Music: おぼろ月夜








	五月の連休にwife、セガレと帰省した。3日早朝大阪を発って、九州へ入るとそのまま阿蘇へ来て、大観望から雄大なカル
	デラ街を眺めた。その後久住山周辺をドライブし、九重高原の北方でキャンプをした。実に20年ぶりくらいのキャンプだ。
	子供が小さい頃にはよくあちこち行ったが、最近とんとアウトドアからは遠ざかっている。
	4日朝、散歩をしていると俳優の榎木孝明の美術館があったが、もちろん早朝で閉まっていた。付近には幾つもキャンプ場
	があって結構混んでいた。






	連休中なのにあまり人も多くなく、野鳥も鳴いて爽やかな高原のキャンプ地だった。娘が仕事で来れなかったのは残念だっ
	たが、20代後半になっても親に付いてくるセガレというのは喜ぶべきか悲しむべきか。まぁ、ただで行ける九州旅行とで
	も思っているんだろう。
	明日は天気が悪いと聞いていたので、朝は早めに出発した。案の定10時頃には降り出して、「何でこんなに早く出て行く
	ん?」という顔をして我々の出発を見送っていた他のテントの連中は、あわてたことだろうな。雨の中でテントをたたむ作
	業ほどつらいもんはない。



久住のキャンプ場から阿蘇・大観望方面へ戻り、そこから更に西へ1時間ほどで中津江村である。ここに鯛生金山がある。







	<鯛生(たいお)金山>

	鯛生金山の発見・開発には諸説あるが、明治27年発見、31年開発着手とする以下のSTORYが一般的なようだ。

	明治27年、この地を通りかかった八女郡星野村の干魚の行商人が川を渡っているとき白い小石を拾い、星野金山の金鉱石
	とよく似ていたので、このことを星野村に伝え、それを聞いた鹿児島県の山師が調査に乗り出し、良質の金鉱脈であること
	がわかった。
	一方、鯛生の素封家田島勝太郎が熊本中学に在学中、夏季休暇の宿題に採集した鉱石を提出したところ、専門家の鑑定によ
	って良質の金鉱石であることが証明された。田島は帰省して父儀市に話したところ、儀市は当時金山を経営していた鹿児島
	県の事業家と共同で金山経営に乗り出したという話もある。
	ともかく、こうして発見された鯛生金山は、地元の田島儀一氏と鹿児島の南郷氏によって、明治31年から小規模ながら本
	格的な採掘がはじめられた。
	大正7年、新たに鉱業権を得たイギリス人、ハンス・ハンターの手により「鯛生金山株式会社」(Taio Gold Mines CO.LTD)
	が、当時の金額100万円の資本金にて発足し、当時としては類を見ない近代的な設備が導入され、大掛かりな採掘が開始
	された。金の産出量は年を追うごとに増えていき、大正9年にはわが国屈指の鉱山へ成長。大正13年には年間産出量1ト
	ンを超えるという飛躍的な伸びを見せ、金山周辺には事務所、病院、小学校、配給所、倶楽部、山神社などの鉱山町が形成
	された。
	大正14年から、鯛生金山をハンターより引き継いだ木村鐐之助に、所長として迎えられた薬師五郎氏が大規模な探鉱を行
	い、ついに金の大富有鉱脈を発見した。その後も新鉱脈の発見は相次ぎ、それに伴ない産出量も増加していき、昭和9年の
	生産高は金2,000kg、銀1万1,000kgにものぼり、日本一を記録した。一躍山峡の村は金山街と化し、ゴール
	ドラッシュにわいた。昭和8〜9年には、坑道の総延長は110kmに及んでいる。



雨の鯛生金山(跡)








	金山と言えば新潟県の「佐渡」が有名だが、うかつなことに私はここの存在をこの日まで全く知らなかった。明治31年の
	採掘から昭和47年の閉山までの80年間で、なんと金約40t、銀約160tを産出し、佐渡の金山を抜き東東洋一の黄
	金郷だったのである。私のふるさと朝倉から、車で1時間ほどの所にこんな場所があったとは。ここで金とそれを巡る様々
	な人間ドラマが繰り広げられたのだ。現在のひなびた山村風情からは想像もつかない。

	鯛生金山も今は閉山しているが、「道の駅鯛生金山」として復活しており、周辺は鯛生家族旅行村となっている。キャンプ
	場やテニスコート、スポーツセンターミニ遊園地、一村一品館、レストランなどがあり一日中楽しめる。また、平成14年
	のワールドカップの時はカメルーンチームのキャンプ地となり、一躍有名になった村である。周囲は大規模な開発がされて
	おらず、自然が残っている緑いっぱいの村である。
	「道の駅鯛生金山」は国道442号沿いにあり、地底博物館の見学や、砂金採り・草木染め・わさび・こんにゃくの加工・
	鯛生焼などの体験が出来る。販売所の奧には、鉱山から出た化石を基にした恐竜コーナーがあった。 
	(ここでの写真・記事は、道の駅、資料館にあったパンフその他から転載した。多謝。)








	春は鮮やかな新緑、秋は華やかな紅葉に彩られる。坑道入口に立つと、夏は涼しく、冬温かい坑道の空気がふわっと体を包
	む。見学コースは約1km。マグシーバー(携帯用説明機)により、金山をより詳しく知ることもできる。

	昭和13年には2.3トンと国内第一位を記録した。昭和8年から13年頃までの全盛時代には、従業員数約3千人を数え、
	九州はもちろん全国から従業員が集まった。村内には映画館や飲食店が建ち並び、九州の一山村はまれに見る活況を呈した
	のである。この間鉱業権はハンターから木村鐐之助、久原鉱業梶A再び木村鐐之助と移り、木村は鯛生産業(株)と改称し
	たが、昭和16年ラサ工業に合併させた。その間、鹿児島の大口鉱山、布計鉱山、福岡の星野金山なども買収し、木村家の
	保有する金山会社は、東洋一の産金会社として名を馳せた。鉱石は変朽安山岩中に胚胎する含金銀石英脈。主要鉱脈は4条、
	三号四号に富鉱部が多く、大正元年から昭和18年までの産金量は31トンを超えた。








	しかし木村家の金山経営に対する意欲の減退、大東亜戦争の勃発とともに金産出量は下降線をたどり、昭和18年金山整備
	令で保坑鉱山となり、翌年鉱業権は帝国鉱業開発(株)に移った。昭和19年から20年にかけては戦争の激化に伴い、排
	水ポンプやレールなどがつぎつぎと撤収され、実質的な閉山状態で終戦を迎えた。
	戦後、昭和22年再開準備に入り、31年、新鉱業株式会社と住友金属鉱山株式会社との共同出資により鯛生産業(株)を
	設立、ついで33年鯛生鉱業(株)として新たに操業体制がとられ、再出発した。昭和35年には近代的な青化精錬所が建
	設され、一時は鴻之舞、串木野につぐ金山にと期待されたが、その後の探鉱で有望な鉱脈を発見することが出来ず、金価格
	の長期的据置き、コストの急増、鉱石品位の低下によって、昭和45年に休山、47年6月には閉山に追い込まれた。




	その後は中津江村が、「村づくり」の核として坑道や製錬所などの金山跡地を昭和55年から観光施設に整備し、観光客を
	集めている。金山の坑道が地底博物館となっており、入口から約800mほどが見学できる。坑道の中には当時の様子をリ
	アルに再現したジオラマが立ち並ぶ。中津江村は2002年の「2002 FIFAワールドカップ」で、当時優勝の有力
	候補だったカメルーン代表選手のキャンプ場として注目を浴びた。今も選手等の記念品や資料が道の駅内に展示されている。
	平成15年、「地底博物館鯛生金山開館20周年」を迎えた。 





	純金製の鯛を2匹、金箔で光り輝く側面で取り囲んだ黄金の洞窟。雌(70cm)雄(80cm)合わせて50kg、純金の黄金
	鯛。金運や縁結びの「願かけ鯛」としてブロンズの鯛2匹も設置されている。水槽のなかの金箔をすくって願かけ鯛に貼り付
	けると縁結び、商売繁盛の願いがかなうという。

	何故ここに鯛が? なぜ山中の鉱山なのに「鯛」という字が用いられているのか。それについては、次のような伝承がある。

	今から800年ほど昔、このあたりの豪族田島氏と肥後の菊池氏とに縁談がまとまった。そこで菊池家は婿になにかめぼし
	いものを送ろうとみやげに持ってきたものが、オス・メス二匹の鯛だった。ところが、その二匹の鯛はこの地に着いたとた
	んに躍り上がり、石の上に向き合ってしっかりくっついてしまった。それからその石は、「鯛が生まれ変わった石」として、
	「鯛生石」と言われるようになり、この辺りを鯛生(たいお)というようになったという。その言い伝えにより、鉱山内には
	金の鯛が作られているのだ。 





昔は女性も手子として大いに働いていた。






	その頃の採鉱は手掘りで、数本のノミと金槌で鉱脈に穴を穿ち、火薬を装填して爆破し、ツルハシで掘り起こしていた。鉱
	石をテゴという手伝いの若者に、シキダツという背負篭に背負わせて選鉱場に運んでいた。

	深い坑内には、切り梯子という丸太に段々を刻みつけた一本の梯子で上り下りする。選鉱場では選鉱夫が鉱石を選別し、金
	の含有量の多寡(たか)を選り分けて小さく打ち砕き、鉱石運搬用のダツという朝顔型の高さ一メートル余りの篭で水車場
	に運ぶ。






	鉱山といえば狭く窮屈なイメージだが、中に入ってみると地底に広がる大空間が見られる。地下500m(海抜0m)まで
	掘り進んでおり、往時はエレベータで行き来していた。 

















	外国人経営時代   クラブ中央白い服が、H・ハンター氏

	このイギリス人経営は、大正7年から14年までの7年間であった。その間、イギリス人はもとより、フランス人、ロシア人、
	中国人も技師や労働者として入り込み、言語、風俗習慣、住居や飲食物も国際色豊かであったという。この期間の金産出量は
	3トンであった。

	<鯛生鉱毒騒動>
	大正8年8月31日の中津江村民大会で、鯛生鉱毒反対の住民が決起した。川辺尋常小学校に、上津江村及び熊本県小国地
	区も含んだ住民約300人が集まり、代表委員によって会社側との補償交渉が決議された。大正10年3月28日、日田郡
	長出事(いでつかう)氏立会いの下、鉱山会社社長H・ハンター氏と中津江村長及び、村民団体代表の間に、補償に関する
	覚書を取り交わした。しかしその後も鉱毒問題は続き、一応の決着を見たのは昭和3年6月30日のことである。 





	道の駅鯛生金山のイチオシは『砂金採り体験』かもしれない。一攫千金を夢見て大人から子どもまで、だれもが夢中になって
	しまう。皿に入れた砂を水に浸して揺り動かし、上澄みの砂を流すことを根気よく繰り返して金を探す。時間内にたくさん見
	つけて、ビンに入れたりキーホルダーやペンダントなどに加工したり、記念品として持ち帰りも自由。生野銀山にもあったな。






	鯛生金山は、福岡県八女郡矢部村の東、竹原峠を越えた大分県日田郡中津江村から矢部村の八知山に広がっていた。矢部側の
	坑口は、長い間閉鎖され、雑草の生い茂った檪林の中に「垂楊萬々条」と書かれた坑口跡が、わずかに当時の面影を偲ばせて
	いたが、最近ようやく整備され、坑内では冷涼な温・湿度と清冽な水を利用して「えのきだけ」の栽培が行われている。





実家の弟へ土産に買った、金粉入り麦焼酎「鯛生金山」。5合で1800円!めちゃ高い。









	金の延べ板の偽造工場を摘発、ブローカーの男ら6人逮捕	2007年06月05日00時52分

	 金の延べ板を偽造し、多額の現金をだまし取ったとして、大阪府警は4日までに、東京都の貴金属ブローカーの男ら計6人
	を詐欺や同幇助(ほうじょ)の疑いで逮捕、延べ板の偽造拠点とみられる都内の宝石加工会社を家宅捜索した。偽造された延
	べ板は、金と比重が同じタングステンを純金で覆い、通常の鑑定で見破りにくい精巧なつくり。昨年末以降、大阪府内などで
	十数件の被害が相次いでいた。府警は偽造組織の全容解明を進める。


	金の延べ板の偽造品。
	表面(右)は純金で覆われていたが、中身(左)はタングステンだった=大阪府警で

	詐欺容疑で逮捕されたのは、貴金属ブローカーの牧茂男(56)=東京都荒川区町屋1丁目▽貴金属販売業佐々木ツル(66
	=大阪市北区長柄東1丁目=ら4容疑者。 
	同幇助容疑で逮捕されたのは、宝石加工会社代表のチョウ・ビョンヨプ(54)=東京都台東区三筋1丁目=ら韓国人の2容
	疑者。6人とも容疑を大筋で認めているという。 
	捜査2課の調べでは、牧容疑者ら4人は1月上旬、「SWISS BANK CORPORATION」と刻印した金の延べ
	板(1キロ)の偽造品を大阪府内で質入れし、現金約200万円をだまし取るなどした疑い。チョウ容疑者ら2人は延べ板を
	偽造し、幇助した疑い。 
	府警の分解検査などによると、表面を覆う純金は約130グラムに過ぎず、タングステンが約870グラムを占めた。実際は
	30万円程度の価値という。 
	牧容疑者がチョウ容疑者に偽造品の製作を依頼。延べ板を大阪まで新幹線で運び、佐々木容疑者ら3人に渡して質店に預け入
	れさせたという。 
	偽造された延べ板の表面には、ロットナンバーや純金を示す「999.9(フォーナイン)」の表示もあった。本物と極めて
	近く、エックス線鑑定機でも「金」と判定されたという。 







	鯛生金山を見て矢部村を過ぎ、黒木のグリーンピアで行われている、洋画家の青沼茜雲先生の個展会場に寄った。先生と昼食
	をともにし、ふるさとの朝倉へ向かう。上は霧に包まれたグリーンピアの前でポーズするセガレ。







	上は3月に実家周辺(朝倉市)に降ったという「雹」(ひょう)。母が冷蔵庫に保存していたもの。直径2,3cmはある。
	野菜やビニールにボコボコ穴が開いたという。さもありなん。

	下は実家の庭から見た、我が家の雑木林山。朝からの雨がやっと上がっていく。子供時代はあの山の中は我々の遊園地だった。




邪馬台国大研究 /遺跡巡り/鯛生金山