Music: 青い目の人形さん

歴史倶楽部 第140回例会
小墾田宮跡・豊浦の宮・甘樫坐神社・雷丘・甘樫の丘





	日本の古代文化の多くがそうであるように、「寺院」も「宮都」も大陸からもたらされた。7世紀の日本は倭と呼ばれていたが、
	周辺の百済・新羅・高句麗と同様に、中国の大国である「隋・唐」の動向に翻弄された。激動する東アジアの情勢に対応するた
	め、国際的な視野に立った新しい国家作りが急務だったのだ。「寺院」も「宮都」もそのために造営・整備され、知識を求めて
	人々が隋・唐へ往来した。







小墾田宮址(古宮土壇) おわりだのみやあと(推定地)




	小墾田の宮跡とされる場所が、明日香村の豊浦に残っている。県道124号線が豊浦の集落に入るあたりの左手、田圃の中に
	一本の木がそびえている。小墾田の宮跡伝承地の目印とされている木で、その根元は「古宮土壇(ふるのみやどだん)」と呼
	ばれている盛り土で高くなっている。1970年と1973年に行われた発掘調査では、川原石を組んで作った溝や、小池を
	持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土した。当初これらは、小墾田の宮を構成する宮殿遺構の一部と考えられた。 
	しかし、飛鳥川右岸の雷丘東方遺跡で「小治田宮」とか「小治宮」と墨書された土器が見つかった。そのため、最近ではこの
	遺跡が小墾田の宮跡である可能性が強くなってきた。そうであれば、古宮土壇で発掘された遺構は何だったかが問題になる。
	地理的に豊浦の宮に隣接し、出土瓦も豊浦寺のそれに共通することから、最近では蘇我氏の邸宅跡と見なされるようになって
	きている。 

	小墾田宮は、推古天皇が25年間過ごした宮である。書紀の記述からもうかがえるとおり、小墾田宮はそれなりの規模であっ
	た可能性が高い。豊浦宮に継ぐ、推古天皇の二番目の宮として造営された。日本書紀によれば、豊浦宮で即位した推古天皇は、
	603年(推古11)10月4日に、11年を過ごした豊浦の宮から小墾田の宮へ遷った。推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に
	移った後に、豊浦寺を建立したとされている。
	推古天皇は、崇峻天皇暗殺という大事件の直後にあわただしく即位したものとおもわれ、おそらく豊浦にあった蘇我家の邸宅
	の一画を仮宮として即位したものと思われる。それから小墾田宮へ移って、25年を過ごした。

	田んぼの真中に一本の木が立っている。「古宮遺跡」ともいう。豊浦寺跡とは300mくらいの距離である。かっては「古宮
	土壇」と呼ばれたここの周辺が、小墾田宮の推定地となっていた。7世紀初め頃の石敷き、柱跡などがこの一帯から出土した
	からであるが、後段ウィキペディア(Wikipedia)の解説にもあるように、雷丘近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書
	された土器破片が見つかったことで、小墾田宮はここではないらしいということになった。




	小墾田宮		 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	小墾田宮(おはりだのみや)は古代日本、推古朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。日本書紀によると 603年(推古11年)、
	豊浦宮で即位した推古女帝は、新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。その後女帝崩御までの間に、蘇我氏、
	聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。
	日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に「南門」を構えその北に諸大夫の勤務する「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさ
	らに北の大門を入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿
	および内裏に発展するものの原型と思われる。

	小墾田宮の所在地については奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があることから、以前より有力
	地とされていた。1970年(昭和45)〜 1973年(昭和48)の発掘調査では宮殿跡は見つからなかったが、掘立柱建物群、庭園
	などの遺構が見つかった。だが、1987年(昭和62)には明日香村雷(いかずち)近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書
	された土器破片が見つかったことで、こちらが俄然有力な候補地として注目されるようになっている。



豊浦の宮







	豊浦宮跡・豊浦寺跡 (とゆらのみやあと・とゆらでらあと)A.D.592-603 明日香村豊浦

	甘橿丘(あまかしのおか)の北西麓、豊浦集落の中にある向原(こうげん)寺の南側台地一帯が日本最古の尼寺、豊浦寺の跡
	といわれている。この寺の前身は推古天皇が即位した豊浦宮(とゆらのみや/とようらのみや)で、聖徳太子を摂政として政
	治を行った。603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。北に接して小墾田宮を
	つくり、豊浦宮は蘇我氏に下賜されて豊浦寺になったと伝えられる。




	近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。1957年以来、現在の向原寺の寺域で
	1970年、1980年、1985年と数度におよぶ発掘調査が行われた。向原寺の庫裏改築に伴う第三次調査(1985年)
	では、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。さらに、その下層から石敷を伴う
	掘建柱建物跡が掘り出された。建物は南北3間(5.5m)以上、東西3間(5.5m)の高い板張りである。
	すでに第一次調査(1970年)では、本堂の北50mの地点で石列が発掘されており、金堂に関係したものと推測されてい
	る。近くに民家が建て込んでいるため、塔の遺跡はまだ見つかっていないが、おそらく塔−金堂−講堂が並ぶ寺院建築が、現
	在の豊浦集落一帯に聳えていたものと思われる。




	平成5年の寺跡の調査で、建物の配置が飛鳥寺と同じであることが判明している。また寺の講堂だったと考えられる場所の下
	からは、6世紀末から7世紀初のものとみられる遺構が発見されており、宮跡を寺にしたという日本書紀の記述が実証された。 
	寺に案内を請い、住職の奥さんの案内で遺跡を見せて貰った。寺では貴重な遺跡の片鱗をみんなに見て貰いたいということで、
	通常なら埋め戻されてしまう遺跡を保存して公開している。










	向原寺 (むくはらでら・こうげんじ) 推古天皇の豊浦宮を改築した豊浦寺の後身 

	592年(崇峻5)12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦(とゆら)宮で即位し
	た。我が国最初の女帝・推古天皇である。日本書紀には、豊浦宮を新たに建設したとは書いていない。崇峻天皇暗殺という未
	曾有の事件の直後なので、新しく宮を造営する余裕などなく、蘇我本宗家の邸宅の一画を仮宮としてそこで即位したものと考
	えられている。盛大に即位の式が行われているその頃、飛鳥川を挟んだ対岸では飛鳥寺が造営の真っ盛りであった。その即位
	の儀式が行われた豊浦宮跡に建っているのが、現在の向原寺である。




	このあたりは非常にややこしいが、「蘇我稲目(いなめ)の向原の家」=「豊浦宮」=「豊浦寺」=「現在の向原寺」という
	図式になる。豊浦寺は、我が国最古の尼寺で、当時は桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれていた。順番でいけば、蘇我稲目の
	向原の家 → 向原寺 → 物部尾輿の廃仏にあって焼失 → 推古天皇が宮を置く(豊浦宮)→ 宮を小墾田に移す → 
	再び寺となる(豊浦寺) → 現在の向原寺、となる。




	みんなに説明してくれる住職の奥さん。現在表面に出現しているのは豊浦宮の跡だと推定されている部分だが、この下に更に
	建て屋の跡が見つかっているという。
	豊浦の宮が造られる以前、この地には蘇我稲目(いなめ)が向原の家を構えていた時期があった。日本書紀は、552年(欽
	明13)の仏教公伝の記事の中に、以下のように書き残している。
	
	百済の聖明王が送って来た金銅の釈迦仏を前にして、欽明天皇はこの外国の神を我が国が受け入れるべきかどうか群臣に諮問
	した。群臣の間で意見が分かれたため、天皇は仏像を蘇我の稲目に授けて、試みに礼拝することを命じた。稲目は喜んで仏像
	をもらい受けると、小墾田(おわりだ)の家に安置して、仏道修行に励んだ。




	日本書紀は、その話の後に「向原の家を清めて寺とした」という一文を書き添えている。小墾田の家とは別に向原の家があっ
	たのか、それとも二つの家は同じ場所を指すのか、判然としない。もともと小墾田は飛鳥の地名で、その範囲は広く、現在の
	明日香村一帯を指す、と一般には解されている。しかし、推古天皇は新しい宮を造って11年後にそこに遷るが、この新しい
	宮の名は小墾田の宮とされている。この場合、小墾田の地名は豊浦と対比されるような狭い場所を示している。 




	いずれにせよ、蘇我の稲目は百済から伝来した金銅製の釈迦仏を向原の家に祀り、この家を寺とした。寺といっても、伽藍を
	備えた現在の寺観にいう大きな建物ではなく、邸宅を改造した程度の草庵であっただろう。だが、その後に疫病が流行し、若
	者を中心に大勢の民衆が死亡した。大連(おおむらじ)の物部尾興(おこし)や神祇を司る中臣の鎌子ら廃仏派は、自分たち
	の意見を聞かずに稲目に外国の神を祀らせたのが疫病の原因であるとし、この神を百済に返すことを奏上した。天皇の許可を
	得て、彼らは役人に仏像を「難波の堀江」に捨てさせた。さらに、寺に火をつけ余すところなく焼き払った。すると、雲も風
	もないのに、にわかに欽明天皇の宮の大殿に火災が発生したという。当時、天皇の宮は「山辺の道」の磯城島(しきしま)に
	あり、磯城島の金刺(かねさし)の宮と呼ばれていた。現在の桜井市の水道局あたりにあったとされる。



	
	『太字山向原寺縁起』(太子山向原寺作成の案内より転記)

	 日本書紀によりますと、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の十三年(552)で、その仏像は蘇我稲
	目が戴き己がオハリタの向原の家を寺としてまつったということです。このムクハラの寺こそ我が向原寺の起りで、当寺は実
	にわが国仏法の根元、寺院最初の霊場であります。当寺はまた、古来元善光寺と称していますが、これについては次のように
	伝えております。
	さきに百済の聖明王は仏像経論を献ずると共に仏法のかぎりなき功徳を説き、その弘通を勧めましたが、物部屋與・中臣鎌子
	等は強く、これに反対し、向原の寺を焼き、仏像はナニワの堀江に捨てました。その後推古天皇の八年、信濃国主に従って上
	都した本田善光(同国伊那郡誉田の人)が、或日のこと都見物をしようとて、難波池の辺りを通りますと「善光善光」と呼ぶ
	声が聞こえるので善光がフトその方を向くと、池中から光が射して来ます。よく見るとそこにはピカピカと金色にかがやく気
	高い霊像があります。善光は驚いて直ぐさまこれを拾いあげ、傍なる瀧ですすぎ清めますと、それは世にも珍しい霊妙不可思
	識の三尊像であります。これこそかねてから話に聞く阿弥陀如来の尊像にちがいない。吾等衆生救済のため、五劫にわたる思
	惟を重ね苦行を積んで下さったみ仏であると、有難涙にくれながら、この仏像を背に負い信濃に帰って吾が家に安置し一心に
	礼拝供養いたしました。これが信州善光寺の起源であると申します。
	 この善光については、その昔釈尊在世の頃、インドに月蓋長者と呼ばれる人がいて、その願いにより、釈迦如来が阿弥陀如
	と二尊の光明によって一光三尊の仏像をお作りになりました。この仏像がインドから中国にわたり百済を経て日本へ伝えられ
	ると、もったいなくも難波堀江にすてられるという悲運におあいになったと言うわけであります。善光の救いあげたのがこの
	仏像で、善光はかのインドの月蓋長者の生れかわりであるといいます。
	 さて当寺の最初の建物は、尾與等に焼かれましたが、推古天皇はこの地に宮をうつされ、聖徳太子を摂政として政治をおま
	かせになりました。十七条憲法ができ、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれるすばらしい文化のさかえを見た
	のは此の時であります。
	 推古天皇の後、都は飛鳥の岡本にうつされ、この宮の跡にはまた寺が建てられ豊浦寺と申しました。金堂、講堂、塔婆など
	完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に並べたのであります。

	  あすか川ゆきたむ丘の秋萩は今日ふる雨にちりかすぎなむ(万葉集)  (これは豊浦寺でよまれた歌であります。)

	 都が平城、平安と遠くへうつるにつれ、飛鳥の諸大寺と共に頽勢の一途を迫り、今は全く昔の面影を失ってしまいました。
	しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和三十
	四年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、そのかみの壮大な伽藍配置など明らかになり、ありし日の盛観が偲ばれ
	るに至ったのであります。






	遺跡の側に置かれている、文様の刻まれた大石。人の袈裟姿の一部のようでもあるが、猿石や亀石などの存在を考えると人物
	像ではないかもしれない。これの片割れの石が近所にあるような話もされていたが、勿論確認はされていないようだ。皆さん、
	「衣の一部やで」とか「これが指で、これが着物のヒダやわ」とか「こりゃ、相当大きな仏像の一部やで」とかケンケン諤々。



柵の切れ目から、隣の甘樫座神社(あまかしにいますじんじゃ)の立石が見えている。


	遺跡を見学した後、本堂に並べられている「豊浦の宮」(向原寺)関係の資料を見せてもらう。この寺の、現在の住職さんのお
	名前は「蘇我原」さんと言う。つまり蘇我一族の末裔なのである。みんなそれを伺って「ヒェー」と一様に驚く。

	仏教は中国・朝鮮を経て日本に伝来した。継体天皇(?)の御代に中国人の司馬達等が仏像を携え来日したが、これを信じるもの
	はいなかった。538年、(552年説もあり)百済聖明王が仏像及び経文を献じ、仏教の信奉を勧めた。この時、蘇我稲目は、
	「仏教を礼拝すべし」と主張し、物部尾輿はこれに反対し、議論が衝突する。天皇は稲目に仏像を賜り、試みに之を礼拝した。
	当時疫病が流行し、物部尾輿は「国神の怒りである」と主張し、寺を焼いて、仏像を難波の堀江に投じてしまった。このことをき
	っかけに蘇我氏と物部氏の亀裂が深まり、蘇我馬子は物部守屋を殺し、厩戸皇子とともに仏教を奨励し、これより仏教が隆盛とな
	る。





「推古遺跡」(向原時遺跡)の発掘当時の写真。橿考研(橿原考古学研究所)は、この近辺も数カ所掘ったらしい。








	日本書紀・欽明十三年紀

	西蕃から献上された仏を蘇我稲目に祀らせる。稲目は向原の家を浄め捨ひて寺とす。国に疫気起こり治め癒すこと能わず。

	物部大連御輿、中臣連鎌子が、「仏を祀ってるからだ、早く旧に復すべき、早く投げ棄てろ」と主張する。天皇は「奏す依に」と。
	有司、乃ち仏像を以て、難波の堀江に流し棄つ。復火を伽藍に縦く。焼き尽きて更に余無し。是に、天に風雲無くして、忽に大
	殿に災あり。

	また、元興寺縁起では、欽明13年のことではなく、稲目がなくなった年(欽明30年)のこととして、

	然已丑年稻目大臣薨已後 餘臣等共計 庚寅年燒切堂舎 佛像経教流於難波江也

	「然して已丑(つちのと・うし)の年に稻目大臣すでに薨じて後に、餘臣等共に計らい、庚寅(かのえ・とら)の年に堂舎を燒き
	切り、佛像・経教を難波江(なにはのえ)に流しき。」(「古代史獺祭」ページより)


	「元興寺伽藍縁起」

	・大臣(注:馬子)、乙巳(きのと・み)の年の二月十五日、止由良佐岐(とゆらさき/豊浦崎)に刹柱(さっちゅう)を立て、
	 大會(だいえ)を作す。この會この時に、他田天皇、佛法を破らんと欲したまう。 即ちこの二月十五日、刹柱を斫(さ)き伐
	(き)り、重ねて大臣および佛法に依りし人ゝの家を責め、佛像・殿を皆破り燒き滅ぼし盡しき。

	書紀の記述にしたがえば、豊浦寺のさらに下層に、もともと蘇我稲目の居館があった。
 



	日本書紀に書かれている事の、どこまでが本当かというのを見極めるのはマジ難しい。飛鳥で発掘の度に説明会を聴きに行くが、
	その限りでは、大部分事実らしいとも思える。しかし、発掘主体(奈良国立文化財研究所や橿原考古学研究所や地方自治体等)の
	判断ばかりを鵜呑みには出来ない部分もあり、各方面の意見を聞かないとなかなか自分では判断できない。

	難波の堀江も、向原寺の隣のあの渠(みぞ)にしてはあまりにも近すぎるし、大阪の難波の堀江だとするとあまりにも遠いように
	も思う。向原寺の隣では、捨ててもすぐ拾えるだろうし、大阪の堀江は、まだあの時代には無かったのではないかという気もする。

	難波の堀江は大阪の西区堀江のことと言うのが是までの定説であり、多くの解説本にもそう書かれている。しかしここ飛鳥では、
	それは向原寺(豊浦寺)のそばの池という。どちらが本当なのかはわからないが、毎日こういう事を考えて、給料をもらえてる学
	者の先生はええのぉーと思う今日この頃である。






	これが向原寺から発見された仏像。発見当時は首だけだったが、後で体を復元した。しかしその仏像は盗難にあい、現在は失われ
	ている。もしかしたら、蘇我稲目あたりが拝んでいた仏像だったかもしれないのに、何というバチあたりな事をする奴がいるもの
	だ。おそらく、ろくな死に方はしていまい。





甘樫坐神社





	「向原寺(豊浦寺跡)」の横を通って直ぐ裏の道に廻ると、「甘樫坐(あまかしにいます)神社」である。我が国初の女帝第33
	代推古天皇らを祀っている。境内に高さ2.9mの「立石(りっせき)」があり、その前で4月に豊浦、雷大字の氏子により、嘘、
	偽りを正す「盟神探湯(くがたち)神事」が行われる。「日本書紀」によると、415年(第19代允恭天皇4年)氏姓制度の混
	乱を正すために、甘橿の神の前に諸氏が会して、煮え湯の入った釜に手を入れ、その中の小石を探らせて、「正しき者にはヤケド
	なし、偽りし者はヤケドあり」と云って、正邪真偽を決める古代の神明裁判「盟神探湯」が、当神社で行われたと記録されている。

	ほんとにそういう事をやっていたのかは定かではないが、ヤケドしなかった者などいなかったのでは。
 


生け垣の向こうに向原寺が見える。さっきはあちらからここを見ていた。









我らの推古天皇、乾さん。



上左は善光寺由来を記念した仏さま。上右が難波の堀江。


	物部氏		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	物部氏(もののべうじ)は河内国の哮峰(現・大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト
	を祖先と伝えられる氏族。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長して
	いった。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。
	連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族のすこぶる多いことがその特徴と
	して知られる。

	<磐井の乱>	
	継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏だった。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)
	は宣化天皇の元年の7月に死去している。磐井は攻めてきた麁鹿火に対して、「同じ釜の飯を食った仲間ではないか」と言って
	いるので、この二人はいずれかの地で、ともに暮らした年月があったものと思われる。


	<蘇我氏との対立>	
	宣化天皇の死後、欽明天皇になると物部尾輿(もののべのおこし、生没年不詳)が大連(おおむらじ)になった。
	『日本書紀』によると、欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた。これの扱いを巡り、蘇我稲目(大臣)を中心とする崇仏派と
	物部尾興、中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。ただし、近年では物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見さ
	れ、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方
	もある。

	<稲目と尾輿>

	蘇我稲目は欽明天皇より仏像を賜り、熱心に礼拝した。昔から神祇崇拝を重んじてきた物部尾輿はこれに反対し、寺を焼き、仏
	像を難波の堀江に流した。

	<馬子と守屋>

	稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりした。敏達天皇の時代に馬子は父の志を継ぎ、熱心に
	仏像を礼拝した。馬子は、司馬達等の娘等三人を尼とする。物部守屋は父の志を継ぎ、中臣勝海と共に仏教崇拝に反対する。敏
	達天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を奉ろうとしたが、馬子はこれに反対し、用明天皇を立てた。用明天皇は三宝に帰依する意
	志を示したため、群臣は二派に分かれることとなる。
	守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺を焼くということをしてしまった。そして前述三人の尼を鞭で打った。しか
	し、それ以後疫病が流行し用明天皇が崩御した。これにより皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、
	「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后(用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により蘇我
	氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。当初、物部守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本
	拠地で戦死した。

	<物部氏の滅亡>

	用明天皇が崩御すると、物部守屋は再び穴穂部皇子を立てようとした。馬子は炊屋姫(後の推古天皇)からの断罪を理由に穴穂
	部皇子を殺害。穴穂部皇子を応援していた守屋は、馬子や仏法の加護を受けた厩戸皇子の活躍で蘇我軍に殺される。馬子は崇峻
	天皇を立て、倉梯に宮を造る。ここに物部氏は滅び、蘇我氏専横の時代を迎える。


	<石上氏>	
	西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。同氏は守屋の兄の子孫である
	と称している。雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。
	その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣
	宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残している。
	石上氏は宅嗣の死後、9世紀前半ころに衰退。

	<地方の物部氏>	
	物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙に遑がない。石上氏等中央の物部氏
	族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。所謂「古史古伝」のひとつである
	物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称し、扶桑略記、陸奥話記などには物部長頼が陸奥大目となったことが記載さ
	れている。しかし、出羽物部氏が本当に守屋の子孫かどうか確実な証拠はない。六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉
	弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
	また、下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出したというも
	のがある。これについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。

	古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。石見国の一の
	宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の金子
	家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は社家華族として男爵に列している。


	<系譜>	 主として『先代旧事本紀』に拠る。  

		     饒速日命
		      ┃
		     (6代略)
		      ┃
		    物部十千根
		      ┃
		       胆咋
		      ┃
		      五十琴
		      ┣━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓
		      伊?弗         麦入      石持
		  ┏━━━╋━━━━━━━┓  ┣━━━┓
		  真椋 布都久留(懐)   目  大前  小前
			      ┣━━━┓   ┃
		      木蓮子  小事  荒山
		      ┃       ┃
		      麻佐良      尾輿
		      ┃       ┣━━━┳━━━┓ 
		      麁鹿火      御狩  守屋  贄子
		              ┃
		              目
		              ┃     
		             宇麻呂(馬古・宇麻乃)
		              ┃
		             石上麻呂





	向原寺の南側台地。小さな池があり、地元では、なんば池と云われている。私は、物部尾興らが「仏像を難波の堀江に捨てた」
	というのは、てっきり大阪難波の堀江だろうと思っていたが、この後訪れた飛鳥寺の住職によれば、ここがその「難波の堀江」
	だという。「なんでわざわざ大阪まで行きますにゃ。アレは飛鳥のお話ですさかい、当然ここの難波の堀江ですわ。」





物部守屋(菊池容斎筆) 物部尾輿・『前賢故実』より


	物部尾輿		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆
 
	物部尾輿(もののべのおこし:生没年不詳)は、6世紀半ばの豪族。安閑・欽明両天皇の頃の大連。父は物部荒山。子に物部守屋
	などがいる。安閑天皇元年(531)、廬城部枳□喩(いおきべのきこゆ)の娘が尾輿の首飾りを盗み、皇后春日山田皇女に献上
	した事件が発覚し、この事件とのかかわりを恐れた尾輿は、皇后に配下の部民を献上した。欽明天皇が即位した際に、大連に再任
	されている。欽明天皇元年(539)、大伴金村が任那4郡を百済に割譲したことを非難し、金村を政界から引退させた。欽明天
	皇13年、百済の聖明王から仏像や経典などが献上された時(仏教公伝)には、中臣鎌子とともに廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲
	目と対立した。



	物部守屋		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	物部 守屋(もののべ のもりや、生年不詳 - 用明天皇2年(587年)7月)は飛鳥時代の大連(有力豪族)である。物部尾輿の子。
	母は弓削氏の女阿佐姫。
	物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。敏達天皇
	元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
	敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、
	この頃から疫病が流行しだした。物部守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起
	きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を
	焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等(しばのたちと)ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の
	恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の
	目前で鞭打った。疫病は更にはげしくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上した。天皇は馬
	子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。
	ほどなくして、天皇は崩御した。殯宮で葬儀が行われ、馬子は佩刀して誄言(しのびごと)を奉った。守屋は「猟箭がつきたった
	雀鳥のようだ」と笑った。守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。敏達天皇の次
	には馬子の推す用明天皇(欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位した。守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。
	用明天皇元年(586年)、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆(みわのさかう)
	に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は
	「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。
	用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。守屋と中臣勝海
	は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に豊国法師をつ
	れて来させた。守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。
	守屋は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。
	排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った
	(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言わ
	れている)が、その帰路、舍人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。
	守屋は物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。
	4月9日、用明天皇は崩御した。
	守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、
	宅部皇子を誅した。
	大阪府八尾市の大聖勝軍寺近くにある物部守屋墓7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹
	田皇子、廐戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。守屋は一族
	を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は
	恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た廐戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願
	して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。
	迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗
	北して逃げ散った。守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

	廐戸皇子は摂津国(大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。
	馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。


	<先代旧事本紀>
	第五卷天孫本紀では物部尾輿の子で物部大市御狩連の弟、弓削大連とも、池邊雙槻宮天皇(用明天皇)の時に大連となり神宮の斎
	となったとある。
	第九卷帝皇本紀では用明天皇が9月5日に即位した際、物部弓削守屋連公を大連また大臣とし、用明天皇2年夏4月2日磐余河上
	の新嘗祭に病で帰った用明天皇が三宝を敬うことを検討するよう家臣にいったさい、中臣勝海連とともに国神に叛き他神を敬うこ
	とはできず聞いた事もないと反対したとある。しかし上記は藤原不比等らによっての日本書紀の改竄(かいざん)によるものである
	と言う説もある。



雷丘







	雷丘(いかづちノおか)

	「甘樫丘」の直ぐ北に「飛鳥川」を挟んで、全体を竹藪で覆われた「雷丘」がある。丘の中央を東西に道路が通じ、西へ行って
	飛鳥川を渡った所、向原寺の北に「小墾田宮跡」があり、また、「雷丘」の東側には「雷丘東方遺跡」があって、奈良時代の建
	物跡が発掘され、井戸跡から「小治田宮」と墨書された土器が出土している。なお、「雷丘」は、第21代雄略(ゆうりゃく)
	天皇の随身、少子部栖軽(ちいさこべノすがる)が、461年(雄略天皇6年)7月天皇と皇后の同衾(どうきん)中に雷が鳴
	り、そこへ栖軽が参入し、慌てふためいた天皇が、バツ(テレ)隠しに雷を捕らえて来る様に命じて、雷を捕まえた丘という。 


	日本書紀・雄略紀

	「天皇(雄略)、小子部栖軽(オサベスガル)に詔して曰はく、「朕、三諸岳の神の形を見むと欲ふ。(或いは云はく、此の山の
	神、大物主神とすといふ。或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。)汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉へ来」とのたまふ。
	スガル答へて曰さく、「試みに往りて捉へむ」とまをす。乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。天皇、斎戒した
	まはず。其の雷ひびきて、目精(まなこ)赫赫(かかや)く。天皇、畏み、目を蔽ひて見たまはず、殿中に却き入り、岳に放たし
	めたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷とす。」

	雷の丘にある説明版の伝承は、日本霊異記の冒頭第一話にある。
	雄略が小子部栖軽に命じて雷を捕えさせる。栖軽は雷の丘に落ちていた雷を捕え宮殿に運ぶ。天皇(雄略)はこれを見て恐れうや
	まい、幣帛を供えて、雷を落ちたところに返させた。その場所をいま雷の丘と呼んでいる。これに後日談が続き、「雷を捕えた栖
	軽の墓」の碑文が書かれた栖軽の墓を雷の丘に作ると、雷が怒って鳴り落ちる。ところが柱の裂け目に挟まれてまたもや捕えられ
	る。で、碑文をさらに改めた。「生きても死んでも雷を捕えた栖軽の墓」






	雷丘は、奈良県高市郡明日香村の「甘樫丘」の直ぐ北に「飛鳥川」を挟んで、全体を竹藪で覆われた小さな丘である。丘の中央
	を東西に道路が通じ、西へ行って飛鳥川を渡った所、向原寺の北に「小墾田宮跡」があり、また、「雷丘」の東側には「雷丘東
	方遺跡」があって、奈良時代の建物跡が発掘され、井戸跡から「小治田宮」と墨書された土器が出土している。なお、「雷丘」
	は、第21代雄略天皇の部下、少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、461年(雄略天皇6年)7月天皇と皇后の同衾中に雷
	が鳴り、そこへ栖軽が参入し、慌てふためいた天皇が、テレ隠しに雷を捕らえて来る様に命じて、雷を捕まえた丘である。
	古代日本の主に仏教に関する説話を集めた『日本霊異記』は、上中下の三巻、百十六話から構成されていて、その上巻第一話に
	「雷を捕らえた話」と題した説話が掲載されている。


	雄略天皇に親しく仕えた小子部栖軽が、天皇が皇后と大極殿で寝ている時に、気づかずに入ってしまった。天皇は恥ずかしがっ
	て止めてしまった。ちょうどその時に雷鳴がしたので、天皇は栖軽に「雷」をお招きしてくるように命じた。栖軽は馬にのり、
	阿倍の山田村(現在の奈良県櫻井市山田)を通り、軽(かる)の諸越(もろこし)の分かれ道で、天皇が呼んでいる旨のことを
	雷に対して呼びかけた。そして、帰路の途中で、豊浦寺と飯岡との中間に雷が落ちていた。これを見て、神官を呼んで雷を輿に
	入れ宮殿に運んだ。天皇に差しのべたとき、雷が光りを放ち明るく輝いたのを見て、天皇は恐れ、雷が落ちていた所へ返させた。
	その場所を、今の雷の丘と呼んでいる。 
	そのあとで栖軽が死んだ時、天皇は忠信ぶりをしのび、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した
	碑文の柱を立てた。雷はこれを恨み怒って、雷を落とした。ところが柱の裂け目に挟まれて捕らえられた。これを聞き、天皇は
	雷を許してやり放免した。天皇は新たに碑文の柱を立てさせ、その碑文には、「生きても、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」
	と書かせた。これが、雷の丘と名付けたいわれの起こりである。 「参考文献 日本霊異記:平凡社」


	柿本人麻呂の、万葉集で“雷丘”を詠んだ歌は有名であるが、万葉集には、雷丘を詠んだ歌はこの一首だけである。

	大(おほ)君(きみ)は 神にしませば 天(あま)雲(くも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に 廬(いほ)らせるかも  巻3−235

 	この小さな丘が雷丘とは、歌のイメージとはずいぶんと違う。「天雲の 雷の上に」という表現からはもっと壮大な山のような
	感じもする。


雷の丘の発掘調査風景。上右は石組み遺構。


	2005・11・22日の新聞記事に、

	雷丘(高さ約20メートル)の西斜面から雷神降臨伝承と同時期の5世紀後半の円筒埴輪(はにわ)片が多数出土したと奈良文
	化財研究所が2005年11月21日発表した。奈良文化研究所は、明日香村の雷丘に、五世紀後半の古墳があったとみられると発表し
	た。日本霊異記に記された説話と何らかの関連があるかもしれない、と発表した。しかし、柿本人麿がここで詠っている庵(い
	ほり)の跡や建物の遺構などは全く見つからなかった。5世紀後半の円筒埴輪片数百個のほか、7世紀の小型石室も出土した。
	同研究所は雷丘を初めて発掘し、埴輪の破片数百点を発見、古墳の墳丘や石室などは、十五世紀前半ごろの城を造る工事などで
	削られて残っていない。一辺十b程度の方墳ではないか、とみている。」というのがある。

	この古墳、もしかすると被葬者は少師部の栖軽かもしれない。古墳の規模が天皇の腹心の墓としては小さい、と研究所は否定的
	な見方をしているらしいが、栖軽の墓の方が夢があってよい。15世紀ごろの山城の堀(深さ2メートル)の跡も見つかってお
	り、奈文研によれば、「庵跡は、山城造成時に削られたのかもしれないという。いずれにしても、古代には藤原京一帯などが一
	望できる場所で、中世には敵の攻撃を見極める物見台の役割を果たしたのではないか」とのこと。



「小治田宮」と墨書された土器が出土した雷丘東方遺跡は、上の写真で正面住居の裏である。




	雷丘の東南部分が四ツ角交差点になっており、その交差点から南下する道路脇に雷丘東方遺跡がある。奈良国立文化財研究所は
	この地で数次の発掘調査を実施してきたが、1987年、この遺跡から「小治田宮」とか「小治宮」とかいう文字が書かれた墨
	書土器を発見した。遺跡は「雷丘東方遺跡」と名付けられ、さらに、この遺跡の井戸枠を、年輪年代測定法で調べたところ、
	758年ごろに伐採された「ヒノキ材」であることが分かった。




	推古天皇の小墾田宮は七世紀初めの造営であるが、八世紀頃まで存続していたことが分かっている。「続日本紀」によると、
	760年(天平宝字4)、淳仁天皇が「小治田宮」に行幸しており、井戸や周辺の建物跡は、この時に整備された仮宮であると
	推測されている。こうした発掘調査の結果を踏まえて、最近では雷丘東方遺跡が小墾田の宮の跡地である可能性が高いとする説
	が有力になっている。 




	『日本書紀』には、608年(推古16)に来朝した隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を小墾田の宮で謁見したと書かれて
	いる。610年(推古18)には、来朝した新羅使節との謁見についての記事もある。してみると、小墾田の宮は役所としての
	機能の他に、迎賓館的な要素も備えたちゃんとした宮殿だった可能性もある。



雷丘から降りてくると、道の向こうより見慣れたおじさんがトボトボと。遅れてきた橋本さんがここで我々に追いついた。




甘樫丘(あまかしのおか)







犬養孝氏揮毫による志貴皇子の碑。




	甘樫丘	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	甘樫丘(あまかしのおか)は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵のこと。東西に数百メートル、南北に1kmほど広がっている。
	丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の北側に展望台があり、大和三山、藤原京などの風景を望むことができる。
	大化の改新以前に、蘇我蝦夷・入鹿親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。2007年2月1日、東麓遺跡において
	7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されている。
	古くから誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座した。允恭天皇のとき、盟神探湯(くかたち)が行われた。山腹には明日香村の保全に尽
	力した故犬養孝氏揮毫の万葉歌碑(志貴皇子、巻1-51)がある。

	万葉集には、甘樫丘(あまかしのおか)と名前が出てくるわけではないが、下記の歌の「神岳」が甘樫丘(あまかしのおか)ではない
	かと考えられる。一説には、すぐ北にある雷丘(いかづちのおか)ではないかという説もある。
 
	0159: やすみしし我が大君の夕されば.......(長歌)

	0324: みもろの神なび山に五百枝さし.......(長歌) 

	0325: 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに 
 



	皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、蘚我氏の中心人物 、入鹿(いるか)は中大兄皇子(な
	かのおおえのおうじ)らによって暗殺された。天皇家による権力奪回のクーデターは成功し、入鹿の父の蝦夷は甘樫丘の邸宅に自
	ら火をはなち、ここに権勢を極めた蘚我本家は滅びた。
	飛鳥川をはさんで飛鳥板蓋宮の対岸、甘樫丘の東麓に位置するこの遺跡からは、焼けた土器のほか建築部材や炭などが出土した。
	クーデターの際、中大兄皇子が陣をはった飛鳥寺とも対峙する位置にあり、土器の年代観も一致することから、谷の上方に蘇我邸
	の存在がほぼ推定されたと言ってよい。



写真奥の集落の中に飛鳥寺がある。



展望台の板場ベンチで昼食。梅の花が満開で、周辺には甘酸っぱい香りが漂っていた。




クリックすると大拡大画面が見れます。


	甘樫丘からの展望。甘樫丘はさほど高くはないが、奈良盆地の平坦な地に、ぽっかり盛り上がった丘で、非常に展望がよい。
	万葉の里の展望台として親しまれ、眼下には飛鳥の里が一望できる。また大和三山や青垣の山々も遠望できる。
	ぽっかりと浮かんだ3つの山、天香具山(あまのかぐやま)152m、耳成山(みみなしやま)139m、畝傍山(うねびやま)
	199mがここから一望できる。また、直ぐ近くには御破裂山(ごはれつざん)618mが見える。紅葉の季節には大勢の人で
	にぎわう談山神社の裏山である。









戻って来た!

	な、な、なんと、「向原寺」のコーナーで見ていただいた、盗まれた飛鳥時代の仏像が出現したという記事が! 驚いた。


	盗まれた飛鳥時代の仏像36年ぶりに発見 奈良・明日香村の向原寺	2010.9.24 20:36 サンケイWEB

	  
	向原寺に36年ぶりに戻ってきた、頭部が飛鳥時代のものとされる寺宝の観音菩薩を見つめる住職の蘓我原敬浄さん
	
	蘇我稲目(そがのいなめ)により国内で最初に仏像が置かれた地とされる奈良県明日香村豊浦の向原寺(豊浦寺)で、昭和49年
	に盗まれた金銅観音菩薩像が36年ぶりにオークション・カタログから見つかり、同寺が24日、発表した。仏像は飛鳥時代にさ
	かのぼる寺宝で、蘓我原(そがはら)敬浄住職は「長い旅でした。いつか絶対帰ってくると信じて待っていました」と話した。
	仏像は像高24・1センチ。寺伝によると、江戸時代の明和9(1772)年に境内の「難波池」から頭部(4・1センチ)のみ
	が発見され、当時の京都の仏師により新たに体部が鋳造され、接合されたとされる。

	仏像について蘓我原住職から聞いていた、大阪大大学院で仏教美術を研究する三田覚之さん(28)が先月9日、古美術のインタ
	ーネットオークションを開催する「古裂会(こぎれかい)」の会員制カタログから発見。同会の仲介で同寺が出品者から買い取っ
	た。カタログでは最低落札価格は35万円だった。
	一方、仏像とともに盗まれた厨子(ずし)は出品されておらず不明のまま。窃盗罪はすでに時効で、盗んだ人物の特定は難しいと
	いう。
	改めて仏像を鑑定した鈴木喜博・奈良国立博物館上席研究員は「飛鳥時代後期(7世紀末〜8世紀初め)の特徴と共通する頭部の
	歴史的価値に加え、伝承の通りに補作され信仰されたことがわかる注目すべき仏像だ」と評価している。

	盗難があった昭和49年は、高松塚古墳の極彩色壁画が発見された約1年半後で考古学ブームが続いており、同寺を訪れる観光客
	も多かったという。当時から住職だった蘓我原住職は「この寺に立ち寄る人は本当に歴史が好きな人」との思いから参拝者に仏像
	を公開しており、犯行はその心意気を裏切るものだった。





 邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部例会 / 早春の飛鳥を歩く