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コリアタウン 2008.7.27 歴史倶楽部第133回例会



	錦織さんの希望訪問地は「コリアタウン」だった。いわゆる一般名称としての「コリアタウン」なら知っていたが、ちゃんと
	した区画として独立した領域があるとは知らなかった。鶴橋や生野区に韓国の人が多く住んでいて、焼き肉屋やキムチ屋が並
	んでいる商店街は知っているが、通り一つが「コリアタウン」と銘打って存在していたとは。
	そこには猪飼野と呼ばれる地域もあって、古代の猪飼部(いかべ)の人々が住んでいたのだ。歴史を学ぶ者として、これを知
	らないのは迂闊だった。世の中は、幾つになっても驚きと興奮に満ちている。	



	鶴橋で降りて、駅一つ次の「今里」までを歩くことにした。「コリアタウン」を巡っていくとその方がいいと言うので皆の意
	見にしたがった。私はこの辺りには全く疎いのだ。近鉄鶴橋駅ガード下を中心としたあたりは「鶴橋国際商店街」と呼ばれる。

	ここで橋本さんが「わし、もうコリアタウンは何回も行ったので、電車で今里まで行って待っとくわ。」と言う。皆と一緒の
	方がいいのではと思ったが、あまりに暑いし、まさかああいうことになろうとは思わなかったので、「あ、そうでっか。ほな
	また後で。」と橋本さんと鶴橋で分かれた。


	大阪市生野区		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	戦前からのコリア系住民の集住地で、大阪市には生野区西部地域を中心に現在も約9万人以上が居住し、日本最大のコリア・
	タウンを形成している。近鉄・大阪環状線の鶴橋駅周辺には、韓国・朝鮮系の商店が大規模な市場をなしており、鶴橋駅周辺
	は済州島出身者・もしくはその子孫が多い。また、生野区コリア・タウンの中心部は旧猪飼野地区で、朝鮮式楼門を備えた御
	幸通商店街が異彩を放つ。大阪市立御幸森小学校はコリア系児童の比率が日本人児童を超えている。また、鶴橋・猪飼野とい
	う旧来のコリア・タウンの周縁も、コリア・タウン化が見られ、旧遊廓の今里新地地区は新大久保に似た新興コリア・タウン
	と化しつつある。他に隣接する東成区や浪速区などにもコリア系住民が多い。また、高槻市には北部の山間に陸軍の地下施設
	を設営する目的で移送された朝鮮籍の人のうち、帰国しても生計の立つ見込みのない者たちが戦後定住した。




	日本最大のコリアタウン、大阪市生野区。鶴橋駅周辺には焼き肉屋が建ち並び、JRや近鉄の駅のホームに立っているだけで
	焼き肉の臭いが漂ってきて、思わず「あぁー肉が喰いてぇ。」と呟いてしまう。鶴橋駅から南東へ1キロほど離れた場所にも、
	もう一つのコリアタウン商店街である「御幸通商店街」が存在する。御幸通商店街は駅から離れている為、そこへ至る道が少
	々わかりづらい。鶴橋駅前から商店街を東へ抜け「鶴橋卸売市場」の南北のアーケードを南へ進む。アリラン食堂などがある
	細い路地の商店街だ。アーケードが途切れ広い道路が出現する。そこを左に出るとすぐに見える交差点、ここを南北に通る道
	を地元では「疎開道路」と呼んでいる。正式には「市道豊里矢田線」。疎開道路という名前がついたのは戦時中に、防災上の
	理由、避難経路の確保と民家の延焼を食い止めるために民家を立ち退かせて作った道路だからだという。

	疎開道路沿いに南下すると、左側にコテコテなキムチ専門店があるが、そこを目印に少し先の道路を左に入った筋が「御幸通
	商店街」になる。コリアタウンである。ここまでで鶴橋駅から徒歩12、3分程度である。

	そのすぐ側に「御幸森天神」がある。ここが「旧猪飼野村」である。地名の由来は日本書紀の「猪甘津」から来ている説が最
	も有力だが、豚を飼う朝鮮人の村ということで「猪飼野」と呼ばれるようになったという説もある。猪飼野という地名からは
	「朝鮮人の村」という蔑視のイメージが付きまとっていた事もあって、地図上の地名からは姿を消した。昭和48年の住居表
	示変更施行で、猪飼野の地名は「鶴橋」「桃谷」「中川西」に変わり、現在では「猪飼野橋」などの交差点やバス停の名前に
	残る程度である。




	猪飼野	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	猪飼野(いかいの)は、大阪市東成区・生野区にまたがる、鶴橋から桃谷にかけてのJR大阪環状線東側と平野川に挟まる地域
	とその周辺の地域の総称。住居表示制度施行(1973年)前の地名である。新住居表示では東成区の「玉津」「東小橋」、生野
	区の「鶴橋」「桃谷」「中川」「中川西」「勝山北」「勝山南」「舎利寺」「田島」辺りに当たる。
	
	古代・仁徳天皇の時代に、多くの「渡来人」がこの地にやってきた。特にこの地域は百済からの渡来人が多く古くは「百済郡」
	と呼ばれていた。その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶよ
	うになる。さらに、渡来人のもたらした優れた技術により、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)
	に架けられ、通称「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となる。
	近代以前は、この地は大阪有数の農村であり、大阪中心部への野菜の供給地であった。第一次世界大戦時の好景気を反映して
	この地に工場の立地が相次いだ。さらに、これまでくねくねと曲がって流れていた平野川をまっすぐに付け替える改修工事が
	行われ、労働者として朝鮮民族を中心に集められ、人口が急増する。太平洋戦争を経て、この地に根ざした在日韓国・朝鮮人
	によってコリアタウンが形成されていった。

	古代からこの辺一帯を猪飼野(いかいの)と呼び習わして来たが、それは「猪(=豚)を飼う一族が住む地」という意味で、
	文献には「猪飼部(いかべ/いかいべ)と呼ばれる専門職が豚を飼育し朝廷に献上していたことが記されている。古代この辺
	りは、朝鮮半島から百済人が半島での争いの難を逃れて、集団で移り住んだ所である。やがて仏教の伝来とその普及にともな
	って、日本人は豚を食べなくなり、やがて猪飼部という職業も無くなっていった。古代豚の血もここで途絶えた。日本人が再
	び豚を食料とするようになるのは明治になってからである。








	御幸通りの南側に御幸森天神宮(通称:御幸森神社)がある。祭神は仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命である。仁徳天皇は難波
	高津宮から河内方面に狩りなどで行幸し、度々この地に立ち寄って休んだ為、ここを御幸森と名付けたとある。由緒書の隣に
	は「猪飼野保存会」の説明板が在り、「御幸森」、「猪飼野」、「鶴橋」の3つの地名の由来を記している。その中に江戸時
	代の「つるのはし」の絵が載っている。この絵は1993年生野区内の旧家から発見されたもの。「つるのはし」は河内・大
	和への街道筋に当たり、何度も架け替えられ、その古記録が天神宮に保管されているそうだ。









神社の隅になにやら由緒ありげな石造物が置いてある。しばらくみんなで眺めたが結局何か分からなかった。








	生野コリアンタウン		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	生野コリアンタウン(いくの−)は大阪市生野区の桃谷にある「御幸通商店街」(御幸通東商店街、御幸通中央商店会、御幸通
	商店街の3商店街)とその周辺の通称。正確には「コリアタウン(KOREA TOWN)」。
	「大阪コリアタウン」、「猪飼野コリアタウン」「桃谷コリアタウン」なども同様。
	平成5年(1993)から『コリアタウン』との呼称を使うようになる。それまでは「朝鮮市場」と呼ばれ(ちなみに近隣住民の中
	には今もなお「朝鮮市場」の愛称を使う者も少なくない)、在日韓国・朝鮮人にとって食材・日用品などが豊富に揃う生活に密
	着した市場であった。その呼称利用の際に東、中央の両商店街にはそれぞれ「百済門」「御幸通中央門」が完成。カラー舗装、
	街灯なども設置。多くの在日韓国・朝鮮人が生活する街として、その特色を際立たせた。その後、2002年日韓共催のワールドカ
	ップサッカーの開催で、一躍注目を浴び、それに続く「韓流ブーム」で一気に全国区に。現在は在日韓国・朝鮮人はじめ地元の
	人々の生活スペースでありながら、観光客が多く訪れるスポットとなる。こうした特色を生かし、学校や各種団体が「異文化体
	験」「歴史散策」「人権研修」として訪問するのを受け入れる体制が整いつつある。

	もともと古代からこの地は渡来人が多数住みついており、旧地名である「猪飼野」の起源となっている。1910年の日韓併合を経
	て、1923年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」の就航をきっかけに、多くの朝鮮人が労働のために日本へ渡航し、当時
	工業地化しつつあった猪飼野周辺に集まってきた。こうして自然と朝鮮市場が誕生し、それを核に商店街としてスタートしたの
	もこの頃である。
	日本の敗戦後、国に帰る韓国・朝鮮人、新たにやってくる韓国・朝鮮人と入れ替わりはあるが、この市場を中心に生活し日本最
	大の在日韓国・朝鮮人の集住地になった。現在も大阪市生野区の総人口の四分の一は外国人である。「コリアタウン」にくれば
	韓国・朝鮮人にとって必要なものが揃う「地域に密着した商店街」として発展した。



栗本さんは、キムチを買うときはここまで買いに来るそうである。上左がその店の商品。「ここの食うたら他のは喰えまへん。」との事。

	商店街の入口に韓国式の立派な門が掲がっている。御幸通商店街は東西で3つの区画に分かれており、とりわけコリアタウン色
	が強いのが御幸通中央商店街。ほとんどの店舗がキムチを売る総菜店や肉屋、韓国料理店や屋台料理、民族衣装、それに韓国の
	音楽CDやDVDを売る店舗などとなっている。在日韓国人たちが日常生活を営むのに必要な品々が何でも揃っていて、ソウル
	の市場の様に活気があり、店での会話にもハングルが飛び交っている。




	「大阪市生野区」公式サイトに拠ると『1984年、朝鮮市場の再生の為に、チャイナタウンを意識した「コリアタウン構想」
	を打ち出し、1993年、御幸森天神宮から東へ延びる長さ500mほどの商店街(生野区桃谷3〜5丁目)が完成しました。』
	とある。











平野川沿岸を中心に中小の町工場が多い。東大阪市と並ぶ大阪の町工場集積地である。

	日本書紀巻第十一の大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)、即ち仁徳天皇十四年の冬十一月に、猪甘津(いかいのつ)に
	橋為す。即ち其の所を号けて、小橋(おばせ)と曰ふ。」とある。古事記は単に「小椅(おばせ)の江を掘り」と記している。
	日本書紀に言う「猪甘津の小橋」とは何処だろうか。当時の地理的状況からしてこの「小橋」は旧平野川(当時は百済川)に
	架けられていた橋であるのは間違い無い。地元の「猪飼野保存会」では生野区桃谷3丁目の「つるのはし跡」を「猪甘津の小
	橋」に比定している。「津」とは、「大津」とか「難波津」のように、古代には船が着く港、或いは船着き場を表す語である。

	つまり猪甘津とは「猪飼野にある」港だったのだろう。そしてこの港に着いた物資を更に河内や大和へ運ぶ為に、旧平野川に
	橋を架けたり堀(=小運河)を掘ったりした、というのが記紀に記された内容だろうと思われる。





今里筋沿いに残る「猪飼野橋」交差点。今となってはここらへんにしか「猪飼野」の名前は残っていない。

	さてここからが大変だった。今里駅に橋本さんがいないのである。約束の時間はとっくに過ぎているし、みんなで幾つかある
	改札を調べに行ったり、電車を何本か待ってみたりしたが橋本さんは来ない。「どないしたんやろ。」「鶴橋でビール飲んで
	そのまま焼き肉でも食うとるんちゃう。」「あんまり暑いからもう帰ったんかなぁ。」「携帯持ってないのはこういうとき不
	便やねぇ。」「栗本さん、携帯持つように橋本さんに言うときや。」などとワイワイガヤガヤ。
	2,3人が電車で鶴橋へ行ってみたり、先の新深江まで見にいったりしたが、結局橋本さんとは出会えなかった。仕方がない
	ので、橋本さんはもう帰ったという事にして、残りで例会を続行という事になった。

	後で橋本さんからのメールによれば、地上の地下鉄への入り口の前で1時間待っていたそうである。降りてきて改札前まで来
	てくれれば会えたのに。我が歴史倶楽部の例会としては、始めて「行方不明者」が出た例会となった。ミステリー・ツアーに
	ピッタリと言えばそうだが、しかし何事もなくて良かった、良かった。橋本さん、以後単独行動は慎みましょう、ははは。



  
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