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歴史倶楽部 第140回例会 2009.3.1 奈良県高市郡明日香村

蘇我氏の故地・石川池(剣池)と孝元天皇陵






孝元天皇「剣池嶋上陵」をめぐる「剣池」。




	<石川池(剣池)>	橿原市石川町。近鉄橿原線橿原神宮前駅、東へ600m。

	応神天皇の御代、外来の土木技術によって掘られた人工池。応神帝は軽池も造営している。伝承によれば、孝元陵の西北に淵が
	あって底に霊剣を沈めたので「剣淵」と称したのを、応神天皇の御代に淵によって池を穿たれ、これを「剣池」といったとある。
	この池のある石川一帯は、蘇我氏の本拠地で、馬子が日本で最初に作った仏寺「石川精舎」があったと伝えられる。

	歴代天皇のうち、現在の橿原市あたりに宮殿を置いていたと推測されているのは、初代の神武天皇が即位した橿原宮(畝傍町)、
	懿徳天皇の軽曲峡宮(かるのまがりおのみや・久米町)、孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはらみや)、応神天皇の軽明宮
	(かるのあかるのみや・大軽町)、舒明天皇の仮宮である田中宮(たなかのみや・田中町)と厩坂宮(うまさかのみや・大軽町)
	などである。舒明天皇は、飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや・奈良県高市郡明日香村)、百済宮(くだらのみや・奈良県北
	葛城郡広陵町百済)にも宮を築いている。

	第八代孝元帝が都を置いた場所が軽境原宮で、そこは今、牟佐坐(むさざ)神社の建つ橿原市見瀬町に比定されている。また孝
	元帝の陵墓も同市石川町にある剣池嶋上陵だとされているが、その八代目の大王と物部氏の伊香色謎(いかがしこめ)命との間
	に産まれた彦太忍信(ヒコフツオシ)命の子・武内宿禰の子孫が「蘇我氏」(厳密には蘇我石川氏)である。

	蘇我氏の聖地である「軽」の名前を持った天皇は他にもいる。皇極の弟の幼名は「軽皇子」(後の孝徳天皇)だったし、持統帝
	の孫の名は「軽太子」(後の文武天皇)である。また、欽明朝に台頭した蘇我稲目は、大伴狭手彦が高麗から戦利品として連れ
	帰った女性を妻とし「軽の曲殿」に住まわせたと「日本書紀」は記録している。「軽」の地は、大王たちが都を定めるのに、何
	か由緒ある神聖な場所という認識があったのかもしれない。
	勿論その殆どは文献に記された伝承のみで、詳しい実資料が存在するわけではない。しかし、田中宮に関しては田中廃寺の調査
	で藤原京条坊以前の建物群が見つかっており、宮との関係が注目されている。また飛鳥の地では、近年の発掘調査により、記紀
	に記述されたことが続々と証明されつつある。




	「日本書紀」敏達天皇十三年(585)二月に、蘇我馬子が建立した石川精舎(いしかわしょうじゃ)は、当時蘇我氏の根拠地
	であった石川の地に建立された寺院である。馬子が日本で最初に作った仏殿とされる。剣池のあたりは、現在石川町という町名
	だし、「軽(かる)」という地名も残っている。蘇我氏の「石川精舎跡」も本明寺という小さな寺院のなかに現存している。



石川精舎跡(本明寺)

	<本明寺(石川精舎跡推定地)>

	石川池(剣池)の西端から西へ入ると、橿原市石川町に浄土宗「本明寺(ほんみょうじ)」がある。畝傍中学校のある丘陵の西、
	旧谷部からその先の低丘陵の先端部にかけては、古来より石川精舎の推定地と伝えられる地である。

	「日本書紀」敏達天皇十三年の条に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、仏殿を修治る。仏法の初■より作れり」とある石川精舎
	(いしかわしょうじゃ)の跡と云われている。
	右京十二条四坊西北坪では、飛鳥時代の大規模な整地とその上部に掘られた石組の暗渠溝及び溝一条、掘立柱建物一棟、池状溝
	が見つかり、石組溝は長さ 24.5m、幅0.7mで、東南東〜西北西に走っている。調査区中央で長さ2.2m、幅0.4mの木樋を設置し、
	なんらかの施設にともない開渠としていたようだ。暗渠部分は、底石を平坦な面を上面にして据え付け、一段の側石で両側を挟
	み大きな天井石をのせている。調査では、大量の瓦を含んだ整地土の下から団扇の柄かと考えられる木製品が出土した。さらに、
	隣接する十二条三坊での調査では、大量の瓦を含んだ整地土、焼土坑・鋳型・フイゴの送風口など鋳造関連遺溝などが見つかり、
	寺院等の瓦葺き建物があったことがわかっている。
	
	しかし、発掘調査でも確証は得られず、石川精舎跡は別場所と云う説もある。蘇我馬子が建立した石川精舎の堂塔はいまだ不明
	で、そのほとんどはこの地域の地下に眠っているものと思われる。





	剣池のほとりに紀皇女(きのひめみこ)の歌碑がある。軽の池は橿原市大軽町付近にあったと考えられるが所在が不明で、近くの剣
	池の堤に歌碑が建てられたそうだ。 

	
	万葉歌碑	巻3-390 紀皇女石川池の北堤(剣池)	歌碑建立 昭和52年(1977)
	
  		軽池之		軽(かる)の池の 
		浦廻徃轉留	浦(うら)廻(み)行き廻(み)る 
		鴨尚尓		鴨(かも)すらに 
		玉藻乃於丹	玉藻(たまも)の上に
		獨宿名久二	ひとり寝なくに

	(軽の池の浦のめぐりに沿って泳ぎ回る鴨さえも、玉藻の上にひとりで寝ないのに)




	<日本書紀 応神紀>に、

	・十一年冬十月 作劔池・輕池・鹿垣池・廐坂池
	(応神天皇)十一年の冬十月に、【剣池】・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る。)

	とあり、この石川池が【剣池】のようだ。 2000.8.27に、植山古墳(推古天皇親子の墓かとさわがれた。)の現地説明会を見に行
	った時説明会会場となっていたのが、この池のすぐ側の畝傍東(うねびひがし)小学校である。ここから植山古墳まで、延々と行
	列が続いていた。その時は、孝元天皇陵がここにあることにさしたる疑問も湧かなかったのだが。
	古代には、この池には、蓮の花が満開だったらしい。




		<万葉集・巻13・3289・作者不詳>

		御佩(みはかし)を 剣(つえうぎ)の池の 
		蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の
		行方無み(ゆくへなみ) 吾(あ:わ)がせし時に 
		逢ふべしと 卜(うら)へる君を
		な寝(いね)そと 母聞こせども 
		我が心 清隅(きよすみ)の池の
		池の底 吾は忘れじ 
		直(ただ)に逢ふまでに		と詠まれ、

		(剣池の蓮の葉にたまった水がどこにゆくのか分からないように、
		私もどうなるか分からないでいるときに、「逢うべきである。」
		と告げられたのであなたに逢いました。
		そのあなたと「寝てはいけない」と母は云うけれど、
		私の心は清隅の池の底にじっとしているように、
		あなたのことは忘れません。じかにあなたに逢うまでは…。)

		反歌(万葉集 3290)は

		古の神の時より逢ひけらし 今の心も常念ほえず		とある。

 
	<日本書紀皇極紀>には、皇極天皇三年三月六日、剣池の蓮の中に、一本の茎に二つの花房をつけたのが見つかった。これを見た
	豊浦大臣(蘇我毛人・蝦夷)は、「これは蘇我氏が栄える前兆である」と言う。金泥でその絵を書いて、飛鳥法興寺の丈六の仏に
	供えた。池は今も満々と水をたたえ、多くの鴨が水面に浮んでいるが、万葉歌に詠われた蓮、蘇我蝦夷が吉兆とした蓮は今はない。
	一年後の六月、「乙子の変」で蘇我蝦夷は息子の入鹿とともに、甘樫の丘に滅びた。蝦夷が瑞兆と喜んだ蓮は、実は「大化の改新」
	で蘇我氏が滅ぼされる凶兆であった。また日本書紀には、舒明天皇7年の条にもこの池の記述がある。




	蘇我氏		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)
	で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。


	蘇我:『日本書紀』 
	宗我:『先代旧事本紀』天孫本紀、『上宮聖徳法王帝説』、『日本三代実録』 
	巷奇:『元興寺縁起帳』 

	<概要>
	『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(やけのうちのすくね)を祖としているが、具体的な
	活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよく分かっていない。

	河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良
	県橿原市曽我町あたり)、あるいは奈良県桜井市石川町を本拠にした土着の豪族であった。または(系譜に現れる名前などから)
	その地に定住した渡来人であったなどの説があるがいずれも定かではない。最近では、蘇我氏自身が渡来人であったと言う説は、
	結構支持されているようでもある。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。

	蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた
	渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれ
	をいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目
	的も有ったと推察される。
	6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われる。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集
	中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもそれがうかがえる。

	<全盛期>
	稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大連の大伴
	氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力
	となる。また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となってい
	く(馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は葛城氏の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出
	出来る一族に連なったとする説もある)。
	稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子(そが・の・うまこ)まで引き継がれるが、用明天皇没後
	に後継者をめぐる争いがあった。蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を
	討ち滅ぼすと、その後は蘇我氏以外からは大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。
	ここから馬子による崇峻天皇の暗殺や、推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷(えみし)による天皇をないがしろにするふるま
	い、蘇我入鹿(そがのいるか)による上宮王家(山背大兄王)の討滅、境部摩理勢の失脚などの専横ぶりが伝えられており、蘇我
	氏三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。
	しかし馬子の死後に、蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺し、それを克服しようとして入鹿に
	よる強権政治に繋がった、という見方も少なからずある。これは『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論である。
	蘇我氏は、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、入鹿が暗殺されるとともに蝦夷が自殺すると
	その勢力は大幅にそがれてしまった。

	<大化の改新から壬申の乱まで>
	しかしながらこの政変はあくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡だけを意味する。クーデターには、傍流とされた蘇我倉
	麻呂(蝦夷の弟)の子である蘇我倉山田石川麻呂も、中大兄皇子の協力者として関わっていた。石川麻呂はこの後右大臣に任じら
	れ、娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂自身は649年に冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向も大宰府に
	左遷させられた(口封じとの説もある)。
	しかし、他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣、連子ははっきりは分からないが右大臣と推
	定されている)に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。

	連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である蘇我果安は壬申の乱で大友皇子側について敗れ、そ
	れぞれ流罪・自害となった。その甥で連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝
	臣の姓氏を賜った。このように乙巳の変後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらも
	しばらくは連子の系統が続いた。

	<蘇我系石川朝臣>
	蘇我系石川氏は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇を輩出した(それぞれ石川麻呂の娘、
	遠智娘と姪娘が母)。しかしながら、蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が、持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、また
	文武天皇の妻の石川刀子娘が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその身分を剥奪され、子の広成皇子・広世皇子も連座し
	て皇族の身分を剥奪される事件なども起こしている。刀子娘の事件は、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除しようとしての藤原不
	比等・橘三千代夫婦の陰謀とされる。
	また万葉集によれば、同じ赤兄の外孫である穂積皇子も但馬皇女との密通が露見して左遷された。穂積皇子は、幸いにも持統崩御
	後に知太政官事に出世したが、若くして亡くなった。
	不比等の正妻は、安麻呂の娘の蘇我娼子(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)である。その故を持って、その弟の石川石足
	と子の石川年足は、当時嫡流とされた武智麻呂を祖とする藤原南家と結びつくようになる。年足は、武智麻呂次男の藤原仲麻呂が
	設立した紫微中台の大弼としてその補佐に当たり、中流貴族としてなんとかその命脈を保った。
	しかしながら、元明天皇から孫の首皇子へスムーズに皇位継承されなかったり、元明天皇娘で石川麻呂の曾孫にあたる吉備内親王
	が長屋王の変で夫や子と共に自害するなどの一連の政争があり、これは藤原氏と石川氏との間にも権力闘争があったためとする見
	方もある。

	<衰退>
	しかし、その藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退してしまうと、石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、石川真守(年足
	の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消した。蘇我氏の血統は、女系ではあるが藤原氏を通して現代に
	も伝わっている。五摂家の一つ、近衛家の跡取りで、映像クリエイターである近衛忠大は不比等・娼子から46代目の子孫にあた
	る。

	<蘇我氏渡来人説>
	現在蘇我氏渡来人説というものがあり、学者間で議論となっている。その例を以下に記す。
	応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物であると言う説。提唱者は門脇禎二。
	稲目の父は高麗(こま)、祖父は韓子(からこ)で、継体紀の継体24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」
	(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす)と書かれていることから生じた説である。
	つまり、皇別の武内氏が渡来人系の妻に産ませた子供が蘇我氏になったという説である。(当時の豪族は、姓は父方から受け継が
	れる代わりに、名は母方や養育者から付けられるという風習が流行っていたと見られている。)ただし、いずれも決め手となる証
	拠がないために通説になるには至っていない。


	<系図>
			   孝元天皇
			     ┃
		       彦太忍信命
		         ┃
		 	  屋主忍男武雄心命(『古事記』には無し)
		         ┃
			   武内宿禰
		(武内宿禰以前は後世の架上と言われており、蘇我石川宿禰も子孫の石川氏による創作と見る説がある。)
		         ┃	  
	           蘇我石川宿禰
	              ┃
	             満智
	              ┃
	             韓子
	              ┃
	             高麗(馬背)
		         ┃
	             稲目
	          ┏━━━╋━━━━━━┓
	    欽明帝┳堅塩媛  馬子     境部摩理勢 
	  ┏━━━━┫      ┣━━━┓
	 推古帝  用明帝    蝦夷 倉麻呂(雄当)  
	             ┃   ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┓
	             入鹿 倉山田石川麻呂 赤兄 連子 日向 果安
                  ┃      	┃
	              天智帝┳姪娘     安麻呂  
 	                 ┃        ┃
 	               元明帝      石川石足                                    
	                          ┃
	                           年足                                    
 	                          ┃
                                名足

	<近年の研究>
	2005年11月13日奈良文化財研究所は甘樫丘東麓遺跡で蘇我入鹿邸「谷の宮門」跡とみられる遺構を発掘したと発表、考古学者たち
	は『日本書紀』の記述が裏付けられるだろうと期待を寄せている。






	<第8代孝元天皇>
	異称  : 大日本根子彦国牽尊(日本書紀)/大倭根子彦国玖琉命(古事記)【おおやまとねこひこくにくるのみこと】
	生没年 : 孝霊天皇18年 〜孝元天皇57年 123歳
	在位期間: 孝霊天皇76+1年〜孝元天皇57年 
	父   : 孝霊天皇
	母   : 十市県主(とおちのあがたぬし)の娘細比売(くわしひめ)【古事記】/
	      磯城県主(しきのあがたぬし)の娘細媛命(ほそひめのみこと)【日本書紀】
	皇后  : 穂積臣(ほずみのおみ)の遠祖鬱色雄命(うつしこおのみこと)の妹、鬱色謎命(うつしこめのみこと)
	皇妃  : 伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、河内青玉繁(こうちのあおたまかげ)
	皇子皇女: 稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)
	宮   : 「軽之堺原宮」(かるのさかいはらのみや:古事記)/「境原宮」(日本書紀)
		  【大和の国高市郡:奈良県橿原市大軽(帝王編年記)】
	陵墓  : 剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ:奈良県橿原市石川町)


	古事記に、孝元天皇に五人の皇子があり、それぞれの皇子から子孫が、蘇我、葛城、許勢、平群、波多、紀、など、28の氏族に
	なったことを伝えている。子孫が多くの氏族に分かれたと伝えられていることから、「元」というのは、諸氏族の根源という意味
	であろうと思われる。




	日本書紀に、
	開化天皇 五年春二月丁未朔壬子 葬大日本根子彦國牽天皇于劔池嶋上陵
	(開化天皇五年春二月六日、孝元天皇を剣池嶋上陵に葬った。)とあり、古事記では単に、
	御陵在劔池之中岡上也。(御陵は劔池の中岡の上なり。)と記している。



	投稿者:郭公さん  「最初に行った孝元天皇陵。鳥居の横から後ろに回ると、盛り土らしき高まりが三つありました。これは、
	鳥居に最も近い高まり。 」



	以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による。

	蘇我稲目
 
	蘇我稲目(そがのいなめ、武烈天皇8年(506)頃か − 欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))は飛鳥時代の大臣。
	蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。娘3人を天皇に嫁がせた。(馬子が葛城県を本居としているため、稲目の妻は葛城氏の
	出と推測される)。宣化天皇元年(536)大臣となる。同年、天皇の命により凶作に備えるため尾張国の屯倉の籾を都に運んだ。
	欽明天皇元年(540)欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とした。堅塩媛は7男6女を
	産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。小姉君は4男1女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇
	峻天皇)が即位している。
	欽明天皇13年(552)、百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた(仏教公伝)。天皇は
	仏像を礼拝の可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」
	(「西蕃諸國一皆禮之豐秋日本豈獨背也」)と答えた。これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十
	神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」
	(「我國家之王天下者 恆以天地社稷百八十神 春夏秋冬 祭拜為事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒」)と反対した。
	天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に
	死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流
	され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除された訳では
	なく、翌欽明天皇14年(553)には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。
	稲目は財務に手腕を振るい、王辰爾を遣わして船賦を数えて記録させた。また、天皇の命により諸国に屯倉を設置している。仏教
	受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き
	継がれた。



	蘇我馬子

	時代 飛鳥時代 
	生誕 欽明天皇13年(551年)? 
	死没 推古天皇34年5月20日(626年6月19日) 
	別名 嶋大臣 
	官位 大臣 
	天皇 敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇 
	氏族 蘇我氏 
	父母 蘇我稲目 
	兄弟 堅塩媛、馬子、小姉君、石寸名郎、境部臣摩理勢 
	妻 物部氏娘 
	子 刀自古郎女、蘇我蝦夷、蘇我善徳、法提郎女、川堀、蘇我倉麻呂、杲安、河上娘 
 
	蘇我馬子は、飛鳥時代の政治家、貴族。「馬子」であるが男性である(当時は「子」が男女問わずに用いられた)。邸宅に島を浮
	かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。敏達天皇のとき大臣に就き、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、
	54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く。

	生年は不詳であるが、名前の「馬子」は午年生まれであることに因む可能性もあり、『公卿補任』に「在官五十五年」とあること
	から、550年の庚午年前後であろうと推定する人もいる。
	父は蘇我稲目。 姉に蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)、『日本書紀』では妹に蘇我小姉君(欽明天皇妃。なお『古事記』では「小兄比売」
	は堅塩媛のおばとされる)。
	妻は『日本書紀』では物部弓削大連(物部守屋)の妹、『紀氏家牒』・『石上振神宮略抄』神主布留宿禰系譜料では物部守屋妹の
	「太媛」、『先代旧事本紀』天孫本紀では物部鎌足姫大刀自(父は物部守屋の異母弟石上贄古大連、母は物部守屋同母妹の布都姫)
	とある。子に蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂は孫。 また、娘に河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎
	女(田村皇子妃)、刀自古郎女(とじこのいらつめ)(聖徳太子妃)など、外戚となって権力をふるった。

	「日本書紀」、「古事記」によれば、敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる。敏達天皇13年(584年)百済から
	来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者
	を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させ
	て尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は
	石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。
	敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われ
	た。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派の物部
	守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏
	殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出
	し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた
	罪である」と言った。
	同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。
	馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守
	屋は互いに罵倒した。
	橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就き
	たがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆(みわのさかう)を殺害させた。
	用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、
	馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知
	り、河内国へ退いた。
	程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)
	を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子
	軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。
	廐戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤
	檮(とみのいちい)が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
	同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。崇峻天皇元年(588年)馬子は善信尼らを百
	済へ留学させた。崇峻天皇4年(591年)崇峻天皇は馬子と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送
	った。
	政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年),天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して
	「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知
	り、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を
	殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。

	馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政とな
	った。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣
	して隋の社会制度や学問を輸入した。推古天皇4年(596年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。
	推古天皇20年(612年)堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行った。堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、諸皇子、群臣が誄した。
	蘇我氏の絶大な権勢を示した。
	推古天皇28年(620年)聖徳太子と共に天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。
	推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。
	推古天皇31年(623年)新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。
	推古天皇32年(624年)馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に
	「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。
	推古天皇34年(626年)馬子は死去した。
	馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島
	庄遺跡について、邸宅の一部だったとする説がある。



	蘇我蝦夷

	時代 飛鳥時代 
	生誕 用明天皇元年(586年)? 
	死没 大化元年6月13日(645年7月11日) 
	別名 豊浦大臣 
	官位 大臣 
	天皇 推古天皇→舒明天皇→皇極天皇 
	氏族 蘇我氏 
	父母 父:蘇我馬子、母:物部守屋の妹太媛 
	兄弟 蘇我善徳、蘇我倉麻呂 河上娘(崇峻天皇妃) 法提郎女(舒明天皇妃) 刀自古郎女(とじこのいらつめ)(聖徳太子妃) 
	子 蘇我入鹿 
 
	蘇我蝦夷(そが の えみし)は、飛鳥時代に大臣(おおおみ)となり中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻
	呂らのいわゆる乙巳の変で自殺した政治家、貴族。

	『日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷は蝦夷と
	同じ漢字であるため、これは蔑称であり、毛人が本名との説があるが、「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指すことを考慮していな
	い。「えみし」という名称は小野毛人や佐伯今毛人も使用しており、わざと悪いものを自分の名前につけることで逆に厄払いにし
	たという説や、当時蝦夷は頑強に大和朝廷に抵抗しており、「強い人間」という印象があるため名前につけたとする説もある。
	また蘇我入鹿と同様に死後中大兄皇子らによってこれまでの名前を資料とともに消され、新たに卑しい名前として勝手に名付けら
	れたという説もある。
	推古天皇末年から皇極天皇の御代にかけて権勢をふるった。推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古天皇の遺勅とし
	て、田村皇子を舒明天皇として即位させることに成功した。有力な皇位継承の候補者としては田村皇子と山背大兄王(大兄は皇太
	子の意味となれるが山背大兄王が皇太子となったという記述は日本書紀にはなく、単なる皇子とする者もいる)がいたが、山背大
	兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害した。

	『日本書紀』によればこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、一方で父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中
	で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。
	舒明天皇の崩御後は、皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。また入鹿に紫冠(冠位十二階
	最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授け大臣と擬し、弟を物部大臣と呼び、屋敷を宮
	上の門(みかど)とよばせるなど自らを大王に擬する行為があった。蝦夷の子の蘇我入鹿は山背大兄王を襲い、上宮王家一家を自
	殺に追いこんだ。日本書紀には、蝦夷が入鹿のこの行為を怒り嘆いたと伝えている。皇極天皇4年(645年)に天皇の御前で入鹿が
	殺されると、一時は蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日、入鹿の屍を前に蝦夷は邸宅に火をかけ「天皇記」・「国記」もろ
	とも自殺した。



	蘇我入鹿

	時代 飛鳥時代 
	生誕 不明 
	死没 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日) 
	別名 林大臣、鞍作大郎 
	墓所 飛鳥寺 
	官位 大臣 
	天皇 皇極天皇 
	氏族 蘇我氏 
	父母 父:蘇我蝦夷 
 
	蘇我入鹿首塚と甘樫丘(2005年9月撮影)蘇我入鹿(そが の いるか)は、大和朝廷の有力者。大臣(おおおみ)。大化の改新の前
	夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。

	以下は主に『日本書紀』などの記述による。

	青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。父の大臣・蘇我蝦夷の晩年の642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の
	即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。
	同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。翌643年(皇極天皇2年)
	の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。
	これにより、実質的にも形質的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心
	に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図った
	が、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。大臣を譲られてから1ヶ月も経たな
	い11月上旬の事である。
	644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをぞれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子
	女達を皇子と呼ばせた。また、さらに畝傍山に要塞を築いた。これらについては『日本書紀』は蘇我氏の越権行為と批判しているが、
	同氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったとの意見、また、古人大兄皇子への皇位継承の準
	備固めの意味合いだったという意見もある。
	これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わな
	くなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった
	中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前
	で暗殺された。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄
	皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。

	後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務めるが、赤兄が壬
	申の乱で流罪になって以降は、蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとというクラスにまで低下し、かつての栄光は
	戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史から姿を消す事になる。
	入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗
	殺のきっかけになったとする見方がある。
	また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに
	消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もある(門脇禎二ら)。

	飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に、「入鹿の首塚」が存在する。また、2005年11月13日に奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸
	跡とみられる遺構が発掘された。



	蘇我倉山田石川麻呂

	蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ、生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日))は飛鳥時代の豪族。
	蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。兄弟に日向・赤兄・連子・果安。一般
	には蘇我石川麻呂ともいわれている。
	皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった際に(乙巳の変)、その暗殺の合図となる朝鮮使
	の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言
	われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。蘇我入
	鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣」)の韓人は、先祖に
	その名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。
	その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告
	されて孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足
	の陰謀であったとされている。
	中大兄皇子の妃となった娘遠智娘は、大田皇女(伊勢斎宮となった大来皇女、大津皇子の母)、鵜野讚良皇女(後の持統天皇)、
	建皇子(夭逝)を、またもう一人の娘姪娘は御名部皇女(御名部内親王。高市皇子妃。長屋王の母)と阿閇皇女(後の元明天皇。
	草壁皇子妃)を産んでいる。
	なお、石川麻呂の子孫は、石川氏を名乗るようになる。蘇我氏の祖とされる蘇我石川宿禰は名前から見て、石川麻呂もしくはその
	子孫が創作した架空の人物であるとする説もある。



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