Music: Moon River



「発掘された日本列島2006展」講演会
歴史倶楽部第118回例会
2007.1.28(日)「近つ飛鳥博物館」




			○特別講演会 

			日 時 : 平成19年1月28日(日) 
			時 間 : 午後2時〜4時(午後1時30分 受付開始) 
			場 所 : 博物館地階ホール 
			定 員 : 200名(当日先着順、参加無料) 

			・「河内の初期渡来文化」	白石太一郎氏(当館館長)
			・「5世紀代の移住民」		山尾幸久氏(立命館大学名誉教授)



会場外のロビーと大スクリーン(上左)。本日会場に入れなかった人はここで聴いていた。上右が講演会場。








		河内の初期漬来文化
        						  		白 石 太 一 郎

		1.河内の初期夜来文化の実態一蔀屋北遺跡を例に−
		@ 河内の初期渡来文化
		A 蔀屋北遺跡の概要
		B 土器の構成
		C 馬と馬具
		D 船 モミからスギへ








		2.近畿中央部の初期渡来文化
		@ 大和
		A 摂津
		B 紀伊
		C 初期の須恵器生産
		D 河内が渡来文化受容の中心

		3.新文物渡来の年代
		@ 初期須恵器の年代−4世紀末葉
		A 朝鮮半島との新しい関係の成立−4世紀後半












		4.新文物受容の歴史的背景
		@ 4世紀後半の朝鮮半島情勢
		A 河内政権の性格と波来文化
			・ ヤマト王権の地域的基盤は大和と河内
			・ 古市古墳鮮・百舌鳥古墳群の成立
			・ 河内の大型群集墳の問題










		まとめ
		@ 4世紀後半から柑紀における朝鮮半島文化受容に中心的役割を果たしたのは河内の勢力であった。それは、
		  ヤマト王権成立時以来の河内の役割からも当然。
		A 4世紀後半以来の激動の国際情勢に「やまと」の勢力では対応が困難であり、替わって河内の勢力が王権
		  を掌握することになった。こうした歴史的背景を考えると河内が、朝鮮半島文化受容の中心となったのも
		  容易に理解できる。
		B 逆に、こうした河内における初期波来文化のあり方は、4世紀後半から6世紀のヤマト王権の中枢を掌握
		  したのが河内の勢力であったことを物語るものにほかならない。



	今日の演者は二人とも「邪馬台国近畿説」で、特に白石太一郎氏は狂信的な近畿説論者なので、最初私は若干引き気味だったが、
	さすがに邪馬台国を離れて専門分野の話は面白かった。近畿圏の遺跡を説明しながら、いかに河内に渡来人の痕跡が多いか、奈良
	に比べて河内のほうが、渡来人が圧倒的に多いのを力説していた。古代人が、舟材には圧倒的にスギを用いているのは知っていた
	が、初期にモミが多く、それは半島に多いというのは知らなかった。白石氏は佐倉の歴史民俗博物館の教授をしていて、その時に
	房総の馬についてもだいぶ調べていて資料にもあったのだが、今日は時間がなかったからか、それには言及していなかった。渡来
	は近畿だけではないという話もしてくれれば面白かったのに。




		5世紀の移住民
								2007.1.28  立命飴大学名誉教授 山尾幸久
		1.「帰化人」「波来人」「移住民」

		(1)古代的槻念「帰化」と『古事記』『日本書紀』の歴史像
		   a 皇帝の「徳」(威信)に帰依して「外藩」(外なる臣下の国から自発的に同化するのが「帰化」。
		   b 『古事記=日本書紀』は神武、崇神〜応神の時代に国家・帝国が建設されたとする。
		   C 『記』『紀』が応神天皇の王朝への「帰化」とするのは正当性がある。

		(2)7世紀後半(天武天皇の時代)に「創られた伝統」としての歴史像。
		   a 「神の国」「神の帝国」の縁起譚。
		   b 律令体制への方向性を正当化し権威づける過去の規範。

		(3)「帰化」は7世紀末〜8世紀初め以後に使える。
			国郡に安置されて一定の供給を受け、戸鎗に編附されて天皇を支える民(「公戸の百姓(おおみたから)」)
			となる。
		   a 「渡来」は往来する行動をいう。定着を含む「帰化」に替わり得ない。
		   b 「今来(いまき)」(のちには地名化する)は在来の土着民に対して新来の移住民をいう。

		(4)西暦5世紀代は移住民の世紀
 		   a 秦(はだ)氏の族長が組織した税負担者のみで「九十二部(=村)」「七千五十三戸(へ。徴税対象家族〉」
			 一万八千六百七十人」(『欽明紀』『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』)。
		   b 河内への居住が最も多かった。
		    (a)「韓式系土凱(朝鮮半島からもたらされたかその影響下で移住民が作った土器)は河内(主に北部)に集中。
			(b)柏原市平尾山千塚、八尾市高安千塚、羽曳野市飛鳥千塚、河南町一須賀古墳群。
			(c)のちに「飛鳥戸」「春日戸」「橘戸」など○○戸(へ)」の姓が集中。
			  水田の開拓と屯倉(みやけ)の徴税とを示す。








		2.移住民の歴史的背景と性質

		(1)歴史的背景 − 高句魔の南下による慢性的戦争状態
		   a 4世軌こ古代テュルクーモンゴル系、古代チベット系の遊牧民が華北に移動。王朝が興亡(「五胡十六国)。
		   b 鮮卑(せんぴ)族が高句靂を攻撃。高句麗は桓仁からピョンヤンに後退。朝鮮半島を南下しはじめる。
		   C 高句麗広開土王即位(391年)。百済・新薙を攻撃。加耶にも圧迫加えられる。475年には百済王は支配地域の半
			 分を奪われた。
		   d 高句贋軍は朝鮮半島南部に駐屯した。倭の王権にとって高句麗軍とは駐屯軍。
		   e 倭王権(大王雄略)は475〜500年、百済王権の復興を支援した。479年頃から大加羅(高霊)の王も倭王権に結
			 びついた。

		(2)歴史的性質
		   a ヤマト王権または倭入社会の必要によって迎えられた。
		   b 朝鮮半島の戦争・混乱の状態を避けようとする動き。
		   C 朝鮮半島での倭人との接触。
			(a)交流の双方向的性質。洛東江流域や慶尚南道・全羅南道、また古済王都熊津(くまなり。公州)に移住した
			   倭人。
			(b)しばらくは移住した人々と出身地との関係は続いていた。








		3.移住民がもたらした文化

		(1)「陶部(すえつくり)」
		   a 硬い陶質の土器。
			 ロクロで成形。半地下式の上り窯での高温焼成。還元状態で冷却。
		   b 4世紀末から5世紀初めに加耶の技術が入ってきたか。王権によって「陶邑(すえむら)」が営まれた。5世紀
			 後半には「地方窯」。

		(2)「錦部(にしごり)」「呉服(くれはとり)」
		   a 「高機(たかばた)」で織られた高級絹級物。5世紀後半の百済宮廷から伝えられた中国南朝系の技術か。
		   b 「秦の民」の地織(ぢばた)。機台があり「筬(おさ)」を用い、操作の一部に脚を使う。

		(3)「鞍部(くらつくり)」「甲作(よろいつくり)」「作金人(かなつくり)」
		   a さまざまの金属加工。
		   b 馬具製作は総合的技術(鍛冶、金工、木工、繊維、皮革、漆工芸など)。5世紀半ばに受容。
		   c 武具では甲(よろい)兜(かぶと)の鋲どめ技法が目立つ。桂甲(けいこう。長さ数cmの小札(こざね)を綴じ
			 合せ胴部と草摺(くさずり)とを一連で作った甲)の出現
		   d 装身具、帯金具、刀装具、馬具など精巧な作り。水銀を使ったアマルガム鍍金の技法。

		(4)「山部」(その一部)および「韓鍛冶(からかぬち)」
		   a ヤマト王権の「韓鍛冶」(精錬・鍛造)の組織に鉄素材(磁鉄鉱の鉱石から製造した半製品)を供給する貢納集
		     団の首長が「山部」(その一部)。
		   b 5世紀後半の日本列島の一部で、移住民によって、拠点的だが本格的な製鉄が始まっていた可能性。6世紀半ば
			 には全国的に一般化。
		(5)「馬飼」
		   a 中型馬の生産・飼育・調教。王権が独占し宮廷馬車、軍事、緊急連路用に。
		   b 河内(寝屋川、四條畷、大東、東大阪など)・倭(やまと。平群)の移住民による馬飼組織。
		   C 四條畷市蔀屋(しとみや)北遺跡。

		(6)秦氏の土木技術
		   a 族長家は、5世紀第W四半期に、「秦韓」国の「干抽」村柑(ウツマサ)の「波旦」(ハダ。現在の慶尚北道蔚
			 珍(ウルヂン))から移住か。
		   b 中国戦国時代の秦の灌漑工事(「都江堰(トコウエン)」など)の伝統を継承していたのではないか。
		   c 各地の秦氏
			(a)深草  
			  「深草の屯倉(みやけ)」につながる水田の開拓。イネナリ(稲荷)社のウカノミクマ(稲の穀霊)をまつる。
			(b)茨由(まんだ)
			  「茨田の堤」により旧淀川の流れを安定させ、「茨田の郡の屯倉」につながる水田を造成する。
			(c)葛野(かづの)
			  「葛野の大堰(おおい)」「大辟(おおさけ。「広隆寺水路」)」による治水灌漑。

		(7)考古学の調査研究から判ること
		   a U字形の鉄製スキ先、クワ先の出現。
			 比較的小規模な水田開括や畑作による雑穀栽培の本格化国家プロジェクトによる規模な水田開発は7世紀初め
			 の屯倉(みやけ)制の全国化によって)。
		   b 煙出しをもつ住居内造りつけのかまど。大型の「甑(こしき)」(蒸し器)。朝鮮半島に由来する食生活。
		   c 「畿内型横穴式石室」。
			(a)5世紀末近くに大和・河内に出現し急速に各地に拡大。
			(b)6世紀の倭入社会の喪礼・葬送や死生観・他界観は大きく変わった。












		4.5世紀代の移住民の歴史的意味

		(1)ヤマト王権の中枢に大王直属の移住民系官人集団が組赦された。
		   a 「東西(やまとかわち)の漠〈あや)」と呼ばれた諸集団。
		   b 東漠の20ばかりの集団の結合は権力的関係と地縁的関係(「今来」=高市地方への集住)。
		   c 古くからの宮廷諸制度、現業系職務分掌を改革しととのえた。

		(2)「原日本語」形成の胎動。
		   a 埼玉県行田市稲荷山古墳出土鉄剣銘(471年)、『宋書』倭国伝の倭王武の上表文(478年)は中南王都から派
			 遣された府官の手になるだろう。しかし「東西の漢」系官入組織は書記術なしに運営されない。
		   b 中国文に日本語訳で対応していた。
			 「訳語(おさ)の卯安那(ぼうあんな)」(『日本書紀』雄略7年)ら宮廷訳語集団が百済で行われていた漢
			 字理解の方式を倭国に適用。

		(3)大王に直属する先端手工葉技術の分掌組織が編成された。
			(1)と(3)とが諸豪族に対する大手の絶対優位を確立させた。

		(4)6世紀における倭人社会の経済構造から価値意識までの変質をもたらした。
		   a 6世紀の倭入社会の特徴は国家的掌握下の地域共同組織「村」の一斉の成立。国家的統治の末端をになう村落
			 首長級の地主的小経営が広汎に出現した。
		   b 「畿内型横穴式石室」を採用した小規模群集憤の爆発的出現。労働力を農耕にむけ、暮しの豊かさを求めた。

		(5)倭における国家機構の棚、それによる民族的実体の形成(6世紀)。それよりも前に移住していた人びと。
		   a 中央権力による地方社会の支配システム、制度的なとりたては6世紀半ば近くから始まる。
		   b 国家統治の持続により血統世襲の君主を秩序の根拠とする民族的実体の形成が始まる。
		   C 移住民は「日本人」の祖先であり、日本の民族文化」は朝鮮半島の人々の文化を融合している。


	山尾教授の渡来人に関する結論は、私が考えていたものと全く同じだったので、驚くと共に、駆け出し歴史マニアの私でも、50
	年研究してる学者先生と同じ考えに行き着くのだとわかって大いに意を強くした。講演会、会場展示を見ても、近畿は全く渡来人
	の末裔であふれている。我々はもっと、中国・韓国と仲良くすべきである。彼らもそう思ってくれればいいのだが。


邪馬台国大研究HP /歴史倶楽部 / 近つ飛鳥博物館