Music: gently weep

先住民「土蜘蛛」をめぐって
ー熊野・吉野にその足跡をたどるー


桃山学院大学名誉教授(元学長) 沖浦 和光 2007.9.6



				目 次


             	     T 熊野の大自然と文化の古層
			1 特異な自然と民俗
			     イ、牟婁という地名
			   ロ、山の文化
			   ハ、海と川の文化
			 2 熊野は「山越えの異界」だった
			 3  黒潮が走る熊野は「海の回路」
			 4  諸説があった「熊野」の語源

 	              U 記紀神話と熊野地方の先住民
			1 記紀神話に出てくる熊野
			2 神武天皇東征説話
			3 熊野の縄文人の系譜ー土蜘蛛・国栖
			4 今も残る先住民系の「丹敷戸畔」(にしきとべ)信仰
			5 もともとは「紀国」と「熊野」は別のクニだった
			6 「徐福」伝説と<常世の国>    
			7 山岳信仰として栄えた「熊野詣」
			8 熊野信仰とケガレ……「浄・不浄をえらばず」
			9 那智浜に伝わる「補陀落」信仰

	              V この列島の文化複合(縄文系と弥生系)
	 		1 「日本人単一民族説」をくつがえした学説
			2 縄文系と弥生系の「二重構造」論
			3 有史以前のこの列島の文化複合の基本型
			4 日本民族を形成する6つの源流(鳥居龍蔵説)
			 先住民族とヤマト王朝

	        W 先住民族としての「土蜘蛛」
			1「戸畔」は土蜘蛛の首長
			2 大和にもいた土蜘蛛
			3 『風土記』に出てくる土蜘蛛
			4 ヤマト王朝に反抗した先住民
			5 土蜘蛛・国栖・八掬脛は同族か
			6 越後の国の「八掬脛」
			7 縄文系に連なる先住民か
			8 縄文人の身体的特徴について 
			9 「土蜘蛛」というネーミング
 
	               X 吉野と葛城に残る土蜘蛛の遺跡
			1 阿陀の里と隼人    
			2 ニニギとサクヤヒメが出会った旧跡
			3 国栖の里と「石押分の子」
			4 「国栖奏」と浄見原神社
			5  葛城古道に残る土蜘蛛の旧跡
			6 「隼人舞」が演じられる大隅郷 
			7 中世の説話で語られた「土蜘蛛」は別物




	T 熊野の大自然と文化の古層

	  (1)特異な自然環境と民俗 
                                                                            
	  (イ)牟婁という地名
 		本州最南端の潮ノ岬を尖端としてその東西に扇型に広がる熊野は、古代の律令制では、紀伊国「牟婁郡」だった。
		715年からの「国・郡・郷・里」制の時代では、面積では巨大な郡であったが、郷はわずか五カ所であった。

		 ほとんどが山地で人口が少なく、未開の土地も多かったのでヤマト王朝もすべての住民を掌握できなかったと
		みられる。現在は和歌山県に東・西牟婁郡、三重県側に北・南牟婁郡がある。

		 ムロは、「奥まった所」「山腹などを掘って構えた窟(いわや)」「住み籠る所」などの意味がある。このム
		ロは「室」であって、室戸・室津・室堂などの地名が各地にある。室が転じて「風呂」となるが、これは熊野に
		多い温泉を指している。

	(ロ)山の文化
 		熊野の山地は温暖多雨で良材を産した。食用になる鳥獣類も多かった。鉄をはじめ銀・銅なども産したので、一
		ツ目小僧伝説が伝えられていた。
		 狩猟・炭焼き・野鍛冶など「山の文化」も、本州では有数の地方だった。狩猟採集生活を中心とした縄文文化
		の痕跡が中世まで残っていた。

	(ハ)海と川の文化
		 海運や漁撈では、熊野は本州きっての先進地だった。記紀や万葉集に出てくる「熊野の諸手船」「天の鳥船」
		「真熊野の舟」は、船足の速い熊野船を指した。楠の巨木が繁茂していたから、その良材を用いて造っていたの
		だ。枯木灘のようなリアス式海岸が多く、荒天時には避難できる良港が各地にあった。

		 沿岸部から数多くの縄文・弥生時代の遺跡が発掘されているが、海を渡る造船術と航海術をもった海民たちが
		早くから集落を形成していた。鰯漁・鰹漁・捕鯨・潜水漁業などの技術を、日本各地の海村に伝えた。


	(2)熊野は遥かなる「山越えの異界」

 	  古くから紀伊路と伊勢路があった。新宮と田辺を結ぶ海沿いの道を「大辺路」、山間を迂回する道を「中辺路」と呼ん
	  だ。後者が熊野古道である。大和からは、三千六百峰といわれた高野山系の奥吉野を経て奥熊野へ入る細い道があって、
	 「小辺路」と呼ばれた。三重県側から入る道が「伊勢路」であるが、八鬼山道と呼ばれた峻嶮難路だった。

	 1932年に紀勢西線が開通するまでは、熊野の中心地である新宮は陸の孤島だった。伊勢か大阪からの船便に頼るほ
	 かはなかった。尾鷲と新宮を結ぶ紀勢東線が開かれて、紀伊半島を一周する全線が開通したのは1959年だった。
	  今は十津川沿い、及び北山川沿いの国道も整備されたが、50年前までは、未舗装の峠越えの険しい道だった。日本で
	 も有数の豪雨地帯なので、山崩れがしばしば起こり、冬はかなりの積雪があるので道は閉鎖された。

	(3)黒潮が走る熊野は「海の回路」 
	  しかし、「海」の側から熊野を見れば、「孤立した山国」というイメージは成立しない。黒潮に乗って早くから縄文系
	 の人びとがやってきた。中国大陸南部の倭人系もこの地へ入ってきた。熊野は、この列島を東西に結ぶ海の交通路の一つ
	 の拠点だった。

	(4)熊野の語源は諸説あり  『南牟婁郡誌』(1917)では諸説を紹介している。
	  1、隈(くま)→川や道などの折れ曲がって入り組んだ所
		  2、隈(くま)→へんぴな所、片田舎
	  3、熊=神(くま)、熊を神獣とする古朝鮮語から由来したとする説
	  4、熊=隠(くま)る→樹木が繁茂する土地→森林国の意
	  5、「クマ」=アイヌ語の「カムイ=神」の転訛とする説
	  6,私の仮説 → 熊をトーテム(祖先神)とした先住民がいた


	U 記紀神話と熊野地方の先住民

	(1)記紀神話に出てくる熊野
	 1 イザナギとイザナミの夫婦神による国生み神話
	       『紀』の一書では、イザナミは「熊野の有馬村」に葬られたとする。
	   「土俗(くにひと)、この神の魂を祭るには花の時にはまた花をもって祭る」
	    →「花の窟(いわや)」。巨岩がご神体。
	 2 スサノオは「熊成峯」(くまなりのたけ)に居て、そこから根の国に入った。
	 3 オオクニヌシを助けて出雲で国造りを行ったスクナヒコナは、「行きて熊野の御碕   (みさき)に至りて」、
	   ついに常世郷(とこよのくに)に去る。

	(2)神武天皇東征説話と熊野の先住民 
	 『紀』の神武東征記では、難波で長髄彦(ナガスネヒコ)に敗れた東征軍は紀伊半島を迂回して、熊野に上陸してから谷
	 沿いに大和へ北上した。「皇師、中州に趣かむとす、而るを山の中嶮絶して、復行くべき路なし」(巻第三)とある。

	 その途中には先住民である土蜘蛛が蟠踞していて行く手を塞ぎ、八咫鴉(やたがらす)の先導によってようやく大和への
	 脱出に成功したと物語る。神武天皇は神話的人物で実在しない。したがってこの話は伝説にすぎない。それでも、どのよ
	 うな勢力が瀬戸内海から熊野へ回り、そこから大和へ北上したのか、それを誰が、何のために、物語ったのかという問題
	 が残る。神武は実在せず、これを崇神天皇や応神天皇、さらには天武天皇の事跡を反映させたという説もある。

	(3)熊野における縄文人の系譜ーー土蜘蛛・国栖
	 ● 彼らは辺境の地に住む「異俗人」(あだしくにびと)
	 ● 「身短くして足長し」『日本書紀』(『風土記』) 
	  ● 熊野山中から吉野山系にかけて、土蜘蛛=国栖の集団がいた。

	  熊野の土蜘蛛は吉野の国栖(くず)と同系で、列島の先住民である蝦夷と深い関連があり、「クマノ」や「ムロ」など地
	 名の多くはアイヌ語に由来するという説が、唱えられていた(『東牟婁郡誌』上巻)。

	 熊野の歴史民俗的な特異性を、出雲族の進出と関連させて考える説も早くから主張されていた。出雲族には狭義と広義の
	 二種があり、前者は山陰の出雲地方に限定されている。後者は、ヤマト王朝の正系に連なる「天津神」系より先に、この
	 国土に居住していた「国津神」系の総称である。熊野に進出したとされた出雲族はもちろん後者である。

	 (4)今も残る先住民系の「丹敷戸畔(にしきとべ)」信仰 
	  神武天皇が軍勢を率いて熊野に至ったとき、『日本書紀』では次のように述べられている。「熊野の荒坂津、またの名は
	 丹敷浦(にしきのうら)に至ります。よりて丹敷戸畔という者を誅(ころ)す。時に神、毒気(あしきいき)を吐きて、
	 人物(ひと)ことごとく瘁(お)えぬ。これによりて皇軍また振(おこ)ることあたわず。」

	 『古事記』では、この神は大熊として出現したとある。毒気を吐いて皇軍を倒したこの大熊は、先住民の神の化身である。
	 そのとき高倉下(たかくらじ)が現れて、神武に刀を献じた。目覚めた天皇はその刀で荒ぶる神を切り倒した。(新宮の
	 お燈祭で知られる神倉神社の祭神はこの高倉下で、ゴトビキ岩がご神体である。)
    
	  イ 丹敷戸畔−−この地で神武天皇に抵抗した先住民集団の首長
	  ロ 神武軍の上陸地点は荒坂津(錦浦)とされているが、錦(丹敷)は「朝日をうけて輝くところ」の意で、熊野一帯の
	   海岸は古代では錦浦と呼ばれていた。
	  ハ  本居内遠説は荒坂村=二木島(熊野市二木島町)(『紀伊続風土記』)
	  ニ 別説に新宮市三輪崎、那智勝浦町、串本町二色説がある。
 	  ホ 丹敷戸畔を祭る石祠が現存する
		◆那智の浜は「ニシキ浦」と呼ばれるが、浜ノ宮(熊野三所大神社)の境内の本殿右
                  に丹敷戸畔を地主神として祭る摂社と石祠あり。
	        ◆串本町二色のトベの山の山頂に丹敷戸畔の墓あり。
	        ◆北牟婁郡錦村(紀勢町錦)、新宮三輪崎にも丹敷戸畔の塚があったという伝承がある。
		小野芳彦『熊野史』(遺稿刊行会、1934)

 	(5)「紀国」と「熊野」は、もともとは別の国であった
		紀国→ 国造(くにのみやつこ・各地方の首長)は紀氏。(紀ノ川沿いを拠点とした渡来系の豪族。平野部も多く農
		耕もさかんだった)
 
		 熊野国→ 国造は熊野氏  (平安期初頭の『先代旧事本紀』)

		イ 熊野氏は、ニギハヤヒノミコトの5世の孫オオアトノスクネを祖と称する。もちろん  この伝承は仮構であって、
		    その実体は不明である。
		ロ ニギハヤヒは、ニニギより先に天降ってヤマトにいた。長髓彦の妹ミカシキヤヒメを妻として長髓彦とともに大和
		    を統治していた。このことは、縄文系と弥生系が大和では混在和合していたことを物語る。
		  神武軍を迎えると、ニギハヤヒは長髓彦に叛旗をひるがえして天皇に帰順した。なお旧事本紀によれば、先にみた
		    タカクラジはニギハヤヒの弟とされている。ニギハヤ  ヒは物部氏の始祖とされる。
		ハ 天皇家の天孫ニニギノミコトの高千穂降臨説は異なる、ニギハヤヒ系の天孫降臨伝説。
		  いずれも朝鮮半島から弥生時代の頃にやってきた渡来人系と考えられるが、別系統でニギハヤヒ系が先にやって
		    きたとみられる。

	(6)「徐福」伝説と<常世(とこよ)の国>
	  熊野灘沿岸には、古くから中国や南海からの難破船が数多く漂着した。中国の『史記』に、秦の始皇帝の命をうけて、徐福が
	  不老不死の神薬を探し求めて南海に船出する話がある。(常世の国は、「不老不死の国」と「死の国」の二義あり)
	 その徐福が最後に辿り着いたのがこの新宮であると語り伝えられ、その墓が訪れる人もなく駅前にひっそりと立っていた。
	 この伝説には、大陸の倭人系が黒潮に乗ってやってきたことが投影されている。

 	(7)平安時代から山岳信仰として栄えた熊野詣 
	 熊野の大自然に芽生えた原始的な山岳崇拝は、中世に入ると熊野三山の信仰として広まった。神仏習合による本地垂述(ほん
	 じすいじゃく)説によって、しだいに仏教の浄土信仰と結びついていった。
	 熊野速玉神社の10世紀の作とされる「速玉大神像」は、その頃のクマノのカミの面影をしのばせる。

	 平安末期の院政時代には、白河・後白河・鳥羽の三上皇だけでも、百年間に90回余も参詣した。熊野神社の末社は全国で三
	 千を超え、「蟻の熊野詣」として知られた。

	    ・本宮−−阿弥陀仏の極楽浄土
	    ・那智−−観世音菩薩の補陀落浄土
	    ・新宮−−薬師如来の東方浄瑠璃浄土

 	(8)熊野信仰とケガレ−「浄・不浄を嫌わず」 
	 朝廷貴族は、死穢・産穢・血穢の三不浄を忌避し、さまざまな法を制定して、ケガレに関わる民や女人の参詣を禁じた。しかし
	 熊野三山は、狩猟(漁)民、障害者、女人の参詣に門戸を閉ざすことはなかった。
	  このことは、熊野信仰が、山の民や川の民のアニミズム(animism)に起源があり、自然採集の狩猟文化の伝統の中で育まれてき
	 たことと深い関係があるだろう。

	 イ「熊野権現御垂迹縁起」−熊野千与定という犬飼の男が本宮の大湯原で射た猪を食べたところ、この猪(一説には熊)を媒介
	   として阿弥陀如来が出現したと説く。

	 ロ 藤原宗忠の参詣記『中右記』1109(天仁2)年の条に、女人や障害者の参詣が具体的に記されている。

	 ハ『一遍上人絵伝』−一遍が参詣した際に、熊野権現が証誠殿の前に山伏姿で現れて、「信不信を選ばず、浄・不浄を嫌わず
	   その札を配るべし」と夢告を受けた。

	 ニ 『高野山文書』又続宝箇集1768号−高野山が女人禁制を固く守り、「鎮国安   民の道場、高祖明神常住の霊崛
	  (れいくつ)」と言われたのに対し、熊野は「他国   国高臨の神躰、男女猥雑の瑞籬(みずがき)」であると決めつけ
	   ている。(小山靖憲(『熊野古道』岩波新書、2000)
 
	  那智浜の補陀落寺に伝わる「補陀落」信仰 

	 インドの南海岸にある観世音菩薩の浄土である補陀落(Potaraka)浄土を目ざして、ここから小舟(樽船)に乗って
	 単身船出したのである。『熊野年代記』には868(貞観10)年の慶竜上人の渡海をはじめ、平安期3人、室町期10人、
	 江戸期10人とその同行者が記されている。
 

	V この列島の文化複合(縄文系と弥生系)

	  1 「日本人単一民族説」をくつがえした学説  

	  イ)鳥居龍蔵による「日本人雑種論」(日本民族の6つの源流説)−1910年代
	  ロ)相沢忠洋による旧石器の発見(群馬県・岩宿遺跡)−1947〜49年
	  ハ)喜田貞吉、江上波夫らによる「騎馬民族国家」説−1930〜50年代
	   ニ)埴原和郎による日本民族の「二重構造」モデルの提唱−1980年代
	   ホ)尾本惠市によるDNAを用いた遺伝人類学ーー1990年代
 
	 2  日本民族は、「在来の縄文系」と「弥生系」の集団による「二重構造」(埴原説)   
	   基層集団としての縄文人。そのあとに渡来系の弥生人がやってきて、コメの生産  と鉄器の製造を中心に弥生文化を
	   構築していった。ただし縄文系も弥生系も単一  ではなくて、いくつかの系統に分かれ、地域によって多様だった。
    
	 3 有史以前のこの列島の文化複合の基本型

	 @ 縄文人系が主力の地域
	 A 縄文人系と弥生人系が同化融合していった地域
	 B 弥生人系が多数となった地域
	   古代も後期に入ると、西日本はBが主力となった。北関東以北は共存地域だったが、   東北の山地には@の系統があ
	  った。このように、この列島の民族の分布状況は、7、8世紀頃まで東西で大きく分かれ、しかもマダラ模様だった。

 	 イ)旧石器時代後期のころから、日本列島の全域に、大陸の各地からやってきたモンゴロイドの先住民が住んでいた。
	 ロ)縄文時代の末期ごろから、中国大陸の江南地方に住んでいた倭人系が、稲作文化と金属器文化をもって朝鮮にやってきた。
	 ハ)さらに東北アジアに住む騎馬民族系の集団が朝鮮半島まで南下して、紀元前後ごろに「高句麗」を建国した。その後さらに
	   南下して「百済」王朝を支配下においた。朝鮮半島南部に先住していた倭人と同化して、しだいにその勢力を広げていった。
	   そしてその一部が北九州へ渡来してきた。
	  ニ)何波にも分かれて朝鮮半島からやってきた渡来系集団は、九州から急速に広がって、在来の縄文系集団と融合しながら、
	   瀬戸内海と日本海を経由して近畿地方まで進出し、この列島の弥生・古墳文化の基礎を築いていった。5世紀の頃には在地
	   勢力を統合して「ヤマト王朝」を建国した。
	  ホ)しかし、東北以北の地方と南西諸島を中心として、在来系の縄文人は、これら新来の渡来集団の遺伝子を受けることが少なく、
	   民族的形質やその民俗文化においても独自性を維持してきた。→アイヌ民族と南西諸島の先住民

	  4  日本民族を形成する6つの源流 (鳥居龍蔵の起源論が祖型)

	  1)蝦夷(アイヌ系)−縄文人の系譜に連なる。琉球人は近縁関係にある。
	  2)倭人−中国南部の江南系の稲作農耕民と海民
	  3)隼人系−黒潮に乗って北上した東南アジア系海民
	  4)朝鮮三国からの渡来人(高句麗は王朝・民衆ともに北方系騎馬民族。百済の民衆は倭人系が多い。しかし百済の王朝は高句麗
	   王朝の系譜をひく)
	  5)中国大陸の漢人−中国の江北地方から、朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡に渡り、その後にこの列島に渡来してきた北方モンゴロイド系
	  6)北方系騎馬民族(北方モンゴロイド系のツング−ス族が主力か)→朝鮮半島北部から南下し、「百済」王朝を支配下においてから、
	   その一部が北九州に入ってきた→先住の倭人系と融合しつつ大和を中心にヤマト王朝を形成する。

	  5  先住民族とヤマト王朝 

 	 イ)ヤマト王朝→天皇制国家による先住民族の抑圧と差別
	  ロ)中国から導入した律令制による公地公民制と身分制度(貴・良・賤)の確立
	  ハ)王化に浴せぬ「化外の民」−各地にいた「土蜘蛛」「国栖」(『風土記』)
	  ニ)律令制施行に反対した「蝦夷」と「隼人」の叛乱
	  ホ)抵抗した「蝦夷」を賤民として各地に流配
	  ヘ)先住民(海民と山民)系にみられた自然の神々を崇拝するアニミズムと神人交流のシャーマニズム→八百万神(やおよろずのかみ)
  
	   A 朝廷の神統譜にのるニニギノミコト系の天孫族が奉じる「天津神」
	     B  在地の土俗的信仰としてのオオクニヌシ系の「国津神」 
	     C   朝廷に従わなかった先住民系の「荒ぶる神」
 
	 ト)仏教と神道による国家の宗教体制の成立とともに、これらのアニミズムの系譜は前時代的な呪術的なものとしてしだいに排除され
	   るようになった。
	  チ)ヤマト王朝は、宮廷儀礼として「隼人舞」と「国栖奏」は採用したが、蝦夷系の芸能は朝廷の正史では全く姿を見せない。

        
	W 先住民としての「土蜘蛛」

	 1 「戸畔」は土蜘蛛の首長だった

	 『紀』の東征伝では、「戸畔」を名乗る首長に率いられた先住民は、三カ所で登場する。いずれもその地のリーダーとして神武軍の
	 前に立ちはだかり、三者ともすべて誅伐されてしまう。
	  最初に出てくるのは「名草戸畔」である。皇軍は熊野に迂回する途中で、なぐさのむら名草邑(現和歌山市の名草山の辺り)で賊軍
	 と出会うが、そこで名草戸畔を討伐している。第二は先にみた熊野の「丹敷戸畔」である。第三は 大和の波多の「にいき新居戸畔」
	 である。
	 長髄彦を倒して大和平定に成功してからも、まだ抵抗する土着勢力が残っていた。皇軍はこれらの残存する賊軍を討伐したが、その
	 中に波多(現奈良県添上郡椿尾村付近)のにいき新居戸畔がいたのだ。
 
	 2 大和にもいた土蜘蛛
	   これらの「戸畔」を名乗る先住民は、この東征伝ではどのような在地勢力として認識されていたのだろうか。彼らはやはり「土蜘蛛」
	   の一族とみなされていたのだ。
	  新城戸畔が討たれるくだりに出てくるが、そのころの大和のわに和珥 (現天理市王珥)にこせのはふり居勢祝、ながら長柄(現御所
	  市長柄)にいのはふり猪祝がいた。いずれも武勇をもって知られている土着の集団だったが、彼らは神武軍に帰順しなかった。それ
	  で神武は軍隊を派遣して誅伐させたとあるが、彼らは「みところ三処の土蜘蛛」とされている。つまり、『紀』が編纂された当時の
	  ヤマト王朝では、「戸畔」にひき率いられる在地勢力は、すべて土蜘蛛の一味であるとみなしていたのだ。

	 3 『風土記』に出てくる土蜘蛛
	  土蜘蛛は、『記』『紀』『風土記』などの古文献を丹念に探ると、この本州と九州だけでも数十カ所に土蜘蛛がいたと記されている。
	  土蜘蛛が初出するのは、すでにみたように『記』『紀』の神武東征伝であるが、『紀』ではさらに景行天皇の「熊襲」征伐の条に、
	  三カ所にわたって土蜘蛛の所在が記されている。
 	  諸国風土記では、『常陸風土記』『肥後風土記』『豊後風土記』に多く見え、土蜘蛛の分布地域は、日向・肥後・肥前・豊後・摂津
	  ・大和・越後・常陸・陸奥の九カ国にわたっている。ヤマト王朝の足元の大和の国だけではなく、西は日向から東は陸奥に及ぶ広範
	  囲に散在していたのである。『日向風土記』では、ニニギが高千穂の二上の峯に天降したとき、「大くわ」「小くわ」と名乗る二人
	  の土蜘蛛に出会っている。彼らは柔順な先住民だった。

	  各地方に土蜘蛛がいたと伝えられる洞穴があり、私の古里である瀬戸内海の島しょ嶼部でも、大崎下島に土蜘蛛が住んでいたと古く
	  から言い伝えられた岩穴がある。
	  土蜘蛛がかなり出てくる上記の三つの風土記にしても、いずれも完本ではない。また散逸してもはや見ることのできない他の諸国風
	  土記にも、たぶん土蜘蛛伝承が記されていたと思われる。もしも『大和風土記』と『紀伊風土記』が今日まで残っていたら、必ず数
	  多くの土蜘蛛伝承やその遺跡が記載されていたに違いない。唯一の完本とされている『出雲風土記』には、土蜘蛛に関する記事は全
	  く見られないが、それについては改めて考えたい。

	 4 ヤマト王朝に反抗した先住民族
	  しかし、諸国の風土記を読んでみると、地方によって土蜘蛛の記述にそれなりの特色がある。編纂者の「土蜘蛛」観や古老の旧聞異
	  事もかなり違っていたと考えられる。すなわち、朝廷によって定められた統一基準によって、「土蜘蛛」に関する記事がまとめられ
	  たのではない。 
	  彼らの多くはその名も記されているが、おしなべてヤマト王朝に反抗的であって、ほとんどが誅され殺害されている。中には帰順の
	  意を表して朝貢を誓う者もいたが、その数は少ない。        
 
	 5 土蜘蛛・国栖・八掬脛は同族か
	  風土記で特に重要なのは『常陸国風土記』の「茨城郡」の条である。
  
	   ふるおきな古老のいへらく、昔、くず国巣 くにひと俗の語につちくも都知久母、また又、やつかはぎ夜都賀波岐といふ
	   山のさえき佐伯、野の佐伯ありき。あまね普くつちむろ土窟を掘り置きて、常に穴にす居み、人来ればむろ窟に入りて
	   かく竄り、其の人去ればまたの更郊に出でて遊ぶ。おおかみ狼のさが性、 ふくろう梟のこころ情にして、ひそか鼠にう
	   かが窺ひ、かすめ掠め盗みて、を招きこしら慰へらるることなく、いよよ彌、ふりしわざ風俗をへだ阻てき。

	  このように『常陸風土記』では、「国栖」の語の注として、土地の人びとの言葉では「つちぐもといひ、またやつかはぎ」という
	  とある。「土蜘蛛」は「国栖」や「やつかはぎ八束脛」とも呼ばれていたことが分かる。彼らは穴に住んでいて村人とは交際し
	  ない「あだしくにびと異俗人」であった。   

	 6 越後の国の「八掬脛」  
	 『越後国風土記』逸文にも「やつかはぎ八掬脛」について次の記事が6ある。

	  こしのみちのしり越後の国の風土記に曰はく、みまき美麻紀のすめらみこと天皇のみよ御世、越の国 に人あり、
	  八掬脛と名づく。其のはぎ脛の長さはやつか八掬、力多くはなはだ太だこは強し。こ是はつちくも土雲の後なり。
	   其のたぐい属類多し。
 
	 これは崇神天皇の御代の話であるが、越後に「八掬脛」と呼ばれる人びとがいた。ツカは長さの単位で、握り拳の幅を表すのだが、
	 八掬脛はすね脛の異常に長い人を指し、大和の「長髄彦」と同じ呼び方である。彼らは土蜘蛛の後裔であって、その類族が越後地
	 方では多いというのだ。
	 『紀』では、土蜘蛛は「身短くして足長し」とされている。身長が低く手足が長いというのだ。形態人類学では、縄文系の人骨は、
	 弥生系よりも背が低く、胴が短く手足は長いのが特徴とされている。そのようにみれば、ここで土蜘蛛=国栖=八束脛と呼ばれた
	 人びとは、縄文人の系譜に連なる身体的形質を持っていたと考えられる。

	 7 縄文系に連なる先住民か
	 『常陸風土記』に出てくる「土蜘蛛」「国栖」「八掬脛」は、呼称は異なるが、同一の種族であり、描写される生活環境やその身
	 体的特徴からみて、縄文系に連なる先住民であったと推定できる。ただここで「山の佐伯、野の佐伯」とある「佐伯」については、
	 「土蜘蛛」とは異なり、「蝦夷」の分流ではないかと考えられる。
	 それで問題は「土蜘蛛」と「蝦夷」との関連である。蝦夷と土蜘蛛とは同族なのかどうか、「佐伯」はどの系統に入るのかーー
	 その問題については人類学の領域で1910年代に激しい論争が行われていたのである。だが、戦後では、民族学でも歴史学でも
	 その問題は話題になっていない。

	 もちろん、この広い列島に散在していた縄文人には、かなりの地域的な偏差があったと思われる。縄文時代の後・晩期の人骨の分
	 析結果から考えても、日本列島の縄文人がすべて同系の均質な集団であったわけではない。地域的特殊性も考慮せねばならない。
	 すなわち、自然環境要因をはじめ、狩猟・漁労などの自然採集を中心とした遊動生活から、しだいに定住化に向かった縄文人の生
	 活形態や労働条件の変化などーーそのような社会的要因も考慮しなければならない。

	 8 縄文人の身体的特徴について
	 『紀』では、土蜘蛛も「身短くして足長し」とされている。土蜘蛛=国栖=八束脛は、縄文人の系譜に連なる身体的形質を持って
	 いた。縄文人の身体的特徴について、人骨の分析を手がけてきた自然人類学者の中橋孝博は、かなり資料数のある縄文時代の後・
	 晩期の人骨の分析から次のように述べている。(「倭人の形成」『倭国誕生』吉川弘文館,2002年)

 	 「縄文人の体でまず目に付くのは、かなりの低身長(男性で160センチ弱、女性で150センチ弱)ながら、肩幅の広い、筋肉が
	 良く発達した たくましい身体つきをしていた点である。(中略)骨の断面だけではなく、縄文人の手足のプロポーションでも、
	 ぜんわん前腕やかたい下腿などのしし四肢末端部が相対的に長く、後世の日本人のような胴長短足の体型とはかなり異なっていた。
	 同じ特徴は後期旧石器時代のハンター達や現代でもサバンナで生活する狩猟民に良く見られるが、すねなどの長いその体型はもと
	 もとあつい地域での適応形質であると同時に、走る効率の点でも有利な特徴と考えられ、やはり狩猟・採集生活を送っていた縄文人
	 にはうってつけの体形だったのだろう。」
 
	 9 「土蜘蛛」というネーミング
	 それでは、土蜘蛛という名称は、誰が付けたのだろうか。土中に潜むクモという下等の動物を想起させるネーミングは、やはりどう
	 みても人を卑しめる賤称である。自分たちの集団名として、自ら名乗ったとは考えられない。『記』『紀』の神武東征伝のくだりを
	 編纂した者が、古くから在地に伝わる説話伝承に着目して、反抗した先住民に対して、この呼称を採用したのであろう。
	 そして諸国で個別に編纂された各国の『風土記』に広汎に登場することを考えると、それが撰進された8世紀中期では、「土蜘蛛」
	 という呼称とそのイメージは、なお各地で色濃く残っていたと言えるだろう。


	X 吉野と葛城に残る土蜘蛛の遺跡

	 (1)阿陀の里と隼人                                     
	 熊野から北上して吉野山地に向かって遡っていくと、だんだん川幅が狭くなり、両側が切り立った渓谷になってくる。五条市内から
	 3kmほど東に阿田の里がある。古記録では阿陀と表記されていた侘びしい農村だが、この近辺では特に見事な竹林が見られる。
	 この「阿田の里」は、今から千余年前に、鹿児島県の薩摩半島から「阿多隼人」が移り住んだ在所である。彼ら隼人は,先史時代か
	 ら日向・大隅・薩摩の一帯に住んでいた先住民族だった。ヤマト王朝の支配が九州南部まで及んだとき、彼らはその故郷の地と伝来
	 の文化を守るために果敢に抵抗した。だが、朝廷が繰り出す強力な軍勢によって、しだいに制圧され、朝貢を強いられた隼人の一部
	 が、畿内に移されてきたのだ。その移住先は文献史料や考古学資料によって確認できるが、阿田もその一つである。(『五條市史』
	 に関連する史料が収録されている。)
	 私も『竹の民俗誌』(岩波新書、1991年)を書いた際に何回か訪れたが、薩摩半島の阿多は《海幸彦・山幸彦神話》の原郷であ
	 って、南方系海民である隼人の始祖伝承が語られてきた土地である。てんそんこうりん 天孫降臨神話によれば、阿多は、あまくだ
	 天降った皇孫ニニギノミコトコトが先住民の美しい娘コノハナノサクヤヒメと出会った地である。

	(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出会った旧跡
	 この五條の阿田に、ニニギとサクヤヒメが出会ったという旧跡をはじめ、隼人ゆかりの地名や伝承が、そのままそっくり移されて、
	 今なおこの地に残っている。遠く見知らぬ地に移されてきても、やはり古里を忘れることはできなかったのであろう。
	 阿田のたけやかいと竹尾垣内にも、サクヤヒメを祭神とする古い式内社「阿陀比売神社」がある。神武東征伝では、阿陀の人びとは
	 吉野川で鵜飼をやっていたとあるが、鵜で鮎を獲る漁法も薩摩半島から持ってきたのだろう。
	 阿多隼人が住んでいた薩摩半島は、熱帯原産のホウライチクをはじめ、現在でも竹林の多いことでは日本一だ。この吉野川沿いに
	 タケが多いのは、畿内に移されるときに、隼人がタケの根を持ってきて移植したのであろう。竹器製作は、朝廷が畿内に移住した隼
	 人に課した役務の一つであった。
	 竹尾垣内のすぐ近くに、縄文時代以来の複合遺跡として有名なみやたき宮滝がある。吉野川の清流に沿ったこの景勝の地は、飛鳥の
	 都からも近く、直線距離ではわずか8キロだ。古代の吉野離宮はこの宮滝にあった。

	(3)国栖の里と「石押分の子」
	 吉野山地のくず国栖(国巣)は和紙の生産で知られている静かな村里であるが、宮滝から2km東に「国栖の里」がある。『記』
	 『紀』の神武東征伝に出てくる先住民・国栖の故地である。
	 この神武東征伝では、尾のある人「いわおしわく石押分の子」(磐排別の子)が国栖の祖とされている。押し分けて出てきたという
	 大きないわ磐石が川沿いの森の中にある。高さ20mほどの大きい岩で、真中に割れ目がある。その割れ目のすぐ下に、「岩神神社」
	 と名付けられた小社がある。その巨岩がご神体なのだ。
	 以前は「土蜘蛛が住んでいた穴」と、『日本書紀』の原典を引いてその由来が表示されていた。ところが、1980年代に入ると、
	 突然その掲示板がなくなった。すぐ前の河原で茶店を営んでいる古老に、なぜ掲示板がなくなったのか訊ねてみた。「ああいう表示
	 をしておくと、われわれ村人が土蜘蛛の子孫だと誤解され、世間から変な目で見られるという意見が、村の有力者の一部から出てき
	 たんですよ。寄合で協議した結果、撤去するということになったんですわ」という話だった。
	 あとでみるように、このあたりには土蜘蛛に関わる伝承があちこちに残り、国栖もその一味とされていたのである。石押分の子は、
	 この地に住む土蜘蛛のとうりょう頭領だったが、神武軍に帰順したのであった。
                                                                        
	 (4)「国栖奏」と浄見原神社
	  そこからすぐ近くに、「くずのそう国栖奏」で有名なきよみはら浄見原神社がある。吉野川の切り立った断崖の上にあるが、すぐ
	 うしろの巨大な岩がご神体である。飛鳥のきよみはら浄御原に皇居を定めた天武朝から、天皇の代替りにはせんそだいじょうさい
	 践詐大嘗祭が行われるようになったが、その際に先住民の歌舞が奏せられた。新帝の前で、服属の誓いとして演じられたのである。
	 古記録によれば、その歌舞ははやとまい「隼人舞」とくずのそう「国栖奏」であった。                                  
	 この浄見原神社で、毎年旧正月に、千数百年以前から伝わった国栖奏が上演される。私も以前に参観したが、舞台の脇には、かつ
	 て天皇に捧げたという鮎や赤蛙など吉野川の特産品のおにえ御贄が古記録の通りに並べられていた。

	(5) 葛城古道に残る土蜘蛛の旧跡
	  五條から奈良へ向かって北上すると、約3kmでかぜのもり風森峠にさしかかる。ここから葛城古道に入る。このあたり一帯は、
	 五世紀ごろの大和の豪族葛城氏やかも鴨氏の本拠地だった。金剛・葛城の山裾を上がったり下がったりしながら、木々の間を縫って
	 小道が続く。白壁の旧家が見え隠れする細い田舎道だが、近世さながらの古い村里である。大和にはあちこちに古代以来の街道が残
	 っているが、昔のふぜい風情がまだ見られるのはやはりこの 葛城古道である。
	 街道沿いに、たかまひこ高天彦神社にかつらぎひとことぬし葛城一言主神社がある。この両社の境内にも神武東征伝に出てくる土蜘蛛
	 の旧蹟がある。高天彦神社に近い高天に、千本の足を持った土蜘蛛を矢で射殺して埋めたと伝えられる土蜘蛛塚がある。一言主神社の
	 境内には、頭・胴・足の三つに切断して埋めたという三つの土蜘蛛塚がある。
	 このように吉野から大和にかけて土蜘蛛と国栖は、近接した地域に住んでいて同族とみられている。ただし、「土蜘蛛」は皇軍に抵抗
	 する先住民、「国栖」は帰順し皇軍に協力する先住民ーーそのように区別されている。そして東征伝では、国栖は「国津神」とされて
	 いるが、土蜘蛛は「荒ぶる神」とされている。

	 雄略天皇に抗した山の神「一言主神」の伝説、修験道の開祖で呪術を駆使して朝廷に謀反した「えんのおづぬ役小角」ーー
	 これらのヤマト王朝の権威に従わなかった山人系の伝承が残っているのも、この古道の周辺である。
	 『日本書紀』では、葛城の地名伝承を次のように述べている。この地の土蜘蛛は、なかなか勢力が強かった。神武軍に帰順せず各地で
	 果敢に抵抗した。彼らは身長が低く手足が長くてしゆじゆ侏儒(こびと)に似ていた。天皇の軍隊は葛のつるで網を作り、それを覆い
	 かぶせて、反抗する土蜘蛛を捕らえて殺した。それでこのあたりを 葛城と呼ぶようになった。

	6 「隼人舞」が演じられる大隅郷 
	 この葛城古道から奈良へ出る街道筋にも、古代からの由緒ある社寺が数多く散在している。奈良からさらに北上して京都へ入る街道筋
	 の田辺町の大住は、かつての山城国大住郷である。この地は、鹿児島県の大隅半島に住んでいた「大隅隼人」が移住してきた土地であ
	 る。大隅隼人も阿多隼人と同じく、畿内隼人として竹器生産の役務を課せられていたが、このあたりも竹林が多い。この大隅郷には、
	 古くから「隼人舞」が伝わっていた。彼らも大嘗祭や諸せちえ節会の際には、朝廷にも召されて、国栖奏と並んで演じていたのである。
	 現在でも月読神社の秋の大祭で上演されている。

	7 中世の説話で語られた「土蜘蛛」は別物
	  平安時代に入るころには、細々と伝えられていた「土蜘蛛」伝承もしだいに途絶えた。諸国の在地社会で、「古老相伝の旧聞異事」
	 として語られることもなくなった。
	 中世も後期に入ると、わずかに猿楽能(謡曲)の五番目物である『土蜘蛛』『国栖』にその名を残すだけになった。近世の歌舞伎や
	 人形浄瑠璃にも土蜘蛛が出てくる。だが、それはもはや完全に記号論的変換をとげていて、悪人・悪党・逆徒、あるいは未開の山人
	 などのシンボリックな代名詞として用いられていた。つまり、実体としては、全く別物になっていたのである。
	 金剛・葛城・二上と連なる山系の麓を走る葛城古道にも、「土蜘蛛」伝承が残されているが、これらは古代からの伝承と中世説話が
	 混同されてつくられた塚である。
	 彼ら「土蜘蛛」と呼ばれた人たちは、古伝承に出てくる想像力の所産だったのか。土蜘蛛というオドロオドロしい呼び名も、文学的
	 修辞の次元にとどまる鬼や妖怪だったのか。
	 否である。根も葉もないフィクションとして、『記』『紀』編纂の過程で「土蜘蛛」伝承が創作されたとは考えられない。諸国の
	『風土記』では、日向から陸奥に至る広い地方で、「土蜘蛛」伝承が語り継がれていたのである。




邪馬台国大研究・ホームページ/ 学ぶ邪馬台国 / 先住民「土蜘蛛」をめぐって