境に鎮座する。『延喜式』神名帳登載の式内社に比定される。
祭神は許世都比古命で、巨勢氏の租武内宿禰の第五子だから『五郎紳』とも俗称する。巨勢地方の産土神で、巨勢氏の租神でも
ある。巨勢氏の一族が後世その本拠の巨勢郷から檜前方面に勢力を伸ばして越に新しくその租神の分霊をまつったとも考えられ
る。享和年間此の地の服部氏(高取藩医)が人首蛇身の造形を奉納,弁才天の神体としたと伝える。
−奈良県史(神社)より=
参道
境内には八つの灯篭が並び、それぞれに社名・神名が記されており、左から、富士太神宮、多賀神宮、三輪神宮、天照皇神宮、
豊受太神宮、八幡大菩薩、春日大明神、大峰山大権現である。例祭は、10月9日の秋祭り。
本殿と対面する形の拝殿が、境内広場にある。
境内広場より一段高い場所に鎮座の本殿
弁財天。弁才天と刻銘された石燈籠が前に並んでいる。
文化一〇年(1813)の石碑。この年は徳川家斉が十一代将軍で松平伊豆守が老中の「文化文政時代」であり、庶民の文化が
花開いた時代である。五年前には間宮林蔵が蝦夷樺太を探検、「間宮海峡」を発見しており、二年後には、前野良沢、杉田玄白
が「蘭学事始」を著している。ヨーロッパでは、ナポレオンがドイツの神聖ローマ帝国を滅ばして大陸封鎖令を発令し、全盛に
かげりが見えだした頃である。中国は「清」の時代で、この年に「天理教徒の乱」が起こっている。
前出の解説で、
境内の文化一〇年(一八一三)の石碑によると、巨勢小柄宿禰の霊を祀り、巨勢氏の祖武内宿禰の第五子にあたるので五郎社と
も称するとあり、その子孫が後に葛上郡の古瀬(現奈良県御所市)に移ったと記す。しかし小柄宿禰は第二子であり(古事記)、
五郎はおそらく御霊の転訛と思われる。南方の於美阿志神社も御霊大明神と称していた。御霊信仰の影響であろう。
−『大和・紀伊 寺院神社事典』−
とあるように、現在の奈良県御所市にある古瀬(巨勢)氏の元々の発祥がここだと石碑は記録している。また奈良県史(神社)
も御所市の巨勢氏が、その租神の分霊をここにまつったのではないかと考えているようだが、しかしそもそも古瀬(巨勢)氏の
発祥は佐賀県である。ニギハヤヒの近畿への降臨に伴って、物部氏が福岡県遠賀川流域からニギハヤヒに随行してきたことは
「先代旧事本紀」に詳しいが、おそらくは、古瀬(巨勢)氏も前後して北九州から近畿へ移ってきたものと思われる。そしてそ
の一族がこの明日香地方にも居たのだろう。御所(ごせ)も巨勢(こせ)の転化と思われる。我が歴史倶楽部でも、以前御所市
の「巨勢の道」を歩いたことがある。
古代大和朝廷の時代、葛城を本拠として栄え、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の歴代天皇の治世に大臣として仕えた巨勢氏の祖
武内宿禰の五人の子の、一人目の雄柄は巨勢氏本宗家を継ぎ、二人目の石川は蘇我氏の祖となり、三人目の木兎は平群氏の祖と
なり、四人目の角は紀氏の祖となり、五人目の襲津彦は葛城氏の祖となった。この五人を同族の祖先神として五老神、五郎宮と
称して祀ったのが許世都比古命神社のはじめであったそうだ。
また、その「武内宿禰」に関しても、その旧蹟や彼を祀る神社は、有明海を取り巻いて、福岡県南部から佐賀県南部に集中して
いる。同様に、物部氏を「祀神」とする神社は遠賀川流域にひしめいている。「蘇我」も「佐賀」の音便だという説もある。
ちなみに、いまでも佐賀には巨勢という地名があり、大学時代の友人、古瀬君は佐賀市で書店を営んでいる。
この石碑の文章は「従五位下駿河守源朝臣家長書」とあるように、駿河守源朝臣家長によって書かれている。駿河守源朝臣家長
とはいかなる人物だろうか。ウィキペディアで調べてみても、あの歌人として有名な源家長以外には、それらしい人物は登場し
ないが、新三十六歌仙の一人「源家長」は鎌倉初期の歌人である。江戸時代の石碑に名をしるす訳はないので別人だろうが、一
体誰の事だろうか。また、文章そのものは「従五位下日向守巨勢朝臣利和敬白」とあるので、巨勢氏の末裔が祖先を称えたもの
と解釈できる。
また、NETで調べていると、19世紀に紀州出身の文人、祇園南海によって作られた詩画帖「五條十八景」に、「高取弧城
源家長 高取城主」とあった。この高取城主・源家長とはいったい何物だろう。誰か知っている人があったら教えて下さい!
ちなみに、従五位とは、
従五位 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位
という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位
に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。
<江戸時代以前>
律令制下において五位は国司や鎮守府将軍、諸大夫に相当する位であった。さらに、従五位下以上の位階にある者を「通貴」、
従三位以上の者を「貴」とされたことから、五位以上がいわゆる貴族の位階とされた。五位は正従、上下にわけられ正五位上か
ら従五位下に分けられたことから、従五位下以上の位階にあることが平安貴族としての資格であったといえる。
この従五位下の別称を栄爵と別称し、またその位階にある者を大夫といった。また、中国では秦の始皇帝が松の木に日本の従五
位に相当する大夫の位を授けたことから、大夫に相当する従五位を松爵(しょうしゃく)とも別称するようになった。これらの
ことから、従五位下に叙せられることを叙爵といった。
この従五位下にあった主な者としては、代々、国司を務めた藤原氏の傍流や橘氏、高階氏などの一門、清和源氏、桓武平氏など
の軍事貴族に至るまで中級貴族層の多くがこの位に叙せられた。
鎌倉時代初期までは、京都の中級下級貴族と、鎌倉幕府において京都下りの吏僚、或いは源氏一門、有力な名門御家人などがこ
の位にあった。室町時代には、足利将軍家や守護の初叙位階でもあり、守護や有力国人なども多くがこの位にあった。
<江戸時代以降>
江戸時代以降は、家門大名のうち傍流にして知行の少ない家、譜代大名、10万石に満たない外様大名は、或いは大身の旗本はみ
な従五位下に叙せられ、主に大名・有力旗本、ないし御三家・御三卿及び家門筆頭の福井藩の家老及び加賀藩の家老本多氏、長
州藩の支族吉川氏が岩国藩として立藩を認められた際に叙せられた。特に加賀藩の本多氏は位階のみの散位であったため、「従
五位様」、「従五位殿」と他称された。
<明治時代以降>
明治時代以降、華族の嫡男は自動的に従五位に叙せられたことから、華族の嫡男の異称を従五位ともいう。中佐の階級にある者
などもこの位に叙せられた。明治以降、大正時代にかけて幕末の志士のうち功ある者や江戸時代以前にて無位無官ながら何らか
の分野で業績ある者に贈位される例もみられた。江戸時代中期の和算家安島直円などはその例である。
現在では、死没者に対する栄典として与えられることとなっており、都道府県議会議長経験者、学校長や警察署長、消防署長、
消防団長、企業の社長として功を為した人に対して叙位が行われている。
老人ホームの玄関先に咲いていた老梅(ろうばい)。今年初めての梅の香りが香(かぐわ)しかった。「老梅に老婆?」と悪た
れをついたら、マドンナ乾さんは「そうねぇ、もう婆さんやもんねぇ」と少し哀しそうに笑っていた。大失敗。乾さんゴメンね。
邪馬台国大研究 /歴史倶楽部HP/ 飛鳥の西を歩く