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歴史倶楽部 第153回例会 美波多神社 2010.4.25 三重県名張市



	近鉄電車の踏切を渡って初瀬街道を先に進むと、やがて道路の脇に大きな常夜燈が見えてくる。その前に「美波多神社」と書かれた
	石柱が立っていて、美波多神社への標識になっている。標識から右へ折れ脇道に入ると、その先に一本道が田園の中を一直線に続い
	ている。道の右手は田んぼである。



美波多神社の常夜燈。嘉永元年(1848)のもの。美波多神社は元新田村の氏神で美旗地区の神社をごそっと合祀した。




	道の左手の、すこし奥まった処に石碑のような物が見えた。何の記念碑かと思ったら、どうやらこの美波多神社の創建に関わった一
	族の墓とその顕彰碑であった。真新しい物もあるので、あるいは今の宮司さん一族なのかもしれない。天を仰ぐと、雲一つ無い青空
	が広がって、暖かい日差しが文字通り燦々と降り注いでいる。 








	道の突き当たりに石の鳥居が建ち、細かい砂利を敷いた参道が奥へ続いている。通常、村の鎮守と言えば、鬱蒼とした杉の巨木が境
	内に立ち並んでいるのが相場だが、この神社は以前からあった大木が台風で全て根こそぎなぎ倒されたらしく、周りの木も若木が多
	い。そのせいか境内は陽差しに照らされて明るい。



参道入り口。神明鳥居の様だが反り増しがあるめずらしい鳥居だ。





	
	この神社は、新田村が作られたとき、天照大神・春日・八幡を勧請して村の鎮守として祀ったのが始まりとされている。そのため、
	当初は三柱神社と呼ばれた。明治16年に新田区内の全神社19社を合祀して大御原神社と改称し、さらに明治42年には東田原村
	の九頭(くず)神社、中村の国津(くにつ)神社、および小波田村の福田神社を合祀して美波多神社と改称した。ともかく、合祀に
	合祀を重ね、現在では天照大神を筆頭に15柱の神が祭神として祀られている。 





神様のオンパレードのような神社である。これだけの神様に護られていればもう安心だろう。しかし台風は来たのね。



	
	  	祭神

		 天照大御神【あまてらすおおみかみ】
		 応神天皇【おうじんてんのう】
		 天児屋根命【あめのこやねのみこと】
		 加納直盛公【かのうなおもりこう】
		 大山祗神【おおやまづみのかみ】
		 宇迦能御魂命【うかのみたまのみこと】
		 火之迦具土神【ほのかぐつちのかみ】
		 大物主神【おおものぬしのかみ】
		 建速須佐之男神【たけはやすさのおのかみ】
		 天手力男之命【あめのたちからおのみこと】
		 五男三女神【ごなんさんにょのかみ】
		 菊理比売神【きくりひめのかみ】
		 大綿津見神【おおわたつみのかみ】
		 菅原道真公【すがわらみちざねこう】
		 国津大神【くにつのおおかみ】 

	承応年間(17世紀中葉)頃新田の開発が行われており、建村と同時に創建されたと考えられる三柱神社(祭神:天照大御神、応神
	天皇、天児屋根命)が母体となっております。明治40年11月10日、新田区内の全神社を合祀して大御原神社と改称されました。さら
	に明治42年3月15日、東田原村社九頭神社、中村村社国津神社、上小波田村社福田神社を合祀して現称の美波多神社となりました。







拝殿。参道もそうだが、境内も非常に明るい。これは1998年の台風7号によって周りの大木が全て折れてしまったからである。


	この神社合祀の歴史はすさまじい。資料によれば、三柱神社に新田区内の以下の神社が合祀され大御原神社となった。

	加納神社   本社境内社
	山神社    本社境内社
	愛宕神社   字水門
	山神社    字一ノ井
	八幡神社   字一ノ井
	山神社    境内社
	愛宕神社   字観音広
	津島神社   境内社
	山神社    字娘塚
	愛宕神社   字大間口
	稲荷神社   字角屋
	愛宕神社   境内社
	金刀比羅神社 字角屋
	津島神社   境内社
	山神社    字前田
	愛宕神社   字愛宕
	津島神社   境内社
	山神社    字長尾
	山神社    字黒坊


	明治40年12月10日、大御原神社に合祀される前の九頭神社に以下の神社が合祀されている。

	八幡神社   本社境内社
	愛宕神社   本社境内社
	津島神社   本社境内社
	菅原神社   本社境内社
	神明神社   本社境内社
	山神社    字界外浦
	山神社    字和田
	金刀比羅神社 字界外浦
	津島神社   字管生谷
	山神社    字管生谷
	山神社    字北出
	山神社    字向江
	市杵島神社  字界外浦


	さらに、明治40年12月20日、大御原神社に合祀される前の国津神社に以下の神社が合祀されている。

	津島神社   本社境内社
	稲荷神社   本社境内社
	山神社    字向江
	山神社    字北西原
	愛宕神社   字田浦
	金刀比羅神社 字田浦
	山神社    字宮ノ前 

	
	また、大御原神社に合祀される前の福田神社に以下の神社が合祀されている。

	神明神社   本社境内社
	八柱神社   本社境内社
	市杵島神社  字鎌井
	津島神社   字鎌井
	山神社    字宇曽田
	金刀比羅神社 字赤井
	白山神社   字赤井
	山神社    字垣内
	山神社(二社)字井ノ口
	津島神社   下小波田
	
	何とも、凄まじい合祀の繰り返しである。「八百万の神」が全てココに集まったような感があるが、これだけの神様を食わせるのは
	容易では無かろうという気もする。そのために新田開発が必要だったりして。






	美波多神社は、水不足のとき願をかけたと伝えられる雨乞い石があることで知られている。また、市の文化財に指定された新田開発
	関係古文書17通も保管されている。上野市の故・村治円次郎氏が収集して、昭和31年(1956)に奉献されたものだそうだ。
	承応3年(1654)から万治2年(1639)までの5年間の関係文書で、いずれも美旗地域の開墾の歴史を知る上で貴重な資料である。現在
	は各文書を一軸にまとめ表装されているそうだ。 





美波多神社の雨乞石(雨石)。拝殿の右手奥にある。雨の少ない地方なのだろう。




	見てきたように、広範囲(美濃波多村五大字)にあった沢山の神社が次々に合祀を重ね、一社に集約されてこの美波多神社となって
	いる。よく神社に参拝すると、一つの神社に沢山の神様がお祀りされているのを見るが、ここの合祀は圧巻だ。

	合祀は、明治維新以降、「国家の宗祀にふさわしい神社設備、列格、地方団体における位置づけ等を含めて神社をあるべきものにす
	る」という理由で、政府主導により全国規模で進められた。ただ、府県での取り組みに温度差があったようで、三重県の場合、神社
	整理のモデルケースと目され、強行に合祀が押し進められた。ここでの合祀とは、簡単に言えば神社の数を減らす事を目的としてお
	り、一町村一社にすべく「神社のあるべき姿」の基準をもうけ、基準に適合しない神社は合祀の対象とされた。
	三重県の場合、必要施設として本殿、拝殿、鳥居を挙げ、各施設の坪数、境内の坪数の基準を設けている。また、社格(県社・郷社
	・村社・無格社)別に神社の財産・年収の基準も設けている。その結果、郷社・村社は37%、境外無格社は2%に激減した。
	これは全国一だそうである。


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