Music: 一月一日
歴史倶楽部・第173回例会
奈良県櫻井市 2012.1.29







	<脇本遺跡>

	近鉄の大和朝倉駅で下車して北側に出、国道165号線を長谷方面に200mほど進むと脇本の集落に入る。この付近は、縄文・弥生
	時代から古墳時代にかけて遺物が出土し、脇本西遺跡・脇本東遺跡として以前から知られていた場所である。
	縄文晩期から古墳時代にまたがる複合遺跡。春日神社を中心付近一帯に拡がっていると考えられる大規模な遺跡である。纒向遺跡と同
	時期の遺跡で、近年の発掘調査によって、第21代雄略天皇の「泊瀬朝倉宮跡」の有力な候補地となった。

	内外に示した強大な力が『古事記』『日本書紀』に語られる雄略天皇は、「泊瀬の朝倉」で即位し宮を定めたとある。文献からは桜井
	市黒崎または岩坂が宮の候補地とされてきた。ここに浮上したのが脇本地区だ。埼玉・稲荷山古墳出土の大刀銘は、ワカタケルが「斯
	鬼(しき)宮」にいたと記す。ワカタケルは雄略天皇のこと。シキは磯城地域のことで、このあたり一帯を指す。
	脇本では発掘調査の結果、縄文晩期−飛鳥・奈良時代にいたる複合遺跡が明らかになった。5世紀後半の建物跡などはまさに「朝倉宮」
	を想起させる。東国への入口にあった倭王武・雄略天皇の宮跡には今、田畑が広がるばかり。この遺跡は、第1期は5世紀後半、第2期
	は6世紀前半、第3期は6世紀後半と7世紀後半の3期に分けられる。

	★所在地;桜井市脇本
	★交通;近鉄大和朝倉駅下車 徒歩10分
	★駐車場; なし
	★問合せ;0744-24-1101(橿原考古学研究所) 




	奈良・脇本遺跡に105メートル柱列跡 大規模施設の可能性 2011.8.18 asahi.com

	 奈良県桜井市の脇本遺跡で、7世紀の柱列(ちゅうれつ)跡が見つかり、県立橿原考古学研究所(橿考研)が17日、発表した。過
	去の調査と合わせ、柱列は東西105メートルにわたって2列に並んでいたと推定され、橿考研は「柵か建物か確定できないが、計画
	的で大規模な施設の存在が明らかとなった。大伯皇女(おおくのひめみこ)(天武天皇の娘)が伊勢神宮に仕える前に身を清めたとさ
	れる泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)だった可能性が高まった」としている。今回の調査で東西12メートル、南北8メートルの
	「コ」の字形に柱穴14基を確認。柱の直径は35〜45センチと推定される。




	<脇本遺跡>

	5世紀後半〜6世紀初頭期と思われる、大型掘立柱建物や石溝・柵列など宮殿跡(?)などが発掘されている。2007年には、弥生時代末
	期〜古墳時代初頭の銅鐸破片や青銅器の鋳型が発掘されている。銅鐸片は1〜4cm大で、竪穴式建物跡(一辺6〜8m)から3点出土した。
	復元すれば全長1m前後になる大型銅鐸の一部とみられる。弥生時代の銅鐸は完全な形のまま地中に埋められたケースが多く、破片の
	状態で出土した今回のケースは、古墳時代になって意図的に破壊された可能性が高いという。銅鐸をリサイクルした跡ではないかとも
	考えられる。
	脇本遺跡は、奈良盆地東南の外鎌(とかま)山と三輪(みわ)山に囲まれた初瀬谷の微高地に位置し、初瀬川を見下ろすことができる。
	周辺は初瀬谷から西峠をこえて榛原へと続く伊勢街道に沿っており、古代から東国と大和を結ぶ交通の要衝である。 






	昭和59年(1984)、桜井市と橿原考古学研究所が中心となって、磯城(しき)から磐余(いわれ)一帯の諸宮を調査することになった。
	基本調査の結果、脇本から慈恩寺にかけての一帯が、泊瀬朝倉宮に最も適した場所であるとの推定のもとに発掘調査が行われた。まず
	昭和56年から朝倉小学校校庭の調査が行われた。昭和59年からは朝倉小学校の西南方、国道165号線の北側の田んぼとなってい
	る灯明田地区、およびその東側の苗田地区に発掘調査の範囲が拡大された。
	数次にわたる発掘によって、5〜6世紀の建物や溝の遺構が朝倉小学校の校庭から見つかった。灯明田地区では、下層から5世紀後半
	の大型建物が、上層からは7世紀後半のやはり大型建物の遺構が検出された。さらに灯明田地区の東北の苗田地区の発掘でも、全域に
	5世紀後半の広場のような整地された層が見つかった。

	こうした発掘調査の結果を総合的に判断して、脇本遺跡の5世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわ
	る建物の可能性が非常に高いと見なされた。だが、私有地のため完全な調査ができないまま埋めもどされた。現在は、発掘現場は埋め
	戻されていてわかりにくいが、脇本交差点に立って北側を見ると一段と高くなっている平坦地がある。一面の稲田の下に、建物遺構が
	眠っているのだ。現在、脇本ではまた新たな発掘作業が行われているが、それは上記に述べた調査地のはす向かいの田んぼである。
	「泊瀬朝倉宮」に関する新たな物証が、何か出現する事を祈りたいものだ。



ここが今掘っている発掘現場。まだ大きなnewsは聞かないので、特に新たな発見は無いのかもしれない。下は発掘現場裏手にある「春日神社」。




	<泊瀬朝倉宮>

	泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)は、古墳時代の天皇である第21代雄略天皇が営んだ宮殿。長谷朝倉宮、初瀬朝倉宮とも表記さ
	れる。伝承地は奈良県桜井市黒崎もしくは同市岩坂。黒崎の白山神社境内には「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建立されている。
	一方、1984年には、同市脇本にある脇本遺跡で、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見されており、考古学的見地から朝倉宮
	の有な候補地とされている。以下、天皇陵巡り「雄略天皇」のコーナーより転載。


	<第21代 雄略(ゆうりゃく)天皇>
	異 称 :   大長谷若建命(古事記)、大泊瀬幼武命(日本書紀):(おおはつせわかたけのみこと)
	生没年 :  ?年 〜 雄略天皇23年 124歳(古事記)
	在位期間:  安康天皇3年(雄略元年) 〜 雄略天皇23年
	父   :  允恭天皇 第五皇子
	母   :  忍坂大中姫命( おしさかおおなかつひめ:稚渟毛二岐(わかぬけふたまた)皇子の娘)
	皇 后 :  幡梭皇女(はたびのひめみこ:仁徳天皇の皇女)
	皇 妃 :  葛城円大臣の娘、韓媛(からひめ)。
		   吉備上道臣の娘、稚媛(わかひめ)。
		   春日の和珥臣深目の娘、童女君(おみなぎみ)
	皇子皇女:  白髪武広押国稚日本根子天皇(しらかのたけひろおしわかやまとねこのすめらみこと:清寧天皇)。
		   稚足姫皇女(わかたらしひめ)。
		   磐城(いわき)皇子。
		   星川稚宮(ほしかわのわかみや)皇子。
		   春日大娘(かすがのおおいらつめ)皇女。
	宮	:  三輪山麓・泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや:奈良県櫻井市黒崎)
	陵 墓 :  丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)(大阪府羽曳野市島泉:近鉄南大阪線「高鷲(たかわし)」駅)




	泊瀬朝倉宮は雄略天皇が在位した456年から479年までの皇居であると考えられているが、これ以降も引き続き皇居とされたとの説もあ
	る。黒崎の集落辺りに、雄略天皇の宮殿があったと伝えられる。黒崎は、長谷の西の入口に位置し、その昔、黒崎には”夫婦まんじゅ
	う”を売るお店が軒を連ねていたと云う。国学者の本居宣長も、かの有名な「菅笠日記」に黒崎の饅頭のことを書いている。








	「大和志」「日本書紀通証」などでは桜井市黒崎の「天の森」が、朝倉宮推定地とするが、「帝王編年記」「和州旧跡幽考」などでは、
	桜井市上岩坂の磐坂谷を候補地として、宮跡は十二神社境内としている。私見では、これら全て(朝倉から長谷寺に至る、初瀬谷)が
	<泊瀬朝倉宮>跡だった可能性もある。
	稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣銘には「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」と刻まれているが、「獲加多支鹵大王」は雄略天皇であり、
	「斯鬼宮」(しきのみや)は泊瀬朝倉宮を指すと考えられている。






	<春日神社> 桜井市脇本

	祭 神: 天児屋根命、太玉命、天宇受受命

	創祀由緒は不詳。慶長8年(1603)に建立された三間春日造りで知られる。安土桃山時代の特色を持つ本殿は県指定文化財である。
	この神社前の道はかって初瀬街道と呼ばれた。平安時代の紫式部や清少納言たちが、京都から南下してきて、海柘榴市で旅の疲れを癒
	したあと、長谷寺へ参詣した道である。江戸時代になってお伊勢参りが盛んになると、山越えして伊勢へ出るための「伊勢街道」とし
	て世に知られるようになった。往時は街道筋の「春日神社」として大いに人々の崇敬を集めていたものと推察される。






	雄略天皇は、その宮処を初瀬谷に構えたとされる。古事記に「大長谷の若建の命、長谷の朝倉の宮に坐しまして、天の下治しめしき。」
	とあり、この「長谷の朝倉の宮」が初瀬谷にあったと推測できるからである。この初瀬川の流域に展開する谷間は、まさに山間の隠れ
	た里である。鳥見山と三輪山に挟まれた長谷盆地の入り口にあたる。現在はその狭い峡谷を、国道165号線と近鉄電車の線路が初瀬
	川を挟んで東へ延びているが、しかしどうみても華やかな宮処(都)のイメージからはほど遠い。
	山の辺の道の宮跡や飛鳥を訪れた後では、この地はいかにも僻地に思える。大王が政治を行う宮処としてはあまりにも狭い場所に思え
	るのだ。だが記紀は「泊瀬朝倉宮」と書き残しているし、古代の宮跡が必ずしも華やかな場所ばかりではないので、現代の視点からの
	推測は的を得ていない可能性も大である。考古学的には現在までのところ「泊瀬朝倉宮」と断定できる遺構の発見はない。国道165
	号線沿いの「白山(しろやま)神社」付近と「脇本遺跡」付近がその有力候補地であるが、述べたように初瀬谷全体が宮処であった可
	能性もある。





本殿は桧皮葺三間社春日造で、組物・虹梁など、細部の手法がすぐれ、棟木銘から慶長8年(1603)の建立である事が分かっている。





拝殿の左奥に、末社の稲荷社がある。





赤い鳥居の向こうが稲荷社。



	【大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)】雄略天皇 
	  古事記読み下し文(天皇陵めぐり・「雄略天皇」より。)

 	大長谷の若建の命、長谷の朝倉の宮に坐しまして、天の下治しめしき。
	天皇、大日下の王の妹、若日下部の王を娶りき【子无し】。また都夫良意富美(つぶらおほみ)の女、韓比賣(から
	ひめ)を娶りて生みし御子は白髮(しらか)の命。次に妹(いも)若帶比賣(わかたらしひめ)の命【二柱】。
	故、白髮の太子の御名代と爲して白髮部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬(かわせ)の舎人を定めき。
	此の時に、呉人(くれひと)參い渡り來たり。其の呉人を呉原(くれはら)に安置(お)きき。故、其の地を號けて
	呉原(くれはら)と謂う。
	初め大后の日下に坐します時に、日下の直越(ただこえ)の道より河内に幸行(いでま)しき。爾くして山の上に登
	りて國の内を望めば、堅魚(かつお)を上げて舎屋(や)を作れる家有り。天皇、其の家を問わさしめて云いしく、
	「其の堅魚を上げて作れる舎(や)は誰が家ぞ」。答えて白さく、「志幾(しき)の大縣主(おおあがたぬし)の家
	ぞ」。 爾くして天皇、詔らさくは、「奴(やっこ)や、己が家を天皇の御舎(みあらか)に似せて造れり」。
	即ち人を遣りて、其の家を燒かしめる時に、其の大縣主、懼(お)じ畏(かしこ)みて稽首(ぬかつ)きて白さく、
	「奴(やっこ)に有れば、奴(やっこ)隨(なが)ら覺(さと)らずて過ち作れるは甚(いと)畏(かしこ)こし。
	故、能美(のみ)の御幣物(みまいもの)を獻(たてまつ)らん【能(の)美(み)の二字は音を以ちてす】」。
	布を白き犬に(か)け、鈴を著(つ)けて、己が族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と謂う人に犬の繩を取らしめ
	て以ちて獻上りき。故、其の火を著くるを止めしめき。即ち其の若日下部(わかくさかべ)の王の許に幸行して、其
	の犬を賜い入れ詔らさしめく、「是の物は、今日、道に得たる奇(あや)しき物ぞ。故、都麻杼比(つまどひ)【此
	の四字音を以ちてす】の物ぞ」と云いて賜い入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏さしめしく、「日に背きて幸行
	す事、甚(いと)恐し。 故、己、直(ただ)に參い上りて仕え奉らん」。是を以ちて宮に還り上り坐す時に其の山
	の坂の上に行き立ちて歌いて曰く、
 
		久(く)佐(さ)加(か)辨(べ)能(の)
 		許(こ)知(ち)能(の)夜(や)麻(ま)登(と)
 		多(た)多(た)美(み)許(こ)母(も)
 		幣(へ)具(ぐ)理(り)能(の)夜(や)麻(ま)能(の)
 		許(こ)知(ち)碁(ご)知(ち)能(の)
 		夜(や)麻(ま)能(の)賀(か)比(ひ)爾(に)
 		多(た)知(ち)邪(ざ)加(か)由(ゆ)流(る)
 		波(は)毘(び)呂(ろ)久(く)麻(ま)加(か)斯(し)
 		母(も)登(と)爾(に)波(は)
 		伊(い)久(く)美(み)陀(だ)氣(け)淤(お)斐(ひ)
 		須(す)惠(え)幣(へ)爾(に)波(は)
 		多(た)斯(し)美(み)陀(だ)氣(け)淤(お)斐(ひ)
 		伊(い)久(く)美(み)陀(だ)氣(け)
 		伊(い)久(く)美(み)波(は)泥(ね)受(ず)
 		多(た)斯(し)美(み)陀(だ)氣(け)
 		多(た)斯(し)爾(に)波(は)韋(い)泥(ね)受(ず)
 		能(の)知(ち)母(も)久(く)美(み)泥(ね)牟(む)
 		曾(そ)能(の)淤(お)母(も)比(ひ)豆(づ)麻(ま)
 		阿(あ)波(は)禮(れ)
 
		日下部の
 		此方の山と
 		畳薦
 		平群の山の
 		此方此方の
 		山の峡に
 		立ち栄ゆる
 		葉広熊白檮
 		本には
 		い茂み竹生ひ
 		末辺には
 		た繁竹生ひ
 		い茂み竹
 		い隠みは寝ず
 		た繁竹
 		確には率寝ず
 		後も隠み寝む
 		其の思ひ妻
 		あはれ 
 
 	即ち此の歌を持たしめて使を返しき。
	また一時(あるとき)に天皇遊び行きて美和河(みわがわ)に到りし時に、河の邊に衣を洗う童女有り。其の容姿甚
	(いと)麗(うるわ)し。天皇、其の童女(おとめ)に問いしく、「汝は誰が子ぞ」。 答えて白さく、「己が名は
	引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかいこ)と謂う」。爾くして詔らさしめくは、「汝は夫(お)に嫁(あ)わずあれ。
	今、喚(め)してん」とのらさしめて宮に還り坐しき。故、其の赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて既に八十歳(やそと
	せ)を經たり。 ここに赤猪子、以爲(おも)えらく、「命(みことのり)を望(ねが)う間に、已に多(あまた)
	の年を經ぬ。姿體(かたち)痩(や)せ萎(しな)えて更に恃む所無し。然れども待ちつる情(こころ)を顯(あら)
	わすに非ずは(いぶせ)きに忍えず」。百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物を持たしめて、參い出でて貢獻
	(たてまつ)りき。 然れども天皇、既に先の命(みことのり)の事を忘れて其の赤猪子(あかいこ)に問いて曰く、
	「汝は誰が老女(おうな)ぞ。何の由以(ゆえ)に參い來つる」。爾くして赤猪子(あかいこ)、答えて白さく、
	「其の年の其の月に天皇の命(みことのり)を被(こうむ)りて、大命(おおみことのり)を仰ぎ待ちて今日に至る
	まで八十歳(やそとせ)を經たり。今は容姿(かたち)既に耆(お)いて更に恃む所無し。然れども己が志を顯(あ
	らわ)し白さんとて以ちて參い出でつるのみ」。ここに天皇、大きに驚らきて、「吾は既に先の事を忘れたり。
	然れども汝が志を守りて命(みことのり)を待ちて徒に盛りの年を過しつるは、是、甚(いと)愛(うつく)し悲し」。	
	心の裏(うち)には婚(あ)わんと欲えど、其の極めて老いて婚(あ)い成すを得ざるを悼(いた)みて御歌を賜い
	き。其の歌に曰く、
 
		美(み)母(も)呂(ろ)能(の)
 		伊(い)都(つ)加(か)斯(し)賀(が)母(も)登(と)
 		賀(が)斯(し)賀(が)母(も)登(と)
 		由(ゆ)由(ゆ)斯(し)伎(き)加(か)母(も)
 		加(か)志(し)波(は)良(ら)袁(を)登(と)賣(め)
 
		御諸の
 		厳白檮が下
 		白檮が下
 		忌々しきかも
 		白檮原乙女 
 
	また歌いて曰く、
 
		比(ひ)氣(け)多(た)能(の)
 		和(わ)加(か)久(く)流(る)須(す)婆(ば)良(ら)
 		和(わ)加(か)久(く)閇(へ)爾(に)
 		韋(い)泥(ね)弖(て)麻(ま)斯(し)母(も)能(の)
 		淤(お)伊(い)爾(に)祁(け)流(る)加(か)母(も)
 
		引田の
 		若栗栖原
 		若くへに
 		い寝てましもの
 		老いにけるかも 
 
	爾くして赤猪子(あかいこ)の泣く涙、悉く其の服(け)せる丹摺(にずり)の袖を濕(ぬら)しき。 其の大御歌
	(おおみうた)に答えて歌いて曰く、
 
		美(み)母(も)呂(ろ)爾(に)
 		都(つ)久(く)夜(や)多(た)麻(ま)加(か)岐(き)
 		都(つ)岐(き)阿(あ)麻(ま)斯(し)
 		多(た)爾(に)加(か)母(も)余(よ)良(ら)牟(む)
 		加(か)微(み)能(の)美(み)夜(や)比(ひ)登(と)
 
		御諸に
 		築くや玉垣
 		つき余し
 		誰にかも依らむ
 		~の宮人 
 
	また歌いて曰く、
 
 		久(く)佐(さ)加(か)延(え)能(の)
 		伊(い)理(り)延(え)能(の)波(は)知(ち)須(す)
 		波(は)那(な)婆(ば)知(ち)須(す)
		微(み)能(の)佐(さ)加(か)理(り)毘(び)登(と)
 		登(と)母(も)志(し)岐(き)呂(ろ)加(か)母(も)
 
		日下江の
 		入江の蓮
 		花蓮
 		身の盛り人
 		羨しきろかも 
 
	爾くして多(あま)たの祿(たまいもの)を其の老女(おうな)に給いて、以ちて返えし遣りき。 故、此の四つ
	の歌は志都歌(しつうた)也。
	天皇、吉野の宮に幸行(いでま)す時に吉野の川の濱(ほとり)に童女有り。其の形姿、美麗(うるわ)し。故、
	是の童女に婚(あ)いて、宮に還り坐しき。後に更にまた吉野に幸行(いでま)す時に、其の童女(おとめ)の其
	處(そこ)に遇えるを留めて大御呉床(おおみあぐら)を立てて、其の御呉床(みあぐら)に坐して御琴を彈きて
	其の孃子(おとめ)に(まい)を爲せしめき。爾くして其の孃子(おとめ)の好くいしに因りて、御歌を作りき。
	其の歌に曰く、
 
		阿(あ)具(ぐ)良(ら)韋(い)能(の)
 		加(か)微(み)能(の)美(み)弖(て)母(も)知(ち)
 		比(ひ)久(く)許(こ)登(と)爾(に)
 		麻(ま)比(ひ)須(す)流(る)袁(を)美(み)那(な)
 		登(と)許(こ)余(よ)爾(に)母(も)加(か)母(も)
 
		呉床居の
 		~の御手もち
 		弾く琴に
 		する女
 		常世にもがも 
 
	即ち阿岐豆野(あきづの)に幸して御(みかり)せし時に、天皇、御呉床(みあぐら)に坐しき。爾くして(あぶ)
	御腕(みただむき)を咋いしに即ち蜻蛉(あきづ)來て其の(あぶ)を咋いて飛びき【蜻蛉を訓みて阿(あ)岐
	(き)豆(づ)と云う】。 ここに御歌を作りき。 其の歌に曰く、
 
		美(み)延(え)斯(し)怒(の)能(の)
 		袁(を)牟(む)漏(ろ)賀(が)多(た)氣(け)爾(に)
 		志(し)斯(し)布(ふ)須(す)登(と)
 		多(た)禮(れ)曾(そ)
 		意(お)富(ほ)麻(ま)幣(へ)爾(に)麻(ま)袁(を)須(す)
 		夜(や)須(す)美(み)斯(し)志(し)
 		和(わ)賀(が)淤(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 		斯(し)志(し)麻(ま)都(つ)登(と)
 		阿(あ)具(ぐ)良(ら)爾(に)伊(い)麻(ま)志(し)
 		斯(し)漏(ろ)多(た)閇(へ)能(の)
 		蘇(そ)弖(て)岐(き)蘇(そ)那(な)布(ふ)
 		多(た)古(こ)牟(む)良(ら)爾(に)
 		阿(あ)牟(む)加(か)岐(き)都(つ)岐(き)
 		曾(そ)能(の)阿(あ)牟(む)袁(を)
 		阿(あ)岐(き)豆(づ)波(は)夜(や)具(ぐ)比(ひ)
 		加(か)久(く)能(の)碁(ご)登(と)
 		那(な)爾(に)於(お)波(は)牟(む)登(と)
 		蘇(そ)良(ら)美(み)都(つ)
 		夜(や)麻(ま)登(と)能(の)久(く)爾(に)袁(を)
 		阿(あ)岐(き)豆(づ)志(し)麻(ま)登(と)布(ふ)
 
		み吉野の
 		小室が岳に
 		猪鹿伏すと
 		誰そ
 		大前に奏す
		やすみしし
 		わが大君の
 		猪鹿待つと
 		呉床に坐し
 		白栲の
 		袖着そなふ
 		手腓に
 		掻き着き
 		其のを
 		蜻蛉早咋い
 		斯くの如
 		名に負はむと
 		そらみつ
 		倭の國を
 		蜻蛉島とふ
 
 
	故、其の時より其の野を號けて阿岐豆野(あきづの)と謂う。
	また一時、天皇、葛城の山の上に登り幸しき。爾くして大き猪出でき。即ち、天皇、鳴鏑(なりかぶら)を以ちて其
	の猪を射し時に、其の猪、怒りて宇多岐(うたき)依り來たり【宇(う)多(た)岐(き)の三字は音を以ちてす】。
	故、天皇、其の宇多岐(うたき)を畏(かしこ)みて、榛(はり)の上に登り坐しき。爾くして歌いて曰く、
 
		夜(や)須(す)美(み)斯(し)志(し)
 		和(わ)賀(が)意(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 		阿(あ)蘇(そ)婆(ば)志(し)斯(し)
 		志(し)斯(し)能(の)
 		夜(や)美(み)斯(し)志(し)能(の)
 		宇(う)多(た)岐(き)加(か)斯(し)古(こ)美(み)
 		和(わ)賀(が)爾(に)宜(げ)能(の)煩(ぼ)理(り)斯(し)
 		阿(あ)理(り)袁(を)能(の)
 		波(は)理(り)能(の)紀(き)能(の)延(え)陀(だ)
 
		やすみしし
 		我が大君の
 		遊ばしし
 		猪の
 		病み猪の
 		うたき畏み
 		我が逃げ登りし
 		在り丘の
 		榛の木の枝 
 
	また一時(あるとき)、天皇、葛城)の山に登り幸しし時に、百官(もものつかさ)の人等(ひとたち)、悉く紅き紐
	を著けたる青摺(あおずり)の衣を給いて服(き)たり。彼の時に、其の向える山の尾より山の上に登る人有り。既に
	天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、また其の裝束(よそおい)の状(かたち)、及び人衆(ひとかず)、相似て傾
	かず。 爾くして天皇、望みて問わしめて曰く、「茲(こ)の倭(やまと)の國に吾を除きて王(きみ)無きに、今、
	誰人(たれ)ぞ如此(かく)て行く」。即ち答えて曰う状(かたち)また天皇の命(みことのり)の如し。ここに天皇、
	大きに忿(いか)りて矢刺し、百官(もものつかさ)人等悉く矢刺(やざ)しき。爾くして其の人等もまた皆矢刺しき。
	故、天皇また問いて曰く、「然らば其の名を告(の)れ。爾くして各(おのおの)名を告(の)りて矢を彈(はな)た
	ん」。ここに答えて曰く「吾(あれ)先に問われつ。故に、吾、先(ま)ず名告(なのり)爲さん。吾は惡事(まがご
	と)と雖ども一言、善事(よごと)と雖ども一言、言(こと)離つ~、葛城の一言主(ひとことぬし)の大~ぞ」。
	天皇ここに惶(おそ)れ畏(かしこ)みて白さく、「恐(かしこ)し、我が大~。宇都志意美(うつしおみ)に有れば
	【宇より下の五字は音を以ちてす】覺らず」と白して、大御刀(おおみたち)及び弓矢を始めて百官(もものつかさ)
	の人等の服(け)せる衣服(ころも)を脱がしめて以ちて拜(おろが)み獻(たてまつ)りき。爾くして其の一言主の
	大~、手を打ちて其の捧物(ささげもの)を受けき。故、天皇の還り幸す時に、其の大~、山末(やますえ)に滿ちて
	長谷の山口(やまぐち)に送り奉りき。故、是の一言主の大~は彼の時に顯(あらわ)れたるぞ。
 
	また天皇、丸邇(わに)の佐都紀(さつき)の臣の女(むすめ)、袁杼比賣(をどひめ)に婚(あ)わんとして春日に
	幸行(いでま)しし時に、媛女(おとめ)、道に逢いき。 即ち幸行すを見て岡の邊に逃げ隱りき。故、御歌を作りき。
	其の歌に曰く、
 
		袁(を)登(と)賣(め)能(の)
 		伊(い)加(か)久(く)流(る)袁(を)加(か)袁(を)
 		加(か)那(な)須(す)岐(き)母(も)
 		伊(い)本(ほ)知(ち)母(も)賀(が)母(も)
 		須(す)岐(き)波(は)奴(ぬ)流(る)母(も)能(の)
 
		乙女の
 		い隠る岡を
 		金も
 		五百箇もがも
 		き撥ぬるもの 
 
	故、其の岡を號けて金(かなすき)の岡と謂う。
	また天皇、長谷の百枝槻(ももえつき)の下に坐して豐樂(とよのあかり)爲し時に、伊勢の國の三重の(うねめ)、
	大御盞(おおみさかづき)を指し擧げて以ちて獻(たてまつ)りき。爾くして其の百枝槻の葉落ちて大御盞(おおみさ
	かづき)に浮きき。其の、落葉の盞(さかづき)に浮けるを知らずて、猶、大御酒(おおみき)を獻(たてまつ)りき。
	天皇、其の浮ける盞(さかづき)の葉を看行(みそなわ)して、其のを打ち伏せ、刀を以ちて其の頚に刺し充(あ)て、
	將に斬らんとする時に、其の、天皇に白して曰く、「吾が身を殺すこと莫(なか)れ。 白すべき事有り」。
	即ち歌いて曰く、
 
		麻(ま)岐(き)牟(む)久(く)能(の)
 		比(ひ)志(し)呂(ろ)乃(の)美(み)夜(や)波(は)
 		阿(あ)佐(さ)比(ひ)能(の)
 		比(ひ)傳(で)流(る)美(み)夜(や)
 		由(ゆ)布(ふ)比(ひ)能(の)
 		比(ひ)賀(が)氣(け)流(る)美(み)夜(や)
 		多(た)氣(け)能(の)泥(ね)能(の)
 		泥(ね)陀(だ)流(る)美(み)夜(や)
 		許(こ)能(の)泥(ね)能(の)
 		泥(ね)婆(ば)布(ふ)美(み)夜(や)
 		夜(や)本(ほ)爾(に)余(よ)志(し)
 		伊(い)岐(き)豆(づ)岐(き)能(の)美(み)夜(や)
 		麻(ま)紀(き)佐(さ)久(く)
 		比(ひ)能(の)美(み)加(か)度(ど)
 		爾(に)比(ひ)那(な)閇(へ)夜(や)爾(に)
 		淤(お)斐(ひ)陀(だ)弖(て)流(る)
 		毛(も)毛(も)陀(だ)流(る)
 		都(つ)紀(き)賀(が)延(え)波(は)
 		本(ほ)都(つ)延(え)波(は)
 		阿(あ)米(め)袁(を)淤(お)幣(へ)理(り)
 		那(な)加(か)都(つ)延(え)波(は)
 		阿(あ)豆(づ)麻(ま)袁(を)淤(お)幣(へ)理(り)
 		志(し)豆(づ)延(え)波(は)
 		比(ひ)那(な)袁(を)於(お)幣(へ)理(り)
 		本(ほ)都(つ)延(え)能(の)
 		延(え)能(の)宇(う)良(ら)婆(ば)波(は)
 		那(な)加(か)都(つ)延(え)爾(に)
 		淤(お)知(ち)布(ふ)良(ら)婆(ば)閇(へ)
 		那(な)加(か)都(つ)延(え)能(の)
 		延(え)能(の)宇(う)良(ら)婆(ば)波(は)
 		斯(し)毛(も)都(つ)延(え)爾(に)
 		淤(お)知(ち)布(ふ)良(ら)婆(ば)閇(へ)
 		斯(し)豆(づ)延(え)能(の)
 		延(え)能(の)宇(う)良(ら)婆(ば)波(は)
 		阿(あ)理(り)岐(き)奴(ぬ)能(の)
 		美(み)幣(へ)能(の)古(こ)賀(が)
 		佐(さ)佐(さ)賀(が)世(せ)流(る)
 		美(み)豆(づ)多(た)麻(ま)宇(う)岐(き)爾(に)
 		宇(う)岐(き)志(し)阿(あ)夫(ぶ)良(ら)
 		淤(お)知(ち)那(な)豆(づ)佐(さ)比(ひ)
		美(み)那(な)
 		許(こ)袁(を)呂(ろ)許(こ)袁(を)呂(ろ)爾(に)
 		許(こ)斯(し)母(も)
 		阿(あ)夜(や)爾(に)加(か)志(し)古(こ)志(し)
 		多(た)加(か)比(ひ)加(か)流(る)
 		比(ひ)能(の)美(み)古(こ)
 		許(こ)登(と)能(の)
 		加(か)多(た)理(り)碁(ご)登(と)母(も)
 		許(こ)袁(を)婆(ば) 
 
		纏向の
 		日代の宮は
 		朝日の
 		日照る宮
 		夕日の
 		日光る宮
 		竹の根の
		根足る宮
 		木の根の
 		根延ふ宮
 		八百土よし
 		い杵築きの宮
 		真木栄く
 		檜の御門
 		新嘗屋に
 		生ひ立てる
 		百足る
 		槻が枝は
 		上つ枝は
 		天を覆へり
 		中つ枝は
 		東を覆へり
 		下づ枝は
 		鄙を覆へり
 		上つ枝の
 		枝の末葉は
 		中つ枝に
 		落ち触らばへ
 		中つ枝の
 		枝の末葉は
 		下つ枝に
 		落ち触らばへ
 		下づ枝の
 		枝の末葉は
		在り衣の
 		三重の子が
 		捧がせる
 		瑞玉盞に
 		浮きし脂
 		落ちなづさひ
 		水
 		こおろこおろに
 		是しも
 		あやに畏し
 		高光る
 		日の御子
 		事の
 		語り言も
 		是をば 
 
	故、此の歌を獻(たてまつ)りしかば、其の罪を赦しき。 爾くして大后、歌いき。 其の歌に曰く、
 
		夜(や)麻(ま)登(と)能(の)
 		許(こ)能(の)多(た)氣(け)知(ち)爾(に)
 		古(こ)陀(だ)加(か)流(る)
 		伊(い)知(ち)能(の)都(つ)加(か)佐(さ)
 		爾(に)比(ひ)那(な)閇(へ)夜(や)爾(に)
 		淤(お)斐(ひ)陀(だ)弖(て)流(る)
		波(は)毘(び)呂(ろ)
 		由(ゆ)都(つ)麻(ま)都(つ)婆(ば)岐(き)
 		曾(そ)賀(が)波(は)能(の)
 		比(ひ)呂(ろ)理(り)伊(い)麻(ま)志(し)
 		曾(そ)能(の)波(は)那(な)能(の)
 		弖(て)理(り)伊(い)麻(ま)須(す)
 		多(た)加(か)比(ひ)加(か)流(る)
 		比(ひ)能(の)美(み)古(こ)爾(に)
 		登(と)余(よ)美(み)岐(き)
 		多(た)弖(て)麻(ま)都(つ)良(ら)勢(せ)
 		許(こ)登(と)能(の)
 		加(か)多(た)理(り)碁(ご)登(と)母(も)
 		許(こ)袁(を)婆(ば)
 
		倭の
 		此の高市に
 		小高る
 		市の高処
 		新嘗屋に
 		生ひ立てる
 		葉広
 		斎つ真椿
 		其が葉の
 		広り坐し
 		其の花の
 		照り坐す
 		高光る
 		日の御子に
 		豊御酒
 		奉らせ
 		事の
 		語り言も
 		是をば 
 
	即ち、天皇、歌いて曰く、
 
		毛(も)毛(も)志(し)記(き)能(の)
 		淤(お)富(ほ)美(み)夜(や)比(ひ)登(と)波(は)
 		宇(う)豆(づ)良(ら)登(と)理(り)
 		比(ひ)禮(れ)登(と)理(り)加(か)氣(け)弖(て)
 		麻(ま)那(な)婆(ば)志(し)良(ら)
 		袁(を)由(ゆ)岐(き)阿(あ)閇(へ)
 		爾(に)波(は)須(す)受(ず)米(め)
 		宇(う)受(ず)須(す)麻(ま)理(り)韋(い)弖(て)
 		祁(け)布(ふ)母(も)加(か)母(も)
 		佐(さ)加(か)美(み)豆(づ)久(く)良(ら)斯(し)
 		多(た)加(か)比(ひ)加(か)流(る)
 		比(ひ)能(の)美(み)夜(や)比(ひ)登(と)
 		許(こ)登(と)能(の)
 		加(か)多(た)理(り)碁(ご)登(と)母(も)
 		許(こ)袁(を)婆(ば)
 
		百石城の
 		大宮人は
 		鶉鳥
 		領布取り懸けて
 		鶺鴒
 		尾行き合へ
 		庭雀
		群集り居て
 		今日もかも
 		酒水漬くらし
 		高光る
 		日の宮人
 		事の
 		語り言も
 		是をば 
 
	此の三つの歌は天語歌(あまがたりうた)也。故、此の豐樂(とよのあかり)に其の三重のを譽(ほ)めて多(あま
	た)の祿(たまいもの)を給いき。
	是の豐樂(とよのあかり)の日に、また春日の袁杼比賣(をどひめ)、大御酒(おおみき)を獻(たてまつ)る時に、
	天皇、歌いて曰く、
 
		美(み)那(な)曾(そ)曾(そ)久(く)
 		淤(お)美(み)能(の)袁(を)登(と)賣(め)
 		本(ほ)陀(だ)理(り)登(と)良(ら)須(す)母(も)
 		本(ほ)陀(だ)理(り)斗(と)理(り)
 		加(か)多(た)久(く)斗(と)良(ら)勢(せ)
 		斯(し)多(た)賀(が)多(た)久(く)
 		夜(や)賀(が)多(た)久(く)斗(と)良(ら)勢(せ)
 		本(ほ)陀(だ)理(り)斗(と)良(ら)須(す)古(こ)
 
		水潅ぐ
 		臣の乙女
 		秀樽取らすも
 		秀樽取り
 		堅く取らせ
 		確堅く
 		弥堅く取らせ
 		秀樽取らす子 
 
	此は宇岐歌(うきうた)也。爾くして袁杼比賣(をどひめ)、歌を獻(たてまつ)りき。 其の歌に曰く、
 
		夜(や)須(す)美(み)斯(し)志(し)
 		和(わ)賀(が)淤(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 		阿(あ)佐(さ)斗(と)爾(に)波(は)
 		伊(い)余(よ)理(り)陀(だ)多(た)志(し)
 		由(ゆ)布(ふ)斗(と)爾(に)波(は)
 		伊(い)余(よ)理(り)陀(だ)多(た)須(す)
 		和(わ)岐(き)豆(づ)岐(き)賀(が)斯(し)多(た)能(の)
 		伊(い)多(た)爾(に)母(も)賀(が)
 		阿(あ)世(せ)袁(を) 
 
		やすみしし
 		我が大君の
 		朝とには
 		い倚り立たし
 		夕とには
 		い倚り立たす
 		脇机が下の
 		板にもが
 		吾兄を
 
 	此は志都歌(しつうた)也。天皇の御年は壹佰貳拾肆歳(ももとせあまりはたとせあまりよとせ)【己巳(つちのと
	み)の年の八月の(はづき)九日に崩(かむざ)りき】。御陵(みささぎ)は河内の多治比(たぢひ)の高(たかわ
	し)に在り。






	雄略天皇の宮殿の堀か 奈良、脇本遺跡	西日本新聞 2012年9月24日 21:34 

	雄略天皇が5世紀後半に築いた宮殿「泊瀬朝倉宮」の所在地とされる奈良県桜井市の脇本遺跡で、宮殿の堀の護岸とみられる石ぶき
	遺構が見つかり、奈良県立橿原考古学研究所が24日、発表した。 
	 飛鳥時代(7世紀ごろ)より前の天皇が築いた宮殿の構造については、これまでほとんど実態が分かっていない。今回の発見は、
	古代王宮の姿を解き明かす貴重な手掛かりになりそうだ。 
	 護岸は過去の調査で宮殿の一部とみられる建物跡が確認された場所から南西約70メートルで見つかった。調査区外にも延びると
	みられ、長さは東西30メートル以上。20?30センチ大の石がふかれていた。 
	============ 

	5世紀の石積み遺構発見、雄略朝の「泊瀬朝倉宮」堀跡か 奈良 	日本経済新聞 2012/9/25 0:59 

	 雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや、5世紀)跡との説がある奈良県桜井市の脇本遺跡を調査中の同県立橿原考古学
	研究所は24日、5世紀後半の石積み遺構が見つかったと発表した。古墳の葺(ふ)き石の技法を採用、同時期の豪族居館の堀の護岸
	遺構と似ており、同研究所は「朝倉宮に関連する堀跡か、池のような施設の跡では」とみている。 
	 石積み遺構は直線状に延びており、長さ約30メートル分を見つけた。20?30センチの大きさの石を、1.1メートル前後の高さに積ん
	であった。下底部に水がたまっていた形跡は無く、空堀だった可能性があるという。出土した土器の年代から5世紀後半に構築され、
	6世紀後半には埋没したとみられる。 
	 この時期の豪族居館跡は、同県御所市の極楽寺ヒビキ遺跡などでも見つかっている。同研究所は今回の石積み遺構について「他の
	豪族居館と比べても遜色ない大規模なもの」としている。 
	 付近では5世紀後半の大型建物跡が見つかっており、朝倉宮の関連施設との説が出ている。 
	============ 

	奈良・脇本遺跡:古墳中期、堀状の遺構 雄略天皇宮跡か	毎日新聞 2012年09月25日 大阪朝刊 

	 奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)は24日、同県桜井市の脇本遺跡4件で、古墳時代中期(5世紀後半)に築かれた大規模な堀
	状の遺構(南北60メートル、東西30メートル)と、その南端に石積みの護岸を発見したと発表した。すぐ北東の台地では、雄略
	(ゆうりゃく)天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に関連するとみられる大型掘っ立て柱建物が見つかっており、専門家は
	遺構が宮の周濠(しゅうごう)や池だった可能性があるとしている。 
	 雄略天皇は古墳時代の5世紀後半に在位した21代目天皇で、ヤマト王権の勢力拡大を進めたとされる。脇本遺跡4件は、宮である
	泊瀬朝倉宮の推定地。 
	 今回見つかった遺構の底面は、南北の高さがほぼ水平で、水がたまった形跡はなかった。堆積(たいせき)物がたまらないように
	管理されていたか、そもそも水が無かったかは不明という。 
	 石積みは、約20?30センチ大の石がほぼ東西方向に約30メートルにわたって直線状に並び、底からの高さは約1・2メートル
	だった。出土した土器から、いずれも5世紀後半に造られ、6世紀後半の古墳時代後期にはなくなったとみられる。遺構や石積みは調
	査区域外に及ぶ可能性が高いという。 
	 京都教育大の和田萃(あつむ)名誉教授は「周囲を囲む大溝という印象。景観や防御の要素もあるのではないか」と話している。 
	 現地説明会は29日午前10時から午後3時まで。近鉄大阪線大和朝倉駅から北東に徒歩約15分で、駐車場はない。【矢追健介】 
	=============== 

	雄略帝宮殿 石の護岸出土  …奈良・桜井 (2012年9月25日 読売新聞・関西) 

	 奈良県桜井市の脇本遺跡で、堀か池の護岸とみられる古墳時代中期(5世紀後半)の石積み遺構が長さ約30メートルにわたって出
	土したと、県立橿原考古学研究所が24日発表した。一帯は雄略(ゆうりゃく)天皇の宮殿があったとされる地域で、同研究所は宮殿の
	関連施設だった可能性があるとみている。 
	 同研究所によると、遺構は東西にほぼ一直線に延び、現状で高さ約1メートルの斜面に20?30センチ大の石を積み上げていた。
	周辺の発掘結果から東西30メートル以上、南北60メートル以上の堀か池の一部と推定される。6世紀後半に埋もれてしまったらし
	い。 
	 これまでの調査では約50メートル北東で5世紀後半の大型建物跡が見つかっており、一帯は雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさ
	くらのみや)」があったと考えられている。飛鳥時代(7世紀)より前の天皇の宮殿はほとんど実態がわかっておらず、和田萃(あつむ)
	・京都教育大名誉教授(古代史)は「様々な機能を持つ大規模な空間が広がっていたことがうかがえ、当時の宮殿を考える重要な資料
	になる。堀などの防御施設の一部ではないか」と話している。 
	 現地説明会は29日午前10時?午後3時。近鉄大和朝倉駅の北東約0・5キロで、駐車場はない。問い合わせは同研究所(平日午
	前8時半?午後5時15分、0744・24・1101)。 
	============== 

「遺跡巡り」の[脇本遺跡・現地説明会(の前日)」ページへ行く。




邪馬台国大研究・ホームページ /歴史倶楽部/ 2012年初例会・初瀬宮から長谷寺へ