Music: Mr.Postman
歴史倶楽部第146回例会
八尾・高安古墳群
高安千塚 −大窪・山畑支群− を歩く
2009.10.25 大阪府八尾市
日時 : 2009年10月25日(日曜)
集合 : AM10:00 近鉄信貴線「信貴山口駅」
アクセス:<大阪駅から>
近鉄電車 大阪線普通 鶴橋発(9:30) − 山本駅着(9:48)
ここで信貴線に乗り換え、山本発(9:53) − 信貴山口着(9;57)
持参する物: 弁当、お茶、雨具、替上下着、カメラ、その他。
今回は「懐中電灯」が必要です。必ず持ってきて下さい。
散策:
信貴山口駅 − 郡川30号墳 − 開山塚古墳 − 服部川7号墳墓
− 二室塚古墳 − 抜塚(大窪・山畑7号分) − 大窪山畑8号墳
− 俊徳丸鏡塚古墳 − 歴史民俗資料館 − 服部川駅(16:00頃解散)
(どこか適当な所で昼食を取ります。)
という事で(どういう事や!)、今回は八尾市の「高安古墳群」を歩くことにな
った。近畿には六大古墳群というのがあるが、その古墳群に入っていない地域に
も実に多くの古墳群があり、この高安にも数百基の古墳がひしめいている。
古くから発掘調査され、何と、東京の「大森貝塚」を発見したモースも調査に来
ている。近畿圏は、至る所で渡来した古墳人たちの痕跡を見ることが出来るのだ。
現代韓国人と、近畿圏の人々のDNAが一番近い、というのもうなずけようと言うも
のだ。
近鉄「信貴山口駅」に集合して、まず本照寺(ほんしょうじ)を目指す。ここに郡川30号墳がある。高安古墳群(たかやすこふん
ぐん)は、大阪府八尾市の東部、高安山の麓に分布する古墳群で、現在約200基の古墳群が残存しており、その多さからこのあ
たりを「千塚」と呼んだ。古墳時代後期の6世紀から7世紀にかけて造られ、大正時代の調査で、かつては600基ほどあったと
見られている。その多くが、横穴式石室を持った直径10〜20mほどの小さな円墳で、高安山の中腹、標高50〜300mあた
りに多く分布している。
明治時代初期に モースが開山塚古墳などを調査・スケッチをして、その成果を「日本におけるドルメン」として紹介している。
また、W・ゴーランドが二室塚古墳の写真撮影を試み、1897年(明治30年)に論文で「双室ドルメン」として発表していることが
後の研究で判っている。なお、坪井正五郎は1888年(明治21年)に「古墳・塚穴、ドルメン同源説」という論文を発表している。
上図を下から上へ黒い線のように歩いた。尾根を谷が横切っているので、大きく迂回して隣の尾根へ行く事がしばしばだった。
本照寺(郡川30号墳)
本照寺。現代の墓の中に、古代の墓・古墳がある。郡川30号墳である。
芳沢あやめの墓は、歌舞伎役者だけあって、関係者の寄進でいっぱい。
ここが郡川30号墳。寺が扉を付けているし、中には祭壇もあった。日付の入った写真は歴史倶楽部の橋本さん提供。
大きな観音様。おや、左隅に井上家の墓碑が。どこかで繋がっている親戚かもしれない、ってか。
寺の休憩所には、歌舞伎関系の写真や資料がいっぱい展示されている。住職さんに色々話を聞く。
谷を下って法蔵寺方面へ歩くと何と踏切が、何じゃと見れば信貴山ケーブルの線路でした。
ここから見る大阪の街は「絶景かな」だった。
開山塚古墳
法蔵寺は、土佐の長宗我部氏の子孫の好山和尚が開いた寺だという。この寺の境内に開山塚と言う古墳がある。大きな石室で、
高安古墳群では最大級の石室である。法蔵寺の北の山中には神光寺という寺があり、この周辺にも多くの古墳が残っている。
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り
込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に
人が活動するような空間はない。
横穴式系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が作られる。 ・横穴式石室 ・横口式石槨 な
どがある。 横穴式石室は、通路である羨道(せんどう)部と埋葬用の空間である玄室(げんしつ)部を持つ。石室を上から
見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片
袖式と呼ぶ。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々である。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)
や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。古墳時代後期以降に流行する。高安古墳群も、ほぼ全てがこの
横穴式の古墳である。
こんな古墳は始めて見た。奧へ突き抜けている。この古墳群には幾つかこういう古墳が在る。
ここが珍しい「二室塚古墳」。石室が二つあるのだ。
手前に一部屋あって、奧にもう一室ある。
なるほど、石組みがあちこちで崩壊しつつある。珍しい古墳なのだからちゃんと保存すればいいと思うのだが。
<ガウランド(ゴーランド)の研究>
古墳研究において業績を残した外国人に、イギリス人ウィリアム・ゴーランド( William Gowland)がいる。彼は、造幣局の
鎔銅担当技師として招聘され、後に局長顧問を兼ねた。彼は、1872(明治5)年から1888(明治21)年の16年間の滞日中に、
本務の余暇をみてはこつこつと古墳研究を進めていた。彼の古墳研究のことは当時、日本人の間ではほとんど知られていなか
った。
彼が帰国してから『日本のドルメンと古墳』(The Dolmens and Burial Mounds in Japan,1897)と『日本のドルメンとその築
造者』(The Dolmens of Japan and their Builders, 1889)とを発表した。日本の古墳の中でも特に彼を引きつけたのは、巨
石を使って構築された横穴式石室であった。彼が調査した横穴式石室は460で、そのうち実測図を作成してデータを計測したの
は130である。調査地域は九州から関東の15府県に渡っている。
このあたりの古墳は盗掘されてむき出しのモノが多い。道ばたに放置してある石材が、その古墳を覆っていた石ではないかと
思うのだが、みんなは「イヤ、そんな事はないやろ。そこまでせぇへんのちゃう。」と言っていた。しかし私は怪しいと睨ん
でいる。そもそも高安古墳群は、後世に常に荒らされた古墳群で、あまり調査の手が入らずに破壊されてしまったものが多い
というし、見学できる古墳は少ないほうであろう。
古墳時代にすでに古墳が破壊されていたことが発掘などにより明らかになっている。盗掘は築造直後から行われているのだ。
これらは窃盗よりも政治的意図と思われるが、しかし年月が経過すると、土地使用に供するために古墳を破壊するようになっ
た。古くは、平城宮建設のために市庭古墳(平城天皇陵)の一部などが破壊された。
農地のための破壊は歴史を通じて見られ、中世には城砦のために、近代(特に戦後)には宅地のために破壊されてきた。戦後
に破壊された最大の古墳は1949年に破壊された全長168mの百舌鳥大塚山古墳である。破壊の危機に瀕したいたすけ古墳の保存
運動などをきっかけに、古墳は保存すべき文化財との認識が広まり、近年では大規模な破壊はない。しかし、工事の最中に発
見された小さな古墳が公にされないまま破壊されている可能性があるほか、2005年には古江古墳が破壊されるなど、小規模の
古墳の破壊は現在も続いていると考えられる。この高安古墳群などは、相当荒らされていると見た方がよい。
上左は、西本さんが石にけ躓(つまづ)いた瞬間。すごい決定的瞬間やね。
これなどはもう、完璧に廊下状態やな。ここも周囲は現代の墓地である。
抜塚は古くは「岩本墳」と呼ばれていた。上右奧が抜塚。
これが「大窪・山畑8号墳」。さきほどの抜塚が「大窪・山畑7号墳」である。
佐麻多度神社 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
所在地 大阪府八尾市山畑340
主祭神 佐麻多度大神
社格等 式内小社、村社
創建 不明
例祭 10月10日(秋祭)
佐麻多度神社(さまたどじんじゃ)は、大阪府八尾市に鎮座する神社で、河内国高安郡の式内社。創建年、本来の祭神は不詳で
あるが、大和時代(西暦 600年代)の創建と伝えられている。現在の祭神は佐麻多度大神で山畑村の産土神である。もとの鎮座
地はさらに100mほど上、高安山中腹の谷口天神山にあった白華観音院の寺領内にあった。
明治5年の神仏分離令で寺は廃絶となり、佐麻多度神社は村社に列する。同年4月に山畑神社と合祀される。明治32年6月に参拝
に不便という理由で現在地に遷座された。
高安郡の式内社である「春日戸社坐御子神社」は、当社に合祀され、現在の摂社・山畑神社であるとされる。山畑神社は「高座
明神」とも称される。当社の境内南側、鳥居の脇に重さ165kgほどある「力石」が4つ置かれている。かつて山畑村の青年たちの
娯楽として「力比べ」をした時に用いられたものである。
かつて境内付近から素焼きの陶棺が出土した。現在は東京国立博物館に保管されている。
上左、境内末社の山畑神社(左)と山畑天満宮(右)
佐麻多度神社は、山畑(やまたけ)地域の産土神で、佐麻多度大神(さまたどおおみかみ)を祭神とする式内社ということだが、
この「佐麻多度大神」というのは一体どんな神様なのだろうか。創建についてもあまり分からないようだが、古代この地は、高
句麗系渡来人の住地であったと伝えられているそうなので、渡来系氏族の祖神が「佐麻多度大神」なのかもしれない。ここから
陶棺も出土している。
上右、「六代目尾上菊五郎」
この花の名前は「デュランタ宝塚」だったか、「デュリータ宝塚」だったか?
八尾市立歴史民俗資料館
天平人制作
資料館で「天平人」になるコーナーがあった。早速、西本さんと乾さんが挑戦!
華麗なる「天平人」。うぅ〜ん、乾さんはいいんだけどなぁ、お供がなぁー。
「服部川駅」のホームから高安山が見えている。服部さんがいれば良かったのになぁ。
本日の反省会。山本で降りて「土筆んぼう」へ。「かんぱちのお造り、本あんこうの唐揚げ、鴨の朴葉焼き」などを食す。
お疲れ様でした。また次回もご参集下さい。いよいよ今年も残り少なくなってきましたね。
周知のように古墳とは、一般的には墳丘を持つ古い墓のことである。墳丘を持たないものは古墳とは呼ばない。地中にただ埋められ
た墓は単に土坑墓と呼んだり、また3−7世紀以外のものは墳丘を持っていても古墳とは呼ばず墳丘墓と呼んだりして区別している。
日本史上では、弥生時代の終わり頃(3世紀後半)から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼ぶが、古墳の副葬品やその
規模から、同時代の一般庶民の墓とは考えられず、その土地に根付いた権力者の墓と考えられる。
基本的には、古墳時代人の中の、有力者たちの大半は渡来人で、大陸や半島の政変で我が国へ渡来してきたと私は考えている。弥生
時代に根付いた稲作とその耕作者たちを支配下に収め、渡来した古墳時代人たちは、西日本を起点として、南日本や、東へ東へ、或
いは四国に根付き、日本中を駆け回ったと考えられる。勿論、新羅・高句麗あたりから直接東海(日本海)へ漕ぎだし、西日本では
なく出雲や能登半島や秋田あたりに上陸した集団もいることだろう。東北地方の古墳を築いた人々は、関東地方を経由して東北まで
北上したと考えるより、この経路を想定した方が合理的である。東北地方に驚くべきスピードで到達した「稲作」も、おそらくはこ
のルートで西から伝わったのだと私は考えている。東北地方の稲作は、「日本海を渡ってきたコメ」なのである。
古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、弥生時代の墓制にとって変わったものではなく、非常に変化した墓制として突
如あらわれた。それは、特定のわずかな人々の埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と著しく隔絶したものである。さらに、地域
的にも不均等に出現する。すなわち、古墳の発生は、前時代からの墓制の連続的な変化や、葬送観念の継続的変化をとどめておらず、
唐突に出現した、社会・政治の全般に関わる問題とも言えるのである。
これもアチコチで書いた事だが、それらの古墳時代人たちが、支配下に置いた「弥生人」たちを引き連れて東へ東へ移動したその軌
跡が、やがて「神武東征」や「高天原の出雲侵略」や「四道将軍の北陸遠征」や「ヤマトタケル」の伝説などとなって語り継がれた
のである。4,5世紀の「寧所にいとまあらず」という戦いの時代を経て、やがて近畿地方に芽生えた「大和朝廷の萌芽」とも言え
る集団が、日本を中央集権国家へと導いていく。その過程で、古墳時代人たちは抗う弥生時代人たちの集落や、別個に渡来してきた
他の「古墳時代人」たちと抗争を繰り返し、北九州に於いては「邪馬台国」も滅ぼし、近畿地方に存在していた「銅鐸族」をも粛清
していったのである。
全国の古墳の総数は15万とも20万とも言われるが、文化庁の調べでは、日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基に
のぼっている(平成 13年3月末)。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、この集計
結果によれば、全国合計では 161,560基となる。この高安古墳群を初めとして、近畿圏には数百の単位で古墳群を形成している地域
が実に多く、このHPの「遺跡・旧蹟めぐり」コーナーでも幾つかとりあげている。(奈良・馬見古墳群、大阪・南河内古市古墳群、
大阪・阪南一須賀古墳群などなど。)
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