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歴史倶楽部第144回例会 日本一の古墳の町
玉手山公園・玉手山古墳群
2009.6.28 大阪府柏原市






	玉手山公園	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	玉手山公園(たまてやまこうえん)は、大阪府柏原市南部の玉手山丘陵地帯にある公園で、1999年(平成11年)3月に開園した柏原
	市立の公園。前身は1908年(明治41年)に河南鉄道(現在の近鉄南大阪線)によって開設された西日本で最も古い遊園地であり、
	1998年(平成10年)5月31日に90年の歴史を閉じた近鉄玉手山遊園地。約一年間の休園の後、1999年(平成11年)3月柏原市立玉手山
	公園「ふれあいぱーく」として再スタートした。
	前身の玉手山遊園地は昭和30年代の最盛期には、現在の玉手小学校から山頂の玉手町に掛けた一帯に広がった広大な敷地を有し、年
	間数万人の来園者が訪れ、大阪府内でも有数の遊園地として賑わった。特に春先には山全体が桜の花が満開となる。3カ所有ったゲ
	ートのうち現在も使用されている山上の東ゲートと現在玉手小学校の取り付け道路となっている場所にあった西ゲートから山上に向
	かっては玉手山斜面をぐるっと取り巻く形で桜並木があり、山上まで繋がっていた。
	中央ゲートに繋がるメイン広場には日本猿の檻や、イノシシなどの小動物の檻、管理棟のあった一段上の広場には中央に立派な野鳥
	舎とそれを囲むようにクジャクなどの鳥舎があり、メイン広場全体がミニ動物園になっていた。現在バッテリーカーが走っている
	「SLのりば」には、本格的なお猿の電車が走っておりその近くには飛行機塔もあった。
	現在「冒険広場」になっている、南入口(当時は通用口)脇の窪地にはイベント用の展示館があり、メイン広場にある「おたのしみ
	館」とともに時々に応じた特別展示を行っていた。また、現在昆虫の森と呼ばれているあたりには、洋館作りの初代「昆虫館」があ
	った。春の桜のシーズン、秋の菊人形展など、年間を通じて、多彩なイベントを行っていた。現在も使用されている、野外劇場では、
	日曜祭日には着ぐるみショーなどが行われていた。
	昭和36年頃に行われた「自衛隊展」を最後に大きな催しが開催されなくなり、この時を境に、東ゲート付近が高級分譲住宅地に転用
	され、現在「いこいの森」と呼ばれているあたりに発生した地滑り災害の影響で西ゲートも閉鎖され、その後西ゲート付近も小学校
	に生まれ変わり、山上付近にあったユネスコ村も撤去されて規模が縮小していった。それでも春先、秋口の行楽シーズンには、近隣
	の市町村の幼稚園児や、小学校低学年生の遠足の場として、手軽に行ける遊園地として利用されていた。またかつては来園者の為に
	国分駅から無料のシャトルバスが運行されていた時期もあった。
	しかし高度成長期を通じ最新型ジェットコースター等を設備する大型遊戯施設が近隣各地に出現し次第に客を奪われるようになり、
	入場者数が目立って減少しだし日曜祝日でも入場者がまばらな寂れた遊園地に変わっていった。
	入園料も有料、無料、再び有料時代と有料無料を繰り返し 1998年(平成10年)5月31日惜しまれつつ閉園し取り壊される事が決定し
	ていたが、敷地の大部分を所有する宗教法人の檀家からの要請で、柏原市が近鉄から遊戯具等の設備を含むほぼそのままの形で運営
	を引き継ぐこととなり、ほぼ一年間の休園期間をへて1999年3月柏原市立玉手山公園「ふれあいパーク」として再開された。
	尚、68,000m2の敷地の大部分は地元の宗教法人(安福寺)の所有地であり、かつては近鉄興業(当時)が宗教法人から借地しており、
	現在は柏原市がこの宗教法人から、年間670万円程の賃貸料で借地している。









ここで「柏原市立歴史資料館」(おもちゃ館併設、隣は「昆虫館・貝・化石館」)を見に行く。




	玉手山公園関連維持管理費は、柏原市の所有する全公園の維持管理委託費の実に、36.4%(平成19年度)に登っているそうで、市民から
	問題視されているという記事もある。NET内には、他にもこの公園に対する問題点として、以下のような意見があった。

	・市立の一般公園であるにもかかわらず警備上の理由から、夜間は閉門し立ち入り禁止で有るため、帰宅後や早朝出勤前のジョギング、
	 ウォーキング等の公園本来の目的に使用できない。
	・公共施設であるにも関わらず、野外劇場などの利用規程がハッキリしていない。 
	・有料遊戯具の設置に関して委託業者との契約内容が公開されておらず、料金収入の行方等、不明朗な点が多々見られる。 
	・来園者の殆どが近隣市町村からの外来者で占められ、柏原市民の利用率が極端に低いこと。 
	・たのしみ館、昆虫館等の常設館は果たして必要なのか。特に昆虫館については、展示物の管轄を教育委員会にゆだね、他の施設に移
	 転すべきではないか。 
	・老巧化の激しい、野外劇場その他の建造物をどうするか。建物を解体整理し維持管理費の縮小を諮るべきでは無いか。 
	・宗教法人からの借地契約は地方自治体の運営する公立公園としては異例であり、物議を醸している。 

	等々、問題は山積のようだ。




	かつて玉手山付近と石川の対岸にある道明寺付近にかけては大坂夏の陣における激戦地であり、豊臣方の後藤又兵衛は玉手山に陣を
	敷き、徳川方と激戦を交わしここで討ち死にした。後藤又兵衛の碑は市立玉手山公園の中にある。また、徳川方で討ち死にした奥田
	三郎右衛門、山田十郎兵衛の碑も建てられている。




















	玉手山公園と玉手山古墳群 (柏原市HPより一部転載)

	市立玉手山公園など玉手山の一帯は、大坂夏の陣(1615)の古戦場であるとともに古墳時代前期(4世紀)の古墳群でもある。大和川と
	石川の合流点を望む玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されている。また、公園に隣接
	する安福寺参道などには、6〜7世紀の墓である横穴群も存在し、考古学上も大変貴重な地域である。


	1 玉手山古墳群

	玉手山古墳群の古墳は、すべて古墳時代前期に築造されたものであり、中期以降に時代が下るものは知られていない。短期間に複数
	の地域首長が、玉手山丘陵を共同の墓域として、造墓活動を繰り返した結果、形成されたものだと考えられている。

	古墳時代前期 ・・・ 4世紀ごろ
	中 期   ・・・・・ 5世紀ごろ
	後 期   ・・・・・ 6世紀ごろ
	終末期  ・・・・・ 7世紀ごろ

	玉手山古墳群は、本市域から羽曳野市域にまでひろがる古墳群で、本市域内の古墳の概略は、以下のとおりである。

	1. 第1号墳	前方後円墳。墳長110メートル〜120メートル。後円部の頂上に大坂夏の陣で討ち死にした、徳川方の武将・奥田三
			郎右衛門の墓がある。
	2 第2号墳	前方後円墳。墳長60〜70メートル。現在は、古墳全体が墓地になっている。
	3 第3号墳	前方後円墳。墳長160メートル。別名、勝松山。また、勝負山、小松山とも呼ばれる。市立老人福祉センター「やす
			らぎの園」のすぐ南に隣接。大坂夏の陣では、このあたりの争奪が焦点となり、激戦が繰り広げられた。また、安
			福寺境内にある、割竹形石棺蓋(重要文化財)は、この古墳から出土したと伝えられる。
	4 第4号古墳	前方後円墳。墳長50〜60メートル。宅地造成のため、消滅。
	5 第5号墳	前方後円墳。墳長75メートル。宅地造成のため、消滅。
	6 第6号墳	前方後円墳。墳長69メートル。宅地造成のため、消滅。
	7 第7号墳	前方後円墳。墳長150メートル。玉手山丘陵の最高所にある古墳。安福寺の後ろにあるところから後山古墳とも呼ば
			れる。前方部には尾張徳川家第2代藩主・徳川光友らの墓があり、後円部には大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔が建て
			られている。
	8 第8号墳	前方後円墳。墳長80メートル。
	9 第9号		前方後円墳。墳長65メートル。
	10 第10号墳	前方後円墳。墳長45〜55メートル。別名、北玉山古墳。消滅。


	2 玉手山古墳群を造ったのは大和朝廷の先祖?

	玉手山古墳群のすぐ西に応仁天皇陵(誉田山古墳)に代表される古市誉田古墳群(5世紀の古墳群)がある。これとの関係から、4世紀
	に玉手山古墳群を造営した豪族が発展して、古市誉田古墳群を造営するようになった、とする説がある。すなわち、玉手山古墳群を
	造営した豪族こそが、後の大和朝廷の先祖だというわけだ。
	ただ、玉手山古墳群の古墳は、時代が下る(新しくなる)ほど質が低下していく傾向がある。そうすると、これらの豪族たちは、むし
	ろ衰えていったとかんが	える方が自然だということになる。しかし、かつて、柏原の地に大和朝廷のルーツがあったとする説は、
	実に魅力的ではある。




	玉手山は俳人小林一茶のゆかりの地でもあり、寛政7年(1795年)4月3日に葛井寺と道明寺に詣でた後、当時すでに景勝地として有
	名になっていた玉手山を訪れている。ここで俳句を二句詠んでおり、そのうちの一つを刻んだ句碑が公園内にある。 

	小林一茶と玉手山  (柏原市HPより一部転載)

	1 一茶の玉手山、来訪
	小林一茶は、寛政4年(1792)から同10年までの約6年間、西国、上方方面を旅行。その途中、寛政7年(1795)、明石から大坂に入り、
	天王寺、平野を通って、4月3日に葛井寺と道明寺に詣でた後、当時すでに景勝地として有名だった玉手山を訪れている。

	寺は、道明寺という。わずかに行けば玉手山、尾州公の荼毘所あり。竜眼肉の木ありて、このかいわいの景勝地なり。艮(うしとら)
	の方にかつらぎ山見ゆる。折りから遊山人處々につどう。(西国紀行)

	西国、上方方面への旅行を記した、一茶の著書「西国紀行」には、玉手山で詠まれた俳句2句が収められている。

	初蝉や 人 松陰を したふ比(ころ)
	雲折りく 適(まさ)に青菜見ゆ 玉手山

	現在、玉手山公園内には、「初蝉や」の句を「西国紀行」の原文から複写拡大して刻んだ句碑が建っている。尾州公の荼毘所とは、
	公園に隣接する安福寺境内にある、尾張徳川家2代藩主・徳川光友の墓のことである。ちなみに光友の墓が建っているのは、玉手山
	古墳群第7号墳の前方部であり、同じ古墳の後円部(後円部は、公園内)には大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔が建っている。ところで、
	「西国紀行」には、艮(うしとら=東北)の方向に葛城山が見える、と記されているが、これは巽(たつみ=南東)の誤りであろう。

	2 小林一茶 略伝
	宝暦13年(1763)5月5日、信濃国柏原村(現・長野県上水内郡信濃町)の農家で生まれる。本名、小林弥太郎信之。俳諧寺一茶、二六
	庵菊明とも号した。3歳で母と死別。15歳のとき江戸に出る。以後10年間、流浪生活を続けながら俳諧に専念、25歳ごろ、葛飾派の
	竹阿に入門する。竹阿の死後、判者となる。寛政3年(1791)、初めて帰省。その翌年から約6年間、西国、上方方面に旅行する。享
	和2年(1802)、父死亡。以後10年以上にわたって異母弟との遺産相続争い。
	遺産相続争い決着後、52歳のとき、初めて結婚。計4人(男3人、女1人)の子どもを得たが、全員、幼くして死亡。さらに、妻とも死
	別する。その後、再婚するが、文政10年(1827)11月19日、仮住いの土蔵の中で死去する。
	幼少時からの逆境が、その作風に影響を与えたといわれる。強者への反感と弱者への同情、俗語を駆使した主観的作風、人生詩的
	傾向などである。主な著書は、「おらが春」、「一茶発句集」、「七番日記」など。







7号墳上の供養塔と、宵待草。



玉手山古墳群の1号墳上には、大阪夏の陣で戦死した奥田三郎右衛門、山田十郎兵衛の碑が建てられていて、ここから2号墳、3号墳が見える。


	上右手の墓が2号墳であり、正面の森が3号墳である。その前の建物は市立老人福祉センター「やすらぎの園」で、大坂夏の陣では、
	このあたりが激戦地となった。



















	玉手山と大坂夏の陣 	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	1 総 説

	慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌・慶長20年(1615)の夏の陣と、2度にわたって豊臣氏と徳川氏の最終決戦が行われた。ここ玉手山は、
	夏の陣の戦端が開かれた地であり、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃って討ち死にした地でもある。
	戦いは、要衝「小松山」の争奪をめぐって行われた。小松山とは、現在、市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っているあたり
	で、市立玉手山公園を始め、片山から玉手、円明にかけての一帯が戦場となった。玉手山公園内など、付近一帯には、又兵衛基次の碑
	を始めとして、両軍戦死者供養塔や戦跡碑、徳川方の武将の墓などが残されている。

	2 大坂冬の陣への序曲

	慶長3年(1598)、太閤・豊臣秀吉、没。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍の宣下を受け、
	天下の実権をほぼ手中におさめた。他方、秀吉の遺児、豊臣秀頼は、関ヶ原の戦いの後、摂河泉(現在の大阪府の全域と兵庫県の一部)
	65万7千石の一大名に転落した。しかし、天下の名城・大坂城にあって莫大な金銀を貯える秀頼は、家康にとって、依然、あなどりがた
	い存在であった。そこで、家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さか
	んに寺社の造営・修復を勧めた。その中の一つが京都東山・方広寺大仏殿の再建工事である。
	当時、秀頼が造営・修復した寺社など方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、
	叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など。
	方広寺大仏殿は、慶長17年(1612)に完成。同19年には大仏の鐘も完成したが、家康は、このとき鋳造された鐘銘の中に「国家安康、君
	臣豊楽」とあるのに、いいがかりをつけ、豊臣氏を挑発した。すなわち、「家康」の名を「国安」で切って家康を呪っている、「君臣
	豊楽」とは、豊臣を主君として楽しむの意味だ、というわけである。
	この一件の弁明のため、片桐且元が家康のもとに向かったが、この且元が豊臣氏から裏切り者の汚名をかぶせられ大坂城から退けられ
	るに至って、ついに両者の戦いは避けられない情勢となった。かくして、勃発したのが、大坂冬の陣である。

	3 大坂冬の陣の戦闘経過

	冬の陣は、主として、篭城戦で戦われた。豊臣方の兵力は約10万、徳川方の兵力は約20万(一説には約30万)といわれる。

	慶長19年(1614)10月23日、徳川家康、軍勢を率いて京に入る。
	10月26日、藤堂高虎、家康の命を受け、河内国府に本陣をおく。
	11月3日、高虎、枚方方面から南下した松平忠明らと呼応、平野口から住吉に進撃。
	11月5日、豊臣方の薄田兼相、平野口に出撃。徳川方の来襲をきき、急ぎ大坂城に入る。
	11月6日、高虎、浅野長晟、住吉に布陣。松平忠継、有馬豊氏、中島に布陣。加藤明成、神崎から北中島に進撃。
	11月15日、家康、二条城を進発、奈良に至る。徳川秀忠(将軍、家康の嫡男)、伏見から枚方に到着。
	11月17日、家康、住吉に布陣。秀忠、平野口に至る。
	11月19日、秀忠、住吉の家康本陣に到着。軍議の後、攻城の準備を終える。
	11月25日、家康、大坂城の堀の水をからすため、淀川に春日井堤を築くべく、伊奈忠政に工事の監督を命じる。
           	 佐竹義宣、上杉景勝、豊臣方の鴫野、今福の砦を占領。野田、福島も徳川方の手に落ちる。家康、このころから和議交渉を
		 始める。
	11月29日、徳川方の蜂須賀至鎮、石川忠総ら、阿波座、土佐座を攻略。
	12月2日、家康、茶臼山に本陣を進める。以後、大坂城の攻防が続く。
	12月16日〜19日、家康、約300門の大砲で大坂城を砲撃させる。
	12月22日、和議成立。

	4 大坂夏の陣の勃発

	和議の条件として、徳川家康、秀忠から豊臣氏に、次の5カ条の誓紙が出された。

	1 大坂城に篭城した浪人達の罪は問わない。
	2 秀頼の知行は、以前のとおりとする。
	3 淀君(秀頼の母)は、江戸に下る必要はない。
	4 秀頼が大坂を立ち退くというなら、どこへ行こうと望みしだいである。
	5 家康、秀忠は、秀頼に対して、いささかも不信行為はしない。

	そして、和議の条件として、大坂城の外堀と内堀は埋め立てられ、二の丸と三の丸も破壊されて、大坂城は本丸だけの「はだか城」と
	された。しかし、和議は、豊臣氏に味方した、立身出世や仕官を望む浪人達にとっては失業を意味した。このため、大坂城内では、し
	だいに再戦を望む声が高まって行き、埋め立てられた堀の復旧工事などが開始された。
	これを知った家康は、先の誓紙をひるがえし、豊臣氏に対して、「城中の浪人をすべて追放するか、豊臣氏は大坂城を出て伊勢か大和
	へ移れ」との要求をつきつけた。ここに至って豊臣氏の怒りは爆発、ついに再戦が決せられた。夏の陣の勃発である。しかし、本丸だ
	けの「はだか城」では、冬の陣のときのように篭城戦法に頼るわけにはいかない。そこで、豊臣氏は、徳川氏に野戦を挑むこととした。

	5 大坂夏の陣の戦闘経過

	夏の陣の主戦場は、河内であった。豊臣方約5万、徳川方約15万5千といわれる。
	慶長20年(1615)4月28日、豊臣方の大野治房ら、泉南の樫井で徳川方の浅野長晟らと合戦。豊臣方の塙団右衛門、討ち死に。豊臣方は、
	治房の報告により、徳川方が、河内街道からだけでなく奈良街道からも進撃して来ることを知る。
	5月1日、豊臣方の後藤基次、薄田兼相ら平野に出陣。真田幸村ら天王寺に布陣。
	5月5日、家康、京を進発。秀忠、伏見を進発。徳川方の先陣・藤堂高虎、河内千塚に布陣。井伊直孝、楽音寺に布陣。水野勝成、河内
		国分に布陣。徳川方の本多忠政、松平忠明、伊達政宗らの諸隊も河内に到着。伊達隊の先鋒・片倉重綱、片山に布陣。
	5月6日、後藤基次、小松山で徳川方の諸隊と激突して、討ち死に。小松山の戦い。薄田兼相、道明寺河原の戦いで討ち死に。豊臣方の
		残兵、藤井寺・誉田森へ退却。豊臣方の木村重成、佐久間忠頼らの諸将、八尾・若江で相次いで討ち死に。豊臣方の真田幸村、
		毛利勝久ら大坂城に退却。
	5月7日、真田幸村、家康の本陣に突入して討ち死に。徳川方も本多忠朝、小笠原秀政ら討ち死に。
	5月8日、大坂城落城。秀頼、淀君らは自害。豊臣氏、滅亡。一説によると、毛利勝永が秀頼の介錯をつとめ、その後に自害したという。
	5月8日、天晴 巳刻に至り大坂城落つ、秀頼公、同御袋、そのほか女中20人ばかり自害の由也、打ち死にの衆2万ばかりの由也、(中略)
		その夜、もってのほか雨降る。(梵舜日記)

	6 両軍の作戦

	徳川方は、紀伊方面からの部隊のほか、本隊と別働隊の2隊に分かれて大坂城を目指した。家康、秀忠以下約12万の本隊は生駒山麓西側
	の高野街道を進む河内路を、伊達政宗ら約3万5千の別働隊は奈良・法隆寺方面から河内に入る大和路をとった。
	道明寺方面で合流し、その後に平野、住吉方面から大坂城に攻め上ろうとの作戦である。これを知った豊臣方では、徳川方が合流する
	前に機先を制して各個撃破する、との方針を立てた。木村長門守重成(約4千7百)と長宗我部宮内少輔盛親(約5千)が高野街道を南下する
	徳川方本隊を八尾・若江で側面から攻撃し、後藤又兵衛基次(約2千8百)、薄田隼人正兼相(約4百)、真田左衛門尉幸村(約3千)、毛利勝
	永(約3千)らは、国分の狭路を通って河内に入って来ようとする別働隊を迎え撃とうというのである。大坂城に守備兵力のほか約1万の
	予備兵力を配置し、八尾、国分、紀伊の3方面で徳川方を迎え撃つ。勝機のつかめそうな方面に予備兵力を投入して徳川方に打撃を与え、
	兵力差をできるだけ縮めて後、全兵力を大坂城に戻して態勢を整え最終決戦にのぞむ、というのが、豊臣方の戦略であった。
	しかし、豊臣方の動きは、忍者からの報告などにより徳川方に筒抜けであったのに対し、豊臣方では今ひとつ情報収集力に欠けるとこ
	ろがあった。そのうえ諸隊の動きが統一性を欠くなど、いくつかの問題点をかかえていた。

	7 小松山の戦い(国分・道明寺の戦い)

	5月1日、後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相ら平野に到着。真田幸村、毛利勝永ら天王寺に布陣。
	5月5日、幸村らは、基次と会合、6日を期して道明寺で合流し、国分において徳川方を迎え撃つことを約した。同日夜、基次は、約2千
		8百の軍勢を率いて平野を進発。奈良街道を東進し、6日未明、藤井寺に到着した。しかし、濃霧のため、他の諸隊は、予定ど
		おり到着できなかった。しかも、基次ら豊臣方の動きは、すでに徳川方の知るところであったという。
		このため、基次は単独で道明寺に進出したが、このときすでに徳川方は国分に入ってしまっていた。そこで、基次は、後続の
		諸隊を待つことなく、先鋒の山田外記、古沢満興に命じて、石川を渡り、当初の作戦どおり、小松山を占領させた。山田外記
		の旗幟が山上に立ったのを見た基次は、急ぎ本隊を小松山に登らせた。午前4時ごろ、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の
		諸隊と激突、攻め登って来る徳川方とのあいだで、小松山の争奪をめぐって激しい戦闘が繰り広げられた。しかし、徳川方は、
		水野勝成隊(約3千8百)、本多忠政隊(約5千)、松平忠明隊(約3千8百)、伊達政宗隊(約1万)の合計2万3千もの兵力。初めは優勢
		だった後藤隊も衆寡敵せず、しだいに圧倒されて三方から包囲された形になり、基次は討ち死に、後藤隊も壊滅してしまった。
		時に6日午前10時ごろ、激闘実に6時間であった。

	基次の討ち死にの原因は、「矢きずを負って」とも「鉄砲に胸を撃たれて」ともいわれている。負傷した後に自害した。吉村武右衛門
	が介錯したという。徳川方でも奥田三郎右衛門忠次、山田十郎兵衛らが討ち死にしている。
	「軍兵大勢討死。大坂方は猶もって大勢打死。この三村(円明村、玉手村、片山村)の地、あき間もなきほど死体ありける」(河内鑑名所
	記、延宝7年・1679著者は柏原の人、三田浄久)
	薄田兼相、明石掃部、真田幸村、毛利勝永らの諸隊は、基次討ち死にの後、道明寺に到着。薄田隊は、総くずれとなって、兼相は討ち
	死に。明石隊は、徳川方の攻撃を防ぎつつ後退。毛利隊は、敗走して来た将兵を収容して撤退。真田隊は、味方諸隊の撤退援護のため
	誉田村に前進、伊達隊の攻撃を撃退し敗走させたものの、八尾・若江方面の戦いで木村隊が壊滅したとの報告を受け、大坂城へ撤退し
	た。八尾・若江方面の戦いでの木村重成の討ち死にと木村隊、長宗我部隊の壊滅は、6日昼すぎのことであった。濃霧の中での遭遇戦で、
	徳川方の藤堂高虎、井伊直孝らの隊も大きな損害を出した。

	現在、玉手山公園内に「後藤又兵衛基次の碑」、「吉村武右衛門の碑」、「両軍戦死者供養塔」、「後藤又兵衛しだれ桜」(平成12年2月
	植樹)が、周辺には「大坂夏の陣古戦場碑」、「後藤又兵衛奮戦の地碑」、「奥田三郎右衛門の墓」、「山田十郎兵衛の墓」などがある。


	8 後藤又兵衛基次 略伝

	後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560)に生まれたといわれる。黒田長政に仕え、筑前大隈城
	主として1万6千石を領したが、謀反の疑いを受け、浪人となった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣のとき、豊臣秀頼の招きで豊臣方に味
	方して大坂城に篭城。翌年の大坂夏の陣でも豊臣方に味方して、玉手山で討ち死にした。
	大坂の陣の当時、基次は、真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに豊臣方の5人衆と呼ばれた。平成12年(2000)2月、又
	兵衛基次を記念して、基次が花と散った玉手山の地、市立玉手山公園内の基次の碑の横に「後藤又兵衛しだれ桜」が、市民からの寄付
	により植樹された。

	備 考
	「大阪」と表記されるようになったのは明治以降。それ以前は「大坂」と表記されていた。大坂夏の陣が終わった直後の7月13日に「元
	和」と改元された。

	参考文献
	「柏原市史」第3巻 (柏原市 1972年3月)
	「かしわらの史跡」 (重田堅一、柏原市 1992年3月)
	「図説再見大阪城」 (渡辺武、(財)大阪都市協会 1983年9月)
	「歴史群像シリーズ40 大坂の陣」(学習研究社 1994年12月)
	「歴史群像」No41所載「決戦!大坂の陣」(河合秀郎)(学習研究社 2000年2月)





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