Music: 獅子就寝

天保義民の碑

2007年11月1日 滋賀県湖南市(旧・甲西町)



	仕事で滋賀県の甲賀に行った。半日仕事だと思って大阪を午後早く出たら、客先へのアポイントより1時間も早く最寄り駅に着
	いてしまった。タクシー乗り場は駅の前にあり、これに乗ってしまうと10分で客先へ着いてしまう。はてどうしたものかと思
	ったが、駅の中にあった「付近の名所」という案内に「天保義民の碑」というのがあった。若いお姉ちゃんの駅員に「これはこ
	こから近いん?」と尋ねると「すぐですよ。」との事だったので、雨の中を歩いて行ってみる事にした。


	<天保義民碑> (てんぽうぎみんひ)  天保一揆で犠牲になった農民の慰霊碑 
  
	天保13(1842)年、代官の不正な検地に抗議するため、旧甲賀(こうか)郡、旧野洲(やす)郡、旧栗太郡の総勢約4万人の
	農民がいっせいに蜂起した。これが、歴史に有名な天保一揆である。検地を挫折させ「十万日延期」の目的を達した大闘争であ
	ったが、農民達の払った代償も大きく、このときの一揆で犠牲になった祖先の魂をなぐさめ、その義挙を後世に伝えようと伝芳
	山(でんぽうざん)に立てられたのが、この石碑で、毎年10月15日には、遺徳を讃える慰霊祭が行われている。 



常夜燈(文政5年=1822年建立)と、横田橋(渡し)跡。義民達はここを渡っていった。
	現在の国道1号線が野洲川を横切っているのが横田橋である。この横田橋あたりから上流は昔横田川と呼ばれていた。現在の横田橋
	から500メートル位南(上流)に「横田の渡し」の跡がある。江戸時代は橋がなく 流量の多い3〜9月には 船による渡しとな
	っていた。明治時代(明治24年:1890年)には長大な板橋が架けられたそうだが、現在残っているのは明治時代に架けられた
	横田橋の石垣である。2万人余りに膨れ上がった群衆は、このあたりで渇水期の横田川を渡ったのであろう。この川の向こうは三雲
	である。三雲村の庄屋は 沢山の握り飯を作って疲れた群衆に振舞ったという。




	江戸後期の天保期(1830−1844)は、長雨による洪水や気温の低下など、天候不順が相次ぎ全国的な大飢饉が発生した。米の収
	穫は従来の半分から三分の一程度へと減少し、餓死者数は全国で10万人に及んだともいわれている。農民は、天保の初期(天
	保3、5、7年)は凶作による飢饉に苦しみ、各地で多数の一揆が発生した。大阪で、農民に同情した大塩平八郎が乱を起こす
	のは天保8年である。
	徳川幕府はこの時期になると、組織の肥大化とその維持のため、財政の困窮が著しくなり、享保の改革・寛政の改革など改鋳や、
	倹約令などの手だてをとってきたが、特に天保期は元年・2年と天候不順、4年は異常気象と大洪水・風雨害、7年は長雨で7月
	でも日光を見る日はほとんどなかったと云う。こうした中で、天保5年水野忠邦が幕府老中となり、12年には幕政改革を断行す
	るに至った。その主柱は商工業者の株仲間の解散、価値の低い貨幣への改鋳、そして検地であった。


上の写真の、左の坂を登っていったところに「天保義民の碑」が立っている。
	この検地は、太閤検地といわれる6尺3寸平方を1歩(1坪)として300歩を1反とした年貢算出を、延宝5年に6尺1寸平方
	を1歩と改めたが、天保の改革では、5尺8寸平方を1歩として検地することにした。しかも、当初は新田のみの検地とされてい
	たが、後には旧田も5尺8寸の間竿で測り直すことを云い渡された。短かい測量竿で測れば、何も変らない田の面積は計算の上で
	増加することになり、その差が新田開発によるものとされ、年貢の増加につながる という姑息な政策であった。
	この時代 収税などの財源支配手段の基礎は「検地」と「人別帳」にあった。農民にとって検地は、年貢米の算出基礎となる重要
	な施策であり それゆえに過去に行われた検地の結果を再吟味することはいままでは戒められていた。しかし背に腹は代えられな
	い水野忠邦はその禁を破ったのである。



	近江は京都に近い場所柄の故に、その地は近江内外の多数の大小名、旗本、寺社領、直轄領などに分割されていた。例えば一村が
	多数の領主に服属したりしていた。京の都に隣接した国としての特殊な存在だったのである。江戸幕府は、家康以来の方針として、
	京都に近い要衝の地であるとの理由で南江州には大名を置かず、小大名.旗本或いは伊達藩等遠隔地大大名の飛び地を細切れ状態
	に配置してきたのであるが、今回の検地は、強力な大名が居らず、従って強力な反発が起こりにくい地域として、南江州を格好の
	実験地として実施されたものであった。




上左:検地の図(「徳川幕府縣治要略」より)  上右:野洲川と三上山(「近江名所図会」より)




	農民は今までも厳しい年貢の取り立てを受け、誰もが食うや食わずの生計をたてていた。今回の検地によって更にありもしない新
	田の年貢をも献上しなければならなくなる。天保12年11月、京都西奉行所から検地の通告があり12月には検地役人市野茂三
	郎ら幕吏一行が野洲郡に到着、野洲郡三上村の陣屋に本拠を構える。翌年2月蒲生郡から検地を始めた。当初、天保12年12月、
	村々の庄屋数百人を出頭させて京都奉行所が申し渡したことは、「新田を開発するため、川筋や湖べりの空き地を実地見分する」
	とのことだったが、翌年に始まった検地の実態は人々を憤慨させるものだった。その実態は、

	・彦根藩の領地は避け 主として相封(一村複数領主)地を調べた
	・検地役人は公然と収賄し 贈賄した地区は素通りした
	・土地の寸法を測定する竿の寸法を変更していた
	(本来の11尺6寸の竿に12尺2分の目盛りをつけた→計測値は実際の面積より数%多くなる)






	現在の近江八幡市から始まった検地の状況を見守っていた野洲川流域の人々は その不条理なやり方の対抗策を練った。このとき、
	いち早く行動したのは庄屋達であった。野洲郡の庄屋「土川平兵衛」は、市原村(甲南)の田島治兵衛に相談、2人して沿線の庄
	屋達へ使いをたて、肥料値段の引下げ交渉の名目で連日連夜、検地対策のための会合をもった。検地役人に漏れることを恐れて極
	秘のうちに行われていった。野洲川上流の甲賀地区と野洲川下流の野洲・栗田地区では それぞれの庄屋たちによる会合が開かれ
	た。天保13年9月26日に開かれた下流地区の庄屋会は 現在の守山市立田町にある立光寺(りっこうじ)だった。
	そして、検地役人に中止の嘆願を強いて願い出ることを決議し、その日を10月15日未明行動として談合し村々へ布令を廻した。
	この一連の動中に、極秘に情報を集め、検地吏の行動と陣屋の構造をさぐり、庄屋間や村々への連絡に走り廻った一人の男がいた
	と伝えられ、それは甲賀流忍者の末裔だと現地では今も信じられている。また、磯尾(甲南町)の修験山伏がこの一揆の必要性を
	説いて庄屋の間を回っていたことは事実のようなので、或いはこの山伏のことが「忍者伝承」となったのかもしれない。







	天保13年10月14日の夜、現在の甲賀市甲南町矢川神社(やがわじんじゃ:JR草津「甲南駅」の北西1キロ位の位置にある)
	に農民たちが集結し始めた。水口藩の警備の武士はおとなしく見守っていたそうであるが、翌15日、矢川神社の早鐘を合図に近
	郷からスキ・クワ・竹やりを持った農民が、矢川神社境内集結していった。そして矢川神社に集結した農民達は北(北西)の三上
	村を目指して移動する。検地役人が本陣を構える三上陣屋目ざして、杣中(水口町)泉(水口町)岩根(甲西町)を通り、各村で
	は随所で酒やにぎり飯の炊き出しを受け、その道中でも次第に人数が増え、三上に到着する頃には3万人から4万人に達したとも
	云われている。甲賀地区と野洲・栗田地区とは 事前の計画に基づいて緊密な連絡を取り合っていた。16日早朝に石部の宿に達
	した。そこには膳所藩の武士が警護にあたっていたが対応は穏やかだった。ここでも炊き出しが供され 疲れと空腹が癒された。  
	16日朝10時、陣屋に到着。昼頃 甲賀地区と野洲・栗田地区とが合流した群衆は 検地役人のいる三上村を包囲した。その数
	は4万人を超えていた。代表田島治兵衛、土川平兵衛らが検地吏との厳しい直談判を開始した。一揆の要求は、ただちに進行中の
	検地(見分)を即時中止してもらいたいということだった。何回かの応答の後、16日夜に至り、幕府役人が証文をしたためたこ
	とで群衆は解散した。証文は、「検地(見分)を10万日延期する」というものだった。10万日とは274年間。つまり、22
	世紀まで検地をしないという、事実上の永久延期である。その後、このような検地は二度と企てられることはなかった。




	こうしてほぼ1年をかけた苦しい長い戦は終わった。他の一揆のようにつぶされることもなく、また一揆が足並みの乱れなく統率
	されていたことは驚くべきことであり、その成功の要因を考えると農民達の結束の固さと、庄屋達のリーダーシップの強さに驚嘆
	せざるを得ない。5年前の天保8年、大塩平八郎の乱が、人々に強い衝撃を与えながらもわずか半日で奉行所に鎮圧されたことを
	思うと、その成果には目を見張るものがある。複雑な領有関係のなかで、一本の川から水を分け合っていた野洲川流域では、普段
	から村同士の間に緊密なやり取りがあったものと思われる。そのことが一揆の際の強い団結にも結びついたのかも知れない。大飢
	饉や水野忠邦の行う天保の改革への反対などによる、天保年間の百姓一揆は359件もあったと記録され、ほとんどの一揆は発起
	後長くて5日位で幕府の権力によって終息されている。そんな中で甲賀一揆は「検地」10万日の日延べという書付を取りつけ、
	事実上の「検地とり止め」を勝ち取った、成功した一揆の例である。しかしその後は、関係者達の逮捕から拷問、そして刑罰死と、
	それは悽惨な結末となる。
	一揆成功に至るまでは一人の死傷者もなかった。しかし 事件後の幕府の仕打ちは凄惨だった。一揆に関わった要人に過酷な拷問
	を加えた上、江戸送りにした。三上村の庄屋「土川平兵衛(つちかわへいべい)」を初めとした主要人物は江戸で全員が抹殺され
	た。江戸送りの途中に絶命した者は馬捨て場に捨てられ、江戸の奉行所で獄死した土川平兵衛他の犠牲者は小塚原に捨てられた。
	明治元年1月大赦によって、彼等の受けた罪名は消されて復権し、後世の人達は、江戸送りとなった11人と、死を堵して戦った
	幾多の人々を「天保義民」として、それぞれの出身地に慰霊碑を建てて手厚く祀り、今も甲賀郡では10月15日を「義民祭」と
	名付けて甲賀郡町村会主催の慰霊祭が行われている。一揆から約50年後の明治28年(1895年)、「天保義民碑」がここに
	建立された。 


	江戸幕府の理不尽な「検地」への抗議のために行った、旧甲賀郡・野洲郡・栗太郡の、300余りの村々から4万人と云われる農
	民たちが強訴した、涙がでそうな、いわゆる「百姓一揆」の物語である。




	客先で商談を終えて駅へ戻ってくるともう黄昏れていた。裏寂しい田舎駅でもの思いにふけっていると、大阪から携帯が入った。
	「おぅ、東江と飲むことになったから来いや。」歴史倶楽部の河内さんだった。「エぇー、わし今甲賀におるんでっせ!」「え、
	甲賀!何でまたそんなトコ。」「仕事ですがな。」「甲賀かぁ、遠いなぁ。どのくらいかかるん?」「うぅーん、大阪へ戻ったら、
	2時間半くらいですかねぇ」「ほうか、ほなXXXで待ってるし。」「ちょ、ちょっと。」

	その夜は久々の午前様」になった。



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