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歴史倶楽部第144回例会 日本一の古墳の町
安福寺・安福寺横穴群
2009.6.28 大阪府柏原市
安福寺横穴群(玉手山横穴群)
石川と大和川の合流点を眼下に望む玉手山丘陵は、現在「柏原市立玉手山公園」となっていて、古墳、古戦場の旧蹟群でいっぱい
である。玉手山公園など玉手山の一帯は、古墳時代全期(4〜7世紀)を通じての古墳群であるが、この地域一帯には、とりわけ
前期(4世紀頃)古墳と、後期(6〜7世紀)の墓である横穴墓群が多い。玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の
円墳が南北に連なって築造されており、「玉手山古墳群」を形成している。また玉手山丘陵は、大坂夏の陣(1615)の古戦場とし
ても有名である。
安福寺山門の右手に伯太彦神社への石段が続いているが、ここへは安福寺から行けるので、そのまま安福寺の山門をくぐる。
最初の小さな山門をくぐるとすぐに参道の横両側に安福寺横穴群が広がっている。これら横穴群は、谷間の凝灰岩が露出している
ところに掘られており、参道南側、北側に計35基確認されている。かつては古代人の住居であるといわれていた時期もあったが
石棺や陶質棺、陶器などが見つかっており、中には騎馬人物像などの壁画が描かれたものもあり、古墳時代後期の横穴墓である。
大阪府文化財に指定されている。
古墳時代を11期に分ける編年によれば、ここの前方後円墳は、築造時期が5期以降(5期から8期が中期)に下るものはない。
すなわち玉手山古墳群は、前期古墳期の2期から4期(4世紀)という短期間に、築造、形成されたものと考えられる。また、公
園に隣接する安福寺参道などには、後期(9期から11期までが後期:6〜7世紀)の墓である横穴群も存在し、考古学上も大変
貴重な地域である。
玉手山の北西に位置する安福寺参道の両側に、合計35基の横穴があり、大阪府の史跡指定を受けている。凝灰岩の崖面を掘って
造られたもので、短い羨道と玄室からなり、天井はゆるい弓形となっている。南側、北側に17基、18基、計35基が見られる。
これらの横穴には、造り付けの石棺をもつもの、陶質棺がおさめられているもの、騎馬人物像などの線刻壁画が描かれたものなど
があり、高井田横穴群と並んで、数少ない横穴遺跡として全国的に有名である。
「玉手山安福寺牛頭天王山に土の塚穴二十余有り」(河内鑑名所記、延宝7年・1679)
「玉手山山中に塚穴二十余個あり、中より金環、陶器出る」(河内名所図会、享和元年・1801)
とあり、古くから知られていたことが、うかがえる。安福寺近くの玉手地域コミュニティ会館のそばにも5基の横穴があり、こち
らも玉手山横穴群の一部である。また、玉手山東横穴群には約20基の存在も確認されている。これらの横穴は、高井田の高井田
横穴(国史跡)と同種のもので、大阪府下では柏原市にのみ存在している。
私はこれまで同様の横穴群を、熊本(石貫ナギノ横穴群)と茨城(十五郎横穴群)で見たが、不思議なことに、熊本、大阪、茨城
とこれほど離れているにもかかわらず、作りが殆ど同じなのには考えさせられてしまう。もし3つが一カ所に集まっていたとした
ら、殆ど同一の部族によって造られたと言ってもいいほど似通っているのだ。
横穴は古墳時代以降の墓制の一つであり、5世紀頃北部九州に発生し、程なく九州中部へ移動し、6世紀頃には近畿地方へ伝播し
ていったものと考えられる。「石貫ナギノ横穴群」は、5世紀末から6世紀頃にかけて作られた可能性が高いが、しかしすぐ近く
の「穴観音横穴群」には、8世紀頃作られたと思われる横穴もあるので、或いは「ナギノ横穴群」の制作年代はもっと時代を降る
のかもしれない。
十五郎穴は、古墳時代末期から奈良時代にかけて造られた集団埋葬墓である。台地の崖に横から穴を掘り造っているものを横穴墓
といい、群集していることが多い。横穴墓は、玄室・羨道・玄門・前庭部などから造られており、高塚式古墳の横穴式石室と類似
した構造になっている。この横穴墓からは須恵器、直刀、鉄製品など数多くの副葬品が出土している。十五郎穴横穴墓群は、館出、
指渋などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれて密集しているが、このうち館出に群集している34基が茨城県の史跡に指定されてい
る。虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖からは、約120基が確認されているので、十五郎穴横穴墓群には数百基の横穴墓が
存在している考えられ、我国を代表する貴重な史跡である。
十五郎穴横穴墓群は、熊本の石貫ナギノ横穴古墳にそっくりだった。熊本には中を二つに区切る仕切りが造ってあったり、枕と思
えるようなでっぱりなどが造ってあったが、茨城にはそういうものはないようだった。しかし正倉院にある太刀と類似する「黒作
太刀」のようなすばらしい副葬品があって、そうとうな権力者が葬られていたのがわかる。玉手山横穴群も、高井田の横穴と同じ
く凝灰岩が露呈しているところに掘られており、造りつけ石棺、陶質棺、騎馬人の壁画彫刻など、どうみてもこれら3つの横穴群
は、同じ風習を持った一族によって造営されたとしか思えないのである。
安福寺 (柏原市) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安福寺(あんぷくじ)は、大阪府柏原市玉手町にある浄土宗知恩院派の仏教寺院。山号は玉手山。玉手山丘陵の中央部、玉手山公
園北側の谷間に位置する。境内には明治時代に玉手山3号墳(勝負山古墳)から出土されたとされる「割竹型石棺蓋」が置かれて
おり、かつては手上水鉢として使われていた。重要文化財に指定されている。
お見事! というほど綺麗に掘られた石棺である。機械もない時代によくまぁこれだけ綺麗にと思う。
上は石棺の横腹に刻まれた直弧文(ちょっこもん)。郭公さんは最近この文様を追っかけているらしく、郭公文とからかわれていた。
安福寺は奈良時代の僧行基の創立と伝わるが、中世以降荒れはてて、ただ一棟の小堂があるにすぎなかった。寛文年間(1661年か
ら1673年)に、浄土宗の珂億上人がこの地に来て人を導き、安福寺の名を広めた。だが上人の名を一層高めたのは徳川御三家の一
つ、尾張大納言光友(徳川家康の孫)であった。光友は深く珂億上人の学徳に帰依し、安福寺に寺田を寄付した。次代からは毎年
40金を贈り、これが明治維新まで続いていた。光友が寄進した『山水蒔絵硯箱』『牡丹蒔絵硯箱』『菩提樹蒔絵香筥』は寺宝で
あり、国の重要文化財に指定されている。
参道を上り、2番目の山門をくぐり、境内に入ってすぐ左側に広大な庫裡があり、これに南隣して本堂が建っている。本堂は四間
四面の建物で、寛文年間の造営で屋根は低く柱は太く、大風や地震に耐える万世不易を期したもので、建築史上「珂億建て」と呼
ばれるものである。境内のすぐ西側・高台の上は玉手山公園で、行楽客の歓声が境内にまで聞こえてくる。この公園も当寺の所有
地になっている。
安福寺のすぐ隣に伯太彦神社がある。
柏原市の式内社 伯太彦神社(はかたひこじんじゃ)
所在地 柏原市玉手町 河内国安宿郡 あすかべぐん
祭神 伯太彦命
祭 神:伯太彦命
説 明:伯太姫命と夫婦神で、この地域一体を支配していた田辺氏の氏神であろうと言われている。
住 所:柏原市玉手町707
延喜式には、安宿郡 五座 大三座 小二座として以下のように記されている。
杜本神社二座 並名神大 月次新嘗
杜本神社 大阪府羽曳野市駒ヶ谷64
杜本神社 大阪府柏原市国分東条町
国分神社摂社杜本神社 大阪府柏原市国分市場1-6-35
飛鳥戸神社 名神大 月次新嘗
飛鳥戸神社 大阪府羽曳野市飛鳥1023
伯太彦神社 鍬
伯太彦神社 大阪府柏原市玉手町707
伯太姫神社 鍬
伯太姫神社 大阪府柏原市円明町517
この神社の祭神「伯太彦命」というのは珍しい。この神様を祀っている神社はそうそう無い。式内社としては近畿圏ではここだけ
であるし、そのほかにもおそらく近畿には存在しないのではなかろうか。
この地は田辺郷で、田辺史氏の本拠地祭神は田辺史伯孫といわれている。田辺史氏は百済系渡来氏族で西文(かわちのあや)氏の
管理下に文筆記録に携わった。この地を流れる石川は元は博多川または伯太川と称し流域は田辺史氏が開発した。仁徳朝渡来の百
済人思須美と和徳を祖とするが、8世紀に冒姓上毛野君に改氏姓し、出自を神別とした。
それにしても伯太(博多)というのは気になる。渡来氏族も北九州経由で近畿へ来たとすれば、田辺史氏も博多に住んで、それか
らここへ来たのかもしれない。
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