この展示会は、毎年文化庁の主催で、その前年に日本中で発掘された遺跡から、めぼしい出土品を集めて日本中を 移動しながら展示会を開いているものである。「2006展」だから、2005年度の発掘調査の成果ということ になる。毎年その地方で1館を選び、約1ケ月の会期で開催されている。 近畿地方の今年の会場は、大阪府和泉市の「大阪府立弥生文化博物館」である。一昨年は奈良市の奈良美術館だっ たし、その前は京都府園部町の園部文化博物館だった。日本中で発掘調査は毎年8000件程度行われているそうで、 その中から2,30の遺跡を選び展示されるので、注目される新発見の出土品が多い。新しい発見にも驚くし、新 たな謎にも出会えて結構ミステリアスな体験ができる。
高原山黒曜石原産地遺跡群 剣ケ峯地区 (たかはらやまこくようせきげんさんちいせきぐん けんがみねちく) 尾根上でみつかった黒曜石原産地の遺跡。原産地で粗加工して、平野に石器が運ばれた? 栃木県高原山山頂付近にある後期旧石器時代(約35,000〜16,000年前)の遺跡。遺跡群は、東端の剣ケ峯(標高1540m) から大入道(標高1402m)へ続く尾根の急斜面や平坦面上にある。この剣ケ峯と大入道のほぼ中間地点に1440mのピーク があり、ここを中心に幾つかの遺跡が広がると考えられる。そのなかの一つで尾根上から発見された遺跡では、気泡や 不純物を含まない良質の黒曜石を用いて石器製作が行われたことがわかった。また、幸運にも遺跡が黒褐色土や淡黄灰 色土などの火山灰に覆われており、当時の生活を明らかにできる良好な状態で保たれていた。これまでの採集資料や、 2005年10月に実施された試掘調査では、台形石器、ナイフ形石器、角錐状石器、尖頭器および石核に加え多量の剥片が 確認されたが、なかでも大型の尖頭器の未製品が多数あったことが注目される。 ここで原石を荒く加工して持ち出し、消費地で製品を仕上げたものと考えられる。黒曜石の原産地を特定する蛍光X線 分析により、高原山産黒曜石が南関東を中心に、遠く静岡県にまで運ばれたことが判明している。発掘調査は2006年も 引き続き行われたので、また新たな発見や、旧石器時代の社会や交易の実態解明につながる発表があるかもしれない。
富士石遺跡 (ふじいしいせき) 日本では珍しい後期旧石器の装飾品が出土。モチーフはユーラシアからきたものか? 富士石遺跡は、標高 185〜200m。静岡県東部に聳える愛鷹山(あしたかやま)の南東麓、沢や谷が複雑に入り組んだ尾 根筋の分岐点に位置する。陽当たり、水の便に優れた環境で旧石器時代から中世までの遺構、遺物が出土している。 浅い谷の底で散らばっていた石器と一緒に、流紋岩で作った装飾品(下左)が発見された。地層と、共に出土した石器 の形や組み合わせ、および炭素14ベータ法による推定で、後期旧石器時代後半(約16,000年前)のものと推定されて いる。 この装飾品は、河原石の端を磨き込み、面取して外形を整え、表裏の両面から工具を回転させて穴を穿ち、片側の縁に 先の鋭い工具を用いて、4〜6mm間隔で、計14本の線を刻み入れている。ちなみに、ここでいう工具も堅い石と考えら れる。このような、周囲に連続して刻みを入れるデザインは同時代の大陸にもあり、日本では、北海道柏台1遺跡出土 の石製品(砂岩製)、岩手県峠山牧場T遺跡出土の垂飾(滑石片岩製)と共通している。
六通神南遺跡 (ろくつうじんじゃみなみいせき) 房総半島で見つかった草創期の石器群。石材の動きから探る西日本との交流。 六通神南遺跡は、千葉市内を西に流れる村田川下流域右岸の標高45〜47mの台地上に位置する。1983年、1990年度に行 われた調査で、暗褐色土層から立川ローム層最上層にかけて、縄文時代草創期(13,000年前)の石器群が見つかった。 石器は、遺跡東側の台地の縁に近い部分と、西側のやや奥まった辺りの2ヶ所から出土した。東側の集中部は比較的大 きく、尖頭器(せんとうき)、掻器(そうき)、削器(さっき)など約90点の石器が見つかっている。これに対して 西側の集中部は出土数15点と少なく、散漫である。この2つの石器集中部が同時に残されたのか否かについては、出 土層位からは明らかにならなかった。一方、石器の材料となった石材については、器種ごとに使われる種類が異なると いう、興味深い事実が判明した。 掻器や削器の石材には、頁岩(けつがん)が主として用いられているが、尖頭器には、安山岩・流紋岩が使用されてい る。これまで安山岩と流紋岩の産地は不明だったが、石材の蛍光X線分析を行ったところ、流紋岩は岐阜県下呂産(下 下呂)の、安山岩は奈良県二上山産(サヌカイト)の可能性は高いことがわかった。この分析結果だけで、奈良県や岐 阜県から千葉県に石器・石材が直接供給されたと即断は出来ないが、今後中間地帯の東海・西関東地域との比較研究が 進展すると、縄文時代草創期の石器・石材の移動や流通の実態などが明らかになっていくことだろう。 日本列島の中間に位置する六通神南遺跡は、縄文時代草創期の石器・石材交流を示す一例として重要である。
大正3遺跡 (たいしょう3いせき) 北海道で初めて草創期の遺跡が見つかった。 大正3遺跡は北海道東部の十勝平野南部、平野を横断する十勝川の支流、途別川に面した段丘上にある。2003年の発掘 調査で、縄文時代草創期の遺物をはじめ、早期の石刃鏃(せきじんぞく)文化の竪穴住居、早期末葉の墓など、縄文時 代の遺構・遺物が見つかった。北海道で草創期の遺跡が見つかったのは初めての事である。 約9000点以上の草創期の遺物は、段丘礫層の直上に堆積したローム層から出土した。土器の破片は400点出土し,土器10 点あまりの分量になる。石器は剥片類を含めると約8600点あり、石材は黒曜石が主体で、安山岩製のものが少量ある。 土器の内面に付着した炭化物の放射性炭素年代測定では、12,000〜12,500BPを示している。今回の調査で、北海道東部 の内陸部にも確実に草創期に相当する遺跡があったことが確認でき、縄文時代の始まりを再考させる資料として注目さ れている。
梅之木遺跡 (うめのきいせき) 茅ケ岳の麓に営んだ大環状集落。集落から川に続く縄文の道、川に設けた作業場が見つかった。ムラの様子がみえる。 梅之木遺跡は、甲府盆地の北西に聳える茅ケ岳の西麓、標高800mの丘陵地に立地している。百数十棟の竪穴住居が環を 描いて並ぶ環状集落で、縄文時代中期後半(約4500年前ころ)の約500年間存続したと思われる。 竪穴住居の他に多数の墓や貯蔵穴と思われる土坑があり、縄文土器や石器、道具卯などの祭祀道具も出土している。 集落から川辺の作業場へ行くには、高さ十数mの急斜面を降りなければならない。縄文人はこの急斜面を削って、幅約 1m、長さ70mの緩やかな「道」を作っていた。関東・中部地方では環状集落が多数発見されているが、集落、作業 場、道がセットになって見つかる例はほとんど無く、山梨県内では初めて。縄文時代人たちの生活やムラの様子が手に とるようにわかる貴重な遺跡であるが、末尾にあるように、今回の展示には展示物は無かった。
中屋サワ遺跡 (なかやさわいせき) 縄文時代晩期の華麗な装飾の漆製品。当時の水辺の作業場でパックされた状態で出土。 中屋サワ遺跡は金沢中心部から北西約5kmにある、縄文時代から室町時代に賭けての遺跡である。遺跡の周辺には、 新保本町(しんぽほんまち)チカモリ遺跡、御経塚(おきょうづか)遺跡、古府(こぶ)遺跡など、縄文時代の遺跡が 数多く存在しており、当時の生活環境はかなり良好だったと想像される。中屋サワ遺跡はこれまで4次に渡る発掘調査 が行われ。調査面積は1万平方mにおよぶ。特に2001年からの第二・四次調査で確認された縄文時代晩期の河川跡から は、大量の遺物が出土し注目を集めた。 この河川跡では多数の木材を並べ木杭を打ち込んだ水辺の作業場が見つかった。その近くの岸には木の実類が出土する 土杭群が見つかったことから、ここでは木の実のアク抜きなどを行っていたと考えられる。河川跡は現在でも水が多く わき出ており、水分を多く含んだ土で遺物がパックされた状態だったので、特に木製品は良好な保存状態だったと思わ れる。弓や木製容器、腕輪、櫛などの漆製品は、縄文時代の高い漆技術を今に伝える貴重な資料である。
雑餉隈遺跡 (ざっしょのくまいせき) 石剣が墓から完全な形で出土。弥生時代開始の議論に新たな資料が出現! 雑餉隈遺跡は福岡市の南端、標高20m程の台地上にある。ここから弥生時代前期の4基の木管墓が見つかった。 墓の棺材や人骨は残存しないが、4基ともに夜臼式系壺形土器を入れ、1基を除き3基には有柄式磨製石剣を1本ず つ副葬していた。有柄式磨製石剣とは、刃や柄など剣全体を1つの石材から丁寧に研磨して作り出したものである。 このように、複数の石剣が完全な状態で見つかったのは極めてまれで、これまでの発見例では、先端だけが墓から出 土する事が多く、中には骨に刺さった状態で出土するものもある。これは石剣が武器として用いられていたことを示 す。石剣は国内では対馬や北部九州など、朝鮮半島に近い地域で発見され、銅剣が貴重な存在だったころに遙か海を 越えて伝えられたものと考えられる。それはちょうど北部九州で水田耕作が始まった時期にあたり、金属器が普及し 出す前期末以降になると次第に姿を消してゆく。
この三本の石剣は、遼寧式銅剣や中国式銅剣をモデルにした磨製石剣である。この種の石剣は中国の遼東地域から朝 鮮半島にかけて分布することが知られており、私も訪問した韓国の「松菊里(ソングンニ)遺跡」にも同じものがあ った。下の写真を見て、これは同じ人間が作ったのではないかと思うのは私だけではあるまい。 ---------------------------------------------------------------------- 写真は、松菊里遺跡で発見された石棺墓副葬品と考えられる石鏃と石剣など ----------------------------------------------------------------------
ここからの遺物の大半は、遺跡から歩いて15分ほどの「福岡市埋蔵文化財センター」に保管されている。いつでも 見れるので、近くの方は是非訪問される事をお薦めする。
山賀遺跡 (やまがいせき) 河内平野の大集落で、特殊な木製品が出土。 この遺跡は、大阪府中央部に広がる河内平野、旧大和川流域の洪積低地にある。現在の行政区域で言えば大阪府八尾 市である。遺跡は縄文時代から近世に及び、特に弥生時代には広範囲にわたって水田、溝、住居、墓などが営まれて いる。 「垂飾(たれかざり)」形木製品は、弥生時代前期中頃から後半にかけての土杭から出土した。両面に「8」の字の 様を刻み、全体に漆を塗った精巧な品で、直径は約5cm、厚さは最大で約3cmである。
垂飾形木製品(上左、下段。下)は、上部に鈕(ちゅう)がつき、その片面の漆がはげていたため、これは「ひも擦 れ」だとされ、ひもでぶら下げて使っていたものと推測された。「垂飾形」というのはそこからきている。側面は線 刻が4本めぐり、左右に貫通する抉(えぐ)り孔がある。その奧(下部)には系2mmほどの穴が十数個、やや不規 則ながら二列に並んでいる。切り込みの内部には穴から続く凸凹が残っているので。細い棒状のものが突き刺さって いたと考えられる(以下復元想像図参照)。
これは一体何であろうか? 私も日本の遺跡・博物館を相当見てきたが、こんなものには今までお目に掛かった事が ない。模様は縄文土器に刻まれている模様にも似ているし、弥生時代の銅鐸に刻まれる「流水紋」にも似ている。 上下をひっくり返せば、切り込みのある構造は団扇(うちわ)の要(かなめ)の部分にも似ている。団扇の要は弥生 時代後半に既に出土例があるそうだ。しかし厚みがあり、真ん中を貫通する穴は団扇とも思えない。これはなに?
このような木製品は全国的にまだ出土例が無く、今回のものが最初である。精巧に加工された痕跡は、これが日用品 ではなく、祭祀など何か大事なことの為に作られたものである事を想像させる。発掘による「新発見」は、ほんとに 我々の好奇心をかりたててくれる。
荒谷遺跡 (あらやいせき) 完形の遠賀川系土器。抉入柱状片刃石斧が出土。縄文晩期〜弥生前期の配石遺構が見つかった。 荒谷遺跡は青森県八戸市南郷区(旧南郷村)島守地区を流れる新井川のほとりにある、縄文時代前期から平安時代ま での遺跡である。2005年度の発掘調査で注目される2つの発見があった。1つは弥生文化の伝播を示す遠賀川系土器 と抉入柱状片刃石斧(えぐりいりちゅうじょうかたはせきふ)と呼ばれる磨製石斧が出土したことで、もう一つは縄 文時代晩期から弥生時代前期のころに作られた配石遺構である。 遺跡には大きく環状に石を並べた遺構(巨大配石遺構)があり、直径32m(推定)の規模と見られ、遺物の出土状 況や配石の上の火山灰から、縄文時代晩期後葉から弥生時代前期(2400〜2200年前)まであったものと考えられる。 遠賀川系土器が出土した土杭墓群や、磨製石斧が埋められていた遺構もこの配石遺構の一部だが、これまで知られて いる環状列石の年代より数百年新しく、関連については今後の研究課題である。
上左の松石橋遺跡は荒谷遺跡の隣にある遺跡であり、ここでは東北地方では初めて、1982年に遠賀川系土器が見つか った(写真中央)。この土器は、外側表面に格子状にこすれて削れた跡があり、編み籠をかぶせてあったものと思わ れる。これ以降、東北地方の日本海側の各地に、遠賀川系土器が転々と確認されたほか、特に太平洋側では特に八戸 港へ注ぐ馬淵川と新井田川流域で多く発見されている。弥生時代前期に、西日本の弥生文化が東北地方北部にまで達 していたことが確認された。 上右写真の左上部にあるものは抉入柱状片刃石斧と名付けられた磨製石斧である。石斧は水田稲作技術と共に大陸・ 半島からもたらされたもので、東北北部では初めての出土である。右側はこの石斧と一緒に出土したメノウ原石であ る。遺跡の北西側に小さな円状の配石があり、その中心に磨製石斧と土器が並べて埋めてあり、土器にかぶせた蓋石 の下にメノウ原石14点が入れられていた。メノウを入れた土器は地元様式の土器で、磨製石斧、遠賀川系土器の出 土と併せて、西日本と交流があった事を物語る貴重な資料である。今回の発見は、東北地方北部における、縄文時代 から弥生時代への文化移行期のあり方を探る上で、実に貴重な発見と言える。
八ノ坪遺跡・白藤遺跡 (はちのつぼいせき・しらふじいせき) 熊本平野でも早い時期から青銅器生産を行っていた! 特徴的な渡来人の土器と地元の土器が混在。 ●渡来人と地元の人が共に住む青銅器生産のムラ 八ノ坪遺跡は熊本平野の南西部、白川の旧自然堤防上にある弥生時代の遺跡である。調査の結果、弥生時代前期後半 から中期前半にかけての住居、墓と、青銅器を生産した工房跡からなるムラ跡が見つかった。中でも4点の鋳型が遺 跡の北側から出土した事が注目された。鋳型の他に銅片、送風管、鋳造時にでる銅滓(どうさい)など、青銅器生産 に伴う遺物が出土し、ここが工房跡であったことがほぼ確定的となった。熊本でも青銅器を生産していたのである。 青銅器の鋳型とともに朝鮮半島由来の牛角取手付壺形土器(ぎゅうかくとってつきつぼがたどき)が出土している。 出土土器の年代から、鋳型は弥生時代中期初頭〜前半のものと推定される。 また、川を挟んだ南側には住居と墓があり、墓からは多数の人骨が出土した。人骨の肘を折り曲げ胸の前で組むなど、 埋葬の方法は北部九州出土の人骨と共通している。また住居からは朝鮮系の土器も出土し、地元の土器と混じってい た。これは青銅器製作にかかわった人々が土器と共に渡来してきたと考えられ、地元の弥生人と渡来人が一緒に住ん でいたと推定される。
上右はイノシシの下あごと一緒に埋められていた、祭祀用と思われる土器や石器。石器は真ん中に穴を開けた何かの 土台と思われるが、右側のいっぱい穴の空いた石器について、今日解説してくれた博物館の学芸員は「雨だれが開け た穴ではないか。」というようなことを言っていた。その学芸員(名前は忘れた。)はこのあたりの出身だという。 また鋳型は、八ノ坪遺跡から2,3kmしかはなれていない白藤遺跡でも出土している。青銅器を作り始めた初期の 鋳型は吉野ヶ里遺跡など有明海沿岸の遺跡で多く見つかっている。八ノ坪遺跡や白藤遺跡も有明海沿岸に位置し、遺 跡の立地や朝鮮系土器の出土など、佐賀平野の遺跡と多くの共通点を持っている。この遺跡の出現で、中九州の熊本 平野でも、中期前半に青銅器を生産していたことが確定した。有明海を通じた青銅器生産ネットワークの存在が垣間 見える。上左は工房の作業想像図。
吹上遺跡・釜蓋遺跡 (ふきあげいせき・かまぶたいせき) 日本各地との交流を物語る、新潟西部の大規模な玉造集落。 扇状地から高地へ、再び平地へ。集落の移動も明らかに。 吹上遺跡と釜蓋遺跡は、上越市の南西部に広がる青田川扇状地の河岸段丘上にある。海岸から約12km内陸部に入 ったところで、信州方面への玄関口になる交通の要所にあたる。弥生時代中期(約2100年前)の大規模な玉造遺跡で ある吹上遺跡を中心に、半径1.5kmほどの範囲には、南に弥生時代後期後半(約1800年前)の高地性環濠集落斐 太(ひだ)遺跡(妙高市)、北には弥生時代終末期〜古墳時代初頭(約1600年前)のごく短期間営まれた平地の環濠 集落釜蓋遺跡がある。環境の変化や時代背景により、中心となる集落の一が移ったようである。
吹上遺跡からは、ヒスイを利用した勾玉と緑色凝灰岩(緑)、鉄石英(赤)を素材とした管玉など、製作途中の玉が たくさん出土した。勾玉や管玉を作る作業はそれぞれ別の工房で製作されており、こういう例は全国でも珍しい。吹 上遺跡では、玉造りによって遠隔地と盛んに交流・交易を行っていたものと考えられる。信州や北陸内部、東海、近 畿、山陰方面から運ばれたか、或いは模倣したかと思われる土器によって、その交流の広さを窺い知る事が出来る。
釜蓋遺跡は、幅2〜5mの濠で囲まれた、佐渡を除く新潟県内で初めて発見された平地の環濠集落で、斐太遺跡が終 焉を迎えるころに営まれた遺跡である。ここでも玉造りを行っていて、信州を初め各地との交流を示す土器が出土し ている。これらの遺跡に残された数々の玉と土器は、上越市南西部が地域と地域、人と人を結ぶ地であったことを雄 弁に物語っている。
鶴見山古墳 (つるみやまこふん) 筑紫君磐井に縁の深い人物の墓か。北部九州の巨大な古墳から石人が出土。「もがり」も行われたか。 福岡県南部の八女丘陵に展開する八女古墳群には、大小合わせて数百の古墳がある。筑紫の君の、幾世代にもわた る墓域と考えられており、その範囲は東西10数kmにおよぶ。この丘陵には西側から石人(せきじん)山古墳、神奈 無田(じんなむた)古墳、岩戸山(いわとやま)古墳、乗場(のりば)古墳、善蔵塚(ぜんぞうつか)古墳、鶴見 (つるみ)山古墳、釘崎(くぎざき)古墳群、丸山(まるやま)古墳など11基の著名な前方後円墳がある。この東 方には「金製垂飾付耳飾り」や多数の埴輪を出土した立山山(たちやまやま) 8・13号墳、巨石古墳として有名な 童男山(どうなんざん)古墳などがあり一大古墳群を形成している。総数は150〜300基と考えられている。
鶴見山古墳は、全長約105m、憤丘の長さは87.5mあり、6世紀中頃の前方後円墳としては北部九州屈指の古墳である。 後円部には大型の石材を用いた横穴式石室があり、被葬者のものと思われる毛髪痕や「モガリ」があった事を推定 させるヒメクロバエの蛹殻(さなぎがら)の跡が残る銅鏡の破片2点が出土した。南側のくびれ部からは方形の造 り出しが見つかり、周辺からは多量の須恵器が出土している。 前方部前面の周溝から武装石人1体が出土した。石人はほぼ完全な形で、全長158cm、最大幅78cm。 写実的な造り の衡角付兜(しょうかくつきかぶと)、短甲、草擦りを身につけている。
石人の出土状況。深さ約1.5m、周溝底面から約20cm上のところにあった。石人の周囲には多量の石材が重なってお り、石人が当初設置された位置から発見された場所に移されたのではないかと考えられる。 付近の岩戸山古墳からは、同じく精巧な造りの武装石人頭部や石馬などが出土しており、この古墳との関連も注目 されている。岩戸山古墳は一般的には「筑紫君磐井」の墓だと考えられており、この古墳の被葬者もその一族では ないかとの見方もある。
新田原古墳群百足塚古墳 (にゅうたばるこふんぐんむかでづかこふん) 上右の写真、左下に小さくあるもの。そう男性のシンボルである。ここではこれだけが発見され、身体全体は未発見 である。男性器をりん立させた埴輪は他にもあり、確か「博物館めぐり」か「遺跡巡り」の中の「古墳時代コーナー」 で、どこかの古墳から出た埴輪にあった。これと対になっていたのではないかと思われるのが、下右の埴輪である。 このアングルはやや上から写しているのでよくわからないが、この遺跡の最後の写真を見ると、スカートを持ち上げ た下には女性器が表現してあるのがよくわかる。私も相当数の埴輪を見てきたが、こんな埴輪は初めて見た。
私は知らなかったが、この古墳群は、宮崎県の有名な西都原古墳群とは一ツ瀬川を挟んで東側に位置する。古墳時代 後期に前方後円墳が数多く作られた、日向地方最大級の後期古墳群なのだそうだ。今日展示されている埴輪類は、こ の古墳群の中の、古墳時代前半(6世紀前半)の前方後円墳である百足塚古墳から出土したものである。埴輪が好き な人なら、これらを見てまず思うのは「何や、近畿の古墳とおんなじやん。」と言うことではなかろうか。それも、 大阪府の今城塚古墳から出た埴輪類と殆ど同じ形象をしている。柵形埴輪、円筒埴輪、盾形埴輪など、まったく同じ もののようだ。解説では、古墳時代後期の地方首長が大王墓の埴輪配置を取り入れていた実態がわかる重要な事例で あると書かれているが、ほんとにそうなのだろうか。
西都原古墳群といい、この新田原古墳群といい、なにゆえに日向にこんなに多くの前方後円墳が作られたのだろうか。 北九州にはこんな規模の古墳群は無い。もちろん古墳はあるが単発であったり、小規模な古墳群が多い。どうして日 向にはこんなにも前方後円墳が集中しているのだろう。しかも西都原などは、初期の古墳から後期の古墳まで揃って いる。もし、近畿の古墳の製作過程を見てこの地方(日向)でも同じものを作っていったとすると、日向は古墳時代 を通じて近畿地方の動静を絶えずウォッチしていたことになる。或いは近畿地方の豪族達の一派が、北九州ではなく この日向地方を選んで移ってきた事になるが、何故日向なのか。
ここで大胆にも一つの仮説を立ててみよう。それは、 「古墳時代人の誰かが、ここ日向から船を漕ぎだして畿内へ移動した。それ故に近畿にも同じような古墳群が存在す る。或いは、畿内へ行った大王が、自分の故郷である日向とは絶えず行き来をしていて、日向は、大和朝廷が完全に 日本を統一するまでは、「大王の出身地」というメッカだった。」というものだ。マルクス主義の系統を踏む今の考 古学者たちからは「戦前の皇国史観ではないか!」という声がすぐ返ってきそうな気がするが、そう考えれば、神武 東征と符号するし、ここに近畿と同じような埴輪があってもしごく当然という事になる。ホントにこういう考えは成 り立たないのだろうか。九州の大型古墳は、本当に畿内の影響の元に製作されたのだろうか。 畿内も古墳時代の進展段階を経ているし、近畿の古墳総数はとても九州の比ではない。その数からすれば、古墳時代 は畿内が中心で、地方豪族達がその影響を受けたと考えたくもなる。しかしそうではないとしたら、古墳時代の幕開 けも、その萌芽は九州にあるのだとしたら。では、この古墳群や埴輪群はいったいどう解釈すればいいのだろう。
我々素人には、古墳の編年などは正直わからない。学者がこれは前期、これは後期とか言っているからそれを鵜呑み にしているだけで、その学者たちの頭の中に「近畿中心」という考えが刷り込まれていたとしたら、何をどうしても、 九州の古墳は「畿内のものを真似た。」ということになるのではなかろうか。 勿論、副葬品の金属器や土器については、過去の研究で蓄積された「編年」があるし、この形はこの形より古い、と いうマニュアルが既にできあがっている。考古学者たちは、出土品をそのマニュアルに照らして「これは前期、これ は後期」とか分類しているのであるが、もしそのマニュアルが無いとしたら。或いはどこか間違っているとしたら。 つまり、全く予備知識が無いとしたら、A古墳がB古墳より古い、などと言うことはどうして判断出来るだろうか。 古墳は遺跡と違って層位がない。つまり地層の上下がないから、その古墳の編年は、葬送の形式や副葬品から判断せ ざるを得ない。「この形式の須恵器は、年代を経るごとにだんだんこの部分が無くなって、後期末葉には姿を消して しまう。」と大昔大家が書いていたとしたら、それは弟子達が信奉し、やがて定説となり、マニュアルになる。だが ホントのところその信憑性は誰にもわからないのではなかろうか。最近はいろいろな科学的方法で年代を割り出す手 法も進歩してきたが、それとて、最近京都のどっかの研究所が鏡の分析でやったように、学者が恣意的にデータを提 供すれば何の意味もない。
この、スカートを挙げて性器を見せている女性の埴輪は、SEXが大らかな時代のたわいもない遊びで作られたと見 る事もできるが、文献に書かれたある人物を想起することもできる。そう、アメノウズメである。岩屋に隠れた天照 大神を引っ張り出すために、おもしろおかしく踊って胸(や性器)を見せてみんなを笑わせ、顔を出したアマテラス を岩屋から引っ張り出すという役目をしたあの女性である。 継体天皇陵と同じ埴輪を持つこの古墳は、私に、あの古墳(今城塚)の埴輪はここから来たのではなかろうか、それ ゆえに、天照大神、日向神話、神武東征というような神話が畿内に残ったのではないか、我々はもう一度記紀を読み 返す必要があるのでは、さらには、考古学と文献との接点について、述べたような考えを惹起させた。
大座西2号墳 (おおざにし2ごうふん) 隠岐島の古墳から豪華な副葬品。銅椀、帯金具、土師器など、畿内との関わりが強い人物が追葬されたか。 大座西2号墳<は島根半島から約70km隔てた隠岐諸島の島後(どうご)にあり、西郷湾を見下ろす丘陵の先端部 に築かれた古墳時代後期の古墳であるが、後世農地整備などで削られたため、憤丘と石室の形状は不明である。 残っている石室の部分から、長さ3.5m以上、幅が約3mの横穴式石室と考えられている。 この石室からは、多数の副葬品が出土している。6世紀後半から7世紀初めにかけての、須恵器や土師器、銀象嵌 入り鍔(つば)、太刀、鉄斧、鉄鉾、鉄鏃、鹿角製の柄がついた刀子(とうす)、勾玉などは、古墳が築造された 当初に古墳に収められたものらしいが、他にも銅椀、漆塗り帯金具、暗文(あんもん:模様を入れた上から何かを 塗って、表面にはその模様が出てこない。)を施した土師器杯、須恵器の一部など、8世紀後半の遺物も出土して おり、古墳がこの頃に再利用、若しくは追葬されたものと考えられる。8世紀の遺物は、内容の豊富さや、暗紋土 器など、畿内との交流を伺わせるもので、葬られた豪族の子孫が、やがて大和朝廷の官人となり、疎遠の墓に併葬 されたとも考えられる。
箱根田遺跡 (はこねだいせき) 運河と倉庫群、川の港での律令祭祀。 箱根田遺跡は静岡県東部、箱根山の南西に広がる田方(たがた)平野の中央部にある。最近の発掘調査で、伊豆国 もしくは田方郡に関係すると見られる、奈良時代後半から平安時代前半にかけての「津」(つ:港)と、そこで行 われた祭祀の跡が見つかった。 遺跡の中央部にある大溝は、来たから南に穏やかに流れ、幅12m、深さ70cm程の規模があった。その底から は、墨書人面土器や墨書土器、木製祭祀具、ミニチュア時、線刻土器のほか、土師器や須恵器、緑釉陶器、動物遺 体など約2万点におよぶ多数の遺物が見つかった。中でも注目されるのは墨書人面土器で12点が出土している。 一方、大溝の北側では6棟の掘立柱建物が見つかった。1棟の面積は20平方mあまりとそれほど大きなものでは ないが、条里の方向に沿って、板塀と溝で区画したなかに整然と配置しており、公的な倉庫群と考えられている。 このことから、大溝は付近の河川を経由して駿河湾に至る運河で、北岸に広がる倉庫群は津の施設と考えられる。 川を運んできた物資を、ここで陸揚げして港の倉庫群に保管したのか、或いは保管した物資を川で上流へ運んだの か、いずれにしても現在の港湾施設と殆ど変わらない様相だったと思われる。現代と違うのは、ここでは、平城京 などの都域とほぼ同様に祭祀を継続的に行っていた事である。河口や中洲で祭祀を行っていた例は、ココ以外にも 幾つか知られており、私の住む大阪府吹田市でも、神崎川河口付近で「八十島祭り」という祭祀を行った例がある。 墨書人面土器や木製祭祀用具、ミニチキュア土器を用いた祭祀は、西は太宰府から北は秋田城まで、主に国府や郡 衛(ぐんが)など、古代の役所に近接した河川や水路、道路などで見つかっており、外界から進入してくる災いを 祓う祭祀を公的に行っていたことが確認されている。ここ箱根田遺跡でも、そうした祭祀を行っており、地方官衛 における祭祀のあり方を知る貴重な遺跡なのである。
上右の写真でははっきりとはわからないが、土器一面に墨書で人面が書かれている。その人面には恐ろしい顔の人 物も描かれており(背の高い大壺)、これは悪霊をこの中に閉じこめ川に沈めたと考えられている。 上左の人形(ひとがた)も、自らの汚れや罪をこの人形に託して川に流したものと考えられる。左端は神の聖域を 区画した斎串(いぐし)。
青木遺跡 (あおきいせき) 奈良・平安時代の役所と神社。祭祀や信仰に関わる遺物が続々と出土。 青木遺跡は出雲平野の北東端に立地し、山際の小さな扇状地にある、弥生時代中期〜江戸時代の遺跡である。奈良 時代〜平安時代前半では、建物群とともに多くの遺物が出土しているが、その内容は一般的な集落とも、典型的な 地方官衛とも異なる特殊なものである。
上右が出土した木簡。この地方の郷名と個人名と思われる名前が記され、この付近に物資を集める公的な施設があ ったことがわかる。左上方には土馬。祭祀の執り行われた場所からは必ずと言っていいほど出土している。言い換 えれば、これらが出土するので祭祀場とわかる。
●出雲の神社建築様式を持つ 遺跡の特徴は3つにまとめることができる。第一には、建物で特殊な構造をとるものがある事である。見つかった 8棟の建物のうちの一つは平面が「田」の字で表される9本の柱から成り、中心の柱だけをひときわ太く、深く埋 めていた。これは出雲地方に今でも見られる「大社造り」と呼ばれる建築様式と共通している。またこの建物の周 囲は、石と溝によって方形に区画されていた。こうした点かららもこの建物は神社の可能性が高いとも考えられる。 第二に祭祀や信仰に関わる遺構、遺物が多いことが挙げられる。石敷きで装飾した井泉や、土器に果実を入れて埋 納した土杭ばどが見つかり、遺物では神像、絵馬、刀子形代などの木製祭祀具のほか、土馬やミニチュアの土器な ど土製の祭祀具が出土している。 第三の特徴は多量の文字資料が出土している事である。木簡88点、墨書土器117点という数は中国・四国地方 で最大である。
(上、上方の土器にはモモ、スモモ、ナシが一杯詰められて埋められていた。神への貢ぎ物か。) 以上の特徴から、この遺跡には奈良時代後半から平安時代初頭にかけて地域の中心となる施設があり、盛んに祭祀 が行われていたと考えられる。一方出土した木簡の記載内容などから、この付近に役所としての機能を持つ施設が あったと見る考えが有力になっている。この時期の神社や祭祀の具体的なありかた、地方の役所との関わりを物語 る遺跡となった。
中原遺跡 (なかはらいせき) 防人についての木簡が初めて見つかった。木簡、墨書土器など、郡衛関連施設から新資料が続々出土。 中原遺跡は佐賀県唐津市東部に聳える鏡山の南西約5.5km、唐津湾と松浦川によって形成された砂丘微高地上 にある。調査の結果、弥生時代、古墳時代の集落と墳墓、奈良時代から平安時代後期の役所や水田が見つかった。 特に古代の木簡や墨書土器などが多量に出土し注目を集めた。
木簡は19点出土しその中で特に注目されるのが8号木簡である。8号木簡には2つの文書が重なって書かれてい た。そこに見える「甲斐國□戌□」は甲斐の国出身の兵士のことで、すなわち東国防人(さきもり)と関わる文書 である事が判明した。木簡に見える「延暦八年(789)の年号や、ともに出土した土器から8世紀後半のものと推定 される。防人は唐や新羅からの侵攻を防ぐため、7,8世紀に甲斐国をはじめ東国から兵士を集めて北部九州に配 備した制度で、そのことを記した木簡は初めて出土した。これは防人の制度だけでなく、古代甲斐国の様子を知る 上でも貴重な発見である。
木簡や墨書土器、硯(すずり)、曲物などの木製品などが多量に出土したが、その中でも緑釉陶器、奈良三彩など とともに完形の土師器杯、椀が集中して出土する場所があった。祭祀を行った場所だと思われる。これらの遺物は 遺跡の北側を東西方向に流れる自然流路から出土した。確認できた自然流路は総延長約370m、深さ約1〜1.5 mに及ぶ。墨書土器には「林少領」「館院」などと書かれたものがあり、自然流路内からは舟形が出土し、祭祀が 行われていたことが確認された。本遺跡には郡衛(ぐんが)のような施設があったと思われる。
稲古館古墳・栄町遺跡 (いなふるだてこふん・さかえまちいせき) 古墳から正倉院宝物級の太刀が出土。付近には同時期の郡衛があった。陸奥国石背郡衛と国司の墓か。 稲古館古墳は福島県のほぼ中央部、阿武隈川の支流に面した丘陵の尾根上にある奈良時代前半の円墳である。古墳 の規模は、直径12m、高さ1.2mで、古墳の廻りに溝はない。埋葬施設は、凝灰岩を細長い直方体に加工し、 組み合わせて造った横穴式石室である。石室の構造は、前庭部と玄室からなり、その間には玄室をふさぐための門 (玄門)があったと考えられる。玄室からは太刀一振り、刀子(とうす:小刀)2点、鉄鏃(てつぞく:やじり) 13点、釘2点が出土し、憤丘の上や盛土のなかから少量の土師器杯が出土している。
太刀は玄室の床面西側奧壁寄り、側壁沿いから出土した。この太刀は東大寺の正倉院に所蔵されている太刀(中倉 八第五号 金剛鈿荘太刀(こんごうでんそうのたち))とよく似ており、この古墳の被葬者は相当な権力者だった と推定される。鞘(さや)は漆塗り、柄(つか)には糸を巻き漆で固定している。帯執(おびとり)の足金具は山 形で、銅をかぶせた花形覆輪(ふくりん)が付いている。鍔(つば)は鉄製の板状で、ハート形の透かしがある。 なお、精緻に加工した石室は、福島県においては現在のところ他に類例がない。
稲古館古墳が造られたのは、出土した土器や太刀から奈良時代前半と考えられる。この時期、近隣の地域では、す でに古墳を造らなくなったにもかかわらず、石背(磐背)郡において古墳が築造された背景には支配者層による何 らかの意図があったと考えられる。また同じ時期には、すでに石背(磐背)郡衛が存在しており、古墳の被葬者は 郡を治める重要な地位にあった人物と推定される。
栄町遺跡は、阿武隈川と釈迦堂川の合流付近の台地上にある、奈良時代から平安時代の郡役所跡(郡衛:ぐんが) である。稲古館古墳から4kmほど離れている。区画整理事業に伴い、1996年度から調査が開始され、2004年度の 調査では、郡衛の中枢施設である郡庁の建物跡が見つかった。またその建物群から「石瀬」と書かれた墨書土器が 見つかったことから、この遺跡が陸奥国石背(磐瀬)郡衛であることが明らかとなった。郡庁建物の変遷は大きく 6期にわけられ、建物の構造や構成、主軸の方位などが各時期で変化している。今後の官衛遺跡を研究する上で貴 重な成果となった。
また、栄町遺跡の1km圏内には奈良時代初頭創建の史跡上人壇廃寺、奈良時代から平安時代にかけての大集落で ある「うまや遺跡」が存在しており、これらの遺跡との関連についてもさらなる検討が必要である。
遺跡の北東にあるJR東北本線須賀川駅の北方には、郡衛との指摘されている上人壇廃寺がある。栄町遺跡は、道 路や宅地造成などで大部分が削平されていたが、郡庁域では正殿や脇殿などの中枢施設が見つかった(上左)。 上右は稲古館古墳石室全景(南から)。切石を組み合わせて造った横穴式石室の西奧側側壁で太刀が出土した。
三軒家遺跡 (さんげんやいせき) 文献にも記載されている倉庫。全国でも珍しい八角形の正倉を発見。 三軒家遺跡は、群馬県伊勢崎市にあり、大間々扇状地の西端の微高地上に立地する古代上野(こうずけ)国佐井 (さい)郡の郡衛跡である。これまでの調査で「正倉」と呼ばれる倉庫であることがわかった。正倉関連の遺構 は、掘立柱建物25棟、基礎を固めるための堀込地業を伴う礎石建物3棟、大溝、土杭などが見つかっている。 これまで確認された建物は倉庫と考えられ、配置や主軸方向が揃っているなど整然と並んでいる。建物の重複関 係から4〜5時期に渡る変遷があったと考えられる。また正倉には主に穀物類を収蔵しているために、遺物の出 土はほとんど無いが、若干出土した遺物から7世紀後半〜9世紀後半の間に正倉が使われていたと推定される。
2005年の調査では、円形の堀込地業の上に建つ大型の礎石建物が発見された。礎石を据え付けた痕跡から、 八角形の総柱建物と考えられ、建物規模は最大で南北15.3m、東西14.7m、床面積が約182平方mに なる。またこの礎石建物の下にはより古い八角形掘立柱建物があることもわかった。
「上野国交替実録帳」という文献の「諸郡官舎項佐井郡正倉」の中に「八面甲倉」と記されていて、これが八角 形建物にあたると考えられる。八角形の倉庫は全国初の発見で、倉庫以外には法隆寺夢殿(寺院)、前期難波宮 (宮殿)などに例が有るだけである。このことからも八角形は特別な半面形式であり、佐井郡の特異性を示すも のである事がわかる。また、官衛遺跡で遺構と文献の記載が一致した例も全国で初めてのことになる。
ホールでは、午後二時から行われる「やよいミュージアムコンサート」のリハーサルをやっていた。 2006 年 第9回 やよいミュージアムコンサート afternoon acoustic sounds 1 月14 日(日) 第一部 14:00 〜 15:30 <QUON> Kiyoka TASHIRO(vocal) Yoshisato OKUDA(guitar) 関西を中心に活動するアコースティックユニット。バーやレストラン等でライブ活動をおこなう。ジャズやボサノバ から広く演奏。QUON の名前の由来は「久遠」。"永遠に時が続くこと”というその言葉の意味のとおり、演奏をとお して音楽のすばらしさを伝え、心地よい時間と空間を創り出すことを目指している。 夜空のムコウ 涙そうそう ムーンライト・セレナーデ イパネマの娘 ムーンリバー 星に願いを 上を向いて歩こう 童神 第2部 with 佐伯圭以子(ピアノ) おいしい水 ラビン・ユー バードランドの子守唄 クロス・トゥーユー テルーの唄 テネシーワルツ 「ああいい曲ばっかりやなぁ、聞きたいなぁ。」と錦織さんが言っていたが、これを聞いていたら時間が無くなるので、 泣く泣く館を後にした。事前にわかってればこれを例会に含めたのになぁ。私も聞きたかった。 大阪府立弥生文化博物館は大阪府和泉市にあり、国道26号沿いにある弥生時代をテーマにした歴史博物館。博物館は日本 屈指の弥生時代遺跡である国指定史跡公園の「池上曽根遺跡」に隣接しており、銅鐸、勾玉、鏡、土器などの遺跡出土品 をはじめとする弥生文化に関する資料の収集と研究、展示を行っている。弥生文化の教示を目的としており定期的に考古 学セミナーを開催しているほか、館内の撮影や本物の土器などの展示物に触れること等も可能である。 ここでのデジカメ以外の写真、画像、解説は以下の2冊子から転載させていただきました。謝意を表します。