Music: 一月一日
歴史倶楽部・第173回例会


2012年初例会・朝倉宮から長谷寺へ 奈良県櫻井市 2012.1.29



	第173回例会 倭王「武」と名乗った雄略天皇の拠点へ
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	雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」を訪ねて初瀬街道を歩き、冬ボタンの長谷寺で新年を祈願する

	日 時 : 2012年1月29日(日曜)
	集 合 : 近鉄大阪線「大和朝倉駅」集合 AM10:00
	(大阪組) 08:35出発09:53到着時間:1時間18分 運賃:片道840円
    	JR大阪 08:35〜08:51 鶴橋 	JR大阪環状線外回り
	     	 08:55〜09:10 河内国分  近鉄大阪線急行・青山町行
	     	 09:12〜09:53 大和朝倉  近鉄大阪線準急・榛原行
	(奈良組) 09:04出発09:53到着時間:49分   運賃:片道470円
		JR奈良 09:04〜09:36 桜井    JR桜井線
         	 09:51〜09:53 大和朝倉  近鉄大阪線準急・榛原行
	持 参 : 弁当・水筒・替え着・雨具・その他 防寒具
	行 程 : 大和朝倉駅 → 脇本遺跡 → 春日神社 → 白山神社 → 十二柱神社 → 天龍津地紀子神社 →
		  長谷山口座神社 → 長谷寺 → 近鉄長谷寺駅 (時間あれば、興喜天満神社(眺めが良い)も訪問)
	概 要 ;  

	
	
	中国の『宋書』などに記される、讃・珍・済・興・武という五世紀の倭国王「倭の五王」。その一人・武は、日本国内の古墳から出土
	した刀剣に記された銘文により雄略天皇の可能性が高まっている。初瀬(泊瀬)界隈は雄略天皇の宮伝承地。東国に対する要衝地だっ
	た当地を訪ねれば、記紀に多彩なエピソードで描かれた、謎の大王の姿に触れられるかもしれない。
	








8人の侍、勢揃い。本日のオールキャストでございます。



桜井・朝倉から西は何度も歩いたが、東へ歩くのは初めてである。長谷寺も何度も行ったので、今回はMissingRoadを埋める旅ですな。



初瀬街道(伊勢街道)をゆく




後ろの連中は、途中にあった雑貨屋さんに飛び込んで何か買っていたのでしばらく遅れる。


	<初瀬街道>

	初瀬街道(はせかいどう)は奈良県桜井市の初瀬と三重県松阪市の六軒を結ぶ街道。現在の桜井市、宇陀市、名張市、伊賀市、津市、
	松阪市を通る。現在は国道165号が初瀬街道と呼ばれることがあるが、元の初瀬街道そのものが165号線ではない。古代からの道で壬申
	の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもある。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著
	書である菅笠日記に記されている。
	三輪と伊勢を結び、伊勢の神様は元々、三輪の大神神社の摂社である檜原神社に祀られていたとも伝えられる。檜原神社が元伊勢と呼
	ばれる所以である。
	初瀬(はせ)は、奈良県桜井市の地名。古くは「はつせ」と呼ばれ、雄略天皇(418年?-479年)が初瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)
	を置き、用明天皇の時代(585年 - 587年)に飛鳥へ遷都するまで都であった。近くに牡丹の名所として知られる長谷寺がある。初瀬
	と三重県松阪市の六軒を結ぶ道は初瀬街道と呼ばれ、鉄道が開通するまではお伊勢参りをする人たちで賑わった。伊勢街道とも呼ぶ。



初瀬街道の途上にあった祠をのぞき込む郭公さん。お地蔵さんが鎮座しているが、こんな格子の中からでは村人も救えまい。









右は「いせ」、左は「みわ」。初瀬街道は伊勢街道とも呼ばれる。





春日神社の本殿が見えている。



所々に歌碑があって、なにやら記号で識別してある。「ば」とあるがどんな順番なのだろう。






	朝倉小学校の校庭を横切って初瀬街道をゆく。この校庭からも「朝倉宮」のものと思われる遺構が出土している。

	これまでの調査によって、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の3時期にわたる掘立柱建物や柵の跡が見つかった。その後桜井市
	教育委員会による昭和56年(1981)の発掘で、春日神社を中心とした脇本遺跡から石積みの溝とその底から土器が出土した。その
	土器の調査によってこの遺跡は6世紀前半のものと判明した。

	昭和59年(1974)からは、朝倉小学校の西南方、国道165号線の北側の田んぼとなっている灯明田地区、およびその東側の苗田地
	区に発掘調査の範囲が拡大された。灯明田地区では、下層から5世紀後半の大型建物が、上層からは7世紀後半のやはり大型建物の
	遺構が検出された。さらに苗田地区の発掘でも、全域に5世紀後半の広場のような整地された層が見つかった。こうした発掘の結果、
	脇本遺跡の5世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物の可能性が非常に高いと見なされた。
	その後橿考研が、国道165号線の拡幅事業に伴う発掘調査を、2004年度の第10次調査から実施しており、現在も調査は続行
	されている。 











	歩いていると、途中に変な建造物があった。陸橋が崩れ落ちたような格好をしていて、何やら登り窯のような構造をしているのだ。
	みんなでさんざん考えたがわからないので、ちょうど外出から帰ってきた近所のオバサンに聞くと、「昔なんかここに焼却炉みたい
	な設備があったそうですから、その名残でしょうね。」との事。さっさと撤去すればいいのにとも思うが、なにやらようわからん構
	造物だった。



付近の案内が民家の壁に貼ってあって、それを読んでいるみなさん(下)。このあたりに鉄道が走ってたんだ。





出雲の「流れ地蔵」








お地蔵さんは半分地中に埋まっている。




	さらに歩いていると、路端の駐車場に止めてあるめちゃ古いクラシックカーに出会った。どうやら現役らしい。元日産の河内さん曰く、
	「こりゃすごいで!こりゃ値打ちもんやわ」。車内には2,3の計器類以外、何も付いていなかった。












出雲地区から初瀬川上流を見る。最近の鳥は柿の実なんか食べないのかしらん?









門前街の途中からヤマの方へ入った丘の上で昼食にした。上右はそこから見た「長谷寺駅」。近鉄は街の一番高い所を走っている。









商店街の中に「興喜(よき)天満神社」の御旅所があった。ここは神社ではない。神社の紹介所のような所。本来「お旅所」とは休憩所である。











街道筋に古い酒屋さんがあって、いかにも長谷寺門前町という雰囲気を出している。



白髭神社





	白髭神社(しらひげじんじゃ)は、奈良時代の749年(天平勝宝元年)10月15日に創建(鎮座)された神社だという。祭神は「猿田
	毘古命(猿田彦命、サルタヒコ)」と「天宇豆売命(天宇受賣命、天鈿女命、アメノウズメ)」。寺垣外、上之森、下之森、与喜
	浦の4区域の氏神となっており、縁結びや子宝の神として崇められている。伊勢とのつながり、渡来人との関係に言及している記事
	もある。








素戔雄神社






境内左手に、大きなイチョウが聳えている。樹高40mで県の天然記念物だという。








	<素戔雄神社>	祭神 : 素戔雄命、大倉比賣命

	社伝によると、天暦年間に與喜天満宮が創建される時、與喜山は天照大神が降臨した地と考え、その麓に、弟神である素盞嗚尊を
	祀ったのが創祀という。後、祇園信仰の高まりによって、宮寺も置かれ、牛頭天王を祀る寺として、「ごってらさん」と親しまれ
	た。明治41年に、與喜天満宮境内にあった鍋倉神社(式内社・堝倉神社)を合祀。「式内社・堝倉神社」はもと與喜山山頂に鎮
	座していたといわれる。




	だが、元々この素盞雄神社が「式内社・堝倉神社だった」という説も近年は有力らしく、明治になって当社が素盞雄神社となった
	時期に「大倉比賣命」を祀る鍋倉神社を與喜天満宮境内へ遷したのだという説もある。つまり現在では、與喜天満宮から戻ってき
	たということになるらしい。




	社殿の屋根には、祇園守の紋が付けられており、祇園守は牛頭天王を祀る八坂神社の護符を象った紋なので、当社の祇園信仰の名
	残と思われる。




	境内の右手には、境内社・秋葉神社がある。橋本さんと郭公さんが座っている後ろの祠がそれ。明治になって長谷寺から遷座し、
	境内社となった十二社に、明治41年合祀した鍋倉神社の末社・秋葉社を合祀したもの。ただし、『寺院神社大辞典』には、この
	祠が、與喜天満宮から遷座した鍋倉神社であるかのように記述されているそうだ。



静かで落ち着いた境内からは、長谷寺一山を目の前に見ることができる。














	連歌と能楽−日本文化の源郷−	與喜天満神社・公式HPより

	長谷寺から、與喜天満神社の境内にいたる途中、初瀬川に架かる朱塗りの橋があります。これが「連歌橋」で、当神社にて連歌をお
	こなう人々が渡ったので、その名が呼ばれるようになりました。鎌倉時代の末頃から当社では、「天神講連歌会」と呼ばれるほど連
	歌が盛んで、わが国の文学史に残るものでした。 連歌のバイブルともいわれる連歌撰集『竹林抄』(宗祇篇・文明8年<1476年>
	成立)にも、「初瀬にますは與喜の神垣」という句が所収されているほどです。 
	江戸時代に描かれた「與喜天満宮祭礼図」には、9月20日の大祭の日に、本殿の脇にあった連歌会所・菅明院にて法楽の連歌が興行
	されていた様子が描かれています。一『竹林抄』の作者の1人でもある連歌師・真能は、室町将軍に仕え、通称・能阿弥と称し、画
	家でもあり、また茶、花、香の諸芸の創始者でもありました。総合芸術家ともいうべき能阿弥はいわゆる「わび・さび」の文化を生
	んだ日本文化の父ともいうべき人であり、このような偉人が與喜天神を深く信仰し、慕って当地で亡くなったことは、文化の奇蹟と
	いうべきでしょう。 
	また中世芸術を代表する芸能・能楽も、また当社と深いかかわりがあったのです。能楽師の金春禅竹はその著書『明宿集』に、自分
	たちの祖先・秦河勝が初瀬川の河上から流れてきた壺の伝承を記し、また、與喜天満神社の神主が、昔、泊瀬與喜の宮のあいます大
	夫、神慮奇特の人なりしが、その歌に云「泊瀬山谷の埋もれ木朽ちずしてこん春にこそ花は咲きつげ」(『明宿集』より)と、神秘
	的な和歌を詠んだことが記されています。当社は能楽の発祥の1つの聖地と考えられているのです。一当社は古代から中世にいたる、
	文化の源郷なのです。その芸術を生む根源的ちからを、信仰の深さに内包して、長く現在にその精神と伝統を伝えているのです




	「源氏物語」と玉鬘のいわれ	與喜天満神社・公式HPより
 
	源氏の恋人の夕顔の遺児だった玉鬘は、筑紫の国で美しく成長していました。あることがあって、京へに上りました。その秋、霊験
	を頼んで長谷寺に参詣した時、偶然にも右近に再会したのです。実は右近も玉鬘に会いたいために、たびたび初瀬詣でをしていたの
	でありました。 二人は喜びを歌に託して詠み交わしました。

	 二本の杉の立ちどを尋めれば古川野辺に君をみましや(右近)
	 初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへ流れぬ(玉鬘)

	右近のうたった古川野辺は、連歌橋の架かっている付近の初瀬川をいいます。一江戸時代の国学者・本居宣長が当地を訪れたときに
	は、與喜山の西の山裾(現在の素盞雄神社の上)に玉鬘庵がありました。(『菅笠日記』より)一玉鬘は不幸な生い立ちから、やが
	て女性としての最大の幸福を得たのです。 玉鬘は縁結びと女性の幸福の神であるゆえんです。






長谷寺の門前町の中に「長谷寺温泉」があり、入浴だけでも出来るので、早速みんなで帰りに汗を流すことにした。







温泉の後はビールだ。長谷寺駅へ戻り、いつもの定宿、橿原神宮駅構内の「きはる」へ向かう。










	今回は私も初めてのルートなのでなかなか楽しかった。それにしても神社の由来はほんとにわからん。合祀や勧請を繰り返して、
	おまけに明治の神仏習合や廃仏毀釈令という馬鹿な政策が追い打ちをかけて、元々の姿がどうだったのかまるでわからないよう
	になってしまっている。神々の嘆きが聞こえるようである。
	雄略天皇の「朝倉の宮」については、記紀に記述があるし、時代的にも合致する遺構が発掘されているので、おそらくは、この
	辺りにホントにあったものだろうと思う。初瀬街道の行き着く先が伊勢神宮というのも、何か示唆的である。山辺の道周辺から
	飛鳥へと勢力を拡大していた初期大和朝廷は、この朝倉の地にも一時期大いなる古代都市を建設していたのだろうという気がす
	る。










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