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歴史倶楽部 第140回例会 水落遺跡・飛鳥寺・酒船石遺跡・亀形石造物・飛鳥板葺宮・川原寺




水落遺跡





	この遺跡は隣接する「石神遺跡」(いしがみいせき)と一体となって、どうやら水に関する遺跡が存在していたらしい。水落
	遺跡自体は「漏刻」(ろうこく:時計)であることはほぼ確定しているようだが、水時計を実現する水流が石神遺跡と一帯と
	なって、この辺り一帯には壮大な水施設が造られていたようである。



上左は、石神遺跡から発見された「須彌山石」(しゅみせんいし)。下から水を吸い上げて口から排出する一種の噴水である。


















飛鳥寺


































	飛鳥寺の大仏。顔の長さは他の大仏さんの顔とはだいぶ異なる。明らかに渡来人の顔の長さである。首から下の造作はかなり雑な
	造りのような印象を受けるが、日本でも初期の大仏鋳造だから仕方ないか。当初は全体が金箔で覆われていたという。 
    





















	飛鳥寺のモデル、韓国の王興寺か 塔の構造、出土品似る	2008年04月16日03時01分アサヒ・コム

	日本最古の寺院とされる飛鳥寺(奈良県明日香村)のモデルが韓国の王興寺ではないかとの見方が強まってきた。
	  
				金・銀・青銅の容器が入れ子状で見つかった=国立扶余文化財研究所提供

	王興寺は6〜7世紀に百済の都だった扶余(プヨ)にあった寺で、朝鮮の歴史書では600年以降の創建とされていた。ところが、
	国立扶余文化財研究所の調査で昨年10月、金・銀・青銅の舎利容器が出土、そこに刻まれた文字から百済王の発願で577年2月
	に創建されたことが判明した。 
	日本書紀によると、飛鳥寺は、577年11月に百済王から技術者が日本に送られ、588年に仏舎利が届いて造営を開始、596
	年に仏塔が完成したとされる。今回の出土で二つの寺を結ぶ深い関連が浮かび上がってきた。

	今月初めに遺跡を確認した大橋一章・早稲田大教授(仏教美術史)は、両方の寺に同じ系統の技術者がかかわったのは間違いないと
	みる。「先行する王興寺を追いかけるように飛鳥寺の計画が進められたのだろう。百済は仏像やお経を日本に贈ったが仏教は広まら
	ず、寺を造らなくてはとの思いだったのではないか」 

	現地を訪ねた研究者の間では塔の構造や出土品、瓦の文様などもよく似ていると見る声が強い。飛鳥寺の別名が法興寺、元興寺とい
	うのも王興寺との類似性が指摘される。 
	仏教は6世紀半ばまでに日本に伝わったとされる。本格的に受容されるのは飛鳥寺の段階からだが、建物は鎌倉時代に焼失、仏舎利
	の行方もわからない。「飛鳥寺の舎利容器も王興寺の出土品と同じようなものだったはずだ。なぞだった飛鳥仏教の具体的な姿が見
	えてきた」と大橋教授。調査は00年に始まり、今後10年は続く見通し。(渡辺延志) 




	飛鳥寺の創建・造営についてはおもしろい見解がある。飛鳥寺の造営に関して百済から技術者達が渡来したことは広く知られている
	が、実はこれらの技術者・工人の多くは百済ではなく、はるかペルシアからやってきたというものだ。書記に寺工として名前が挙が
	っている「太良未太」(タラミタ)や「文買古子」(モンケコシ)は、中世ペルシア語の音によれば、タラは宮や倉庫などの大建造
	物を指し、ミタは優秀・有能と言った意味を持つらしい。またモンケコシも「鑿」(モンケ)と定規(コシ)の組み合わせで、タラ
	ミタとともに、巧みな大工を指す言葉だという(伊藤義教)。
	同じように瓦博士の「麻奈文奴」(マナモンヌ)や画家の「白加」(ハクカ)なども、それぞれの職能や道具を表しているという。
	つまり、飛鳥寺の造営にあたっては、朝鮮半島、中国大陸のみならず、はるかな西アジアのペルシアからも技術者達が渡来してきて
	いたということになるのだ。飛鳥の文化は最初から、こうした国際的な文化を取り入れた文化として出発していたのだ(門脇禎二)。
	まさしく、シルクロードの東の果てではないか。



酒船石




	亀形、小判形石造物

	亀形と小判形石造物平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、日本書紀の斉明天皇の時代に記述される工事に該
	当する遺跡と推測されている。記述中の「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の「宮」が酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であ
	り「東の山」が酒船石のある丘ということである。
	その後平成12年(2000年)に大規模な発掘が行われ、砂岩でできた湧水設備とそれに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見
	された。これら二つは水槽になっており水を溜めたと推定される。さらにそれに続いて石を並べた溝や石段があり、全体を囲むよ
	うに石垣や石敷がある。
	亀形石造物は花崗岩で作られており全長約2.4m、幅約2mで頭や尻尾、足が造形されている。甲羅部分が直径1.25m、深さ20cmでくり
	ぬかれ鉢状になっている。頭の部分の穴から水が流れ込み尻尾の穴から流れ出したと見られる。尻尾に栓をすることで水を溜める
	こともできる。小判形石造物は長さ1.65m、幅1mで深さ20cmで同じく水が貯められるようになっており排水口は、亀の頭に繋がって
	いる。
	斉明期に最初に造られその後平安時代まで約250年間使用された形跡があり、なんらかの祭祀が行われた遺構と推定されるが定かで
	はない。斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)の関連施設ではとの説もある。酒船石のほぼ真北に位置するが両者の関連も明らか
	ではない。なお、この部分は発掘後、大規模な一般見学会が行われた。現在見学は文化財保存協力金という名目で有料となってい
	る。酒船石は従来通り自由に見ることができる。




	<出水酒船石>
	酒船石遺跡には含まれないが、約400m離れた飛鳥川畔で2個の石造物が見つかっており、これも水を流したような溝などがあり同じ
	く酒船石と名付けられている。区別するためこちらを出水の酒船石、もう一方を岡の酒船石と呼ぶことがある。現物は京都に移動
	されており見ることはできないがレプリカが奈良文化財研究所飛鳥資料館にある。








	酒船石遺跡	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡。以前から知られている酒船石
	に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようにな
	った。この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適
	当ではないとの意見も存在する。

	小高い丘の上にある花崗岩の石造物。長さ約5.5m、幅約2.3m、厚さ約1mであるが北と南の一部が欠けている。上面に皿状のいくつ
	かのくぼみとそれを結ぶ溝が刻まれている。酒を造る道具、あるいは薬などを造るための道具ともいわれ諸説あるが定かではない。
	近くに水を引いたと見られる土管や石の樋も見つかっていることから庭園の施設とも言われている。欠けている部分は後に何かに
	流用したらしく、上面の造形を無視した石割の跡が見られる。欠けた部分には石割用の工具である矢が打ち込まれた跡があり、同
	じように石を割ろうとした痕跡が鬼の俎にも見ることができる。高取城を築く際に、石垣用の石材として利用しようとしたためと
	みられる。







伝飛鳥板葺宮跡




	飛鳥京		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) は現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される古代都市の、主に飛鳥時代の
	ものを指し示す名称。飛鳥時代の多くの期間は、この地域に天皇 (大王) の宮が置かれており、今日的にいえば日本の首都であっ
	た。そのことを示して飛鳥「京」という名称が用いられる。後の時代の藤原京 (や平城京等) のように全体的に計画されて作られ
	たものだとは考えられておらず、また、発掘調査など考古学的な成果においても全体像を明らかにするにいたっていないため、地
	理的な範囲など「飛鳥京」が指し示すものの実態は必ずしも明確ではない。そのためか、歴史学や考古学的な文脈においても、飛
	鳥時代あたりの飛鳥を指すのに「飛鳥京」という名称が必ずしも使われているわけではない。このような点については藤原京以降
	の「〜京」と呼ばれるものとは対照的といえる。ただし、飛鳥の街に対して「京」の字を使った表記は近年になって作り出された
	わけではなく、古くは日本書紀においても「倭京」や「古京」と表記される例がある。


	飛鳥京跡		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	飛鳥京跡(あすかきょうあと)は奈良県高市郡明日香村岡にある遺跡。7世紀の宮殿の遺構だとされ、日本書紀などに記述される
	飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地であると考えられている。発掘調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって
	存在することがわかっており、おおまかには I期、II期、III 期遺構と3つに分類される。各期の時代順序と、日本書紀などの文
	献史料の記述を照らし合わせて、それぞれ I期が飛鳥岡本宮、II期が飛鳥板蓋宮、III期 が後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の遺構で
	あると考えられており、III期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。
	もともとこの区域には宮らしき遺跡があることは言われており、伝承により板蓋宮の跡だとされてきた。初期の発掘調査で見つか
	った遺構についても国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)として登録されており、この名称で参照
	されることも多い。
	遺構の全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。「飛鳥京跡」といえば上記の宮殿遺構を
	指すことが一般的ではあるが、宮殿遺構の600メートル北の遺跡についても「飛鳥京跡」と指し示されたり、また、宮殿遺構の
	北西の庭園跡(飛鳥京跡苑池遺構)についても「飛鳥京跡で見つかった苑池遺構」と紹介されることもあり、「飛鳥京跡」が指し
	示す対象範囲は人と場合により必ずしも一定ではないようである。





ここが伝承にあるようにほんとの飛鳥浄御原宮跡だとすれば、蘇我入鹿はここで首をはねられた事になる。





浄御原宮復元CGモデル



浄御原宮正殿CG







川原寺跡




	川原寺のトイ面、自転車のおじさんの後ろに見えているのが「聖徳太子誕生の地」とされている橘寺である。しかしここも確証
	があるわけではない。日本書紀には、太子は「厩舎のわきで生まれた」としかかかれていない。












	川原寺(弘福寺)は飛鳥時代に飛鳥寺、大官大寺、薬師寺とともに飛鳥四大寺に数えられた官寺で、7世紀頃の創建と考えられ
	ている。昭和32、33年に発掘調査が行われた結果、2つの仏殿と塔を含む大きな寺院であることが明らかになった。中金堂の南
	に西金堂と塔が対面する独特の配置は、川原寺式伽藍配置と呼ばれる。また川原寺には瑪瑙の礎石と呼ばれる白大理石製の非常
	に珍しい礎石(上右)がある。













川原寺復元CGモデル



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