かっての河内湖の廻りを取り囲むように古墳時代の遺跡が分布している。そうした遺跡の多くは渡来してきた人々の集落や拠 点跡で、彼らは河内湖のほとりに永住の地を定め、不退転の固い決意で準構造船を解体し井戸枠に使った。須恵器や竈を倭人 に伝え、彼等と共存しながら倭人の文化度を高める手助けをした。やがて大和朝廷の萌芽ともなる、台頭してきた幾人かの大 王達に仕えて、その重臣となったものもいるだろう。ムラの長となって国土開発に邁進した者もいるだろう。或いは自ら甲冑 を纏い、山野を駆け抜けて、寧所に暇(いとま)あらずの戦乱に明け暮れたものたちもいたに違いない。しかしやがて彼等の 誰もが、日本語を話す倭人達の社会にとけ込み、自分たちも同じ言葉を話す「日本人」になっていったのである。
この遺跡は猪名川下流域の左岸、沖積地に位置する。弥生時代後期から平安時代におよぶ遺跡だが、須恵器が出現する5世紀 には集落が広がっていたと考えられる。竪穴建物、井戸のほか、製塩土器、初期須恵器、土師器とともに白玉、管玉、有孔円 板が出土した石敷き遺構、須恵器破片の集積群といった特殊な遺構が見つかった。 出土した初期須恵器には、杯身、杯蓋、高杯、椀、壺、甕、器台等が見られる。壺には縄文、螺旋状の沈線を施すものや、無 紋で底部が平たいもの、瓦質状の焼成のものがあり、百済から到来したと考えられる土器もある。木製品は杓、横槌、鋤、機 織り具。木刀、木剣などがあり、また編み籠も出土した。この遺跡で見つかった集落は、製塩を行っていたとも考えられ、近 くの尼崎市には船詰神社という名の神社があり、猪名川を遡ってきた渡来人の姿が浮かんでくる。
八尾市の小阪合遺跡は、白鳳時代創建寺院と目されている東郷廃寺の南にあり、弥生時代の水田と古墳時代初頭の竪穴建物、 掘立柱建物、5世紀前半の初期須恵器を伴う土坑が発掘されている。この一画に流れていた自然河川や「落ち込み」の出土 品は、摩滅度や出土遺物のまとまり具合から、元々すぐ近くにあったと考えられる。3世紀〜4世紀初頭までの土師器、5 世紀初め頃の最古の須恵器、和同開珎をはじめとする70枚もの皇朝十二銭や須恵器・土師器、官衙の一画や古代寺院など でしか用いられていない瓦、河内には類例の少ない緑袖陶器類など、長期間にわたる遺物が大量に出土している。
小阪合遺跡は八尾市のほぼ中央に位置し、地理的には旧大和川の主流である長瀬川と玉串川などの河川によって運ばれた土 砂で形成された沖積地上に立地する。当遺跡は、昭和30年の大阪府営住宅建設工事中に、弥生時代〜鎌倉時代にかけての 遺物が多量に見つかったことが、その後の発見の契機となった。昭和56年から当遺跡内で区画整理事業が施工されること になり、大阪府教育委員会、八尾市教育委員会等によって多次にわたる調査が行われた。その結果、弥生時代中期〜近世に 至る複合遺跡であることが判明した。特に奈良〜平安時代にかけての河川跡からは、皇朝銭のほか、墨書土器、瓦、石製品 など多数の遺物とともに牛や馬の遺体も出土した。この河川は、ある時は水辺の祭祀を執り行う場、また、ある時は土器の 廃棄場として利用されていたものと考えられる。 古墳時代前期の遺構では、旧大和川の支流が見つかり、河川西岸では廃棄された壷、甕、高杯、鉢等の膨大な量の土器類が 出土した。その土器類のなかには吉備や山陰といった地方産のものが含まれており、当時地域間で交流のあったことを示し ている。河川の西側においては、船材を井戸側に転用した井戸や竪穴住居、土坑、溝がみつかり、さらに西岸の中央付近で は、数本の杭が打ち込まれた護岸施設が見つかった。ミニチュア土器も見つかっている。ミニチュア土器はすべて「手づく ね」によるもので、径3〜4cmほどの小さなもの。出土量は全体で20個前後を数え、数箇所に分かれて小型の壷や甕と 一緒に置かれた状況で出土した。これらの遺物は出土状況から、水に関わる何らかの祭祀と考えられ、当時のままの状況で 発見されたことはたいへん貴重である。
古墳時代中期に渡来人が定住した代表的な遺跡として、大阪南部の長原遺跡がある。遺跡内の中心部には総数200基を越え る長原古墳群も広がっている。遺跡の東西に集落が広がっており、この2大集落は5世紀前半〜中頃の東集落から、5世紀後 葉〜6世紀前半の西集落へ時期的に移動している。 東側の集落では、作りつけの竃を設けた竪穴建物や渡来系の建物とされる大壁建物、初期須恵器のほか朝鮮半島の百済や伽耶 地域の軟質土器、陶質土器、韓式系土器などが多量に出土している。また集落内に鍛冶工房や馬の埋葬なども見られ、最先端 の知識と技術を持った渡来人によって、鉄製品の生産や馬の飼育が行われていた事がわかる。一方西側の集落は、小単位の集 落に分散する蛍光が認められ、渡来人と倭人がそれぞれある単位ごとに集落を構え、共生していたと考えられている。このこ とは韓式系土器のなかに土師器の製作技法が取り入れられたものや、その逆に韓式系土器の技法で土師器が造られていること などから推測できる。
大阪市平野区・長原遺跡では弥生後期の甕が出土し、国内最古の鳥足紋土器である。初期須恵器段階(5世紀中葉)には軟質 土器の炊飯具が一括出土し,甑・鍋・長胴甕・深鉢の6個体に同一の鳥足紋叩きが施されていた。初期須恵器段階に居住した 渡来人が祭祀用に現地で製作・使用したと考えられている。このような河内湖南岸に居住した渡来人について、百済との関係 が推定できる。日本における鳥足文土器は、北九州地方と近畿地方に集中する傾向がある。特に近畿地方の場合は、大阪府長 原遺跡周辺と、奈良県布留遺跡に出土例が集中しており、また軟質土器が出土する比率が高いのが特徴である。長原遺跡の場 合は、遺跡周辺の粘土でつくられた可能性の高い鳥足文の軟質土器がセットで出土したので、これらの土器は長原遺跡で生活 した百済系渡来人が製作して使用した可能性が高い。
遺跡は枚方丘陵の東端にあり、淀川にそそぐ天野川の西岸に位置している。この遺跡の東側には、交北城ノ山(こうほくじょ うのやま)遺跡という、韓式系土器や初期須恵器が見つかった遺跡があり、渡来人との関わりを指摘されているムラがある。 周辺には幾つか渡来人に関わりのある遺跡が見つかっている。 茄子作(なすつくり)遺跡・上の山遺跡では、発掘調査によって、天野川に平行する大きな谷があることがわかり、その谷か らさまざまなものが出土している。その中に日本で造られ始めた初期の須恵器がある。甕や器台といった大型のものが中心で、 これらはいずれも焼けひずんだり、くっついたりしているので、この辺りに須恵器を焼いた窯があったのではないかと考えら れている。現在まで、北河内では須恵器窯跡は発見されていないが、もしかするとここで渡来人が須恵器を焼いていたのかも しれない。また、一段高い場所にはいくつも竪穴建物跡が見つかり、それらの建物の中には竈を備え付けたものもあった。 淀川を経由して、渡来人達はここまでやってきたものと考えられる。 ちなみに「茄子作(なすづくり)」の地名の由来は、平安時代、交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)が かわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言うハプニングがあった。そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう 村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けた故事に由来する。
大阪府文化財センターが発掘調査している枚方市の茄子作遺跡(5世紀末)で、進歩した手織り機「高機」の部品が見つかり、 機関誌で発表された。古代の高機の部品出土は滋賀県の正源寺遺跡(6世紀後半)が唯一で、100年近くさかのぼりこの例 が最古となる。高機の伝来は奈良時代以降とみられていたが、雄略天皇時代(5世紀後半)に朝鮮半島から渡来した工人集団 「今来才伎(いまきのてひと)」が、最新技術として伝えた可能性が高まった。見つかったのは長さ77センチ、幅7センチ、 厚さ2−3センチの細長い板。一辺には、糸を張ったため付いた細い溝が約1ミリ間隔で、幅50センチにわたってびっしり 残っていた。両端は枠に組み込むために細くなっていた。調査担当の黒須亜希子技師は、高機の先端でタテ糸を折り返した横 軸と判定した。より簡便な手織り機「地機」にはこのような形状の部品はないという。(2005-06-26 | 大 阪 | asahi.com)
上の山遺跡は、第二京阪道路とこれに併行して建設される一般道路(大阪北道路)予定地に対する大阪府文化財センターの埋 蔵文化財確認調査によって2000年に新規発見された遺跡である。調査の結果、調査区東半の水田耕土層直下で明橙色粘質シル ト層からなる遺構面が検出され、特に東側の旧東高野街道寄りに遺構の集中が認められた。検出された遺構には竪穴住居を構 成したと考えられる柱穴堀形群と炭灰を混じえた焼土坑、旧東高野街道に併走する地形の切土痕跡があり、前者の柱穴堀形・ 焼土坑からは弥生時代中期前半頃の土器片・石鏃が、後者の覆土からは古墳時代以降の、近世後半に至る時期の土器・陶磁器 類の小片が出土した。 2005年(平成16年)には特筆すべき発見があった。それは、独立棟持柱を持つ大型掘立建物の跡で、それまで大阪で最古 とされていた、和泉市の池上曽根遺跡から見つかった前54年の大型建物より150年も古いものだった。発見当時は、新聞 で「弥生時代最古級の神殿跡?」と報じられ、大阪府文化財センターでは、当時の大阪北東部の中心的な集落だったのではな いかと見ている。天野川をはさんだ対岸の私部城遺跡との関連を考える上でも興味深い遺跡である。
上の山遺跡発掘調査現地説明会のお知らせ (財)大阪府文化財センター 平素は当センターの事業にご理解とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。 さて、現在、当センターでは、平成15年5月から、国土交通省・日本道路公団の委託を受け、一般国道1号バイパス(大 阪北道路)・第二京阪道路建設に伴う上の山遺跡の発掘調査を進めています。今回、弥生時代中期前半の独立棟持柱(どくり つむなもちばしら)をもつ大型掘立柱建物を検出しました。独立棟持柱をもつ建物は大きな屋根を備えた建物であり、弥生時 代の集落ではきわだって大型で特殊な構造をもった建物となります。大阪府域では弥生時代の遺跡から数例確認されており、 国史跡池上曽根遺跡では、現地に復元されています。このたび、下記のとおり調査説明会を開催いたします。皆様お誘いあわ せの上、ご来場くださいますよう御案内申し上げます。 1.公開日時 平成17年3月6日(日) 午後1時から午後3時まで [小雨決行] 2.場 所 上の山遺跡:枚方市茄子作南町、交野市私部西5丁目地先 JR学研都市線 星田駅下車北東に徒歩約25分 京阪交野線 交野市駅下車南西に徒歩約10分 3.問合せ先 (財)大阪府文化財センター 交野分室 担当:三宅・後藤 TEL:072−895−1200 現場事務所 TEL:072−893−8420 4.遺跡の内容 ●弥生時代中期前半(2,200年前頃)の独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物(梁間1間×桁行5間、床面積約40)を検 出しました。棟持柱間の距離は推定で14.8mです。 ●今回の調査で検出した大型掘立柱建物は、上の山遺跡の最高所に立地し、見晴らしの良い場所に建てられていること「独 立棟持柱」を有し、柱穴も大きく、深く掘られていることから、一般的な建物ではなく大屋根を備えたシンボリックな建 物を想定することができます。 ●独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、国史跡池上曽根遺跡で検出されたのが全国的にも代表的なものですが、今回検出し た上の山遺跡のものは府域ではそれに次ぐ規模をもち、池上曽根遺跡例より古い時期に建てられたものです。 ●独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、弥生時代の集落内での「王の居所」、「祭殿」あるいは「神殿」と位置付ける説が 有力となっています。
大和川今池遺跡は、堺市の北部を流れ大和川の河川敷とその南側に広がる遺跡である。現在の大和川は江戸時代に開削された 新しい川で、それまでは北に向かって流れて河内湖に注いでいた。遺跡の一角に難波宮から南下する飛鳥時代の難難波大道の 跡と考えられている古道があり、南1kmには古代の官道である「大津道」がある。さらに、日本書紀に記されている依網池 (よさみいけ:依羅池)も近くにあったとされ、大和と大阪湾を結ぶ重要な場所である。 遺跡は、1978年(昭和53年)以後の大和川・今池下水処理場建設に伴い発見された、旧石器時代から近世に至る複合遺跡で ある。検出された遺構や出土した遺物は多種多様をきわめ、市内でも最も古く1万年以上も前から人々が生活圏としていた場 所と考えられる。その後、古墳時代の5世紀中葉から後葉にかけての時期と、6世紀中葉から末葉にかけての時期に50棟前 後におよぶ掘立柱建物群を中心とした遺構が見つかっており、集落が成立していたことがわかる。
集落は微高地に形成されており、その東側の低地からは水田址も検出された。出土した遺物では、6世紀中葉を中心とした大 量の須恵器群が特筆されるが、数点の蛸壺も見つかっており、同地に住んだ人々の海岸での生活様式も窺える。7世紀に入る と集落の様子ははっきりしなくなった。しかし7世紀前半ごろには、同地の中央を南北に難波大道と称する古道が通るように なったと推定される。「日本書紀」の仁徳天皇14年条に「是の歳、大道を京(難波京)の中に作る。南の門より直ちに指し て、丹比邑に至る」と記されている。7世紀中葉の孝徳天皇の時代、今の大阪市中央区法円坂にあった前期難波宮(難波長柄 豊碕宮)の南門から南方に直進する大道があったのである。同じ「日本書紀」の推古天皇21年( 613)11月条には「又、 難波より京に至る大道を置く」という記事もある。
大阪府教育委員会では、平成7年10月から遺跡の北端部分4.800m2を発掘調査し、現地表面の30m下に江戸時代の水田層を検 出した。その下に2層の遺物包含層があり、それを除去すると古墳時代〜鎌倉時代の遺構面が検出された。井戸が10基検出 され、古墳時代後期の井戸3・井戸7・井戸8からは、須恵器・土師器が多数出土した。ここでは弥生時代から伝わる水の祭 りと思われる遺構も検出されているので、ここの渡来人達は倭人と共に暮らしていたのではないかと推測できる。
大県遺跡(おおあがたいせき)は大阪府柏原市に所在し、古墳時代〜奈良時代の大遺跡で、最近の発掘調査で、次々と渡来系 の鍛冶技術集団の集落遺跡であったことを示す鍛冶炉や建物跡・井戸のほか、多数の韓式土器や鉄縡なども出土している。生 駒山麓西側南端部の集落遺跡で、西方には恩地川が北流し、大和川と石川の合流地点より約1km北に位置している。 1980年遺構の発掘調査によって、縄文時代以降の遺構・遺物が確認されているが、この遺跡は特に古墳時代の鍛冶工房遺 跡として著名である。これまでに、鍛冶炉、金床状遺構、鞴(ふいご)羽口、鉄滓、砥石といった遺構・遺物が大量に出土し ている。1985年の発掘調査でも、古墳時代中期〜後期の鍛冶関連遺構が多数見つかっている。なかでも、5世紀後半の陶 質土器壺、韓式系土器甑(こしき)、砥石、鉄製品などを伴う竪穴建物跡の出現は、この集落の性格を考える上で貴重な資料 である。
ここからは、弥生時代中期〜後期の遺構から鏡の直径21.7cm(一部欠損)の多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と呼 ばれる鏡も出土している。朝鮮半島と日本の遺跡で発見される青銅の鏡で、朝鮮半島で29個、日本では福岡、佐賀、山口で 6面、大阪、奈良、長野で3面の、計9面が今までに出土している。この鏡は今から約2200年前(紀元前200年頃)に 朝鮮半島で製作され、当時弥生時代であった日本列島にもたらされたものと考えられる。弥生人にとって権威の象徴であり、 またシャーマンの祭祀道具でもあった日本列島の鏡は、やがて中国が「漢」として統一されると、前漢・後漢の鏡に取って代 わられ、姿を消してしまう。これらの前漢鏡、後漢鏡は、その殆どが北九州域内においてのみ普及し、畿内には渡っていない。