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第127回例会 播磨町の古代を歩く

大中遺跡 2007年10月28日(日)兵庫県播磨町









	喜瀬川に掛かる「メロディー橋」を、赤とんぼのメロディーを聞きながら(と言っても欄干を叩くと音が出るのであるが。)
	渡ると、西側にこんもりと森が見えてくる。住宅街の中にこんな森がと一瞬驚く。左の方に真新しい白い建物が見えるので、
	「あぁ、アレが考古博物館だな」と察しが付く。森は右手の方へ広がっている。ここが甲子園球場より少し広い面積を持つ、
	「播磨大中遺跡」(はりまおおなかいせき)である。












	大中遺跡は昭和37年(1962)、当時播磨町大中在住の播磨中学校3年生だった浅原重利(あさはらしげとし)、大辻真一
	(おおつじしんいち)、大辻要二(おおつじようじ)の三氏によって発見された。発見の場所は播磨町大中(おおなか)の
	北方に横たわる台地で、地元では大増畑(おおぞばたけ)と呼ばれる畑地だった。日頃から考古学に強い関心を持っていた
	3人は、大正時代にこの地に別府(べふ)鉄道が敷設されたとき、多くのタコツボが掘り出されたことを地元の古老から聞
	き、この地を調査していたのである。やがて多量の土器片を発見し、これが大中遺跡発見の端緒となった。






	大中遺跡は海抜13mの洪積世台地の南端に位置し、発見後の調査は20回に及んだ。その結果、この遺跡は弥生時代中期
	から古墳時代中期に至る遺跡である事が判明した。約4万4千平方mの範囲に、円形、方形、長方形、五角形、六角形の住
	居跡が数多く発見されている。そしてそこから様々な用途や機能に応じた土器や鉄器、砥石など当時の人々の生活を知る手
	がかりとなる遺物が多量に発見された。また当時から中国との交流があった事を示す青銅製の「内行花文鏡」(ないこうか
	もんきょう)の破片も出土した。




	昭和38年(1963)3月、大中遺跡がある台地の中でも少し高くなっている所にある、第7−A住居跡から出土した。中国
	で造られた鏡は、はるばる2000kmの旅をしてきたわけで、住居跡は弥生時代後期のものである。遺跡の中程に復元さ
	れている。鏡片は最大長6.2cm、最大幅3cmで、重さは7.2gあり、他の遺跡から出土した鏡を参考に復元すると、
	直径が21.2cmになる。詳細な鑑定の結果この鏡片は、中国の後漢代に製作された「内行花文鏡」であることが判明し
	た。鏡片は意識的に割った上に、片方を磨いて一直線にし、つり下げられるように2つの穴が開けられており、考古学上、
	分割鏡、或いは懸垂鏡と呼ばれている。
	このような分割鏡は、近年弥生時代の遺跡から時々発見されるようになってきたが、昭和38年当時、大中遺跡のこの鏡片
	は、弥生時代の住居跡から発見された鏡としては日本第一号で、考古学界で一大センセーションを巻き起こした。どのよう
	にしてこの銅鏡が大中まで運ばれてきたのか。またなぜ分割されたのか。他の破片はどこにあるのか。誰がこれを首に架け
	ていたのだろうか。三角縁神獣鏡よりも更に古いこの鏡は、平成10年(1998)播磨町指定文化財に指定され、郷土資料館
	に展示されている。(上の写真)。





確かに部屋の廻りが一段高くなっている。座り床か荷物棚か。それにしても2本柱とはめずらしい。







部屋の隅に、貯蔵穴だろうかそれともなにか他の用途か小さな穴が掘ってある。薫製を造っていたのかも。




	昭和42年(1967)には、国の史跡に指定され、昭和49年(1974)年に史跡公園「播磨大中古代の村」として、全面的に
	保存、整備され、遺跡公園として開園している。公園内には復元住居などの野外展示物だけではなく、播磨町郷土資料館も
	併設され、大中遺跡の出土品が数多く保存、展示されている。






	上の解説は正しくない。「この時代は大和を中心とした統一国家が出来たころで・・・」という表現は、せめて「という説
	もある。」と付け加えるべきである。弥生時代後期に統一国家が出来た証拠などは、いまのところ考古学上も文献上も証明
	されてはいない。見学者に誤解を与える表現は避けるべきである。





上右は、住居を囲んでいた周濠だろうか。それとも唯の溝かな。解説はなかった。











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