Music: 荒城の月

歴史倶楽部 第140回例会
亀石・天武持統陵・鬼の雪隠/俎・欽明天皇陵・吉備内親王・猿石




亀石











途中に「右近の橘」という地酒屋さんがあった。「きき酒あります」という表示に釣られて皆フラフラと吸い寄せられていく。



天武・持統天皇陵



















鬼の雪隠(せっちん)・俎(まないた)



















欽明天皇陵







吉備姫王墓・猿石




	吉備姫王墓(キビヒメノミコノハカ)

	欽明天皇陵の西側にある小円墳が比定されてはいるが、確定しているわけではない。第36代孝徳天皇、第37代斉明天皇の生母
	にあたる。「日本書紀」によれば吉備姫王は、皇極天皇2年9月に亡くなり、檀弓岡(まゆみのおか)に葬られたとある。
	墓陵内には元禄15年(1702)に欽明天皇陵南側の池田から掘り出された4体の石像物があり、一見猿ににているところから「猿石」
	と呼ばれている。この猿石は、18世紀初め頃に付近の水田から掘り出されたとされているが、この場所を欽明天皇陵のすぐ南側
	に存在し、古代の苑池の遺構としての性格も考えられている平田キタガワ遺跡にあてる説もあるが定かではない。製作年代や目的
	・用途は不明。






	猿石	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	猿石(さるいし)は、梅山古墳(現:欽明天皇陵指定)の西に隣接する吉備姫皇女王墓内にある奇石で、全部で4体ある。ユニー
	クな人面石像であるが、猿ではなく渡来人を象ったものであるといわれている。1702年(元禄2年)に梅山古墳の付近にあった平
	田村池田という場所の田んぼから掘り出されて古墳の南側に置かれていたが、明治初年ごろに現在の場所に移されたらしい。4体
	の像にはその外見から左から順に『女』『山王権現』『僧(法師)』『男』とそれぞれに愛称がつけられている。僧以外は像の背
	面にも顔が彫られている二面石で、僧の背面には肋骨らしきものが彫られている。柵でしきられているため前からしか見ることは
	できないが、奈良文化財研究所飛鳥資料館の庭には、レプリカが置かれており背面の様子なども観察できる。

	<高取の猿石>
	高取城への登山道の途中にも猿石と呼ばれる石像が1体置かれている。もともと上記の4体と同じ場所から掘り出され、その後現
	在の場所に移されたのではないかといわれているが、確かなことは分かっていない。



「僧(手前)と男(奥)」。名前は撮影者を意味していて、この像がその人物という訳ではない。



「山王権現(手前)と女(奥)」とか解説書にはあるが、勿論何をかたどったものかは不明である。













上左、軒下にぶら下がっている長い木の棒は、この小屋の持ち主の本宅に立てる「鯉のぼり」の棒。





永遠のマドンナと一緒で、嬉しい、嬉しい。



本日もお疲れ様でした。近鉄飛鳥駅で記念撮影。近鉄で言えば、たった二駅間をあるいただけだが見るべきものの多いこと。





樫原神宮前駅ホーム内にある我々の定宿(?)。幸い、珍しく11人分の席が空いていた。






	飛鳥時代をいつからいつまでと決める事は非常に難しい問題である。仮に「飛鳥地方に都があった時代」と規定しても、その都の跡は
	まだはっきりと確定していない。板蓋(いたぶき)の宮にしても浄御原宮(きよみがはらぐう)跡にしても現状では全て「伝」である。
	つまり伝承なのだ。そうだろうと想定しているだけなのである。藤原宮(ふじわらぐう)はようやく全貌が明らかになって、想像以上
	に大きな都だった事が明らかになったが、ここも言ってしまえば飛鳥地方である。ともあれ、およそ6世紀後半から7世紀の終わり頃
	までの約100年間を飛鳥時代と呼んでいるようである。(学者によっては異論もある。)

	秦(はた)氏と並ぶ勢力で歴史の古い渡来一族は東漢(やまとのあや)氏である。百済や高句麗から渡来したと考えられ、本拠地をこ
	の飛鳥の地(現奈良県高市郡明日香村)に定めている。「続日本紀」によれば、8世紀の高市郡の人口の実に8〜9割が漢氏一族だと
	記されている。
	ちなみに帰化人の最大勢力であった秦氏は、4世紀末〜5世紀の頃、新羅や加羅から渡来したとされ、政治権力がまだ飛鳥にあったこ
	ろ早くも京都盆地の開拓に乗り出し、京都から近江一帯に勢力圏を広げた。京都映画村で有名な「太秦」(うずまさ)などは典型的な
	秦氏の居所である。「日本書紀」によれば、欽明天皇の時代全国の秦氏が召し集められたところ、「秦人(はたびと)の戸の数、総
	(す)べて七千五十三戸」だった。
	さらに言えば、奈良盆地から大和川沿いに西へ下ると河内平野にいたるが、ここも又古くからの渡来人の土地である。中心勢力は文氏
	(ふみうじ)で、朝鮮半島からの渡来であることは確かだが出自は定かでない。一族は、南河内の古市郡あたりを拠点にしていた。
	又、白村江(はくすきえ)の戦いで倭が唐・新羅の連合軍に大敗した後、百済からの大量の亡命者達が近江の神前(かんざき)郡や蒲
	生(がもう)郡に集団で入植した。「日本書紀」には人数まで記録されている。ここらが、縄文、弥生から千年以上に渡って行われて
	きた「渡来」のピークだろうと思われる。

	早い時期、北九州や山陰に渡ってきた渡来者たちは、都を近畿に定めてからは同胞や末裔をどんどん近畿に呼び寄せた。そして、たち
	まちにしてこの国の一大勢力となり、やがて他の渡来族或いは縄文人と融和した他の弥生人を征服し大和朝廷を樹立した。そして、飛
	鳥宮、藤原宮、難波宮、平城京、長岡京、平安京と遷都しながら今日に至っている。




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