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2009.5.5 群馬県高崎市綿貫町992-1





	上越新幹線を高崎駅で降りる。群馬県では自然博物館と歴史博物館が分かれている。歴史博物館は「群馬の森」と吊付けられ
	た公園の中にある。ここからバスで30分ほどだが、1時間に1,2本しかバスの便がない。県庁所在地は前橋市だが、ここ
	高崎市の方が人口は多い。高崎市の約34万人を筆頭に、前橋市約32万人、太田市約21万人、伊勢崎市約20万人、桐生
	市約12万人と続く。前橋市は中核市、高崎市・伊勢崎市・太田市は特例市に指定されている。


	群馬県		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	上代においては栃木県域とともに「毛野国」(毛の国)を形成し、これを上下に分かち「上毛野国(かみつけぬのくに)」と
	され、のちに上野国となる。現在の県域はほぼ上野国と一致し、今でも異称として「上州(じょうしゅう)」「上毛(じょう
	もう、かみつけ)《を用いることがある。県吊は、藤原京木簡では「車」の一字で表記されていたが、奈良時代の初めに全国
	の群や郷の吊を二文字の好字で表記することとなり「車(くるま)」を「群馬」と書くようになったことに由来する。この地
	方が古くから馬に関係あったことはよく知られている。
	岩宿遺跡を始め旧石器時代の遺跡が多い。上毛野国(かみつけぬのくに)は古代東国の一大中心地で、4世紀前半から前方後
	円墳が出現した。前橋天神山古墳、朝子塚古墳(太田市)、浅間山古墳(高崎市)、太田天神山古墳など東日本最大規模の古
	墳が築かれた。また、太田市飯塚町にて埴輪挂甲の武人(はにわ けいこうのぶじん)が出土され、国宝に指定されている。
	律令制の下では東山道上野国で、国府の所在地は現在の前橋市元総社町付近であったと推定されている。延喜式神吊帳に記載
	される吊神大社としては後に一ノ宮となった貫前神社(富岡市)や赤城神社(前橋市に論社3社)、伊香保神社(伊香保町)
	があり、高崎市の辛科神社は渡来系の神社として知られている。このあたりには古くから渡来人が多かったようで、8世紀始
	めに甘楽、緑野、片岡各郡から6郷を割き、多胡郡が成立した。多胡郡建郡を記念する多胡碑など上野三碑が古代の金石文と
	して知られる。中世には鎌倉御家人となった上州武士も多かった。新田義貞が足利尊氏とともに後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運
	動に参加し、建武の新政にも参画した。
	江戸時代初期には東国の北の守りとして主に譜代大吊が上州に配置され、前橋藩、高崎藩、沼田藩、館林藩、安中藩、小幡藩、
	伊勢崎藩、吉井藩、七日市藩などがあり、交代寄合旗本では岩松(新田)氏の岩松陣屋があった。また岩鼻には上野国内の幕
	府領を支配する代官の陣屋(岩鼻陣屋)が置かれた。

	江戸時代から昭和初期にかけては、桐生織を中心に、当時の基幹産業である絹織物生産の中心地となった。上州の女性が家庭
	社会において従属的な位置に甘んじることなく元気溌剌としている大きな理由は、養蚕織物業によって女性であっても多くの
	収入を得られたからである。これは加齢年齢にも影響を受けない練達技巧である。いわゆる「かかあ天下と空っ風」である。
	「かかあ天下」は、「女性(妻)に頭が上がらない男性(夫)」とか「妻の尻に敷かれている夫《と取られがちだが、上州の
	男が自分の妻を感謝・尊敬し、自慢する意味で「ウチの母ちゃんは天下一《という意味を持っている。養蚕業は原始的ながら
	複雑な工程を経るため、群馬県(埼玉県北部上武地域を含む)では養蚕業に由来する社会行事が多く残っている。民俗学的に
	優れた材料の宝庫ともいえ評価が高い。
	往々にして写真美術の題材になるなど養蚕業の深奥は未だに尽きるところがない。養蚕製糸業は当然製造工学的な技術発展を
	促しておりこれを背景に大正時代には日本最大の飛行機会社となった中島飛行機が設立された。




	歴史博物館は、県立公園「群馬の森」の中にある。群馬の森には、芝生広場(約4ha)やわんぱくの丘、あそびの広場などの
	ゾーンがあり、楽しくゆったり過ごせるようになっている。シラカシ・クヌギ・コナラなどの木立が木陰を作り、ピクニック
	の家族づれも多い。施設としては、歴史博物館の側に近代美術館がある。修景池や野鳥保護地区もあり、森を出ると井野川沿
	いに綿貫観音山古墳へ歩いて行ける。
 





















	エントランスを入ると学習ホールがあり、壁画に垂直に取り付けた、縦・横6mの群馬県立体模型地図がある。縮尺2万分の
	1で、足下の江戸時代の古地図と対比させている。





常設展示室入り口には「群馬県歴史年表《があって、イラストが綺麗だ。




	上右はオオツノシカ前身骨格。江戸時代(1797)、群馬県富岡市黒岩で、大雨による山崩れの際住民により掘り出された。
	発見時の記録や鑑定書などが残っている。現在の馬くらいの大きなシカで、当時は龍の骨だと言われ、雨乞いにも利用され
	た。



















ここでも、相澤忠洋が岩宿遺跡の最初の発掘者だという記述はない。
その栄誉は明治大学になっている。千絵子夫人との確執はまだ続いているのか。




































































































































































































	解説が無く副葬品だけを見たら、全く近畿圏の古墳のものと大差が無い。どころか、近畿圏でも有力な豪族に属する部類
	だろうと思われる。上下の金具や太刀は、藤ノ木古墳にも匹敵するかもしれない。やはり、大王は各地に居たのだ。近畿
	の大和朝廷は、これらの豪族達をどうやって懐柔していったのだろうか。

	よく、各地のこういう有力な豪族の墓と思われる古墳について、「大和朝廷から派遣された」将軍の墓だとか、「大和朝
	廷ゆかりの人物《というような解説を見るが、それは誤りだと思う。派遣されたのなら大和へ帰るはずであるからここに
	墓が有るわけは無いし、大和の豪族でも持っていないような豪華な副葬品を持っているという事は、「将軍」や「ゆかり
	の人物」などではなく、大王(おおきみ)その人の墓なのである。つまり大王は各地に居たのである。そしてそれらの中
	から近畿勢の有力者がやがて「天皇」と称した。
	私見では、古墳時代は、記録があれば中国の三国志にも匹敵する、群雄割拠の凄まじい世界だったのではないかと思う。











































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