今回の例会は、大阪狭山市の「狭山池」をめぐり、その側に立つ「大阪府立狭山池博物館」の見学である。大阪府立の歴史博物 館としては、和泉市の「弥生文化博物館」と藤井寺の「近つ飛鳥博物館」と3館あるが、ここの博物館は他の2館とはちょっと 趣が異なる。それは、ここには「狭山池」の資料しかないのである。古代の大規模ダム式灌漑施設である「狭山池」が、いかに して造られたかを見せている博物館なのだ。 狭山池は、大阪府大阪狭山市の中心部に位置し、南海高野線「大阪狭山市駅」から西へ徒歩約10分である。7世紀前半(616 年か?)に築造されたとされ、『古事記』『日本書紀』にもその名が記されている。各時代で幾度となく改修が重ねられ、近年 のダム工事(平成の大改修)でダム化するとともに、池の周囲は公園として整備された。また、以前の狭山池の保存と公開を目 的として、大阪府立狭山池博物館が池の北側に2001年に開館した。
私は、2001年の4月8(日)に、「郷土の文化財を見学する会」の例会で、開館直後の博物館と、古代の大規模ダム式灌漑 施設「狭山池」、およびその支流である西除川の灌漑用樋を見学した。勿論、古代の施設は全く残っていない。川は全てコンク リートで固められ、樋は金属のハンドルによる樋板で構築されているが、かってここを古代人が築いたのだと思って見ると、先 人達の生きる為の必死の努力と苦労が伝わって来た。ここでの解説は、そのとき書いた内容を殆どそのまま転載してある。私が 訪れた2001年4月8日は、ダムは「平成の大修理」の真っ最中で、ダンプカーがしきりに行き来していたが、今はきれいに なっている。
狭山池は、現大阪狭山市の中央北寄りにあり、東の羽曳野丘陵と西の狭山丘陵との間に位置し、池尻、半田、岩室にまたがる。 北流する西除川(にしよけがわ)と、その西側を北流する三津川(みつがわ)を堰き止めて造った人工池で、周囲約4キロ、満 水面積38.9ヘクタール、灌漑面積約570ヘクタール。北西岸から西除川が流出し、北東岸からは当池を水源とする東除川 (ひがしよけがわ)が流出する。葛城山系の天野山を源流とする西除川(にしよけがわ:上流は天野川とも呼ばれる。)は、狭 山池を形成した後、南河内平野を北流して大和川左岸に注ぐ。
河内平野の東一帯は、生駒の麓を北流する石川および大和川とその支流によって潤っているが、西側一帯は、この狭山池出現前 は全くの荒野であったと想像される。この狭山池とそこから流れ出る東除川・西除川によって、ようやくこの地方は灌漑された のである。1400年の時を経ても今だにこの水は、この辺り一帯の稲作・畑作に貢献している。その優れた景観は古くから知られ、 大阪府の史跡・名勝に指定されており、現在はハイキングなどで賑わっている。
1952年(昭和27年)から狭山池ではボートレースが開催(狭山競走場)されていたが、1955年(昭和30年)閉鎖さ れ、翌年住之江競艇場に移る。池の側にはかって「さやま遊園」もあって家族連れで賑わっていたが、USJなどのテーマパー クの進出で、平成13年4月1日閉鎖された。
この池の築造については、以下の文献に見えるような由来・経緯・伝承を持っているが、はっきりした事は不明である。狭山池 は、「古事記」「日本書紀」にも登場する我が国最古の潅漑用の溜池(ダム)で、日本書紀、古事記には以下のような記事があ る。 『日本書紀』崇神 天皇紀62年7月2日の条 六十二年秋七月乙卯朔丙辰,詔曰,農天下之大本也,民所恃以生也,今河内埴田水少,是以,其国百姓怠於農事,其多開池溝, 以寛民業,冬十月,造依網池,十一月,苅坂池,反折池,一云,天皇居桑間宮,造之三池也 「農は天下の大本なり。・・今、河内の狭山の植田水少なし。是を以て其の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて 民業を寛かにせよ・・」 『古事記』垂仁天皇記の段 次,印色入日子命者,作血沼池,又狭山池 「印色入日子命(垂仁天皇の皇子)、血沼池又狭山池を作る」
『枕草子』にも狭山池についての記述がある。しかし考古学的な見地から、ほぼ6世紀末から7世紀にかけて築造されたもので はないかとされている。昭和63年から行われた、「平成の大改修」と呼ばれる大規模な改修工事に伴う発掘調査により、7世 紀前半に築造された日本最古のダム式溜池であることが確認された。堤の最古の盛土から出た木材の年輪をしらべた結果,AD 616年を示していたのである。即、築造年とは見なせないが、その後数年乃至数十年のうちに用いられたものと思われる。 風を避けるため東屋の中で昼食を取り、ガソリンで暖を取って博物館へ。
狭山池は、築造以来1400年間にわたり何度も改修工事が行われ,その記録が周辺民家の古文書に残されている。その中には、 地震で池の堤防が壊れたという記述も見え、大阪府の調査で、池の底から8mを上回る厚さの堆積物が確認された。 堆積物の下半部は細粒砂と粘土・シルトの互層で所々粗粒砂層を挟んでいる。上半部には礫混じりの粗粒砂からなる厚い砂層が あり,その上を粘土・シルト層が覆っており、これは明らかに、狭山池に残る地震の痕跡であると認められ、古記録が事実であ ったことが証明された。
狭山池は古くから、行基や重源(ちょうげん.1120〜1206.86歳) といった有名な僧の手で改修が行われ,江戸時代の初期には 豊臣秀頼(1593〜1616) の命を受けた片桐且元(かたぎりかつもと1556〜1615 )が大規模な改修工事を行うなどの記録も残されて おり,現在までこれらの改修を経ながら、南河内の拠点的用水源として使われてきた。 土手や設備は最新のものに修復されているが、水路そのものは古代から全く同じ所を流れている。多くの農地に水の恵みを与え 続けてきたのである。これらの狭山池改修の歴史は、とりもなおさず、日本の土地開発の歴史と大きく関係している。
昭和16年に大阪府の史跡名勝第1号に指定されている狭山池は、古来から風光明媚な池として人々に親しまれてきた。平安時 代には清少納言が『枕草子』で興味深い池のひとつに数えている。また、江戸時代には狭山八景が選ばれるなど、数多くの詩人 や歌人によってうたわれてきており、かつて狭山池の北堤に咲き誇っていた桜は「狭山の春霞」といわれるほど雄大で美しく、 人々が競って花見に訪れていた。狭山池のダム化工事にともなう埋蔵文化財の発掘調査では、古墳時代から江戸時代までの多く の遺跡がみつかった。その結果、狭山池は約1,400年前につくられた日本最古のダム形式のため池であることが判明したのである。
池の中の片隅に小さな祠がある。「狭山池神社」である。何故こんな池の中に? そのうち上野の不忍池のように川鵜の糞で汚 れてしまうことだろうな。 河内国の南部はもともと水源に乏しく、農作物を育てるための水の確保に苦労していたが、飛鳥時代に当時の大和朝廷により、 灌漑目的で狭山にて川の流れを堰き止め、下流地域に用水路を作り、平均的に水を確保できるようにされた。宝永元年(1704) の大和川の付け替えまで、現在の大阪市域まで(80か村、約5万5千石)をも灌漑していた。中国や朝鮮から伝わった敷葉工 法(しきはこうほう/葉のついた枝を土留めに使う工法)が用いられていた。
狭山池ダムは、大和川水系西除川、東除川の治水対策の一環として、狭山池の池底を平均約3m掘り下げ、堤体を約1.1m嵩 上げし建設したもので、平成の改修で既設農業用水容量180万m3に治水容量100万m3が加えられた。
狭山池(大阪府文化財調査研究センターの資料による。) 【古代・中世】 「日本書紀」崇神天皇62年7月2日の条に、天皇が「農は天下の大本なり。(中略)今、河内の狭山の植田水少なし。是を以て其 の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ」と詔したとあり、「古事記」垂仁天皇の段には、垂仁 の皇子「印色入日子命」が血沼(ちぬ)池などとともに狭山池を造ったとある。伝説ではあるが、ここに見える狭山池が上記の 狭山池にあたるものであろう。 実際の築造年代は記紀の伝えより古く、池の内側の斜面に少なくとも5ケ所の須恵器の窯跡が発見されている事から、その窯の 廃絶したのち、すなわち6世紀末ないし7世紀初頭ではないかと言われている。(大阪府史) 「続日本記」天平4年(732)12月17日の条に、「築河内国丹比郡狭山下池」との記述が見える。「行基年譜」には同3年の項に、 「狭山池院 2月9日起 尼院 己上在河内国丹比郡狭山里」とあり、また同書所収の「天平十三年記」は行基の築いた池15ケ所 の中に「狭山池」をあげる。おそらく行基は狭山池の畔に狭山院と尼院を建て、そこに集まる信者の力で狭山池を修理し、さら に狭山下池を築き、水利の便の増大を図ったのであろう。この時造られた下池は、大阪狭山市の太満池(たいまいけ)又は堺市 野田にあった轟池(とどろきいけ)かと言われる。 「続日本記」天平宝字6年(762)4月8日の条に、狭山池の堤が決壊したので延べ83,000人の人夫を使って修造したとある。下って 鎌倉時代には僧重源が狭山池を修理し、石樋を六段に置いたことが「南無阿弥陀仏作善集」にみえる。この時の樋と思われるも のが大正14年(1925)の大修理の際に発見されたが、石樋には家型石棺の身や蓋で造られたものがあり、いま北の堤の裾に置か れている。なおこの石棺は富田林市のお亀石古墳付近にあったものらしい。(狭山町史) 永禄年間(1558−70)には、畠山氏の被官安見氏が修復を試みたが成功しなかったという。 【近世】 慶長13年(1608)、豊臣秀頼のもとで大改修が行われた。奉行は片桐旦元で、林又右衛門・小島吉衛門・玉井助兵衛の三人を下奉 行とし、池尻孫左衛門以下五人が下奉行の元で水下の摂津泉三国の農民を人夫として徴用した。(狭山池樋板銘文) 江戸時代、池のそばに北条氏が治める狭山藩の陣屋が置かれる。平成の大改修で狭山池ダムとなり、治水が図られる。その際、 狭山池公園や大阪府立狭山池博物館が整備された。
社殿を読むと「狭山神社」は、狭山池開発の功労者で垂仁天皇の皇子、印色入日子命(入色入彦命)を元々「狭山神」として地 元が祀っていたもののようだ。古事記・垂仁天皇記には、「印色の入日子の命は、血沼(チヌ)の池(泉佐野市下瓦屋)、また 狭山の池を作り、また日下の高津の池(東大阪市日下)を作りたまひき。また鳥取の河上の宮にましまして、横刀壱仟口を作ら しめたまひき。こを石の上の神宮に納めまつる。」と記されている。
大山祇(オオヤマツミ) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神産み神話(イザナキ・イザナミが生んだ神々)オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する神。 別名 和多志大神、酒解神。オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。 1.神話での記述 神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた。その後、野の神である鹿屋野比売神(カヤノヒメ、野椎神)との間に以 下の四対八神の神を生んでいる。 天之狭土神・国之狭土神 天之狭霧神・国之狭霧神 天之闇戸神・国之闇戸神 大戸惑子神・大戸惑女神 その後、イザナギがカグツチを切り殺した時、カグツチの体から以下の山津見八神が生まれている。 正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ) 淤縢山津見神(おどやまつみのかみ) 奥山津見神(おくやまつみのかみ) 闇山津見神(くらやまつみのかみ) 志藝山津見神(しぎやまつみのかみ) 羽山津見神(はやまつみのかみ) 原山津見神(はらやまつみのかみ) 戸山津見神(とやまつみのかみ) ヤマタノオロチ退治において、スサノオの妻となるクシナダヒメの父母、アシナヅチ・テナヅチ(足名椎命・手名椎命)はオオ ヤマツミの子と名乗っている。その後、スサノオの系譜において、オホヤマツミ神の娘であるカムオホイチヒメ(神大市比売神) との間に大年神とウカノミタマをもうけていると記している。また、クシナダヒメとの間の子、ヤシマジヌミは、オオヤマツミ の娘のコノハナチルヒメ(木花知流姫)と結婚し、フハノモヂクヌスヌを生んでいる。フハノモヂクヌスヌの子孫が大国主であ る。 天孫降臨の後、ニニギはオオヤマツミの娘であるコノハナノサクヤビメと出逢い、オオヤマツミはコノハナノサクヤビメとその 姉のイワナガヒメを差し出した。ニニギが容姿が醜いイハナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを恥じ、「イワナガ ヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イハナガヒメを送り返したことで天孫の寿 命は短くなるだろう」と告げた。 2.解説 神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。別名の和多志大 神の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。また、コノハナノサクヤビメ がホホデミを生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に供げたとの記述もあることから、酒 造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。 大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)、梅宮大社(京都市右京区)のほか、全国の三島神社・大祇神社に祀られる。全国の三島 神社・大祇神社の総本社が大山祇神社(愛媛県今治市大三島町)および三嶋大社(静岡県三島市)である。 3.オオヤマツミが登場する古書 <伊予国風土記逸文> 乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世 に顕れましき。此神、百済の國より渡り来まして、 津の國の御嶋に坐しき。御嶋と謂うは、津の國の御嶋の名なり。 <日本書紀・古事記> <大山祇神社、三嶋大社社伝等>