土曜日、ぽっかり暇になったので、先日例会で歩いたとき見逃した「石川精舎跡」を見に行きたいなと突然思った。思い立ったら
即行動。橿原神宮前で自転車を借り、飛鳥駅までをのんびりとサイクリング。朝十時頃に樫原神宮前について、正午過ぎには飛鳥
から電車に乗った。ポカポカ陽気の爽やかな気候の中、2時間のきままな歴史散歩を楽しんだ。
近鉄八木駅から樫原神宮前へ向いて走る近鉄電車。最後尾から八木方面を見る。
上の線を本日散策。今まで行った事のない所を選んで自転車をこぐ。
石川精舎跡→剣池→見瀬丸山古墳→菖蒲池古墳→定林寺跡というのが本日のコース。
石川精舎跡
日本書紀は、蘇我馬子が石川の邸宅に仏殿を造り仏像を安置した石川精舎から我が国の仏法が始まったと書き残している。馬子の
造った石川精舎の推定地は、石川池のほとりから畝傍東小学校のある丘陵の西にかけての一帯が有力であるが、正確な場所は不明
のままで、どこかこの地域の地下に眠っているといわれている。現在の本明寺が石川精舎跡とされているのは、鎌倉時代の律宗系
の五輪塔がここに立っており、この周辺が現在でも石川町という地名であり、ほかに由緒のありそうな場所はないことが主な理由
であるが、しかし、同寺付近には古瓦の出土もないことから、他にこれを求めるべきであるともいわれる。同町小字ウラン坊とす
る説や、河内国石川(現大阪府羽曳野市・柏原市付近)の地に求める説もある。
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参照:橿原市教育委員会教育総務部文化財課HP
石川精舎跡とされる本明寺。奧に見えるのが「五輪塔」。畝傍東小学校前の畑の中、橿原市街を見下ろす小高い
丘陵の西斜面に位置し、本堂の左側は小規模の墓地になっていて、先の大戦 で戦死した兵隊たちの墓標が並ぶ。
<本明寺の正面の柱 説明板>
「石川精舎。今本明寺と称す。敏達天皇十三年、蘇我の馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川の宅に於いてこ
れを安置す。仏法の初まりは茲より作れりという。」
<「聖徳太子の寺を歩く」JTB発行>
巨大な五輪塔がある。銘文や梵字の彫りもないところから、叡尊の法脈につながる西大寺系の高僧の墓塔であろうと推測されるが、
なんと「土地の人からは『馬子塚』と呼ばれている。」
<橿原市史>
「本明寺 石川町565 浄土宗。寺は石川精舎の跡に建てたと伝える由緒をもつ。本堂と庫裡があるささやかな構えであるが、
境内に土垣が残り、巨大な五輪塔がある。五輪塔は蘇我馬子の塔と伝えられ、高さ230糎、各部完備する鎌倉時代の立派な石塔
である。本堂は入母屋造、三間四面で庫裡に接続している。本尊は釈迦如来、文殊・普賢の両脇侍がある。他に阿弥陀如来、地蔵
菩薩、元祖大師像などを祀る。宝物に釈迦涅槃画や二十五菩薩来迎図などがある。」
<日本歴史地名大系第30巻・奈良県の地名>
「石川精舎については、『大和志』に『石川廃精舎、石川村古址、今有本明寺及石浮屠高丈余許』とあり、現石川町の浄土宗本明
寺の地をその跡と伝える。しかし、同寺付近には古瓦の出土もないことから、他にこれを求めるべきであるともいわれる。同町小
字ウラン坊とする説や、河内国石川(現大阪府羽曳野市・柏原市付近)の地に求める説もある。本明寺には南北朝様式の五輪塔が
あるが、『越智家譜伝』に、大永3年(1523)2月19日の久米寺石川の合戦に討死した32人の追善供養のために越智家栄が立てた
とある塔か。もとは久米町芋洗地蔵境内にあったという。」
<剣池(つるぎいけ、石川池)>
古事記に第8代孝元(こうげん)天皇の陵は、剣の池の岡の上にある。と記され、池の南東から孝元天皇の「剣池嶋上陵」へ行く
ことが出来る。第15代応神(おうじん)天皇の時、軽(かる)池、鹿垣(かのかき)池、廐坂(うまやさか)池と共に「剣池」
も造られた。現在の「石川池」とされる。日本書紀に、635年(第34代舒明天皇7年)7月瑞蓮が剣池に生長した。一茎に二
つの花があると書かれている。ここを西へ行くと近鉄橿原神宮前駅東口。
池の畔に立っている「石川池顕彰碑」。漢字はキレイに読めるが、悲しいかな意味が良くわからん。明治33年に堤防を整備した
という事のようだ。
石川池から南下してくると、植山古墳と丸山古墳を、正面と背中に見る位置にくる。植山古墳は昔、発掘調査説明会を聴きに来た
が、丸山古墳は初めて近くまで行く。
<植山(うえやま)古墳> 国史跡
丸山古墳の東方300mに「植山古墳」があり、数年前発掘調査された。推古天皇が、息子の田村皇子とともに最初に葬られた墓
とされる。(遺跡めぐりの現地説明会のコーナ−を参照されたし)
平成12年に我が国で唯一発掘調査された天皇陵で、東西40m、南北27m。藤ノ木古墳よりも小さな古墳の為、今まで余り注
目されなかったが、古事記に推古天皇の墓は大野岡(おおのノおか)にあり、後に科長(しなが)に移したと記載される。日本書
紀には息子の竹田皇子と合葬してほしいと遺言したと記されている。
石舞台古墳に匹敵する2つの横穴式石室が発見され、東側の石室は幅3m、長さ6.5mだが、西側の石室は幅2.5m、長さ5
m。
「丸山古墳なら向こうから廻った方が近くまで行けるよ。」と教えてくれたオジサンに、上右の家の前で出会った。「どこから来
たん?」とか、色々話していると、「いま筍の旬だから忙しい。何ならやろうか?」と言ってくれたが、電車で持って帰るのは重
そうだったので鄭重にご辞退したが、後で後悔した。
<見瀬丸山古墳> 国指定史跡
「剣池」から畝傍東小学校の側を通って南へ向い、橿原市五条野町へ入って右へ折れ、西へ向かって近鉄吉野線「岡寺駅」の方へ
向うと、途中に「見瀬丸山古墳」がある。全長318m、後円部径155m、前方部幅210mで、前方部が開墾され畑地になり、
先端を国道169号線によって一部削り取られているが、周濠と外堤及び周庭帯を有する後期古墳である。6世紀最大の前方後円
墳で、全国第6位、被葬者は第29代欽明天皇とも言われ、後円部頂上は明治時代に陵墓参考地に指定され、現在は立入禁止。
数年前、近所のサラリーマンが、崩れた坑から石室内へ入り、内部を写真に撮って話題になった。
この古墳のどこに坑が開いていたんだろうかという気がする。
丸山古墳から車道へ出て、東へ数分自転車を漕ぐと「菖蒲池古墳」と案内が出ている。しかし池があるような低地ではなく丘の上であった。
<菖蒲(しょうぶ)池古墳>
「植山古墳」から南へ出て、県道155多武峰見瀬線を東へ向い、県道の北側にある奈良県立明日香園の方へ上がって行くと、明
日香村屋内ゲートボール場の手前に、「菖蒲池古墳」がある。藤原京朱雀大路の南延長線上に築かれた古墳で、墳丘は封土がほと
んど流失し、2枚の天井石が露出しているそうだ。形状ははっきりしないが、約20mの方墳か円墳のいずれかで、横穴式石室を
持ち、2基の家形石棺が共に四注造の屋根を付け、内面に漆を施し、北側の石棺は四隅に柱状の彫刻を、南側の石棺は上下端に帯
状の造り出しを持ち、南北縦1列で安置されていた。
昔の案内はもうかすれて読めない。
上に石棺があると説明にあるので見に行こうとしたが、細い竹の切り株がアチコチにあって危険だったので、墳頂までは行けなかった。
<定林寺(じょうりんじ)跡> 国史跡
天武・持統陵の近く、明日香村立部(たちべ)の集落に浄土宗「定林寺跡」がある。創建に関しては明らかではないが、聖徳太子
が建立した寺院の1つで、元は「立部寺」とも呼ばれ、現在ある小さな本堂と庫裏は、江戸時代の後半に建立された。近年行われ
た発掘調査によって、瓦と共に塔跡や回廊の跡、土壇、礎石などが検出し、塔の跡から円形柱座を彫り込んだ塔心礎が発見され、
また、付近から塑像で造られた菩薩像の首の断片等が出土した。出土瓦片によって、飛鳥時代に創建された寺院の跡と推定され、
昭和41年国史跡に指定された。しかし今は、数段の石段と土壇だけしか残っていない。
写真の奧、坂をもっと奥の西へ行った台地に国史跡「定林寺跡」がある。江戸時代後半の建立である「定林寺」が立っているが、
その奧が「春日神社」で、当社も元は現在地よりも西へ約50m行った所に鎮座していたが、そこが国指定史跡「定林寺跡」とし
て買い上げられたため、現在地に遷宮し、境内が綺麗に整備されたという。小さな拝殿の後ろに、こじんまりした春日造りの本殿
が鎮座している。
実はこの時上まで登ったのだが、寺も神社も妙に新しく、「ああこりゃ本来の「定林寺跡」じゃないな。」と写真も撮らず引き返
してきてしまった。後でこの裏に国史跡の「定林寺跡」があるのを知った。ま、また行くこともあるだろう。
帰りのJR東海道線、最前車両の窓から見た淀川の鉄橋。
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