1997年(平成9年)8月22・23日
(2007年7月15日製作)
平成元年正月から平成4年3月まで、私は東京転勤になった。前年から東京に営業第4部というのができて、おもに「情報処理」
や「ソフトウェア開発」を担当する部署だったのだが、プログラムや開発がわかる営業がいないというので、私が大阪から呼ばれ
たのである。その2年前に買った吹田のマンションにやっと慣れて、子供たちも機嫌よく近所の小学校に通っていたので、若干は
迷ったが基本的には私も心のどこかで「通信よりも処理がやりたい。」と思っていたので、最終的には転勤打診を受諾した。
東京での三年間は、通勤ラッシュを除けば楽しかった。営業第4部はエンジニア集団だったので人員は30人ほどいたが、私が営
業課長になる前の部の売り上げは2億8千万だった。それが赴任2年目には4億8千万円になって、社長賞をもらったりした。
女の子たちとも仲良くなって楽しい楽しい「江戸詰め」生活だったが、セガレが中学生になる前年は、千葉県中で中学校が荒れて
いた。窓ガラスを割ったり万引きが常習化したりしていて、恐れをなしたwifeは「中学校は吹田に入れよう。」と言い出した。
娘は小学6年生になる時だったが、とうとう女房に負けて大阪へ戻ってきた。私の直接の部下だった女の子は、上野のJAZZバーで
転勤の話をすると、あたりかまわず柱にすがりついて泣いた。
多くの後ろ髪を引かれながら大阪へ戻ってしばらくすると、東江さんが「俺の通っている店があるからお前も常連になれ。」と言
ってきた。それが谷町の「めん坊」だった。歴史倶楽部の何人かは、この店に行った体験があるはずである。東江・服部・河原さ
ん、井上は常連だったし、松田さん、河内さんは今でも常連だ。西本さん、栗本さんにも店で何度かお目にかかったことがある。
ビルの1階にあるうどん屋で、夜は居酒屋をやっていた。どういうわけだかここには通信屋が集まっていて、NTT、KDD、日
本テレコム、ツーカー、高速通信と、昼間の競争相手が集まっては飲んでいた。「昼間の敵は夜の友」である。
鹿児島出身のエキセントリックなママがいて、客を客とも思わぬ言動が特色だったが、私などはそのサド的な発言に「ここの客は
マゾばかりに違いない。」と思ったものである。週1回が2回になり3回になり、とうとう毎日通うようになった頃、マスター
(ママの旦那)が「山登りの会」を作ろうと言い出した。延べにすると4,50人の常連客がこの店にはいたと思うが、何人か山
登りをする人たちがいて、マスターもしょっちゅう山に登っていた。たちまち「めん坊トレッキングクラブ」が発足して、会の旗
までできた。毎回10〜20人が参加して、六甲、比良山、金剛山と、月1回の山行は数年続いた。それはそれで楽しい時代だっ
た。私も山登りは好きだったので、トレッキングの例会とは別に、マスターや荒木さん、乾さんたちと何度も山に登った。
そんなある日東江さんが、「井上、今度の日曜これに行こうで。」と和泉市の講演会の話をもってきた。その日はトレッキングの
日だった。「まずいんちゃう。」と私は少し心配したが、「ええがな、二人くらい抜けたってどうちゅう事あらへんがな。」と言
う東江さんの言葉に、我々はトレッキングをサボって歴史講演会に出掛けたのだが、後でマスターが激怒していたと聞いた。それ
からもちょくちょくトレッキングをサボるようになり、服部さん、河原さん、平さんを仲間に引き込んだ。そして平成9年8月、
東江、河原、平、井上の四人で、鳥取県境港で行われていた「環日本海大博覧会」という催しに一泊で出掛けたのだった。これが
歴史倶楽部の第一回例会となった。その時皆から「歴史の会を作ろうで。」とか、「トレッキングはもう止めて歴史散策に切り替
えようや。」とか、「山登りはもうしんどいし。」などという声が上がり、ここに「大阪本町・歴史倶楽部」が誕生したのである。
冒頭に掲げた文章は、我らが歴史倶楽部の機関誌「風の中へ」第八号、「歴史倶楽部10周年記念特別号」に寄稿した、「歴史倶
楽部誕生秘話」からの抜粋です。この例会のもようは写真も無いと思っていたので10年間HP化していなかったのですが、上の
文章を書くにあたって、もしかしたらと我が家のアルバムをめくっていたら、なんと10年前の写真が貼ってあったので、さっそ
く引きはがしスキャンしてHP化したという訳です。もう10年前の事で、旅の詳細は殆ど覚えていません。メンバーは、東江、
河原、平、井上の各氏です。皆若く、バリバリと働いていた時分の写真なので元気です。
しかし10年という歳月はさすがに長く、河原さんは東京へ戻りリタイヤ、東江、平氏もリタイヤし、仕事が変わって不規則な勤
務になったので、ここ数年は例会にも顔を見せてくれません。私も28年勤めた会社を昨年辞めて、現在はかってのコンペチター
だった会社で働いています。しかしこの例会(当時はそんな意識はなく、実質的な倶楽部旗揚げはもっと後になるのですが。)が、
我らが記念すべき例会の最初のものです。いわばこのHPは、10年経って製作した「帰ってきた例会」とでも言えるでしょう。
安く上げようというので「青春18切符」を買って、新幹線、在来線と乗り継いで鳥取県へやってきました。上は岡山から乗った
在来線から見た光景で、下はその途中の乗換駅で時間待ちをしている時に写して貰ったもの(だと思います)。
米子で昼食を食べて境港へ。
水木しげるロードの妖怪たち。
正式には、「山陰・夢みなと博覧会」だったんですね。
しかし、歴史的なものが何も分からなかった素人が選んだイベントとしては、「環日本海交流」というのは、けだし卓越した
着眼点だったのかもしれません。これがひいては「日本人はどこから来たのか?」という歴史倶楽部のテーマへもつながって
いるのでしょう。そういう意味でも、このイベントに参加したことは、記念すべき出来事だったとも言えます。
しかしながら、えてしてこういうイベントは「巨大なバザー」か「臨時遊園地」の様相を呈するのが常で、「環日本海交流」
というテーマに沿った講演会や映画会などが行われていた記憶はありません。或いは私が覚えていないだけで、会場のどこか
で行われていたのかもしれませんが、少なくとも我々は参加していないはずです。
以下は「日本古代史を取り巻く謎」の中の、「出雲王国はほんとにあったか?」の中に書いた文章です。
私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越
して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは
考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難
い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現
在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。
北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。
クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事
実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、
皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも
進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、
弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
<上段からの続き。途中省略>
地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に
現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ
浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。
神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽
なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅
の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人に
は圧倒される。
しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべ
き、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。
地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ
行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。
こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島から
の渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術であ
る金属加工法を獲得していたのではないか?
技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本
の銅剣につながるのだろう。
<上段からの続き。途中省略>
皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかっ
て大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(る
ざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考え
ている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとし
ても、それは元々大和にあったのだという発想である。特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。
しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な
盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?
渡来文化しかありえないではないか。
しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。
渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下
した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆
地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲
にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。
大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気が
する。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとん
でもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中
にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。
「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミ
コト)が天下る。天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大
和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命
の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。
一連の上記の文章は7,8年前に書いたものですが、多少血気にはやった部分が認められるものの、「環日本海交流」に対
する私の基本的な考え方は今もそう変わってはいません。かって日本海を中心とした地域は「表日本」であり、太平洋側が
「裏日本」で、現在の東京や横浜は、大陸や半島にはその存在すら知られていなかったでしょう。山口県から新潟県・青森
県に至るはば広い地域で、人々は大陸や半島、そしておそらく北方においてはシベリアやオホーツク海沿岸とも、密度の濃
い交流を行っていたに違いありません。
夢みなとタワーに登って。ここに登った事は、全く覚えがありません。
皆さん若いねぇ。10年で変わるもんですなぁ。私も全然腹出てないし。
でもこのシャツもズボンも靴も、今でも使ってます。してみると、腹だけが出たわけですか。
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たくさんの夢と感動をありがとう
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ごあいさつ
「翔け、交流新時代へ」をテーマに7月12日に開幕いたしました「ジャパンエキスボ鳥取’97〜山陰・夢みなと博覧会」
は、国内外から鳥取県の人口の3倍以上の193万人もの多数の方々に御来場をいただき好評のうちに79日間にわたる交流
のドラマの幕を閉じました。県内外の多くの皆様の御支援・御協力に心からお礼を申し上げます。
この間、二度にわたる台風の影響により延べ4日半の休業を余儀なくされたものの、各方面から高い評価をいただき、当初の
入場目標を大きく上回る成果を挙げることができました。この博覧会により、「翔け、交流新時代へ」というテーマを現実の
ものとし、21世紀へ向かって対岸諸国や国内各地域との交流を進める大きな起爆剤となり、環日本海交流の西の拠点として
の地位を確立すると共に、本県の発展に繋げることができたと確信しております。また、このように素晴らしい博覧会を県民
総参加により開催できましたことは、小さな県でも「やればできる」という自信と誇りを県民一人ひとりが実感し、引いては
鳥取県の将来に大きく貢献するものと信じて止みません。終わりに、山陰・夢みなと博覧会に御来場いただいた皆様、この博
覧会を支え、盛り上げていただいた関係各位に対しまして、改めて感謝申し上げます。
皆さん、誠に有難うございました。
平成9年9月28日
山陰・夢みなと博覧会協会会長 鳥取県知事 西尾邑次
昼間の境港です。
トイ面に境港の「街の〜ぉ、灯り〜ぃ」が。マドロスさん、なんて言葉はもはや死語でしょうかね。
泊まった民宿のすぐ横は境港港の堤防で、潮の香り満喫の宿でした。夕食はすぐ近くの食堂へ食べに行ったような。
翌朝、JR境港駅にて。私の髪はまだ黒々としています。
松江を訪ねる
翌日は4人で松江をめぐりました。私は初めて訪れる松江で感激でした。
3枚綴りの入場券がお得でした。
カメラマンは河原さんが担当。従って河原さん自身はあまり写っていません。
上左に河原さんの後ろ姿。初代のデジカメ(60万画素)で写したものと思われます。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の軍功により、堀尾吉晴は毛利氏一族の吉川広家に替わって遠州浜松から出雲・隠岐24万石
の大名として広瀬の月山富田城に入城。堀尾吉晴は宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画し、慶長12年(1607)
に着工。5年間にわたる難工事の末、慶長16年(1611)にほぼ完成した。城郭の広さは東西360m、南北560mもあり、
周囲に幅20〜30mの内堀をめぐらしていた。本丸には天守と荒神櫓など6つの櫓を配し、二ノ丸・北ノ丸・二ノ丸下ノ段の他
本丸周辺には腰曲輪・中曲輪・外曲輪・後曲輪を設けるなど戦国の乱世を生き抜いた堀尾吉晴らしい要害堅固な城郭であった。
その堀尾氏も寛永11年(1634)三代忠晴が嗣子なく没してお家断絶。替わって若狭小浜から京極忠高が松江城主となり、斐伊
川などの治水に努めたが、寛永15年(1638)嗣子なく病死したため京極氏は1代で終わった。同年、越前福井城主結城秀康の
三男で徳川家康の孫にあたる松平直政が信濃松本より18万6千石で入封。以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を
迎える。
【堀尾吉晴】 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天文13年(1544年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(吉久、泰時)の長男とし
て生まれた。父は岩倉織田氏の重職にあり、同じく岩倉織田氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残って
いる。ところがこのころ、岩倉織田氏自体が、傍流の織田氏である織田信長に圧迫され、危険な状態にあった。吉晴は16歳のとき
である永禄2年(1559年)、岩倉城の戦いで初陣し、一番首を取ったが、この戦いで岩倉織田氏は滅亡し、吉晴は浪人になってし
まった。その後、尾張を統一した織田信長に仕えたが、間もなく信長の下で台頭していた家臣・木下秀吉(豊臣秀吉)の家臣とな
った。その後は秀吉に従って各地を転戦した。永禄10年(1567年)の織田信長による稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じ
る裏道の道案内役を務めたと言われている。天正元年(1573年)には秀吉から近江国長浜の内に100石を与えられた。
その後も秀吉に従って武功を挙げたことから、播磨国姫路において1500石、後に丹波国黒江において3500石に加増された。天正10
年(1582年)の備中高松城攻めでは敵将であった清水宗治の検死役を務め、6月の山崎の戦いでは天王山争奪の際に敵将を討ち取
るという功績を挙げた。この抜群の功績で、丹波国氷上郡内で6284石に加増された。天正11年(1583年)には若狭国高浜において
1万7000石に加増され、天正12年(1584年)には2万石に加増された。天正13年(1585年)には田中吉政・中村一氏・山内一豊・一
柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられている。
天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍した。その後、正五位下、帯刀先生に叙任された。天正18年(1590年)、小田原の役では
山中城攻めに従事して活躍した。しかしこの役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。これらの戦功を賞されて、
秀吉から遠江国浜松に12万石を与えられ、豊臣姓を名乗ることも許された。秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らと共に中老に
任命され、豊臣政権に参与した。
慶長3年(1598年)の秀吉死後は、徳川家康に接近したが、老齢を理由に慶長4年(1599年)10月、家督を次男の忠氏に譲って隠居
した。このとき、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
本戦直前の7月、水野忠重、加賀井重望らと三河国池鯉鮒(愛知県知立市)において宴会中、美濃国加賀井城主・加賀井重望が三
河刈谷城主・水野忠重を殺害したため、重望を討った。重望は西軍に通じていたとされている。しかし重望のために槍傷を負い、
吉晴は負傷した。このため9月の本戦には参加できなかった。しかし重望を討った功績や、息子の忠氏が本戦に参加して武功を挙
げたことを賞されて、戦後に家康から出雲富田24万石に加増移封された。なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せてい
たともされている。慶長9年(1604年)、後を継いでいた息子の忠氏が早世すると、家督は孫の堀尾忠晴が継ぐこととなったが、
忠晴はまだ9歳という幼年だったため、その後見役として死ぬまで執政に当たった。また同年、伯耆国米子の中村家における御家
騒動(横田騒動、または米子騒動)においては、城主中村一忠の応援要請を受け、他家でありながらも出兵して騒動を鎮圧してい
る。慶長16年(1611年)、松江城を建造し松江に本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年68。
松平氏の中でも七代藩主治郷(はるさと)は政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖
となり、現在もなお松江の人々に不昧公の名で親しまれている。松江城は明治になって城内の建物は天守を除きすべて取り壊され、
天守も米100俵(180円)で売却されるところだったが、有志の保存運動で救われ、山陰地方で唯一の天守が今に残ることにな
った。
松江城は国の史跡に指定され、今では松江城山公園として整備が行き届いている。大手に面して、堀越しに眺める二層の南櫓と一
層の中櫓はなかなか絵になる風景。この2つの櫓とそれにつながる一層の太鼓櫓は二ノ丸跡に平成13年に復元されたもの。
大手木戸門跡から入城すると広々とした馬溜跡。一辺46mほどのほぼ正方形の平地で、出撃する際に兵を集めて馬揃えする機能
を持っていたことからこの名がつき、2つの井戸跡が残っている。大手門跡を通ると二ノ丸下ノ段。往時は米蔵が建ち並んでいた
ところで、二ノ丸の石垣に沿って植林された木々の美しい広場となっている。下ノ段から二ノ丸跡に上ると本丸跡の見事な石垣が
目を奪う。高石垣の上にそびえたつ天守の姿はなかなかのもの。
天守内部には甲冑、刀剣類から火事装束など松江藩ゆかりの品々が数多く展示され、最上階からは松江の城下と宍道湖が一望でき
る。天守を支える石垣はごぼう積みで、一見粗雑にみえるが、石組みとしては最も頑丈な積み方である。天守の北側には昔、馬を
洗ったということから名前の付いた「馬洗池」が残る。このあたりに残る本丸跡の苔むした石垣は大手とは異なった趣がある。
かつて家老屋敷と城内の脇虎口ノ門を結ぶ重要な橋であった北惣門橋が平成6年に木造で復元されている。松江城をめぐる内堀
(堀川)はほぼ往時のままの姿をとどめている。
松江城天守閣からの松江の街です。
以後、月一の山登りに代わって近畿圏を巡る歴史散策が始まった。めん坊にはその後も通っていたのだが、当然マスターや
ママとの関係は悪化した。そして分派活動の悪玉は私だと言うことになった。参加者減で、やがてトレッキングクラブは解
散となり、ママは名指しで私を非難し出した。そして、とうとう私は店へは出入り禁止となってしまった。以来十年間で、
めん坊に足を踏み入れたのはたった一回きりである。
「歴史倶楽部10周年記念特集号」、「歴史倶楽部誕生秘話」より。
その一回が針のムシロだったのは言うまでもない。
邪馬台国大研究ホームページ/ 歴史倶楽部・第一回例会 /鳥取県・境港