Music: Moon River





「発掘された日本列島2006展」
地域展と講演会
2007.1.28(日)大阪府南河内郡
近つ飛鳥博物館


		歴史倶楽部 第118回例会

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		1/28の例会は講演会です。講演会は先着順ですので、なるべく早く申し込をしたいと思います。
		付近は古墳群ですので、散策する場所は一杯あります。個人的にはこの講演会が楽しみです。
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		<日時>: 1月28日(日) 10:10AM 近鉄あべの橋改札前(JR天王寺駅から歩道橋を渡った処)集合
		<交通>: 適時、定刻までに近鉄阿部野橋までお越しください。
		<持参するもの>: 弁当・水筒・雨具・その他
		<行程>: @近鉄阿部野橋−−−−−古市−−−−−−−喜志  (390円)
		 		(10:20発)   (乗り換え)    (10:42着)
			  A喜志−−−−−−−(バス)−−−−−−阪南ポリス(近つ飛鳥博物館)(260円)
		 		(11:05発)             (11:40頃着)
			  B近つ飛鳥博物館にて講演会申し込みをした後、周辺にて昼食・散策
			  CPM2:00・近つ飛鳥博物館にて講演会(14:00−16:00)
			  天王寺にて新年会・第二弾のち適時解散







JR天王寺駅から近鉄阿部野橋駅(下左)へ向かう歩道橋からみた天王寺公園方面(上)。通天閣が見えている。




	急行「河内長野行き」に乗って20分ほどで「喜志駅」到着。上右は新会員の渡邊さん。仏様を造っている「大仏師」さんだ。

	喜志駅から一時間に1,2本しかない金剛バスに乗って10分ほどで「阪南ネオポリス」終点につく。博物館はここから歩いて
	5,6分だが、どうしてこんなにバスの便が少ないのだろうか。廻りは住宅地なのに、もっと便があっても良さそうなものだ。
	大阪府立の歴史博物館は、信太山の「弥生文化博物館」と狭山池を展示した「狭山池博物館」とここの3館あるのだが、大阪か
	らは時間的にはそう変わらないのに、ここが何と無く遠いように感じるのはこのバス便の少なさのせいかもしれない。




	一人去り、二人去りしてとうとう5人になってしまった本日の例会。でも講演会場で知り合いの田上さんと交野市の村田さんに
	出会った。村田さんとは久しぶりで、交野市のお仲間と一緒だった。相変わらず歴史探訪に精を出しておられるようだ。
	このあたりは一須賀古墳群として有名で、百基以上の群集古墳が廻りに点在している。私は2,3度来たことがあるが、渡邊さ
	ん、井上靖さんは初めて来たそうだ。いつかこの古墳群も例会で廻ることにしよう。ここはその古墳の多さで、文化庁に指定さ
	れて「近つ飛鳥風土記の丘」になっている。
	近つ飛鳥の「近つ」という意味は、大陸との本格的な窓口が難波の港に設けられた頃、難波宮からみて「近い飛鳥」という事で、
	現在の大阪府南河内郡辺り一帯を言ったものである。それに対し、奈良県高市郡の明日香村を「遠つ飛鳥」という事もあるが、
	通常此の辺りはただ「飛鳥」と呼ばれる。「飛鳥」に対して、当時劣らない文化を持っていたという事で「近つ飛鳥」と呼ばれ
	た。文献上は「古事記」に、履中天皇の弟(後の反正天皇)が難波から大和の石上神宮に参向する途中で2泊し、その地を「近
	つ飛鳥」「遠つ飛鳥」と名づけたとある。











展示場入り口に、周辺から出た石器・土器が並べてあった。接写が弱いデジカメのせいでどこの遺跡かがよくわからない。



















博物館周辺、一須賀古墳群の模型を見る渡邊さん、井上さん。小学校の夏休みにこういう模型造ったなぁ。





上の図からもわかるように、この石塔はまるまる土の中に埋まっていたのである。これだけ掘り出したとはエラいもんだ。






	上左の、栗本さんと高野さんがいる広場が講演前には人で一杯になってしまった。石塔を取り巻くように二重三重の人垣が出来
	て大変な人だった。定員200名に400名が来たとかで、会場外にも椅子が用意されスクリーンで講演を聴いていた。
	我々は見越して早めに並んでいたので前から3列目に座れたが、行列にバッグだけ置いてどっかへ行っていた人たちは 13:30受
	付開始が人の多さで 13:00に繰り上がったので、おそらく椅子には座れなかったのではないかと思う。どんどん進んでいく人並
	みの横っちょにバッグが寂しく取り残されていた。それにしてもこの博物館の準備体制には疑問が残る。並んでおかないと不安
	だから、上でやっている「地域展」もおちおち見にも行けないし、席を取ったつもりで展示を見に行った人は、繰り上がった受
	付時間もわからず、とうとう立ち見の講演会という事になる。整理券を配るとか工夫すればもっとスムーズな受付体制が取れる
	のではないか。今から団塊世代がどんどん歴史に興味を持って、やがて講演会はこんな人数ではなくなるというのは目に見えて
	いるのに、もっと考えた方がいいと思う。

	そもそも、日本の経済を団塊世代が支えたと言われるのは、私に言わせればその労働力にあるのではなく、彼らの消費者として
	の購買力にあるのだ。産業界を眺めてみればその事は実によくわかる。団塊世代が小学・中学生だった頃は、パイロット・セー
	ラーというような万年筆や、コクヨ・ライオン事務機などの文具業界は絶好調だったし、やがて彼らが高校生・大学生になると、
	PENTAXやCANNONなどのカメラ業界、ステレオやレコードなどの電機メーカー・音楽業界、VANやJUNなどのファッション関係も隆
	盛を極め、セイコー・シチズン・オリエントなどという時計メーカーも増産につぐ増産体制を整備していた。
	そして社会人となった彼らは車・ゴルフといったレジャー産業に金を落とし、そのころはもう方向転換をしなかった文具メーカ
	ーやカメラ・メーカー、音楽関係会社などは姿を消していかざるを得なかった。余裕の出てきた団塊世代は、やがて利殖に関心
	を持ち始め、株や投資がもてはやされる。そして今、彼らが向かっているところは「定年退職」である。
	今、彼らをターゲットにした福祉産業には誰もが参入しているが、まだまだ彼らは十分元気だ。今後彼らが向かうのはカルチャ
	ーである。それも、人の世の常で、中高年の向かう興味のパターンが、「自分のルーツ探し → 文学・歴史全般 → 仏教・
	宗教 → 死生学」と推移するのは目に見えている。これは昔から変わらぬ人間の思考パターンである。

	今日のような講演会はこれから20年、まだまだ聴衆は増え続けると考えた方がいい。おそらく著名人を迎えての文化・歴史講
	演会などは今後聴衆が殺到するだろう。ハガキによる事前受付で、既に席も決まっていて、講演会の5分前に会場へくればいい
	とか、もっとうまい運営方法があるはずだ。今後博物館も、ディズニーランドへ人員整理ノーハウのレクチャーを受けに行った
	方がいいのではなかろうか。



大吹き抜け塔の前で昼食。安藤忠雄の造ったものはどこへいってもコンクリートむき出しだ。



昼食後、立命館大学名誉教授の山尾幸久氏と、ここの博物館館長(元歴史民俗博物館教授)である白石太一郎氏の講演を聴く。





講演会の後、1時間しかなかったが大急ぎで「地域展」を見る。展示場は渡来人の足跡でいっぱいだった。



「発掘された日本列島2006展」−地域展−



		●展示構成 

		I.海を渡り来た人々  
			大阪府大庭寺遺跡・伏尾遺跡、京都府宇治市街遺跡、和歌山県鳴神地区遺跡、
			奈良県下田東遺跡 
		II.馬がやってきた 
			大阪府蔀屋北遺跡、大阪府讃良郡条里遺跡、大阪府長保寺遺跡、
			大阪府木間池北方遺跡・城遺跡、大阪府小倉東遺跡 
		III.河内湖周辺に暮らした渡来人 
			大阪府利倉西遺跡、大阪府上の山遺跡、大阪府茄子作遺跡、大阪府小阪合遺跡、
			大阪府大県遺跡、大阪府長原遺跡、大阪府大和川今池遺跡  



以下がこの展示会で出土品が展示されている遺跡である。渡来人達は大阪(だけではないが)一円にその痕跡を残している。




	上図を見ると、一瞬「大阪は渡来人だらけじゃないか」と思うが、よく見ると河内湖とそこへつながる河川沿いに遺跡があるの
	がわかる。これは渡来人達が、船で行けるところまできてそこから上陸し、さほど移動もせずに水の側に居を構えたからだ。
	現在の城東区や、守口市、門真市、寝屋川市などの上を、渡来人達は船を漕いで通って行った。










常設展示


	常設展示も渡来人の足跡で一杯である。これだけ渡来人の息吹を嗅ぐと、縄文・弥生のいわゆる原日本人(これも元々は渡来人
	だが)たちの痕跡はどこにあるのかと思ってしまう。近畿の弥生・古墳時代の庶民、特に古墳時代の庶民の痕跡は一体どこにあ
	るのだろう。圧倒的な渡来人達の痕跡を見てくると、どうして弥生人たちは古墳時代人に征服されてしまわなかったのかが不思
	議である。新しい技術、新しい生活様式を持ってきた、数の上では圧倒的に多数の渡来人達が、なぜ日本語を話して日本人に同
	化してしまったのか。「謎の4世紀」は全く持って「謎」である。




	七支刀  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	七支刀(ななつさやのたち/しちしとう)は、奈良県天理市の石上神宮に古くから六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝世されて
	きた鉄剣。刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられた
	と考えられる。全長74.8cm。刀身65.5p、茎(なかご)は9.4pで目釘穴はない。素材は鋳造された軟鋼とみられている。
	明治時代初年、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、以来その銘文の解釈・
	判読を巡って論争が続いている。また『日本書紀』には「七枝刀」との記述があり、4世紀に百済から倭へと送られたものとさ
	れ、関連を指摘されている。
	日本だけでなく朝鮮半島にとっても現存最古の同時代文字史料であり、広開土王碑とともに4世紀の倭・百済に関する貴重な資
	料である。

	銘文
	表面34、裏面27の計61文字からなる銘文が金象嵌でほどこされている。しかし、鉄剣であるために錆による腐食がひどく、また
	菅政友による錆落とし方法に問題があったことから欠損し、読み取れない字も少なくない。

	<銘文>
	表・ 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作 
	裏・ 先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世
	<解釈>
	表・ 泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作 
	裏・先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

	なお2005年における研究では、次のとおり発表されている(詳細は外部リンクを参照せよ)。

	表 「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥」  
	裏 「先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世」 

	銘文の解釈
	この銘文は、まず彫られた場所からして「表は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれた」などの説があり、その内容
	もかつては『日本書紀』・『三国史記』などに百済が倭に対して朝貢や人質を献上していた記述を参考にして、百済からの献上
	品であるという説が有力だったが、朝鮮・韓国系の学者からは「百済王が臣下たる倭王に下賜した」という下賜説が主張され、
	現在の日本では「上下関係はなく、あくまで対等な関係であった」とする折衷説が主流であるが異論もある。(ちなみに、中国
	の学者は日本の通説をほぼ支持している。)
	両国の政治事情、国際関係などによって解釈も影響され、その都度、変化しており、未だに定説と言えるものはない。いずれに
	しても、百済と倭国との間に交渉があり、百済から倭国へ贈られたことは確実である。

	元号の解釈
	銘文の冒頭には「秦■四年」の文字が確認できる。これを「秦和四年」と解釈し、制作年次が東晋の太和四年(369年)であった
	であろうことが推測されている。(宮崎市定は宋 (南朝)の泰始四年(468年)とするまた東晋年号を用いていることから、単な
	る百済と倭の二国間関係ではなく、背景に東晋の関与、影響を指摘する説、また東晋でオリジナルが製造されたとする説などが
	ある。因みに、朝鮮・韓国系の学者は、下賜説をとるために東晋の年号ではなく百済独自の年号だとする意見が多いが、百済が
	独自の年号を用いたという記録はなく、中国の学者や日本の学者の間では受け入れられていない。

	侯王の解釈
	「侯王」という用語は臣下に対して使用するものだとして下賜説の根拠とされるが、単なる吉祥語とする説、東晋皇帝を上位に
	置いていることによる説などがある。

	奇生聖音の解釈
	「奇」は、近肖古王の太子「貴須」を指しているとする説、「奇しくも」と読む説[要出典]などがあり、聖音も仏教思想、道教
	思想の影響と見る説、「音」ではなく「晋」であり東晋皇帝を装飾しているとする説などがある。

	旨の解釈
	裏面にある「故為倭王旨造・・・」の解釈として、旨(し)という名の倭王の人名とする説、倭王の旨(むね)、つまり倭王の
	意志を表しているとする説、または東晋皇帝の意志を表しているという説、さらに旨(うま)く、つまり精巧に作ったとの意味
	であるとの説、「嘗」の略字で「はじめて」と読むとする説などがある。

	表面判読不明の四文字
	表面判読不明の「■■■■作」は、制作者の刀工の銘であるとする説、定型句の「永年大吉祥」であろうとする説などがある。

	『日本書紀』の記述
	日本書紀には百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へと献上された「七枝刀」の記述があり、百済から倭国への献上が372年に
	あたるためこれが同一のものであろうと考えられる。

	五十二年秋九月 丁卯朔丙子 久?等從千熊長彦詣之  則獻七枝刀一口 七子鏡一面及種種重寶 仍啓曰 臣國以西有水 源出自谷
	那鐵山 其?七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵以永奉聖朝 乃謂孫枕流王曰 今我所通東海貴國 是天所啓 是以垂天恩 割海西而
	賜我 由是國基永固 汝當善脩和好 聚斂土物 奉貢不絶 雖死何恨 自是後 毎年相續朝貢焉

	神功皇后摂政52年(372年)9月10日、百済使久?らは千熊長彦に従ってやってきた。七枝刀(ななつさやのたち)一口、七子鏡
	(ななつこのかがみ)一面、および種々の重宝を奉った。そして「我が国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。
	その遠いことは七日間行ってもつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝に奉ります」と申し上
	げた。(近肖古王は)孫の枕流王に語って、「今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂
	れて、海の西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上する
	ことを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない」と言った。それ以後(百済は)毎年相次いで朝貢した。
	『日本書紀』によると、神功49年(369年)の倭の任那七カ国平定後、倭が百済に領地を賜ったことを受けて、それに対する感
	謝を表し献上されたというふうに書かれている。本文中で谷那鉄山から採ったとあるが谷那鉄山は369年に百済が高句麗から奪
	った土地であるという。なお、この時同時に奉られた七子鏡は、アメリカのボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかと
	する説がある。この鏡は、丸い突起が同心円上に七つあり、七子鏡の名称に相応しいという。これらの遺物は、1875年大雨で崩
	れた大仙陵古墳(仁徳天皇陵)から発掘されたものとされるが、年代的に疑問もある。

	国宝指定
	昭和28年に国宝指定。所蔵は石上神社。基本的に非公開であるが、近年では平成16年に奈良国立博物館で公開されたことがある。

	復元
	奈良県立橿原考古学研究所付属博物館と奈良県東吉野村の刀匠の手によって七支刀復元制作されている。1980年と2005年の2回
	製作法を変えて行なわれた。1980年のものは鍛造で復元され、2005年のものは鋳造で復元されその後890℃の炉で6時間処理し
	たものである。2回の復元作業による研究の結果、七支刀は鋳造されたと推定されている。





上下は、この博物館の周辺に存在する「一須賀古墳群」からの出土品である。藤ノ木古墳にも匹敵するような副葬品に驚く。






	滋賀県大津市や奈良県桜井市、大阪府柏原市等にミニチュア竈セットを副葬する古墳が集中している。こうした古墳からは、こ
	こに展示されている青銅製釵や釧などの渡来系遺物も多く出土することから、ミニチュア竈セットは、渡来人の炊飯儀礼に関係
	するものではないかと考えられている。

















	真ん中にデーンと鎮座するレプリカは、「仁徳陵」の模型である。模型を見ても、ほんとにこの御陵が大きいのを実感する。
	毎度ながら「一体どうやって?」と思ってしまう。築造作業をこの目で見てみたいものだ。



法隆寺などの伽藍に用いられている瓦と四天王模型(上右)。






反省会



夕暮れ迫る「一須賀」を後にして、今夜の反省会場である天王寺の「赤のれん」へ向かう。ああ、早く反省したい。



いつもながらこの店へ一歩入ると、うねりのような騒音と寿司と魚の匂いが鼻を突くが、1分もすれば何も感じなくなる。



新会員渡邊さんも、この日の渡来人の痕跡に感動したのか饒舌だった。



飲むほどに酔うほどに、夢は世界を駆けめぐる。




	この店へ来ると、いつもお姉ちゃんやおばちゃん達をからかう高野さんが、この店一番のかわいこちゃんとツーショット。
	しかしほんとにこの店の子は、誰も愛嬌が良くて可愛い。しかも注文したら間髪を入れず料理が届く。いったいどういうシス
	テムになっているのだろう。おまけに一番の目玉は安いのである。栗本さんの助言に従って予約を入れといて良かったなぁ。




	ほろ酔い気分で解散し、大阪駅で大津へ帰る渡邊さんを見送る。私だったら座ったら最後、草津か米原まで行ってしまうと思
	うが、渡邊さんはちゃんと帰宅したそうである。良かった、良かった。皆さんお疲れ様でした。講演会面白かったですね。
	また次回も宜しく。「オール・ボワァ」



<謝辞>

この「地域展」は写真撮影禁止だったので、遺跡、出土品の写真は近つ飛鳥博物館発行の展示目録から転載しました。


邪馬台国大研究HP /歴史倶楽部 / 近つ飛鳥博物館