Music: 赤い靴

深江稲荷神社 2008.7.27 歴史倶楽部第133回例会








今里駅から一駅、「新深江駅」で降りて「深江稲荷神社」を目指す。ここは郭公さんが案内してくれる。





	深江稲荷神社	(当社HPより)大阪市東成区深江南3 

	【ご祭神】
	宇迦之御魂神 
	猿田彦命 
	月読命 
	下照姫命 
	笠縫祖神(天津麻占命)

	【ご由緒】
	当社の創建年代は垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南三丁目の地)に居を定め、下照姫命を
	奉祀したのを始めとし、その後元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。
	慶長八年豊臣秀頼が片桐市正、加藤左馬介に命じ、社殿を改築しましたが、慶長十九年に兵火により消失、その後、宝暦十年に本殿
	及び絵馬堂を再興し、寛政八年に本殿・拝殿に修理を加え、同時に石鳥居を再建し、明治五年に村社に列せられました。
	昭和四十七年には、大阪府史跡「摂津笠縫邑」に指定され、平成三年、神社本庁モデル神社の指定を受けると共に、本殿・拝殿・社
	務所等が改築されました。 
	境内には笠縫部の祖を奉祀する笠縫社があります。笠縫氏は世々大和笠縫邑に住み、皇祖の御鏡を守護していました。垂仁天皇の御
	代、その一族は浪速の入江、片江、深江の島(笠縫島)に移り住み、世々菅笠を作るを生業とし、伊勢神宮式年遷宮の行われる毎に
	御神宝の菅御笠・菅御翳を調進したそうです。
	又、歴代天皇御即位式の大嘗祭に用いられる御菅蓋も深江より調進されました。菅笠 は古くは専ら貴顕の用に供されたものですが、
	近世に至り、一般人の旅行用あるいは作業に用いられ、伊勢参宮などには必ず携帯する習慣となったことは『摂津名所図会』に記さ
	れています。同じく境内の御饌津社は霊亀元年伊勢外宮より豊受御饌津神の御分霊を移し、奉祀せるものであります。



	下照姫(シタテルヒメ)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	シタテルヒメは、日本神話に登場する神道の神である。古事記、日本書紀などに記述される。また先代旧事本紀やホツマツタヱなど
	にも記述される。古事記では、高比売命(たかひめのみこと)の別名が下光比売命である。日本書紀では下照姫。またの名は高姫。
	先代旧事本紀・地神本紀では下照姫命。ホツマツタヱでは下照姫。古事記では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根
	神(アヂスキタカヒコネ)の妹。日本書紀では顕国玉の娘。

	古事記および日本書紀本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚した。天若日子が高天原か
	らの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコ
	の父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯(もがり)を行った。それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、
	その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜んだ。アヂスキタカヒコネは穢
	わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行った。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。
	この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は日本書紀本文にはない)。日本書紀の第一の一書では、アメ
	ノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹である
	としている。記紀において、卑弥呼の原像をもとに、天上界ではアマテラス(天照)、下界ではシタテル(下照)ヒメとして記載し
	たとの説もある。





	宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)ほか二柱を奉斉する旧深江村の氏神で、和銅年間(8世紀前期)の創建といわれ、慶長8年(1603)
	豊臣秀頼が社殿を改造したとも伝えられる。笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、現在境内が「笠縫邑跡(かさぬいむらあと)」
	「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、市から史跡に指定されている。



	この付近は、大和笠縫(かさぬい)氏の子孫が古くから移住したところと伝えられている。「菅の里」の別名があり、明治ごろまで
	近辺のほとんどの人たちが笠づくりに従事していたそうである。笠づくりの最盛期は江戸時代で、笠は伊勢参宮の道中用に使われた。
	また伊勢神宮式年遷宮(しきねんせんぐう)と天皇即位式大嘗(だいじょう)祭には、今でもここから納められている。深江稲荷神
	社は、笠縫氏の祖先が下照姫(したてるひめ)命を祭ったのが最初という。その後、稲荷神社の分霊を勧請し、慶長8年(1603)に
	は豊臣秀頼が片桐且元(かつもと)に命じて社殿を改築するなどしているが、大坂の陣のとき焼失した。



慶長八年(1、603)、豊臣秀頼が社殿を改造したと伝わる。 拝殿と本殿は新しく作られている。

下は、本日郭公さんが用意してくれた資料。前半は上の「縁起」。






摂社 笠縫社「天津麻占命 配 笠縫祖神」

	「先代旧事本紀」には、物部氏の遠祖饒速日尊(にぎはやひのみこと)の降臨神話が語られているが、そこに「五部人を副へ従と為
	して天降り供へ奉る」とある。上記の郭公さんの資料にあるように、笠縫等祖「天津麻占」、曾曾笠縫等祖「天都赤麻良」の名があ
	るが、この部族がこの付近に住んでいたのか、或いは縁起にいうように、「垂仁天皇の御代、その一族は浪速の入江、片江、深江の
	島(笠縫島)に移り住み、」と、大和の笠縫邑から移ってきたのか。



上左。「ここにある石川三郎さんは司馬遼太郎の運転手を務めた方で、この地方の名士です。」と郭公さん。知り合いらしい。



拝殿前庭の楠木の横に夏みかんの木が植えられている。これは垂仁天皇と但馬守(たじまもり)の故事によるものだろう。



上右、神社の隅に「山車庫」がある。数人の若者が虫干しのような事をしていた。









新深江の地下鉄の壁には「笠縫邑」にちなんでか「笠の絵」が描かれている。ここで記念撮影。とうとう橋本さんは見つからない。

	ここは「稲荷神社」となってはいるが、稲荷は後から勧請したのだろう。神社の片隅に申し訳程度にお狐さまとお稲荷さんが祀って
	あった。そもそも、祭神が「宇迦之御魂神、猿田彦命、月読命、下照姫命、笠縫祖神(天津麻占命)」である。古代から相当古い由
	緒を持っているのは間違いなさそうである。
	下照姫や月読命などは神々の系譜に置いては極めてマイナーな神である。月読命を祀っている神社は全国でも100社にも満たない。
	何か、今ではもう残っていない由緒があったもののようにも思える。



  
邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 / 悪所めぐり