Music: 赤い靴

大塩平八郎の墓 2008.7.27 歴史倶楽部第133回例会



	南森町(みなみもりまち)から北へ4,5分の所に成正寺という寺がある。大塩家が成正寺の檀家であったことから、ここに
	大塩平八郎の墓がある。しかし江戸時代は幕府に逆賊扱いされていたため墓は建てられなかった。近年になって、菩提寺の成
	正寺に供養碑が建てられた。成正寺は「増長院日秀聖人」の開山で、慶長9年(1604)の創立。開山日秀上人は、身延山十八
	世妙雲院日賢上人の高弟で、京都伏見に「墨染寺」(我々も昔例会で訪れた。)を開山した後、大阪に停住の地として成正寺
	を建立した。




	大塩平八郎
	江戸後期の陽明学者で大塩の乱の首謀者。大阪出身。父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本
	だった。号は中斎。幼くして父母を失い、祖父母に育てられる。13歳頃、与力見習いとして東町奉行所に出仕、1818年
	(25歳)正式に与力となる。「与力」は今で言う警察機構の中堅。署長が奉行で、与力は部下の「同心」たちを指揮している。
	翌年には吟味役(裁判官)となり、裁定に鋭い手腕を発揮した。大塩は20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学
	の基本精神「良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない」という「知行合一」を実践する。




	大阪人なら、まずこの大塩平八郎の事を知らない人はいない。大阪の有名人であるが、では何をした人かというと、
	大塩平八郎は大阪町奉行所の与力の息子として生まれた。26歳で与力になり、学問の余暇を利用して武術を修練し、刀・銃
	・弓・槍の法を悉く知り、殊に槍術は関西第一と称せれるほどだったが、37歳の時に役人を辞め、陽明学の私塾を開いた。
	陽明学者としても秀れていた。天保7年の飢饉に際し、救済を奉行に進言するが聞き届けられず、蔵書(一千二百部、六百五
	十両相当:一説には5万部とも言うがこれは多すぎると思う。与力の俸禄で5万部は無理ではないか。)を売り払って、救民
	する。天保8年(1837)2月19日、難民救済のために兵を上げ、船場の富豪地区を襲って焼き払い大阪城を攻撃するが鎮圧
	された。その結果、西区の靱で自害。45歳であった。
	これが「大塩平八郎の乱」であり、このくらいは大阪人ならみな知っている。事件はのち講談となって世間に流布した。幕府
	は発生当時この事件を隠したが、瞬く間に世間に知れ渡り、類似の一揆風反乱は幕府を悩ませた。大正3年には森鴎外が小説
	「大塩平八郎」を発表している。



	私も大阪に来た頃は、大塩平八郎については上記の概略プロフィールくらいしか知らなかった。しかし営業で大阪の町を歩い
	ていると、アチコチで「大塩平八郎ゆかりの地」というものに出くわす。「大塩平八郎終焉の地」「大塩平八郎激戦の地」、
	「大塩平八郎の乱で銃弾を受けた桜」などなど。そこで一度大塩平八郎についてじっくり調べてみる事にした。そして驚いた。

	私の知る大阪人の中で、彼ほど高潔で純粋な理想家はいない。そのあまりの理想主義には悲しくなるほどであるが、それでも
	私などには到底マネの出来ない堅固な意志と実行力を兼ね備えている。「大塩平八郎の乱」は何も幕府転覆や国体改造を目指
	したものではない。目の前に横たわる、飢饉で飢えていく人々や、それに対して何もしない役人共や、豪商と結託して私服を
	肥やしている上司・同僚・部下達に対する「憤怒の戦」なのである。幕府を相手に戦を仕掛けても、やがて鎮圧されることは
	目に見えている。万に一つも勝ち目はない。
	しかしそれでも、敢えて腐敗した世の中に戦いを挑んだ大塩平八郎。我々が子供達に教えなければならないのは、彼のような
	生き方をした人の一生である。彼の生き様である。金よりも、名誉よりも、もっと大事なものがあると言うことを、大塩平八
	郎は身を以て我々に教えてくれる。
	著者が誰かは関係なく、彼について書かれたものを読んでいると、やがて涙があふれ出すのをとめられない。




	大塩平八郎は、寛政5年(1793)大阪天満に生まれる。子供の頃から武芸・学問にすぐれていたという。大塩が吟味役となっ
	て驚いたのは、奉行所の腐敗である。同僚の中には自ら賄賂を要求する者も多数いた。金品で捜査に手心を加えることも公然
	と行なわれていた。巨悪に立ち向う大塩は、幕府中枢部からも圧力を受けながら、内部告発の為に証拠を集め何度も上層部へ
	提出する。しかし、大塩が37才の時、不正行為を暴いた大事件の裁決が降りるが、幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪
	党数名が遠島や改易処分になっただけだった。そして処分から1ヵ月、大塩を陰ながら応援していた上司が辞任させられた。
	そして大塩も、職を養子・格之助に譲って奉行所を去らねばならなかった。まるで映画のような話である。映画ではたいてい
	ヒーローの努力が報われ巨悪は暴かれるのであるが、彼の場合はそうはならなかった。挫折して、25年に及ぶ奉行所生活を
	終えるのである。




	大塩は32歳の時に、私塾『洗心洞』を大阪天満の自宅に開いていた。彼は陽明学者としても広く知られており、与力や同心、
	医師や富農にその思想を説いていた。奉行所を去った大塩は、学者として学問の道を究めようと、40歳の時、「知は行動が
	一致して初めて生きる」とする「知行合一」を説いた「洗心洞剳記(さつき)」を刊行する。大塩は著作の最後を「口先だけ
	で善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と締めくくっている。
	大塩40歳のその年(1833年)、「天保の大飢饉」が発生する。冷害や台風の大被害で米の収穫量が激減し、米価は高騰した。
	凶作は3年も続き餓死者が20〜30万人に達する。大阪でも餓死者が道に溢れ、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野
	忠邦の弟)に飢饉対策を進言した。「売り惜しみをして値をつり上げている、大阪の米問屋や商家にたっぷりある米を、人々
	に分け与えるよう奉行所から命令を出されたし。」と訴えたが、跡部良弼は「意見するとは無礼千万。」と大塩を叱責した。

	実は、跡部良弼を初めとする奉行所の役人達は、豪商と結託して江戸に米を流して巨利を稼ぐ為、大阪に搬入されるはずの米
	を兵庫で留め、それを海上から江戸に送っていたのである。飢饉につけ込む豪商らの米の買占めで、大阪の米の値段は6倍ま
	で急騰し、一方で奉行所は大阪の米を持ち出し禁止にし、地方からコメの買い付けに大阪へ来た者を捉え厳罰に処した。
	大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命救助が第一義」と6万両の義援金を要請したが、これも無視された。

	利己的な考えに終始する為政者たち、餓死者を前に何の手も打たない大阪町奉行、巨利をむさぼるばかりの豪商。「知行合一」
	を唱える大塩がこのまま何もしない訳はない。大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をした。堺で鉄砲を買い、
	高槻藩から数門の大砲を借り受けた。大塩の最終目標は、有り余る大量の米を備蓄する「大阪城の米蔵」だった。




	大塩は、門下生や近隣の農村に向けた檄文を作る。
	「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉
	の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益
	だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀ってい
	る。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為す時であり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である。」
	大塩の連判状に名を連ねた門下生は、与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名、
	となっている。
	天保8年(1837)2月18日、決起の前日、大塩は幕府の6人の老中に宛て、改革を促す書状を送った。蜂起後に江戸へ届く
	はずの書状は、何者かの手によって、後日山中に打ち捨てられていたのが見つかった。その文面は、
	「公然と賄賂をとる政治が横行していることは、世間の誰もが知っているのに、老中殿はそれをご存知ながら何ら意見を表明
	されない。その結果 、天下に害が及ぶことになった。飢饉は天災ではなく人災である。」というものだった。

	蜂起当日、門弟の与力2人が裏切った。事態急変を受け、大塩は午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した。朝の大阪に大砲
	の轟音が鳴り響く。最初は25人で与力宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。「天満に上がった火の手が決起
	の合図」を受けて、近隣の農民が次々と駆けつけ、70名になった大塩たちは、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、
	亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。船場
	に着いた昼頃には町衆も混じり、軍勢は300人になっていた。
	しかし、正午を過ぎると奉行側も反撃の態勢が整い、大阪城からは2千人の幕府軍が出陣した。砲撃が始まると民衆は逃げ始
	め、大塩らは百余名になった。大塩一派は淡路町まで退き、二度目の総攻撃を受け夕方には完全に鎮圧された。火災は治まら
	ず翌日の夜まで類焼し、「大塩焼け」は大阪中心部の5分の1(約2万軒)を焼き尽くした。
	事件後門下生たちは軒並み捕縛された。大塩と養子の格之助は約40日間逃走した後、3月27日に靱油掛町の民家に潜伏し
	ているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放ち火薬を撒いて爆死した。享年44歳。




	幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ反乱を隠したが、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得な
	くなり、乱は短期間に全国へ知れ渡った。しかも爆死したことで人相確認が出来なかったことから、「大塩死せず」との噂が
	各地に流れた。乱から2ヵ月後の4月に広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後柏崎で国学
	者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、7月には大阪北西部で山田屋大助ら2
	千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。大塩に共鳴した者の一揆や反乱はこの後もしばらく続い
	た。大阪周辺の村々に対して奉行所は、大塩の「檄文」を差し出すよう命じたが、農民たちはこれに従わず、厳しい監視の目
	をかいくぐって写筆し各地に伝えていった。

	●大塩が撒いた檄文(一部)

	天保八丁酉年 摂河泉播村々 庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ

	役人はただ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様。大阪の奉行並びに諸役人共は万物一体の仁を忘れ、
	私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一
	斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致している。何れの土地であつても人民は徳川家御支配の
	者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。

	大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つていて未曾有の有福な暮しを致しおる。彼
	等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑等を所有して何不足なく暮し、この節の天災天
	罰を眼前に餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋
	へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋している時に当つて、絹服をまとひ芝
	居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つているのは何といふ事か。
	天下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つている
	大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は
	夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持していても父母妻子家内の養ひ方が困難な者
	へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ
	参じて来てほしい、これは決して一揆蜂起の企てとは違ふ。
	此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、
	我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは詰るところは殷の湯王と周の武王、漢高祖、
	明太祖が天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視
	せよ。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。

	「大塩の乱」で処罰された者は750人に及んでいる。重罪者31人のうち6名は自害、2名は他殺、1名は病死、そして17
	名は1ヶ月の間に獄中死している。過酷な拷問が行なわれ、大塩平八郎の恋人も獄中で死亡している。刑が執行されるまで生存
	していた者は、わずかに5名と伝わる。幕府は爆死して黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人(彼らも遺骸)
	と共に西成区太子にあった刑場で、1838年9月18日、磔(はりつけ)に処した。その時生存していたのは竹上万太郎だけ
	と言われる。
	大火で焼け出された大阪の人々は、大塩らに怒りをぶつけるどころか、「大塩さま」と呼んで長くその徳を称えたと言う。


	江戸時代に、幕末とはいえ、大塩平八郎のような人物が出現したことは驚きである。高槻藩もよく貸したものだと思うが、一個
	人が数門の大砲を用意して、白昼堂々と大阪の中心街で大砲をブッ放し、豪商の米蔵を打ち壊しながら奉行所や大阪城襲撃を企
	てた。全く持って驚愕に値する。
	大塩の先祖は家康時代からの直参の旗本である。彼は与力という要職を勤め、ずっと体制側にいた元幕府の役人だ。そんな男が
	幕府に反抗したという事実は、幕府だけでなく諸大名にも強烈な衝撃を与えた。この事件は徳川政権を大きく揺さぶり、幕府の
	権威が地に落ちていることを全国に知らしめた。薩摩や長州といった巨大な大名でさえ、幕府に対して従順であるしかなかった
	時代に、たった一人で強権に確執を醸(かも)したのである。大塩平八郎の乱から30年後、明治維新が成立する。

	江戸時代、大罪人の大塩の墓を造ることは許されなかった。維新から30年後にようやく建立されたが大阪大空襲で破壊。昭和
	32年に有志が成正寺に墓を復元した。





  
邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 / 悪所めぐり