Music: 朝倉高校校歌

山の辺の道・大全

2008.5.18 近畿朝倉会・歴史ウォーク & 2008.4.13 山の辺の道下見会 & 2008.5.3/5 連休・山の辺の道散歩



	福岡県の私の母校「朝倉高校」の、近畿圏における同窓会「近畿朝倉会」の皆さんを案内して「山の辺の道」を歩くことになった。
	昔はずいぶん歩いたけれども、最近はご無沙汰しているので、一月前にコースの下見にも行った。下見には同期の岡崎君夫妻と、
	同窓会監査役の芳野さんが同行してくれた。
	本番は5月の18日だったのだけれども、今年は5月の連休が暦通りで、WIFEも仕事が入ってどこにも行けず一人だったので、連
	休にもまた一人で「山の辺の道」歩いてみた。しかしその時は、予定しているコースではない処ばかりを歩いたので、全然下見に
	はなっていない。
	本番時には、歴史倶楽部の高野さんも参加してくれて総勢15名で歩いたのだが、なんと福岡から八尋さん夫妻も参加してくれて、
	和気相合、楽しい散策になった。ここに掲示した写真は、それらの全ての散策の写真が混在している。「大全」とネーミングした
	理由はそれである。私が単独で歩いた時の分は別HPにしてあるが、再度歩かれる方の参考になればと思う。
	写真をご提供いただいた、羽野会長、岡崎君、八尋(816)さん、ありがとうございました。

	また、ここでの解説は、当日皆さんにお配りした資料をそのまま転載してある。「古代史・大和王朝発祥の地」を復習して頂く手
	助けになれば幸いである。更に最後に、同じコースを今度は大学(西南学院大学)の関西同窓会の有志で歩いた時の模様も掲げて
	ある。「山辺の道、これでもか!」と言った感じで、まさしく「大全」と呼べるかもしれない。






近畿朝倉会 第二回古代史勉強会 −山野辺の道を歩く 櫻井から柳本へ−


											幹事:21回 井上筑前

	日時 : 平成20年5月18日(日曜日) 9:30分近鉄「桜井駅北口」集合(JR桜井駅に隣接しています)
	持参する物 : 弁当・お茶・雨具・替上下着・その他
	コース: 近鉄桜井駅 − 仏教伝来碑− 金屋の集落 − 海石榴市 −     
	海石榴市観音堂 − 金屋石仏 − 崇神天皇磯城端籬宮跡 − 平等寺 − 大神神社−狭井川− 玄賓庵(げんぴあん)
	 −	檜原(ひばら)神社 − 箸墓古墳 − 景行天皇陵 − 崇神天皇陵 − 黒塚古墳 − 天理市立黒塚古墳資料館
	 − JR柳本駅 (16:00頃解散予定) (途中、適当な場所で昼食をとります。)

	参加費: 無料 : 桜井駅までの交通費は各自ご負担願います。)

	「山辺の道」は、関西のハイキング、ウォ−キングの代表的な散策路として有名です。季節を問わず、老若男女のハイカー達で賑
	わいます。奈良盆地の東側を、桜井・天理・奈良とつながり、三輪・巻向・竜王の山々を間近に望み、金剛・葛城・二上・生駒連
	山等々を遠望しながら、古来より佇む社寺・史跡・古墳等々を尋ねながら歩く、約26kmの散歩道です。急坂はなく、平坦な田
	舎道を四季折々の風光を愛でながら辿ります。山辺の道は、正式には北部(奈良〜天理:10km)と南部(天理〜桜井:16km)
	とに分かれますが、いわゆる「山辺道」として一般に親しまれているのはもっぱら南部のほうです。それも、神奈備(かんなび:
	神の宿る所:神体山)の大神神社(おおみわじんじゃ:三輪神社)から天理へ向けてスタートする北上コースと、逆に天理を起点
	に、石上(いそのかみ)神宮から三輪山をめざす南下コースとがあります。今回は北上コースを途中まで歩きたいと思います。




	コース: 

	◎ JR・近鉄桜井駅(出発10;:00) 20分1.5q  → ◎ 仏像伝来之地碑 15分0.9q → ◎ 金屋の石仏  5分0.3q	→ 
	◎ 平等寺  3分0.4q  → ◎ 大神神社 20分1.2q  → ◎ 玄賓庵  5分0.3q  → ◎ 檜原神社(昼食)45分2.5q	→ 
	◎ 景行天皇陵 15分1.0q  → ◎ 崇神天皇陵 10分0.6q → 黒塚古墳(資料館) 10分0.5km → ◎JR「柳本駅」
	(16:00解散)



桜井駅にて、本日のコース説明。





下見の時の、岡崎君夫妻と芳野さん。岡崎君の奥さんは歴史にも興味があるらしい。










	<山の辺の道>

	1.史実に現れる我が国最古の道。・・・日本書紀・崇神紀「山の辺の道の陵に葬った」
	  ・崇神天皇の時代には既にあった。この道が完成したのは古墳時代
	2.奈良盆地の東側に連なる山々の「山の裾」に位置するゆえ「山の辺」の道という。
	  ・古代、日常生活の経済活動で往来しているうちに必然的に道が出来ていった。
	  ・現在の大和平野いわゆる奈良盆地は、大昔、大きな湖で、人が通行できた湖岸通りの道・山裾の道」が「山の辺の道」だった。
	  ・現在の山の辺の道は、直線でなく蛇行しているが歴史街道として修正されたため。湖面が時代と共に下がっていくにしたが
	   って上つ道、中つ道、下つ道が出来たので本来の「山の辺の道」は山裾の狭き道として残った。
	3.歴史に名を刻んだ「初瀬川」は「大和川」と呼称変更されている。






桜井駅から1kmの大和川(初瀬川)にて、古代の川の運行について説明している。



福岡の同期の淵上君から、この写真を見て「完全なメタボやな。」とmailが来た。





	<仏教伝来之碑>

	1.欽明天皇13年、百済の聖明王が達率(だちそら)、致契(ちけい)らの使者を遣わして、釈迦仏像、衣笠、経論などを天皇
	  に献上した。(仏教が初めて日本に伝来)
	  ・	欽明天皇13年は西暦552年だが、538年説が有力。
	2.記紀には、物資の流通、商業行為の拠点として、都の周辺に「海石榴市(つばいち/つばきいち)」とよばれる市場が作られ
	  たと記述。万葉集にもしばしば登場。
	3.海石榴市は、現在の奈良県桜井市の金屋周辺と推定されている。
	4.三輪山麓で、東西南北からの街道が交差し、大和川を物資を積んだ船が上り下りしていた。
	5.市が立ち、大陸からの賓客を迎える都への玄関口であったと推定。
	6.欽明天皇の宮がこのあたりにあったと推定されることから、仏像と経論を携えた百済聖明王の使者が上陸の第一歩をこの地に
	  しるしたとされる。






海石榴市観音堂





	<海石榴市観音堂>

	1.二体の石仏が安置。右側が十一面観音立像、左側が聖観音菩薩立像で、二体合わせて海石榴市観音という。
	2.平安時代に、京都から長谷観音詣でへの通り道であったので、観音を祭るお堂が建てられたと伝わる。
	3.「海柘榴市」は、古代から栄えた交易市。大陸の使節も大和川(初瀬川)の舟運を利用して、この地まで遡ったという。
	4.在の大和川は舟が行き来するような水深ではないが、当時は水深もあり船の往来も多く古代のマーケットだった。
	5.「海石榴」、「海柘榴」、「海榴」と書いて、つばきと呼ばせている。
	6.榴・柘榴はほんとはざくろである。なぜつばきと呼ぶのかには諸説。
	7.その昔、日本特産のツバキが中国に渡ったとき、中国のザクロに似た花と実をつけたので「海を渡ってきたザクロ(海柘
	  榴)」の漢名があてられ、そのまま日本に漢字として帰ってきたという説もある。





海石榴市(つばいち)観音堂にて小休止




	【海石榴市】(つばいち)

	古代大和朝廷の都は、多くが桜井市周辺に存在しており、当時の物流は水運中心だったと考えられる。桜井は山辺の道をはじめ
	とするいくつかの古道が交わっているが、難波津(なにわのつ:現在の大阪市北のあたり?)から大和川を逆行してきた船は海
	石榴市を終着地とし、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港としても重要な役割を果たしていた。遣隋使小野妹
	子は斐世清(はいせいせい)と共に、難波津から大和川を遡り、海石榴市に上陸した (608年)。 海石榴市には水路として、
	大和川以外にも運河が掘られ、船による物資搬入が盛んだった。物資は船着き場から倉庫へ運び込まれ、海石榴市の中には許可
	を得た業者が店を出していた。商品は公定価格を持ち、計量に用いる升や天秤は検定を受けた。また取引方法などについても細
	かい規則があった。公式の市以外での商品の取引は禁止されていたので、あらゆるものが海石榴市で取引されたものと思われる。
	商業拠点として栄えた海石榴市は、多くの人が集まる場としての機能ももっていた。その一つに歌垣(うたがき)がある。男女
	の出会いの場として機能し、互いに歌を詠みあった男女が交際したり、歌舞飲食し、性的な解放の場ともなったようである。
	歌垣は東国では「かがい」とも言われるが、ここでは一夜妻も許されていた。

	「紫は灰さす物そ海柘榴市の八十のちまたに逢える児やたれ」 万葉集123101      

	海柘榴市は古代の市場として大いに栄えたが、いまは金屋の集落の片隅に立つ道標と、海石榴市観音というお堂にその面影を偲
	ぶばかりである。桜井市では、金屋(かなや)の河川敷公園で毎年、「大和さくらい万葉まつり」というイベントを開催して、
	かっての海柘榴市の隆盛を復活させようとしている。金屋河川敷公園に地元の店がこの日は露天を出して、地域の特産品などを
	販売し、当時の海石榴市のようすや、や遣隋使が帰ってきた様子などを市民の手で再現して、桜井市の豊かな自然と歴史を味わ
	ってもらおうとしている。





クリックして貰えば大画面になります。



金谷石仏





	<金屋の石仏>

	1.お堂の中に石仏(重文)二体がある。高さ2.2m板石に立像が浮き彫りにしてある。
	2.釈迦如来(右)と弥勒菩薩(左)の像。平安時代後期から鎌倉時代の作と伝承。
	3.かって発掘調査された際、縄文・弥生時代の土器・石器に混じって、製鉄に関するものが出土したことから、金屋の地名も
	  そこから来ていると推測される。
	4.一体は石棺の蓋に彫られたものと説明にある。その石棺の身は床下に横たわる。
	  ・もとは三輪山中腹に安置されていたが、明治初年の神仏分離によりこのあたりに移された。重要文化財。





石仏堂の下に安置してある、「石棺の身」と思われる石像物。この先にももう一体ある。




崇神天皇磯城端籬宮址





	<崇神天皇磯城端籬宮跡(しきみずがきのみやあと)>

	1.第10代崇神天皇の宮殿があった所とされている。
	2.初代神武天皇から欠史八代の、9代開化天皇までは実在した天皇ではない、というのが戦後歴史学界の定説だが、近年これを
	  疑問視する見方も有力。
	3.崇神天皇が大和朝廷の初代ではないかという説は結構有力。(日本最初の首都?)
	4.看板の横を進んでいくとすぐ志貴(磯城)県坐(主)神社がある。
	5.磯城県主神社はこの地の有力な豪族であった磯城県主(しきのあがたぬし)の氏神であろうと推定されている。
	6.この地は湿潤地で、高地が隆起していたので磯城島(しきしま)と呼び、やがて大和朝廷の勢力がのびると日本を意味し、日
	  本の枕詞になったといわれる。






平等寺







	【平等寺】

	1.聖徳太子が建立したと伝えられ、石像が境内にある。
	2.廃仏毅釈の際に全廃されたが、堂・鐘楼などが復興され後平等寺と改称された。
	3.大神神社の神宮寺。



平等寺、聖徳太子像の前で










三輪神社






三輪神社の前で記念撮影




	【大神神社(おおみわじんじゃ)】 

	1.祭神は大物主神(おおものぬしのみこと)。配祀として大己貴神と少彦名神(すくなひこなかみ)を祀る
	2.本殿はなく、神体は神社の東の方向にある「三輪山」そのもの。
	  ・三輪山は神奈備として太古の昔から崇められてきた。
	  ・神代の昔、大己貴神(おおなむちのみこと)が自らの魂を三輪山に鎮め、大物主神の名で祀られたのが大神神社の創始で
	   あるという。
	  ・大物主神は国造りの神様として、また、酒造、医薬、方除など生活全般の守護神とされているが、大己貴神(大国主命)
	   と大物主神とはそもそも別個の神格であり、これが一つになった所に三輪王朝と出雲との関係を窺わせる。
	3.大神神社は大和一の宮、大和で最古の神社であり、日本最古の神社の一つ。
	4.拝殿からご神体である三輪山を拝するという原始形態の神祀りの様式。
	5.拝殿は徳川四代将軍家綱の造営で重要文化財。
	6.大己貴神と少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っており、いくつかの伝説や説話が、大物主神という一つの神に統合され
	  たものか。
	7.大神神社の拝殿前に、樹齢600年と言われる二股の老杉「巳の神杉」が玉垣に囲まれている。杉を神が宿る霊木とし、蛇
	  を神の使いとする三輪流神道の信仰。
	8.三輪山そのものは標	高467m。山中に巨大な岩が露出していて、これらの岩は神が降臨してくる神聖な場所として崇め
	  られ「磐座(いわくら)」と呼ばれている。







三輪神社拝殿前












狭井神社








狭井神社。三輪山へは社務所で登山料を払って、ここから昇る(上右)。



	
	ここの神様は「大神荒魂神」である。大物主神の別神格の神様らしい。つまり、大物主神には「和魂」と「荒魂」という二つの面がある
	のだ。そもそも神の発生や由来などは分からないことだらけだが、ここもその一つである。日本書紀には、大物主神が夢の中でこの「荒
	魂神」に出会うシーンがあるので、神社も二つ無いとまずいという事で造られたような気がしないでもない。






狭井川




狭井川。日本書紀に記述のある川にしては狭いですね。だから狭井川?
	【狭井川】

	1.神武天皇の后の一人である伊須気余理比売(いすきよりひめ)の実家がほとりにあったとされる。
	2.神武天皇が度々ここを訪れたと古事記に記載されている。

	  「葦原の しげしき小屋に菅畳 いやさか敷きて わが二人寝し」。

	3.狭井川のほとりの「神武天皇狭井河上顕彰碑」は、昭和15年、皇紀2600年を記念して立てられた。驚くほどデカい。






玄賓庵(げんぴあん)




玄賓庵(げんぴあん)を目指して歩く。これは下見時の風景。本番時には花は枯れていた。




	【玄賓庵(げんぴんあん)】

	1.平安時代の初期、玄賓僧都(げんぴんぞうず)が隠遁した庵と伝えられる。
	2.もとは三輪山の松原谷にあって山岳仏教の寺として栄えたが、その後荒廃し、寛文7年(1667)に比久宴光が再興した。
	3.明治の神仏分離で現在地に移った。






檜原神社




桧原神社にて、ここで昼食を取る。



「記紀に登場する檜原神社の候補地はここだけでなく、初瀬その他にもあります。ここは三輪説による檜原神社です。」




	「大神神社の摂社、桧原神社は天照大御神を御祀りし、御神体は三輪山麓なる桧原の地に鎮まります。第十代崇神天皇の御代、
	はじめて皇祖天照大御神を宮中から御遷しになってお祀りし、皇女豊鍬入姫命が捧持せられた「倭の笠縫邑」また「磯城神籬」
	は、この社地である。古来、社頭の規模など大神本社に準じ、禁足地と三ツ鳥居を有している。 」







	【檜原(ひばら)神社】

	1.大神神社の摂社の一つで、三輪山の中にある磐座をご神体にしている。
	2.大神神社同様に本殿はなく、拝殿もない。
	3.大神神社では拝殿の奥にあって見えなかった三輪特有の「三つ鳥居」が見え、ここではその奥に磐座も見える。三つ鳥居は
	  拝殿と禁足地とを区切る地点、即ち拝殿の奥正面に建っている。かっては大物主命、大己貴命、少彦名命それぞれの祭祀の
	  庭が3ケ所に分かれていたのを、1カ所に纏めた際に、三個の鳥居を一体に組合わせた形式の鳥居が出来上がったと言われ、
	  この三輪にしか見られない非常に珍しいものである。
	4.豊鍬入姫命笠縫邑(とよすきいりひめのみことかさぬいのむら)」の石碑。
	5.神武天皇の頃、天照大神を祀った倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)の伝承。
	  ・当初天照大神は大物主命と共に祭られていたが天災が多く発生したので、分離して天照大神をこの地に祭ったと言われて
	   いる。その後各地を転々として最後は伊勢に祭られるようになったので、ここは「元伊勢」と呼ばれる。




















箸墓古墳











	【箸墓古墳】 倭迹迹日百襲姫尊命(やまとととひももそひめのみこと)陵大市墓(箸大墓)

	1.櫻井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳。全長282m。
	2.出現期古墳の中でも最古級と考えられており、3世紀中葉すぎの前方後円墳。
	3.現在、宮内庁が第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として
	  管理する。倭迹迹日百襲姫命は、日本書紀では、崇神天皇の祖父孝元天皇(第八代)の姉妹である。大物主命の妻。
	  ・『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)。孝霊天皇の娘。
	4.この古墳を、「卑弥呼」の墓とする邪馬台国畿内説がある。従来、構築年代が三世紀末から四世紀初頭であり、卑弥呼が死亡
	  したする三世紀前半との時期にずれがあるため、卑弥呼の墓である可能性は少ないとされていた。
	5.大市は古墳のある地名。




	三輪山の麓、「纒向遺跡」の南端の桜井市大字箸中に所在する前方後円墳。全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部
	幅125m、高さ13mを測る。後円部周辺の東南部地一帯は6世紀代の旧巻向川の氾濫によって大きく削り取られていたが、茸石
	を伴った渡り堤、周濠、外堤状の高まりなどが確認されている。周囲にも周濠がめぐらされていたと推測されるが、現存しているの
	は北側の溜池だけで、これは後世拡張されている。東側・南側は埋め立てられているが、西側は不明である。前方部の周辺では過去
	に5回の発掘調査が行われており、茸石や周濠状の落ち込み、盛り土による堤、古墳築造時の土取り跡などが確認され、出土土器の
	検討により前方部が布留0(ゼロ)式期(4世紀初め)の築造であるとされる。




	この古墳は、北側の溜池拡張や東側の国鉄桜井線や県道工事、または民家築造によって相当変形され、平面的にはやや均整を失なっ
	ているが、大きさでは全国で11番目、奈良県下では3番目の規模を持つ。前方部が撥(ばち)形に開く墳形を持ち、一般の円筒埴輪
	が見られず、吉備地方に源を発する特殊器台形埴輪・特殊壺形土器を持つなど、古式古墳の特徴を持っている。しかしながら、これ
	までに墳丘から採集した円筒埴輪片などわずかな遺物が公表されているのみで、実態はあまり明らかになっていない。桜井市教育委
	員会では隣接する土地を部分的に調査している。また、周囲には陪塚があたかも主墳を護衛するように並んでいたと推測されている
	が、いま残存し面影をとどめているものは数基である。今年3月に最古の前方後円墳と注目を集めたホケノ山古墳はここから東約
	200mに位置している。



箸墓(近畿説に言う卑弥呼の墓?)にて

	第七代孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲姫が御諸山(三輪山)の神である大物主神の妻となったとする、有名な神婚伝承を伝え
	る。崇神天皇の祖父孝元天皇の妹、倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻となった、だがこの神は夜にばかり通ってきて姿を見せないの
	で姫はまだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さいと願った、神は「明朝お前の櫛箱の
	中に入っていようと答えた。姫は朝のくるのを待って櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだすと神は人の姿に戻り
	「よくも私に恥ずかしい思いをさせてくれた」といって三輪山に帰ってしまった、姫はたいへん後悔しそのはずみに箸で陰処(ほと)
	を突いて死んでしまった。そこで人々はその墓を箸の墓と呼んだ。
	この古墳墓は「令義解」に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」と書かれていて、当時、既に大規模な古墳だったことが窺える。記
	紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(大神神社の祭神)の妻とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめの




	日本書紀には「昼は人が造り、夜は神が造った」との記述も残る。崇神天皇十年の条に、倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、
	この墓を箸墓(はしのみはか)とよんだ。ところがこの墓は昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの
	人が大坂山から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだという。この大坂山とは現在二上山麓の香芝市逢坂(旧下田村)と考え
	られている。この記述は、果たして記録としてどの程度の信頼性があるかは疑問だが,古墳築造の様子が記述されているまれなケー
	スとしても注目される。またこの古墳は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓であると言う、いわゆる邪馬台国近畿説でも有名である。





	畿内大和説で、卑弥呼の墓が具体的に提示されているのはここ箸墓古墳だけである。しかし従来、その年代の違いから考古学的には
	否定する見方が強かった。箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。卑弥呼が死んだのは3世紀前半(248年)
	であるから」、50年から100年のズレがあったわけである。ところが近年、平成7年2月に奈良県立橿原考古学研究所が箸墓古
	墳の築造を3世紀後半と発表し、また平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向石塚古墳」の築造を3世紀初頭と発表し
	たことで、がぜん、邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠として、新聞紙上を賑わせたのである。畿内説は、3世紀には日本は九州
	から畿内の広い範囲で既に統一され、初期大和政権の首都纒向遺跡の支配は西日本各地に及んでいた、と主張した。橿原考古学研究
	所附属博物館の館長(当時)河上邦彦氏は、「前方後円墳は3世紀の大和古墳群(箸中古墳群、柳本古墳群を含む)で発生する。
	「径百余歩=約145m」もある「卑弥呼の墓」は、発生期の前方後円墳に相違ないから、邪馬台国はやはりここにあったのだろう。」
	という。



箸墓濠の前の広場にて



	魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の記事が、「大作冢、徑百餘歩、[犬旬]葬者奴婢百餘人。」(大いに冢を作る、径は百余歩、旬葬す
	る者は奴婢百余人。)と書かれている。「歩」を約1.4mとすれば、百歩は約140mになる。つまり卑弥呼の墓は、直径約140m
	の塚という事になる。箸墓は、後円部の直径が156m、高さ30m、前方部が長さ126m、前方部の前端で幅132m、高さ16m
	である。箸墓の主体部である後円部の直径156mは110歩となり、つまり、卑弥呼の墓の塚の直径百余歩と一致するわけである。
	ところが、この古墳は前方後円墳である。卑弥呼の墓は明らかに円墳だろうと考えられるので、前方後円墳では具合が悪い、前出の
	河上氏は、「箸墓はもともと円墳かも知れない。後円部と前方部は、微妙に築造の様式が違うので、前方部は後から継ぎ足した可能
	性もある。」などと、幾つかの講演会で述べていた。




	そしてもう一つ、出土した土器のなかに、「布留0式」と言われる様式の土器が含まれている。布留0式期が西暦で何年頃にあたる
	のかは当面確定しようもないが、おおかたの意見では3世紀後半から4世紀にかけて使われたという意見が強い。これを無理矢理3
	世紀前半にも使われていたという人もいるが、これこそ我田引水である。つまり、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすると、3世紀前半に
	死んだ卑弥呼と供に、4世紀の土器が埋葬されているという事になるのである。箸墓は現在、宮内庁による「陵墓参考地」としての
	指定を受けており、詳細な発掘調査は不可能であるが、いつの日か詳細な調査が実施された時には、これらの疑問も明らかになるの
	ではないかと思う。更なる疑問がわき起こる可能性もあるが。




	箸墓古墳をめぐる邪馬台国近畿説とその反論については、前項で記述したのでこれ以上繰り返さないが、思うに奈良やこの桜井に生
	まれ育った人々にとっては、邪馬台国近畿説というのは、もう殆ど信仰に近いのだろうと思う。私も九州福岡の産で、安本美典教授
	の「邪馬台国=甘木・朝倉説」のそのままの地、甘木市に生まれ育ったので、この説には心情的に否定したくないものがあった。
	しかしここ数年、各地の古墳や遺跡を巡って、必ずしも甘木朝倉でなくてもかまわないではないか、という気になっている。ではあ
	るが、極力心情的なものを排して、出来るだけLogicalに考えてみても、やはり邪馬台国は北九州のどこかであろうと思う。そして
	前項で述べたように、その国は、押し寄せた、騎馬を伴った「渡来民族」に征服され、彼らが近畿圏に覇を唱え、最終的には奈良に
	大和朝廷の礎を築いたと思う。それはここ纒向だったかもしれないし、現在の堺を含む大阪平野だったかも知れないが、最終的には
	橿原に地に居を構えたのであろう。












景行天皇陵








第11代垂仁天皇の宮殿があったとの伝承が残る「巻向珠城宮址」。景行天皇陵のすぐ側である。







	<景行天皇陵(渋谷向山古墳)(しぶたにむこうやまこふん)>

	1.全国7番目の規模をもつ、4世紀の末頃に築かれたと推定される大型の前方後円墳。
	2.倭建命(日本武尊)の父といわれる第12代景行天皇陵(山辺道上陵)。
	3.「柳本古墳群」の中でも最大の古墳で全長が300m。
	4.この天皇は実在しなかったという説もある。日本武尊(倭健命)は次男。
	5.日本書紀・・・「御陵は山野辺の道の上にある。」

	この古墳は、前方部分を盆地の方に向けた全長300mの前方後円墳であり、その大きさは他の古墳を圧倒している。後円部分
	の直径160m、前方部の幅170mと前方部分にやや大きく広がった形をしている。低い周濠が廻りを巡っており、処々に古
	墳へわたる土手が築いてある。









景行陵のすぐ側に生えていたサクランボ(上左)とじゃがいもの花(上右)







崇神天皇陵









	<崇神天皇陵(行燈山古墳)(あんどんやまこふん)>

	1.前期古墳を代表する(4世紀の末頃)前方後円墳で全長約240m。
	2.国の古墳でも15番目に大きな規模をもつ。
	3.実在した最初の天皇とも、大和朝廷の祖とも言われる第十代崇神天皇の陵。
	4.日本書紀・・・「御陵は勾(まがり)の岡の上にある。」

	記紀に記されている初国(はつくに)知らしし御真木天皇(みまきすめらみこと)という言葉から、(実在した)最初の天皇だろう
	とされるのだが、ほんとの所はよくわからない。実は、すぐ隣の第12代景行(けいぎょう)天皇陵が地元では崇神天皇陵とされて
	いた、という説もある。江戸時代までは、現在の景行陵は王之塚とよばれ、ここが渋谷村であったことから渋谷向山古墳とも呼ばれ
	ているが、崇神陵は行燈山(あんどんやま)とよばれて、古くから王之塚が崇神陵だと伝承されてきた、と言うのだ。 そもそも、
	古墳時代の天皇陵については、天皇の名と被葬者とが明らかに一致しているのは、京都山科の天智天皇陵、明日香の天武・持統天皇
	陵、古市の応神天皇陵くらいなのである。
	応神陵については異論もある。こと程さ様に、古代天皇陵についてはあいまいなものなのだ。では掘って確かめればいいではないか、
	とは誰しも考える。しかし宮内庁は現在でも、天皇陵の発掘に関してはこれを一切許可していない。この古墳は三輪王朝の最盛期に
	築かれたと考えられるが、一体葬られているのは何者なのか?
	崇神陵の真後ろ、池の左側に「双方中円墳」という珍しい櫛山古墳がある。



景行陵の上から見た陪塚(ばいちょう:上下)。景行天皇の臣下の墓ではないかと推測されている。いずれも前方後円墳である。










黒塚古墳・資料館












終点、柳本駅にて全員で記念撮影。皆様お疲れ様でした。







	上の写真は、この後6月1日に母校朝倉高校で行われた「100周年記念同窓会総会”もやい100年”」に参加して、再会した岡崎君と
	816さん。ん、この二人は以前に会うたことがあるんかいな。もしかしたら初対面では?

			


	下は、その日行われたイベントの、秋月藩伝統の大筒の実演技。










以下は、解説文・資料はここでのものと全く同一です。あしからず。




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