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山の辺の道_part3 2008.5.5 近畿朝倉会・歴史ウォーク下見



	連休3日目。また山辺の道へやってきた。今日はどこを歩こうかと想いながら奈良から桜井線に乗った。京終(きょうばて)、帯解
	(おびとけ)、長柄(ながら)と過ぎたとき、車窓から沿線の森の端に「大和神社」の大きな立て看板が見えた。
	「そうだ、ここに行こう!」と次の柳本駅で下車して、来た道を鉄道に沿って歩き出した。長柄駅からだと10分ほどだが、柳本か
	ら歩いたので30分ほどかかってしまった。
	大和神社はいろんな本で知っていたし、書記に「倭大国魂神」として出現する、よく由緒の分からない奈良の神様で、一度機会があ
	れば行ってみようと思っていたのだった。




















	毎年4月1日に行われる「ちゃんちゃん祭り」は、春を告げる祭りとして近隣では有名である。大和の春は、大和神社のちゃんちゃん
	祭で始まるという。近郷の氏子らの行列が、大和神社から西南約1.5kmにある中山町のお旅所まで、神輿渡しを行う。中山町のお
	旅所は、中山大塚古墳の上に鎮まる大和神社の末社”御座所坐神社"である。中山の御旅所に着くと、神職を中心に神事がしめやかに
	執り行われる。祭りの行列は、神輿とともに稚児や僧侶が鉦鼓を「ちゃんちゃん」と打ち鳴らして往復することから、「ちゃんちゃん
	祭」の名が付いた。 



この「お休み処」というのは何か良くわからなかった。「御神幸」とあるから、ちゃんちゃん祭りの時の休憩所かな。






	参道経由で参拝した場合、最初にくぐる鳥居はこの「一の鳥居」である。一の鳥居をくぐり、西の方向に進むと「二の鳥居」が建って
	いる。二の鳥居の手前に「下馬」と書いた立て札が立てられているが、車で参拝にきた人でこの場所で下車する人はまず居らず、更に
	奥まで車で乗り入れている。






	大和神社 (おおやまとじんじゃ)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	所在	 奈良県天理市新泉町星山306
	主祭神	 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)
		 八千戈大神(やちほこのおおかみ)
		 御年大神 (みとしのおおかみ)
	
	社格等	 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社
	創建	 崇神天皇12年
	本殿の様式 春日造
	例祭	 4月1日(チャンチャン祭り)
	主な神事 御弓始祭 

	大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社である。式内社(名神大社)、十六社・二十二社の一社で、旧社格は
	官幣大社。旧称朝和之宮(あさわのみや)
	日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神、『社家説』『元要
	記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神、『元要記一説』では右殿を稲倉魂神としている。

	日本書紀によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに皇居内に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、
	両神の勢い畏れ、崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女・渟名城入姫を斎主として祀らせた。しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて
	祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年、倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、
	必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市を祭主として、神地
	が定められ鎮座・創建された。
	当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。
	一説には現在の長岳寺の位置であるという。
	朱鳥6年( 692年)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。寛平9年
	(897年)、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名
	神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。

	平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏
	の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。
	明治4年(1871年)、官幣大社に列せられた。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新
	たに社殿が造営された。
 



	丘陵の尾根の先端のように長々と連なって見えた緑の木立は、実は参道の両脇に並ぶ木々で、この神社の参道は驚くほど長い。一の
	鳥居はかっての上津道の脇に建っていて、拝殿前までは200mは歩かなければならない。

	大和神社は森(橘森と呼ばれている)に囲まれているが、この森には霊鶏が住んでおり、これを食べた人は長生きをするという言い
	伝えがあったようで、上古の天皇は異常な長寿であったとされているが、これはこの霊鶏を食したことによるという。
	また、第二次世界大戦で有名になった戦艦大和にはこの神社の分霊が祀られていたといわれ、時々艦長以下幕僚が参拝に訪れていた
	ともいう。












	遣唐使が唐の都・長安に向けて派遣されるときは、出発に際して航海の安全をこの神社に祈ったといわれている。また、第二次大戦
	中世界最大の不沈戦艦といわれた戦艦大和は、守護神として大和神社の分霊を艦内に祀っていたことはよく知られている。



東西に長々と連なる緑の木立の中に鎮座する大和神社の拝殿の前に出る。拝殿は由緒のある神社にふさわしく、かなり大きい。






	拝殿の奥に「本殿」が建っている。上の写真は「拝殿」を通して見た「本殿(正殿)」である。本殿は宮中三殿式といわれる特異な
	造りとされており、三つの社からなっているが、上の写真では中央の社が拝所の後ろにあり、見えない。下の写真では拝所の奥に、
	左右の社の屋根と中央の屋根が少し見える。中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。




	日本大国魂大神(おおやまとおおくにだまのおおかみ)は、大和神社の主神で三殿の中央の社に祀られている。この神は大和平野に
	鎮座する神々の主神であり、日本の大地主大神(おおことぬしのおおかみ)とされており、地上地下万物の生育発展、人間及び生物
	の生命を司っている偉大なる神格に坐しているという。
	八千戈大神(やちほこのおおかみ)は、健康増進、家門繁栄、国内平穏、民族和平を守り勝ち運を授ける神とされているようである。
	御歳大神(みとしのおおかみ)は、三殿の向かって左側の社に祀られている。五穀豊穣、殖産工業発展を司る神といわれている。




	大和神社は、大和一国の国御魂(くにみたま)を主神として祀る名神大社で、伊勢神宮と並ぶ最古の神社である。社伝によれば、崇神
	天皇の代、国内に疫病が蔓延したため、宮中に祀られていた天照(あまてらす)大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)神の神威を
	畏れて、二神を宮中の外に祀ることにした。崇神天皇6年、天照大神は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)によって笠縫邑で
	祭祀されることになった。一方、倭大国魂神は淳名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に託して祀ることになり、神地を穴師邑に
	さだめた。だが、淳名城入姫命は髪が落ち体がやせて、この神を祀ることができなかった。そこで、翌年市磯長尾市(いちしながおち)
	に命じて鎮め祀らせたという。長尾市は大倭直の祖で神武のとき大和の大国造であった珍彦(うずひこ)の子孫であり、その後は、大
	倭氏が長く奉斎してきた。

	以上が大和神社の創祀とされているが他にも諸説あるといわれる。何れにしても相当古い神社であることには変わりない。大和神社の
	由緒略誌と説明板で『日本』と『大和』が混同して使用されているが、これはかつて、大和は即日本であると言う認識があった名残で
	ある。当初、日本大国魂大神は現在の神社のある場所の東方の山麓に祀られていたらしいが、後に現在の地に移されたとされている。
	移された時期については平安時代から江戸時代元禄まで諸説があり、よくわからない。

	大和神社に対する朝廷の尊崇は厚く、嘉祥3年(850)には従二位の神階に叙され、貞観元年(859)正月には従一位に、さらに寛平9年
	(897)12月には正一位に昇った。 延喜式には「大和坐大国魂神社」と記され名神大社に列せられた。白河天皇の時代以来二十二社の
	中にあり、明治4年5月14日には官幣大社に列せられたという経歴を持つ。








	<摂社、高おおかみ神社>

	拝殿の南側の奥まった場所に摂社の「高おおかみ神社」がある。「高おおかみ神社」には水源の神様である水師大神が祀られている。
	水師大神は崇神天皇の代に穂積長柄岬(現在の新泉星山)に創祀されたという。神徳は天候、産業を司り水利を授けるとされ、祈雨、
	祈晴、暴風雨除けを祈る人は多く、例祭の6月1日には多くの参拝者が遠方から訪れるようである。社は江戸時代の建立とされ、古
	代の伊勢神宮と同じ建築様式が採用されているという。





上の写真は拝殿の横から見た本殿(正殿)である。本殿は宮中三殿式とされているが、この場所からは特異な造りは確認出来ない。






	<末社、祖霊社>
 
	拝殿の手前の広場北側のやや奥まった場所に末社の「祖霊社」がある。ここには国土の主と称えられている大国主命のほか、第二次
	世界大戦で戦艦大和と運命を共にした2717柱の英霊、それに沖縄決戦で戦没した巡洋艦矢矧(やはぎ)を中心とする第二水上特攻隊
	の3721柱の英霊が合祀され国家鎮護の神として祀られている。






	上の写真の神社名を刻んだ「石柱標識」は、国道169号線の道路沿いに建てられているもので、写真中央右寄り奥に見える木立が
	大和神社の境内である。この石柱は見た目に可成り新しく、最近建てられたものと思われる。車で参拝するときは、この場所から西
	側(写真では奥の方向)に真っ直ぐに進むことになる。



かなたに、二上山から大和三山を望むことができる。あぁ、飛鳥はあのあたりかと、山辺の道と飛鳥の距離を思う。





169号線を横切って山辺の道へ戻ると、竜王山系が目の前に。柿本人麻呂の妻もあのどこかに眠っているのか。






	<中山大塚古墳>	(なかやまおおつかこふん)天理市中山町461番地

	大和(おおやまと)古墳群に含まれる全長120mの前方後円墳。大和古墳群の盟主的な存在である西殿塚古墳(衾田古墳)の南西
	に位置し、出土埴輪から西殿塚古墳よりも古く箸墓古墳に並行する時期(古墳時代前期)に造られたと推定されている。墳丘上に、
	大和(おおやまと)神社の末社”御座所坐神社" が鎮座している。 




	中山大塚古墳は、奈良盆地東南部の上つ道と山辺の道に沿った、標高約90mの尾根上に立地する前方後円墳で、初期ヤマト王権の
	権力中枢の奥津城と目される大和古墳群に属する。古墳は、全長約130m、後円部径約67m、後円部高約11.3mを測り、前
	方部をほぼ南面させて築造されている。
	1985年の第1次調査と1993・94年の大和古墳調査委員会による第5次までの学術調査によって、後円部は2段築成、前方
	部は1段築成であることが判明し、葺石によって覆われていた。また、後円部北側では地山成形の扇形に開く張り出しが、西側では
	墳丘を取りまく地山削り取りの区画が確認されている。
	埋葬施設は、後円部頂に掘られた12.1X17.0mの墓壙内に長さ7.5m、北小口幅1.4m、南小口幅1.35m、現存高
	2.0mの竪穴式石槨を築き、割竹形木棺を安置していたものと考えられる。石槨上部は積石によって厚く被覆され、その間隙から
	は破砕された特殊器台破片が出土した。石槨内の副葬品は盗掘をうけていたが、斜縁浮彫式獣帯鏡破片2点、鉄槍1点、鉄刀・鉄剣
	の破片23点、鉄鏃13点が出土した。
	このように中山大塚古墳は、大和古墳群中の中規模前方後円墳であるが、定型化した前方後円墳では前期前葉に築造された最古のグ
	ループに数えられ、歴史的にも大和古墳群の重要な構成要素である。初期ヤマト王権の権力構造を解明する上でも欠くことのできな
	い古墳であるといえる。







前方部から後円部を望む。




	毎年4月1日に行われる「ちゃんちゃん祭り」の行列は、大和神社からここ中山町のお旅所まで、神輿渡しを行う。ここは大和神社
	の末社「御座所坐神社」でもある。ここに着くと、神職を中心に神事がしめやかに執り行われる。祭りの行列は、神輿とともに稚児
	や僧侶が鉦鼓を「ちゃんちゃん」と打ち鳴らして往復することから、「ちゃんちゃん祭」の名が付いた。 





中山大塚古墳の前方部の端から見た竜王山の山並み。






	「山の辺の道」は、途中で穏やかな田園地帯を抜けて行く。その田圃の中に、竜王山を背景にして万葉歌碑が建っている。犬養孝氏
	の筆による、柿本人麻呂の短歌を刻んだ碑である。

	衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山径(やまじ)を往けば 生けりとも無し (巻2-212)

	衾道とはこの辺りの地名、引手の山とは竜王山のことで、柿本人麻呂が亡くなった妻を竜王山の山中に埋葬した帰り道で、己の気持
	ちを読んだ歌である。亡くした妻の生前の姿を思い出すたびに、こらえようと思っても新たな涙があふれ出て、深い悲しみに押しひ
	しがれた心情がにじみ出ている歌である。この歌碑がある場所から北を望むと、こんもりと樹木の茂った丘が行く手を塞いでいる。
	それが中山大塚古墳である。「山の辺の道」は古墳の裾を巡るように坂道となって続いている。





中山大塚古墳から10分ほどで長岳寺へくる。ここはツツジの名所である。今日もまさしく満開にぶちあたった。









数年前ここでイヌイさんを写したなぁ。「愛してる」と言ったら「奥さんと別れてから言って。」と返された。









長岳寺と崇神天皇陵間も5,6分である。



奈良では田んぼが多いからか、よく「タゲリ」を見る。近づくとすぐ飛び立ち、なかなか近くでは姿を見せてくれない。



崇神天皇陵(上)を横目に歩き、その向かいにある天神山古墳(下)のイザナギ神社に寄って帰った。



まだ夕方まで間があるのに、石灯籠には灯がともっていた。祀りでもあるんだろうか。





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