Music: a hard day night
歴史倶楽部 第153回例会 馬塚古墳 2010.4.25 三重県名張市






美旗駅を出て2,3分で馬塚古墳が見えてくる。大きい。看板の下に石碑と案内があって、そこから古墳へ上れるようになっている。




















	名張は古くから大和文化が流入し、各地に数多くの遺跡などが残っている。美旗古墳群もその一つで、国の史跡に指定され、名張市が
	誇る重要な文化遺産となっている。美旗古墳群は、伊賀氏または名張氏のものと推測され、古墳の少ない三重県では、県下最大規模を
	誇っている。名張川支流小波田川上流右岸に広がる標高200mの台地に位置するが、多くの古墳は消失し、現在大小7基の古墳が点
	在しており、中でも馬塚古墳は美旗古墳美群の中で最大の前方後円墳である。





	
	馬塚の周辺には、4世紀末の殿塚古墳・5世紀前半の女良塚・5世紀中葉の毘沙門塚古墳・6世紀初頭の貴人塚古墳の前方後円墳があ
	り、ちょうど一世代ごとに築かれたような形になっており、この被葬者たちに関連があるとすれば、当時この地にいた豪族の力の強さ
	を物語っている。さらに、伊賀地域中央部では上野市才良に120mの石山古墳があり、戦後京都大学の手で発掘調査が実施されて全
	国に知られている。それに対し伊勢地域では、松阪市宝塚古墳の95m、亀山市能褒野(のぼの)古墳の90mが大型の前方後円墳で、
	100mを超える規模のものは知られていない。





古墳の中になにやら祠が作ってあって「大和大王」とある。垂仁天皇を第十代としてあるし、綺麗な古墳が興ざめである。





上下の窪んだ部分はかっての盗掘の跡だそうだ。




	全国の大型前方後円墳のデータをコンピュータで分析したところ、従来の、古墳の長さは仁徳陵(大山古墳)、体積は応神陵(誉田山
	古墳)が最大という定説に対し、いずれも仁徳陵が第1位であるという結果が出た(『中日新聞』平成2年5月20日)そうである。

	三重県内最大の規模を持つ前方後円墳は、伊賀盆地北東部、上野市佐那具の御墓(みはか)山古墳である。長さ188mで、5世紀前
	半に築かれた古墳と推定されている。応神陵・仁徳陵と同時期で、この時期は全国的に古墳が巨大化する傾向にあった。
	次いで大きい前方後円墳が、伊賀南部のこの馬塚古墳である。全長142m、後円部直径98m、前方部幅は100m、高さ14m、
	巾7m〜25mの周濠をもつ。周濠は周りをきれいにめぐり、「美(うま)し塚」から「馬塚」と呼ばれるようになったとも言われて
	いる。前方部が幅広く、先端部は100mに及んでいる。
	墳丘の前面は葺石(高塚の盛り土の丘を覆う石塊で川原石や山石などが用いられる。)で覆われ、前方と後円の接合部両側に造り出し
	があり、築造は5世紀古墳時代中期頃とされ、出土品は、土器、人物・馬形・円筒の各埴輪である。












	美旗古墳群には、かってカブト塚・矢羽塚・玉塚などの方墳と、横穴石室をもつ数基の円墳があった事が記録にあり、一大古墳群を形
	成していた事が判っている。伊賀氏または名張氏の先祖達と目されるこの地の古墳時代人たちが、果たしてどこから来てこれらの古墳
	群を築いたのかは判らないが、おそらくは西から馬に乗ってこの地へやってきたのだろう。稲作に従事する弥生人達を懐柔し、或いは
	支配してこの地に根付いたものと思われる。





この方角から見ると、前方後円墳だと言うことがよく判る。



付近の幼稚園のグラウンドに咲き誇る八重桜。見事に咲いている。





後円部の端から見た馬塚古墳

	
	馬塚古墳の名前の由来(名張昔話要旨)  後世誰かが考えたお話だろうが、よく出来ている。	

	昔、美濃国の土岐氏の奥方が大和の長谷観音に参詣した帰り道のこと、この付近で奥方の乗った馬が突然、前足を上げ暴れだした。家
	来たちは必死で暴れ馬を押さえようしたが、そのうち、奥方が馬から振り落されてしまった。しかも、馬は奥方にかみついて離さなか
	った。驚いた家来たちは、刀で馬を切り殺したが、奥方もそのまま死んでしまった。家来たちも、そのまま美濃国へ帰るわけにもいか
	ず、その場で自害して果てた。 
	村人たちは、一行の思いがけない死を哀れんで、立派な墓を作ってやった。そして、馬を埋めた墓を「馬塚」、奥方を埋めた墓を「女
	郎塚」、男女の家来たちを埋めた墓を「殿塚」と「貴人塚」と呼ぶことにしたそうだ。また、持っていた宝物を埋めた所を「玉塚」、
	持っていた仏の毘沙門天を埋めた所を「毘沙門塚」と呼んだ。「小塚」は奥方の子を埋めた墓ともいわれてる。 




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