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上賀茂神社
2007.12.21 京都市北区上賀茂本山





	上賀茂神社(かみかもじんじゃ) 

	<主祭神>
	賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ) または 賀茂別雷命(かもわけみかづちのみこと)
	【下鴨神社(下社)に祀られている玉依媛命の子にあたる。】
	<社格等>
	式内社(名神大)・山城国一宮・二十二社・勅祭社・官幣大社・別表神社
	<創建>
	伝天武天皇7年(678年)
	<本殿の様式>
	三間社流造
 	<由緒>
	神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)[右図]に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が造営
	された。本殿御鎮座以後も広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまなく、国家の重大時には必
	ず奉幣、御祈願があった。嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎王(さいおう)と定め、その制
	度は以来三十五代、約四百年続いた。
	<例祭>
	 5月15日(賀茂祭、葵祭) 
	<住所>
	京都市北区上賀茂本山339  075-781-0011 
	<アクセス>
	市バス「上賀茂御薗橋」下車徒歩5分	市バス「上賀茂神社前」下車すぐ
	<拝観時間>
	1)境内参拝24時間可能
	2)楼門内、開門4月〜10月末 8:00 閉門16:00(土日祝は16:30)
	3)特別参拝拝観時間 10:00〜楼門閉門まで 
	<おすすめ>
	境内は緑あふれた広大な敷地で、一の鳥居から二の鳥居までは、競馬(くらべうま)などの五穀豊穣の神事が行われる開放的な芝生
	となっている。社殿は本殿など2棟が国宝、34棟が重要文化財、境内は史跡に指定されている。
	【武射神事】(1月16日)
	【賀茂競馬】(5月5日) 
	【御阿礼神事】(5月12日)
	【烏相撲】(9月9日) 
	【笠懸神事(かさかけしんじ)】10月21日 




	上賀茂神社は京都で最も古い神社の一つで、平安京造営以前から先住し、この地を支配していた豪族賀茂氏が神山に降臨した「賀茂
	別雷神」を氏神として祀ったのが起こりで、天武7( 678)年天武天皇によって現在の社殿の基が造営したといわれている。創建に
	ついては諸説あるが、社伝に従えば、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』
	逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別
	雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火
	雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい
	力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味である。




	平安時代には皇城鎮護の守護神として尊ばれた。正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ) と言うが、通称「上賀茂神社」
	(かみがもじんじゃ)と呼ばれる。雨をもたらし、農作物を実らす神であるとともに、あらゆる災いを祓い除ける神として崇敬を受
	けた。一の鳥居から二の鳥居まで一面に芝生がひかれ、社殿約60棟が並ぶ。式内社。賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに平安時代
	以降「山城国一之宮」となった。二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
	



	神官山麗に鎮座する一の鳥居が見えて来ると、ここから二の鳥居までは白い玉砂利が敷いてあり、二の鳥居をくぐると二つの盛り砂が
	迎える神域である。国宝の本殿と権殿があり34棟の重文の社殿が威風を漂わせている。




	賀茂別雷神と同じく比叡山西麓に降臨したとされる母神玉依比売命と、祖父である賀茂建角身命は下鴨神社に祀られ、両社を合わせ
	て賀茂神社(賀茂社)と総称される。平安遷都後は、玉城鎮護の神として伊勢の神宮に次ぐ我が国第二の格を与えられ、明治以降終
	戦まで官幣大社として全国神社の筆頭に位した。
	毎年5月15日に行われる京都三大祭の一つである葵祭は、上賀茂、下鴨両神社が合同で行う例祭であり、欽明天皇5年( 545年)に
	始められたとされている。御手洗川の奥にある、ならの小川にかかる丹塗りをわたると、国宝の本殿と権殿が建っていて、三間社流
	造(さんげんしゃながれづく)りの雅やかな姿を見せている。現在の建物は両殿とも文久3年(1863)に造替されたものだが、優雅
	な造形が王朝の昔をしのばせる。世界文化遺産として登録されている。




	国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御
	戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。794年の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一
	層の崇敬を受け、大同2年( 807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。延喜式神名帳では名神大社に
	列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年( 810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の
	斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。明治の社格制度でも、官幣大社の筆頭という、伊勢神宮の次位の神社と
	され、明治16年には勅祭社に定められた。神社は中世に一時衰退したが、徳川幕府の庇護、信心により隆盛し、第二次大戦の終戦
	までは官幣大社の首位に位置していた。












	二番目の鳥居をくぐると、正面に、白砂で作られたきれいな円錐形の「立砂」(盛砂)とその奥の建物「細殿(拝殿)」が目につく。
	「立砂」は、ご神体である神山(後述)を形どったもので、神様が降りられる依代(よりしろ)を表しているといわれている。鬼門な
	どにまく清めの砂の起源はここにある。「細殿(拝殿)」は重要文化財に指定されている。

	(拝殿)寛永5年(1628)造替 。
	(立砂)社殿のまだなかった時、神を招いて祭りをした所という。






	「本殿、権殿」の前に朱塗りも鮮やかな「楼門」が建てられている。他の地味な社殿に比べて「楼門」と「回廊」は朱塗りが派手であ
	り、目立つ。「楼門」は他の多くの社殿と同様、寛永5年(1828年)に再建されたとされている。
	楼門の手前に見えている朱塗りの橋は、境内を流れる「奈良(楢)の小川」の支流である小さな谷川「御物忌川(みものいみがわ)」
	にかかっている「玉橋」であり、重要文化財に指定されている。この「玉橋」を渡ることは禁止されている。「楼門」も重要文化財。










	舞殿、土屋

	「細殿」の東側に「舞殿」が建っている。「舞殿」は、かつて勅使御拝の殿舎として使われていた。現在の建物は文久3年(1863年)に
	建て替えられたものとされている。「舞殿」の下を流れているのが「奈良(楢)の小川」であり、澄んだきれいな水が流れている。 
	「舞殿」に近接して右手に「土屋」が建てられている。「土屋」は神主以下社司の著到殿として用いられていたが、今は祓所として使
	用されている。現在の建物は寛永5年(1628年)に造り替えられたもの。「舞殿」、「土屋」共に重要文化財に指定されている。







	奈良(楢)の小川

	御物忌川と御手洗川が流れる複雑な地形を巧みに生かして社殿が厳かに建ち並んでいる。左右に回廊をめぐらした朱塗りの楼門が立
	っており、その門の中に入ると三間社流造りで共に国宝の本殿と権殿の建物がある。また社殿のほとんどが重要文化財の指定を受け
	ている。5月15日には王朝絵巻さながらの「葵祭」の祭礼が行われるが、私は関西に住んで30年、まだ見に行った事がない。 

	境内の中を北から南に、「舞殿」の下をくぐって流れている小川が「奈良(楢)の小川」である。小倉百人一首に入っている藤原
	家隆の歌、『風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける』は、祈願者の一切の罪が祓い清められるという上賀
	茂神社の祭祀、夏越祓の情景を詠んだものとされている。「奈良(楢)の小川」が神社の境内を抜けると東の方角に流れを変え明
	神川となる。




	 この広場で、10月21日【笠懸神事(かさかけしんじ)】が行われる。12:30から神事(於本殿)、13:00から笠懸を見る事が出来る。
	参道西側に約180mの埓(らち)を設け、武者装束姿の騎手が左右の的に向けて矢を放つ。女性射手も騎乗する。










	上賀茂神社と葵祭

	上賀茂神社の代表的な祭りとして、毎年5月15日に下鴨神社と合同で行う葵祭(賀茂祭)がある。賀茂祭の起源についても諸説あるが、
	太古別雷神(わけいかづちのかみ)が現社殿北北西にある神山(こうやま)に降臨した際、神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿
	礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが、当
	神社の祭祀の始めと社伝はいう。
	欽明天皇5年( 545年)、国中が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)
	に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、賀茂大神の祟りを鎮めるための祭祀を行ったところ、それまでと
	は違って天下泰平、五穀豊穣になり、庶民は大いに喜び、これが葵祭りの起源であり、以後、毎年定期的に行われるようになったとも
	いわれる。『賀茂縁起』
	神前に葵を供え、社殿に葵を飾るため葵祭りと言われている。平安時代に至り、平城天皇大同2年(807)四月には勅祭(勅命によ
	り行われる祭祀)として賀茂祭が始められ、次いで嵯峨天皇弘仁元年(810)伊勢の神宮の斎宮の制に準ぜられ、賀茂の神に御杖代
	(みつえしろ)として斎院(斎王)を奉られ、祭に奉仕させた。
	盛大に執り行われたた祭儀も、室町時代中期頃から次第に衰微し、ついに応仁の大乱以降は全く廃絶した。その後200余年を経て江
	戸時代に至り、東山天皇元禄7年(1694)に、上賀茂・下鴨、両社の熱意と、朝廷・公家の理解、幕府の協力等により再興され、明治
	3年(1870)まで執行された。その後暫く中絶され、単に奉幣使のみの参向となり、明治17年(1884)明治天皇の旧儀復興の仰せに
	より、春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭と共に、所謂日本三勅祭の一として厳粛に祭儀が執行されることとなった。祭日も
	古来4月吉日(第2の酉の日)とされていたが、明治維新以後新暦の5月15日と改められ現在に及んでいる。 


おまけ




私の会社のベランダから見た、中之島の南方(上)と西方(下)。





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