Music: Twlight zone

飛鳥を走る 2008.7.13 桐井・田中氏とサイクリング











	暑い7月の盛り、友人の桐井さん、田中さんと「飛鳥めぐり」の旅に出た、というほどおおげさなものでもないのだけれど、
	田中さんは関西に住んでいながら「飛鳥なんて行ったこと無い」というし、桐井さんは「ただハイキングしているだけなので
	歴史的な背景が知りたい」というので案内したのだ。とは言っても私自身もそんなに飛鳥に詳しいわけではないが、ただ飛鳥
	に都があった100年間は時代的にも好きなので、よく飛鳥は歩いている。わずかな知識でも多少のお役に立てればとお引き
	受けして、まだ私も行ったことの無い所もおりまぜて、「飛鳥レンタサイクルの旅」をスタート。

	ここでの解説、写真、リンク等々は、私がこれまでに散策した飛鳥の各ページから転載した。以下、青字部分の文章は、それ
	らのHPに以前書いたものである。また発掘状況の図式や地図は、(株)山川出版社、2007年12月15日発行の「日本史リブレ
	ット71 飛鳥の宮と寺(黒崎直著)」から転載させていただいた。記して感謝の意を表したい。


	飛鳥時代という時代分けは、1900年前後に建築史・美術史で初めて用いられたもので、その提唱者は関野貞と岡倉天心であっ
	た。関野は、飛鳥時代を朝鮮の芸術が影響を与えた時代と規定し、推古朝から大化改新ごろまでとした。岡倉は、仏教伝来
	(552年説)から平城遷都(710年)まで、主として飛鳥地方に都があった時代を飛鳥時代としたが、「正確なる時代区分」とし
	ては、仏教伝来から天智天皇即位( 667年)までに限定した。関野は唐の影響を受けた「寧楽時代」(白鳳・天平時代)に対
	して、また岡倉は「天平時代」に対して、それぞれ先行する時代を飛鳥時代と考えたのである。現在、日本史では、岡倉が広
	く用いたような意味で、推古朝ごろから平城遷都までをこの名で呼ぶことがある。しかし意味が確定しないこともあって、む
	しろ7世紀前半とか、天武朝とか、世紀や天皇の名前を使うことが多い。美術・建築・考古の分野では、現在においても、関
	野説のような意味でこの分け方を使っていることが多い。 

	飛鳥に住んでいた渡来人「東漢氏」(あずまのあやし)を掌握していた豪族蘇我氏が有力になると、飛鳥はにわかに政治・経
	済の中心地となっていった。新しく受け入れられた仏教文化は、この地にはじめて開花した。天皇の宮、豪族の館・邸宅、大
	寺院などが建ち並び、日本の古代国家は、飛鳥を中心に形作られて行く。
	飛鳥地方には、古く4,5世紀に応神(おうじん)天皇や允恭(いんぎょう)天皇の宮があったと伝えられる。6世紀前半に
	は顕宗・宣化天皇の宮がつくられたようだ。しかし飛鳥に次々と宮が作られるようになったのは、推古天皇の豊浦ノ宮(とゆ
	らのみや/とようらのみや)からである。
	宮は、初め天皇の住まいが主で、同時に政治の場を兼ねていた。天皇の代が代わるごとに移され、一代の間に2,3回移るこ
	ともあった。国家体制が整備されるに従って、中国の制度に習い天皇の住まいの他に多くの役所が宮の中に建てられるように
	なり、やがて宮の周囲を市街が取り囲み「京」と呼ばれるようになる。
	593年、推古天皇が飛鳥豊浦ノ宮にて即位し、以来約100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中的に営み、飛鳥は政治
	の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。この宮の時代に飛鳥寺が完成する。仏教が盛ん
	になり、各豪族が競って寺院を建立する。
	つまり飛鳥時代とは、先立つ古墳時代の後を受けて、これらの「寺院」と「宮都」が形成されるようになった時代と言える。
	そしてそれは、「寧所にいとまあらず」という戦乱と混乱の古墳時代に終わりを告げて、中央集権を基盤とした「大和朝廷」
	がその権力構造を盤石のものとしてゆく時代であるとも言えよう。

いわゆる飛鳥時代の宮

NO
宮の名前
移った年
住んだ天皇
宮の場所
豊浦(とゆら)宮 592 推古 飛鳥
小墾田(おはりだ)宮 603 推古 飛鳥
飛鳥岡本宮 630 欽明 飛鳥
田中宮 636 欽明 飛鳥
厩坂(うまやさか)宮 640 欽明 飛鳥
百済(くだら)宮 640 欽明 飛鳥
飛鳥板蓋(いたぶき)宮 643 皇極 飛鳥
難波長柄豊崎(ながらとよさき)宮 645 孝徳 難波
飛鳥板蓋宮 655 斉明 飛鳥
10 飛鳥川原宮 655 斉明 飛鳥
11 後(のちの)飛鳥岡本宮 656 斉明 飛鳥
12 朝倉橘広庭宮 661 斉明 福岡県朝倉市(私の故郷)
13 近江大津宮 667 天智 近江
14 嶋宮 672 天武 飛鳥
15 飛鳥岡本宮 672 天武 飛鳥
16 飛鳥浄御原(きよみがはら)宮 672 天武 飛鳥
17 藤原宮 694 持統
文武
元明
飛鳥
18 平城宮 710 元明 奈良











自転車は、橿原神宮前で借りて飛鳥で乗り捨て。サイクル料金1000円に乗り捨て料金が200円プラスされる。




	青い線が本日我々の巡ったコース。歩いたら、一日ではこのコースは踏破できない。競歩並に歩けば可能だが、それでは何も
	見なかったに等しい。歴史を学ぶ醍醐味は、その場所に立って、千年、二千年前の光景を思い浮かべ、壮大なイメージの中に
	自分の身を置くところにある。イメージ出来ない人、想像力の湧かない人は、歴史を学ぶ楽しさはおそらく半減する。これで
	もまだ飛鳥の5分の一も見ていない、と思う。

	日本の古代文化の多くがそうであるように、「寺院」も「宮都」も大陸からもたらされた。7世紀の日本は倭と呼ばれていた
	が、周辺の百済・新羅・高句麗と同様に、中国の大国である「隋・唐」の動向に翻弄された。激動する東アジアの情勢に対応
	するため、国際的な視野に立った新しい国家作りが急務だったのだ。「寺院」も「宮都」もそのために造営・整備され、知識
	を求めて人々が隋・唐へ往来した。






小墾田宮址・豊浦宮址 おわりだのみやあと・とようらのみやあと(推定地)


	小墾田の宮跡とされる場所が、明日香村の豊浦に残っている。県道124号線が豊浦の集落に入るあたりの左手、田圃の中に
	一本の木がそびえている。小墾田の宮跡伝承地の目印とされている木で、その根元は「古宮土壇(ふるのみやどだん)」と呼
	ばれている盛り土で高くなっている。1970年と1973年に行われた発掘調査では、川原石を組んで作った溝や、小池を
	持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土した。当初これらは、小墾田の宮を構成する宮殿遺構の一部と考えられた。 
	しかし、飛鳥川右岸の雷丘東方遺跡で「小治田宮」とか「小治宮」と墨書された土器が見つかった。そのため、最近ではこの
	遺跡が小墾田の宮跡である可能性が強くなってきた。そうであれば、古宮土壇で発掘された遺構は何だったかが問題になる。
	地理的に豊浦の宮に隣接し、出土瓦も豊浦寺のそれに共通することから、最近では蘇我氏の邸宅跡と見なされるようになって
	きている。 

	小墾田宮は、推古天皇が25年間過ごした宮である。書紀の記述からもうかがえるとおり、小墾田宮はそれなりの規模であっ
	た可能性が高い。豊浦宮に継ぐ、推古天皇の二番目の宮として造営された。日本書紀によれば、豊浦宮で即位した推古天皇は、
	603年(推古11)10月4日に、11年を過ごした豊浦の宮から小墾田の宮へ遷った。推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に
	移った後に、豊浦寺を建立したとされている。
	推古天皇は、崇峻天皇暗殺という大事件の直後にあわただしく即位したものとおもわれ、おそらく豊浦にあった蘇我家の邸宅
	の一画を仮宮として即位したものと思われる。それから小墾田宮へ移って、25年を過ごした。



桐井さん(上左)と田中さん。


	田んぼの真中に一本の木が立っている。「古宮遺跡」ともいう。豊浦寺跡とは300mくらいの距離である。かっては「古宮
	土壇」と呼ばれたここの周辺が、小墾田宮の推定地となっていた。7世紀初め頃の石敷き、柱跡などがこの一帯から出土した
	からであるが、後段ウィキペディア(Wikipedia)の解説にもあるように、雷丘近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書
	された土器破片が見つかったことで、小墾田宮はここではないらしいということになった。






	小墾田宮		 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	小墾田宮(おはりだのみや)は古代日本、推古朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。日本書紀によると 603年(推古11年)、
	豊浦宮で即位した推古女帝は、新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。その後女帝崩御までの間に、蘇我氏、
	聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。
	日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に「南門」を構えその北に諸大夫の勤務する「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさ
	らに北の大門を入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿
	および内裏に発展するものの原型と思われる。

	小墾田宮の所在地については奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があることから、以前より有力
	地とされていた。1970年(昭和45)〜 1973年(昭和48)の発掘調査では宮殿跡は見つからなかったが、掘立柱建物群、庭園
	などの遺構が見つかった。だが、1987年(昭和62)には明日香村雷(いかずち)近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書
	された土器破片が見つかったことで、こちらが俄然有力な候補地として注目されるようになっている。




	豊浦宮跡・豊浦寺跡 (とゆらのみやあと・とゆらでらあと)A.D.592-603 明日香村豊浦

	甘橿丘(あまかしのおか)の北西麓、豊浦集落の中にある向原(こうげん)寺の南側台地一帯が日本最古の尼寺、豊浦寺の跡
	といわれている。この寺の前身は推古天皇が即位した豊浦宮(とゆらのみや/とようらのみや)で、聖徳太子を摂政として政
	治を行った。603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。北に接して小墾田宮を
	つくり、豊浦宮は蘇我氏に下賜されて豊浦寺になったと伝えられる。




	近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。1957年以来、現在の向原寺の寺域で
	1970年、1980年、1985年と数度におよぶ発掘調査が行われた。向原寺の庫裏改築に伴う第三次調査(1985年)
	では、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。さらに、その下層から石敷を伴う
	掘建柱建物跡が掘り出された。建物は南北3間(5.5m)以上、東西3間(5.5m)の高い板張りである。
	すでに第一次調査(1970年)では、本堂の北50mの地点で石列が発掘されており、金堂に関係したものと推測されてい
	る。近くに民家が建て込んでいるため、塔の遺跡はまだ見つかっていないが、おそらく塔−金堂−講堂が並ぶ寺院建築が、現
	在の豊浦集落一帯に聳えていたものと思われる。




	平成5年の寺跡の調査で、建物の配置が飛鳥寺と同じであることが判明している。また寺の講堂だったと考えられる場所の下
	からは、6世紀末から7世紀初のものとみられる遺構が発見されており、宮跡を寺にしたという日本書紀の記述が実証された。 
	寺に案内を請えば、発掘された遺構を見せてもらうことが出来るらしいが、我々はこの日それを知らなかったので、かえすが
	えすも残念である。飛鳥時代の遺構をそのままの姿で見ることができたのに。仕方ない、また訪問することにしよう。




	<豊浦寺の跡地に建つ現代の向原寺>

	【所在】奈良県高市郡明日香村豊浦
	【宗派】浄土真宗
	【山号】太子山
	【本尊】阿弥陀如来像
	【開基】蘇我稲目
	【アクセス】近鉄橿原神宮前から岡寺前行き奈良交通バス、豊浦バス停下車すぐ




	向原寺 (むくはらでら・こうげんじ) 推古天皇の豊浦宮を改築した豊浦寺の後身 

	592年(崇峻5)12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦(とゆら)宮で即位し
	た。我が国最初の女帝・推古天皇である。日本書紀には、豊浦宮を新たに建設したとは書いていない。崇峻天皇暗殺という未
	曾有の事件の直後なので、新しく宮を造営する余裕などなく、蘇我本宗家の邸宅の一画を仮宮としてそこで即位したものと考
	えられている。盛大に即位の式が行われているその頃、飛鳥川を挟んだ対岸では飛鳥寺が造営の真っ盛りであった。その即位
	の儀式が行われた豊浦宮跡に建っているのが、現在の向原寺である。

	このあたりは非常にややこしいが、「蘇我稲目(いなめ)の向原の家」=「豊浦宮」=「豊浦寺」=「現在の向原寺」という
	図式になる。豊浦寺は、我が国最古の尼寺で、当時は桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれていた。順番でいけば、蘇我稲目の
	向原の家 → 向原寺 → 物部尾輿の廃仏にあって焼失 → 推古天皇が宮を置く(豊浦宮)→ 宮を小墾田に移す → 
	再び寺となる(豊浦寺) → 現在の向原寺、となる。


	豊浦の宮が造られる以前、この地には蘇我稲目(いなめ)が向原の家を構えていた時期があった。日本書紀は、552年(欽
	明13)の仏教公伝の記事の中に、以下のように書き残している。
	
	百済の聖明王が送って来た金銅の釈迦仏を前にして、欽明天皇はこの外国の神を我が国が受け入れるべきかどうか群臣に諮問
	した。群臣の間で意見が分かれたため、天皇は仏像を蘇我の稲目に授けて、試みに礼拝することを命じた。稲目は喜んで仏像
	をもらい受けると、小墾田(おわりだ)の家に安置して、仏道修行に励んだ。

	日本書紀は、その話の後に「向原の家を清めて寺とした」という一文を書き添えている。小墾田の家とは別に向原の家があっ
	たのか、それとも二つの家は同じ場所を指すのか、判然としない。もともと小墾田は飛鳥の地名で、その範囲は広く、現在の
	明日香村一帯を指す、と一般には解されている。しかし、推古天皇は新しい宮を造って11年後にそこに遷るが、この新しい
	宮の名は小墾田の宮とされている。この場合、小墾田の地名は豊浦と対比されるような狭い場所を示している。 

	いずれにせよ、蘇我の稲目は百済から伝来した金銅製の釈迦仏を向原の家に祀り、この家を寺とした。寺といっても、伽藍を
	備えた現在の寺観にいう大きな建物ではなく、邸宅を改造した程度の草庵であっただろう。だが、その後に疫病が流行し、若
	者を中心に大勢の民衆が死亡した。大連(おおむらじ)の物部尾興(おこし)や神祇を司る中臣の鎌子ら廃仏派は、自分たち
	の意見を聞かずに稲目に外国の神を祀らせたのが疫病の原因であるとし、この神を百済に返すことを奏上した。天皇の許可を
	得て、彼らは役人に仏像を「難波の堀江」に捨てさせた。さらに、寺に火をつけ余すところなく焼き払った。すると、雲も風
	もないのに、にわかに欽明天皇の宮の大殿に火災が発生したという。当時、天皇の宮は「山辺の道」の磯城島(しきしま)に
	あり、磯城島の金刺(かねさし)の宮と呼ばれていた。現在の桜井市の水道局あたりにあったとされる。



	
	『太字山向原寺縁起』(太子山向原寺作成の案内より転記)

	 日本書紀によりますと、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の十三年(552)で、その仏像は蘇我稲
	目が戴き己がオハリタの向原の家を寺としてまつったということです。このムクハラの寺こそ我が向原寺の起りで、当寺は実
	にわが国仏法の根元、寺院最初の霊場であります。当寺はまた、古来元善光寺と称していますが、これについては次のように
	伝えております。
	さきに百済の聖明王は仏像経論を献ずると共に仏法のかぎりなき功徳を説き、その弘通を勧めましたが、物部屋與・中臣鎌子
	等は強く、これに反対し、向原の寺を焼き、仏像はナニワの堀江に捨てました。その後推古天皇の八年、信濃国主に従って上
	都した本田善光(同国伊那郡誉田の人)が、或日のこと都見物をしようとて、難波池の辺りを通りますと「善光善光」と呼ぶ
	声が聞こえるので善光がフトその方を向くと、池中から光が射して来ます。よく見るとそこにはピカピカと金色にかがやく気
	高い霊像があります。善光は驚いて直ぐさまこれを拾いあげ、傍なる瀧ですすぎ清めますと、それは世にも珍しい霊妙不可思
	識の三尊像であります。これこそかねてから話に聞く阿弥陀如来の尊像にちがいない。吾等衆生救済のため、五劫にわたる思
	惟を重ね苦行を積んで下さったみ仏であると、有難涙にくれながら、この仏像を背に負い信濃に帰って吾が家に安置し一心に
	礼拝供養いたしました。これが信州善光寺の起源であると申します。
	 この善光については、その昔釈尊在世の頃、インドに月蓋長者と呼ばれる人がいて、その願いにより、釈迦如来が阿弥陀如
	と二尊の光明によって一光三尊の仏像をお作りになりました。この仏像がインドから中国にわたり百済を経て日本へ伝えられ
	ると、もったいなくも難波堀江にすてられるという悲運におあいになったと言うわけであります。善光の救いあげたのがこの
	仏像で、善光はかのインドの月蓋長者の生れかわりであるといいます。
	 さて当寺の最初の建物は、尾與等に焼かれましたが、推古天皇はこの地に宮をうつされ、聖徳太子を摂政として政治をおま
	かせになりました。十七条憲法ができ、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれるすばらしい文化のさかえを見た
	のは此の時であります。
	 推古天皇の後、都は飛鳥の岡本にうつされ、この宮の跡にはまた寺が建てられ豊浦寺と申しました。金堂、講堂、塔婆など
	完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に並べたのであります。

	  あすか川ゆきたむ丘の秋萩は今日ふる雨にちりかすぎなむ(万葉集)  (これは豊浦寺でよまれた歌であります。)

	 都が平城、平安と遠くへうつるにつれ、飛鳥の諸大寺と共に頽勢の一途を迫り、今は全く昔の面影を失ってしまいました。
	しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和三十
	四年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、そのかみの壮大な伽藍配置など明らかになり、ありし日の盛観が偲ばれ
	るに至ったのであります。




	向原寺の南側台地。小さな池があり、地元では、なんば池と云われている。私は、物部尾興らが「仏像を難波の堀江に捨てた」
	というのは、てっきり大阪難波の堀江だろうと思っていたが、この後訪れた飛鳥寺の住職によれば、ここがその「難波の堀江」
	だという。「なんでわざわざ大阪まで行きますにゃ。アレは飛鳥のお話ですさかい、当然ここの難波の堀江ですわ。」




甘樫丘(あまかしのおか)






 


	甘樫丘	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	甘樫丘(あまかしのおか)は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵のこと。東西に数百メートル、南北に1kmほど広がっている。
	丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の北側に展望台があり、大和三山、藤原京などの風景を望むことができる。
	大化の改新以前に、蘇我蝦夷・入鹿親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。2007年2月1日、東麓遺跡において
	7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されている。
	古くから誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座した。允恭天皇のとき、盟神探湯(くかたち)が行われた。山腹には明日香村の保全に尽
	力した故犬養孝氏揮毫の万葉歌碑(志貴皇子、巻1-51)がある。

	万葉集には、甘樫丘(あまかしのおか)と名前が出てくるわけではないが、下記の歌の「神岳」が甘樫丘(あまかしのおか)ではない
	かと考えられる。一説には、すぐ北にある雷丘(いかづちのおか)ではないかという説もある。
 
	0159: やすみしし我が大君の夕されば.......(長歌)

	0324: みもろの神なび山に五百枝さし.......(長歌) 

	0325: 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに 
 



	皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、蘚我氏の中心人物 、入鹿(いるか)は中大兄皇子(な
	かのおおえのおうじ)らによって暗殺された。天皇家による権力奪回のクーデターは成功し、入鹿の父の蝦夷は甘樫丘の邸宅に自
	ら火をはなち、ここに権勢を極めた蘚我本家は滅びた。
	飛鳥川をはさんで飛鳥板蓋宮の対岸、甘樫丘の東麓に位置するこの遺跡からは、焼けた土器のほか建築部材や炭などが出土した。
	クーデターの際、中大兄皇子が陣をはった飛鳥寺とも対峙する位置にあり、土器の年代観も一致することから、谷の上方に蘇我邸
	の存在がほぼ推定されたと言ってよい。



写真奥の集落の中に飛鳥寺がある。



展望台ではバスガイドのおねえちゃん達が講習を受けていた。「ほらほら、あそこが飛鳥寺です。」



若いバスガイドの群れに囲まれてタジタジの桐井さんと田中さん。(下も)。




	奈良・明日香 甘樫丘東麓遺跡	蘇我氏滅亡の炎 蘇る土や炭 政変の新物証「待ちに待った発見」

	 蘇我氏を滅亡させた紅蓮(ぐれん)の炎が1360年ぶりに蘇(よみがえ)った――。奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしの
	おか)東麓(とうろく)遺跡で13日、発表された蘇我入鹿邸「谷(はざま)の宮門(みかど)」とみられる建物跡。有力豪族
	の合議制から、天皇を頂点とする中央集権政治へと日本を変えた2日間の政変の現場だ。赤く焼けた壁土や炭は645年の大化
	改新=乙巳(いっし)の変=で入鹿邸が炎上したことを初めて裏付け、日本書紀に描かれたクーデターの現場を生々しく再現す
	る“物証”ともいえる。大化改新を記述する日本書紀は、簡明だが、緊迫感にあふれている。

	中大兄、即(すなわ)ち法興寺(飛鳥寺)に入りて、城として備ふ

	
	甘樫丘東麓遺跡から出土した赤く焼けた壁土

	645年6月12日。入鹿を飛鳥板蓋(いたぶき)宮で暗殺した直後、中大兄皇子は飛鳥寺に戦陣を張る。一方、息子の入鹿を
	失った蝦夷(えみし)のもとに配下の渡来系豪族が集結し、飛鳥川を挟んで向かい合う。一触即発の内乱の危機。しかし、蘇我
	氏の援軍は、皇子の使者に諭され、蝦夷を見捨てて逃げる。孤立した蝦夷は翌13日、邸宅に火をかけた。
	日本書紀は蘇我氏が歴史の舞台から去った瞬間を淡々と記す。

	蘇我臣蝦夷等、誅(ころ)されむとして、悉(ふっく)に天皇記・国記・珍宝を焼く

	
	炎上する甘樫丘の邸宅を描いた「多武峯(とうのみね)縁起絵巻」(室町時代後期)。
	炎の中で、蘇我蝦夷は絶望したように両手を上げている。「蘇我氏が滅んで人々が喜び踊った」との添え書きも(奈良県桜井市
	の談山神社蔵) 

	今回、見つかった焼土や炭はこの時のまま、地中に埋もれていた可能性が強い。上田正昭・京都大名誉教授(古代史)は「蝦夷
	が中大兄皇子の軍勢に包囲され、炎上する館の中で自刃する悲劇的な様子が目に浮かぶ。クーデターによって新しい政治が始ま
	った瞬間を示すのでは」と注目する。
	 大化改新の翌年、新政府は4か条からなる「改新の詔(みことのり)」を発し、豪族が土地、人民を支配する体制をやめて国
	家の所有とする「公地公民制」や戸籍整備、統一的な税制の施行など、中央集権的な律令国家づくりを推し進めた。
	 中大兄皇子とクーデターを成功させた藤原鎌足の末えいにあたる猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は「待ちに待った発見だ」
	と感慨深げ。「日本人ならだれもが知っている第一級事件の現場がようやく押さえられた。蝦夷が焼いた国記は聖徳太子が書か
	せたもの。もし、遺跡に焼け残りがあったら、どう書いてあるのかぜひ知りたい」と語る。
	 中大兄皇子が陣を張った飛鳥寺は、入鹿の祖父にあたる馬子が建立。山本宝純住職(67)は言う。「蘇我氏は国賊のような
	扱いを受けてきたが、仏教を取り入れ、日本文化の礎を築いた功績は大きい。日本書紀は、蘇我氏を逆臣にしないと成り立たな
	いもので、彼らの功績を意図的に消しているはずだ。今回の成果が、再評価のきっかけになれば」

	<改革手法まるで小泉流>
	 蝦夷が大臣だった時代、天皇は有力豪族の話し合いで決められた。この手法を派閥均衡型の旧自民党政治とするなら、入鹿を
	暗殺することで幕を開けた大化改新は刺客を立てて抵抗勢力を徹底的に排除した小泉政治にも共通する。

	政治評論家の三宅久之さんは「談合や情実、しがらみが重なり合う社会構造が、古い体質の象徴と受け止められた時、閉塞(へ
	いそく)感が広がり歴史の節目が訪れる。織田信長も比叡山延暦寺の焼き打ちで堂塔や信徒をせん滅し、悪魔の所業とわれたが、
	一方で中世の権威の象徴だった宗教をぶっ壊した。大化改新のような暗殺は強権的ではあるが、小泉政治と同様、明確な意思と
	妥協を排する姿勢が支持されているのではないか」と話す。

	大化改新の背景について識者に聞いた。

	<なぜ滅んだ危険な状況恐れ>
	 河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)「甘樫丘の邸宅は天皇家にとって、のど元に突きつけられた短刀。そんな危険な状況を
	いつまでも放置するはずがない。蘇我氏を滅ぼした後は、馬子邸を草壁皇子の離宮に転用したように、邸宅を接収して体制固め
	を図ったはず」
	<天皇家とは協力し合う仲>
	 日野昭・龍谷大名誉教授(古代史)「蘇我氏は仏教文化を花開かせ、朝廷の繁栄にも寄与した。飛鳥板蓋宮の一帯は、もとも
	と蘇我氏の勢力下にあった土地を提供したもの。蘇我氏はマイナス面が強調されてきたが、実態は天皇家と協力し合ってきたの
	だろう」
	<丘の城塞化聖地に不穏な風>
	 今泉隆雄・東北大教授(古代史)「甘樫丘は古来、神の住む聖地。そこに邸宅を構えて城塞(じょうさい)化すれば、不穏な
	空気が漂ったことを容易に想像でき、朝廷やほかの豪族は相当のショックを受けただろう。大化改新の中身については異論が多
	いが、こうした事実が確かめられた意義は大きい」 
	(2005年11月14日  読売新聞)


クリックすると大拡大画面が見れます。


	甘樫丘からの展望。甘樫丘はさほど高くはないが、奈良盆地の平坦な地に、ぽっかり盛り上がった丘で、非常に展望がよい。
	万葉の里の展望台として親しまれ、眼下には飛鳥の里が一望できる。また大和三山や青垣の山々も遠望できる。
	ぽっかりと浮かんだ3つの山、天香具山(あまのかぐやま)152m、耳成山(みみなしやま)139m、畝傍山(うねびやま)
	199mがここから一望できる。また、直ぐ近くには御破裂山(ごはれつざん)618mが見える。紅葉の季節には大勢の人で
	にぎわう談山神社の裏山である。





甘樫丘を囲む大和三山




水落遺跡(みずおちいせき)






	ここでもまたバスガイドのお姉ちゃん達と一緒になった。バスガイドさんも歴史を勉強しなくてはいかんから大変だね。
	この遺跡は隣接する「石神遺跡」(いしがみいせき)と一体となって、どうやら水に関する遺跡が存在していたらしい。水落
	遺跡自体は「漏刻」(ろうこく:時計)であることはほぼ確定しているようだが、水時計を実現する水流が石神遺跡と一帯と
	なって、この辺り一帯には壮大な水施設が造られていたようである。



上左は、石神遺跡から発見された「須彌山石」(しゅみせんいし)。下から水を吸い上げて口から排出する一種の噴水である。











雷丘(いかづちのおか)






	雷丘(いかづちのおか)	

	雷丘は、奈良県高市郡明日香村の「甘樫丘」の直ぐ北に「飛鳥川」を挟んで、全体を竹藪で覆われた小さな丘である。丘の中央
	を東西に道路が通じ、西へ行って飛鳥川を渡った所、向原寺の北に「小墾田宮跡」があり、また、「雷丘」の東側には「雷丘東
	方遺跡」があって、奈良時代の建物跡が発掘され、井戸跡から「小治田宮」と墨書された土器が出土している。なお、「雷丘」
	は、第21代雄略天皇の部下、少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、461年(雄略天皇6年)7月天皇と皇后の同衾中に雷
	が鳴り、そこへ栖軽が参入し、慌てふためいた天皇が、テレ隠しに雷を捕らえて来る様に命じて、雷を捕まえた丘である。
	古代日本の主に仏教に関する説話を集めた『日本霊異記』は、上中下の三巻、百十六話から構成されていて、その上巻第一話に
	「雷を捕らえた話」と題した説話が掲載されている。


	雄略天皇に親しく仕えた小子部栖軽が、天皇が皇后と大極殿で寝ている時に、気づかずに入ってしまった。天皇は恥ずかしがっ
	て止めてしまった。ちょうどその時に雷鳴がしたので、天皇は栖軽に「雷」をお招きしてくるように命じた。栖軽は馬にのり、
	阿倍の山田村(現在の奈良県櫻井市山田)を通り、軽(かる)の諸越(もろこし)の分かれ道で、天皇が呼んでいる旨のことを
	雷に対して呼びかけた。そして、帰路の途中で、豊浦寺と飯岡との中間に雷が落ちていた。これを見て、神官を呼んで雷を輿に
	入れ宮殿に運んだ。天皇に差しのべたとき、雷が光りを放ち明るく輝いたのを見て、天皇は恐れ、雷が落ちていた所へ返させた。
	その場所を、今の雷の丘と呼んでいる。 
	そのあとで栖軽が死んだ時、天皇は忠信ぶりをしのび、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した
	碑文の柱を立てた。雷はこれを恨み怒って、雷を落とした。ところが柱の裂け目に挟まれて捕らえられた。これを聞き、天皇は
	雷を許してやり放免した。天皇は新たに碑文の柱を立てさせ、その碑文には、「生きても、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」
	と書かせた。これが、雷の丘と名付けたいわれの起こりである。 「参考文献 日本霊異記:平凡社」


	柿本人麻呂の、万葉集で“雷丘”を詠んだ歌は有名であるが、万葉集には、雷丘を詠んだ歌はこの一首だけである。

	大(おほ)君(きみ)は 神にしませば 天(あま)雲(くも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に 廬(いほ)らせるかも  巻3−235

 	この小さな丘が雷丘とは、歌のイメージとはずいぶんと違う。「天雲の 雷の上に」という表現からはもっと壮大な山のような
	感じもする。


雷の丘の発掘調査風景。上右は石組み遺構。


	2005・11・22日の新聞記事に、

	雷丘(高さ約20メートル)の西斜面から雷神降臨伝承と同時期の5世紀後半の円筒埴輪(はにわ)片が多数出土したと奈良文
	化財研究所が2005年11月21日発表した。奈良文化研究所は、明日香村の雷丘に、五世紀後半の古墳があったとみられると発表し
	た。日本霊異記に記された説話と何らかの関連があるかもしれない、と発表した。しかし、柿本人麿がここで詠っている庵(い
	ほり)の跡や建物の遺構などは全く見つからなかった。5世紀後半の円筒埴輪片数百個のほか、7世紀の小型石室も出土した。
	同研究所は雷丘を初めて発掘し、埴輪の破片数百点を発見、古墳の墳丘や石室などは、十五世紀前半ごろの城を造る工事などで
	削られて残っていない。一辺十b程度の方墳ではないか、とみている。」というのがある。

	この古墳、もしかすると被葬者は少師部の栖軽かもしれない。古墳の規模が天皇の腹心の墓としては小さい、と研究所は否定的
	な見方をしているらしいが、栖軽の墓の方が夢があってよい。15世紀ごろの山城の堀(深さ2メートル)の跡も見つかってお
	り、奈文研によれば、「庵跡は、山城造成時に削られたのかもしれないという。いずれにしても、古代には藤原京一帯などが一
	望できる場所で、中世には敵の攻撃を見極める物見台の役割を果たしたのではないか」とのこと。



「小治田宮」と墨書された土器が出土した雷丘東方遺跡は、上の写真で正面住居の裏である。




	雷丘の東南部分が四ツ角交差点になっており、その交差点から南下する道路脇に雷丘東方遺跡がある。奈良国立文化財研究所は
	この地で数次の発掘調査を実施してきたが、1987年、この遺跡から「小治田宮」とか「小治宮」とかいう文字が書かれた墨
	書土器を発見した。遺跡は「雷丘東方遺跡」と名付けられ、さらに、この遺跡の井戸枠を、年輪年代測定法で調べたところ、
	758年ごろに伐採された「ヒノキ材」であることが分かった。




	推古天皇の小墾田宮は七世紀初めの造営であるが、八世紀頃まで存続していたことが分かっている。「続日本紀」によると、
	760年(天平宝字4)、淳仁天皇が「小治田宮」に行幸しており、井戸や周辺の建物跡は、この時に整備された仮宮であると
	推測されている。こうした発掘調査の結果を踏まえて、最近では雷丘東方遺跡が小墾田の宮の跡地である可能性が高いとする説
	が有力になっている。 




	『日本書紀』には、608年(推古16)に来朝した隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を小墾田の宮で謁見したと書かれて
	いる。610年(推古18)には、来朝した新羅使節との謁見についての記事もある。してみると、小墾田の宮は役所としての
	機能の他に、迎賓館的な要素も備えたちゃんとした宮殿だった可能性もある。




大原の里(おはらのさと)






	藤原鎌足		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	藤原鎌足(ふじわらのかまたり、推古天皇22年(614年) - 天智天皇8年10月16日(669年11月14日))は、飛鳥時代の政治家
	で、藤原氏の始祖。大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍した。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記
	されている。中臣氏の一族で中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)・中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)ともいう。字は仲郎。
	鎌足は藤原氏繁栄の礎を築いた。

	初期のころには中臣鎌子と名乗っていた。その後中臣鎌足となる。死の直前、臨終に際して、大織冠とともに藤原姓を賜った。
	つまり、彼自身が生きていたころを指す場合は中臣鎌足を用い、藤原氏の祖として彼を指す場合には藤原鎌足を用いる。
	なお、欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏をおこなった中臣鎌子とは全く別人である。

	父、中臣御食子(なかとみのみけこ)、母、大伴夫人(大伴囓子の娘)の長子。
	正妻:鏡王女(?-683)(最初、中大兄皇子妃であった) 
	妻:車持与志古娘 
	長男:定恵(俗名、真人)(644-665)(僧侶) 
	次男:不比等(659-720)(『尊卑分脈』による。なお『興福寺縁起』では不比等の母は鏡王女とされている) 
	娘:氷上娘(ひかみのいらつめ)(?-682)(天武天皇夫人、但馬皇女の母) 
	娘:五百重娘(いおえのいらつめ)(天武天皇夫人、後に不比等の妻 新田部親王・藤原麻呂の母) 
	娘:耳面刀自(みみもとじ、みみものとじ)(弘文天皇夫人、壹志姫王の母) 
	娘:斗売娘(とめのいらつめ、とねのいらつめ)(中臣意美麻呂室、中臣東人の母) 




	出生地は、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(現在の橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説
	(『大鏡』)もある。ここは大原説による、出生地である。
	早くから、中国の史書に関心を持ち、『六韜(りくとう)』を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、儒教
	を学び、そこでは蘇我入鹿とともに秀才とされた。『日本書紀』によると、644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭
	官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。
	密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近
	した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。
	645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿
	を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変:いっしのへん)。この功績から、内臣(うちつおみ)に任じら
	れ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。
	その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我(倉山田)石
	川麻呂と対立した。647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・
	失脚したあと勢力を伸ばし、645年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。669年、死の直前に、天智
	天皇が見舞うと、「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち、私は軍略で貢献できなかった、と嘆いているのである。
	天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。鎌足の業績ははっきりしていない。『藤氏家伝』に
	は近江令の編纂を命じられたとされているが、これを疑問視する研究者も多い。



ここが藤原(中臣)鎌足の誕生地という。


	死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祭られる。「多武峯縁起絵巻」には、鎌足が生まれるときに、どこからか鎌をくわえ
	た白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」(のちの鎌足)と名づけたと描かれている。このエピ
	ソードにちなみ、談山神社では鎌をくわえたかわいい白狐のお守りが売られている。
	墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」
	という記述があり、平安時代中ごろ成立と見られる「多武峯略記」などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬ら
	れたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。なお、昭和9年(1934年)に大阪府茨木市大字安威の阿武山古
	墳の発掘中に発見された埋葬人骨は藤原鎌足本人であるとする説も存在する。一方、『藤氏家伝』の記述に基づき、鎌足の墓
	は京都市山科区のどこかに存在するという説もある。




	大伴氏の本拠地は大和盆地東南部の橿原市・桜井市・明日香村あたりであったらしく、これは宮城や蘇我氏の本拠と隣接して
	いる。また万葉歌に「大伴の御津の浜」とあったり、紀氏と本拠を接していたという記事などから、より古い時代には大阪の
	難波地や和泉・紀伊方面まで勢力を張っていたのではないか思われる。
	大伴氏は古くから天皇家に仕え、5世紀半ばまで大王家と共に各地の豪族との戦いを勝ち抜き、雄略天皇の頃中央での覇権を
	確立した。大伴室屋は大連を賜わり、その孫金村にかけて政権を掌握した。
	金村は平群真鳥の乱を平定し、さらに継体天皇を担いで王位継承戦争を戦い勝利するが、欽明天皇元年(540)、三韓政策
	の失敗を物部尾輿らに責められ、住吉の自宅に病と称して引き篭る。この時、大伴氏は物部氏・蘇我氏との権力争いに敗れ、
	政治的指導権を失う。金村のこの事実上の失脚により、大伴氏の黄金時代は幕を閉じる。
	以後、主として蘇我氏の勢力下に入り、命脈を保つ。大化前代に大伴氏はやや衰えたが、改新後、孝徳天皇のもとで長徳が右
	大臣に就任した。以後、斉明・天智朝で再び沈潜を余儀なくされるも、壬申の乱で戦功をあげて復活、天武天皇の御代に宿禰
	を賜わった。




	智仙娘 (ちせんのいらつめ) 
	生没年未詳。大徳冠大伴久比子(咋子)卿の女。中臣御食子に娶られ、推古二十二年(614年)、鎌子(のちの藤原鎌足)を産む。
	「藤氏家伝」には大伴夫人とある。










飛鳥座神社


	飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)

	甘樫の丘の東方、飛鳥の集落の突き当たり、こんもりとした鳥形山と呼ばれる丘に鎮座している。祭神は事代主命(ことしろ
	ぬしのみこと)・高皇産霊命(たかみむすびのみこと)・飛鳥三日比売命(あすかみかひめのみこと)・大物主命(おおもの
	ぬしのみこと)の四座。









飛鳥寺(あすかでら)



























二人は本堂へ入らず、木陰で涼んでいた。私は久しく大仏さんの顔を見ていないので300円払った。









伝蘇我入鹿の墓(上下)。





この大仏さんは顔がデカい。こんなにデカかったっけ、と思いながら見ていると、どこかのオッサンが「写しましょう」と言ってくれた。
















	飛鳥寺のモデル、韓国の王興寺か 塔の構造、出土品似る	2008年04月16日03時01分アサヒ・コム

	日本最古の寺院とされる飛鳥寺(奈良県明日香村)のモデルが韓国の王興寺ではないかとの見方が強まってきた。
	  
				金・銀・青銅の容器が入れ子状で見つかった=国立扶余文化財研究所提供

	王興寺は6〜7世紀に百済の都だった扶余(プヨ)にあった寺で、朝鮮の歴史書では600年以降の創建とされていた。ところが、
	国立扶余文化財研究所の調査で昨年10月、金・銀・青銅の舎利容器が出土、そこに刻まれた文字から百済王の発願で577年2月
	に創建されたことが判明した。 
	日本書紀によると、飛鳥寺は、577年11月に百済王から技術者が日本に送られ、588年に仏舎利が届いて造営を開始、596
	年に仏塔が完成したとされる。今回の出土で二つの寺を結ぶ深い関連が浮かび上がってきた。

	今月初めに遺跡を確認した大橋一章・早稲田大教授(仏教美術史)は、両方の寺に同じ系統の技術者がかかわったのは間違いないと
	みる。「先行する王興寺を追いかけるように飛鳥寺の計画が進められたのだろう。百済は仏像やお経を日本に贈ったが仏教は広まら
	ず、寺を造らなくてはとの思いだったのではないか」 

	現地を訪ねた研究者の間では塔の構造や出土品、瓦の文様などもよく似ていると見る声が強い。飛鳥寺の別名が法興寺、元興寺とい
	うのも王興寺との類似性が指摘される。 
	仏教は6世紀半ばまでに日本に伝わったとされる。本格的に受容されるのは飛鳥寺の段階からだが、建物は鎌倉時代に焼失、仏舎利
	の行方もわからない。「飛鳥寺の舎利容器も王興寺の出土品と同じようなものだったはずだ。なぞだった飛鳥仏教の具体的な姿が見
	えてきた」と大橋教授。調査は00年に始まり、今後10年は続く見通し。(渡辺延志) 




	飛鳥寺の創建・造営についてはおもしろい見解がある。飛鳥寺の造営に関して百済から技術者達が渡来したことは広く知られている
	が、実はこれらの技術者・工人の多くは百済ではなく、はるかペルシアからやってきたというものだ。書記に寺工として名前が挙が
	っている「太良未太」(タラミタ)や「文買古子」(モンケコシ)は、中世ペルシア語の音によれば、タラは宮や倉庫などの大建造
	物を指し、ミタは優秀・有能と言った意味を持つらしい。またモンケコシも「鑿」(モンケ)と定規(コシ)の組み合わせで、タラ
	ミタとともに、巧みな大工を指す言葉だという(伊藤義教)。
	同じように瓦博士の「麻奈文奴」(マナモンヌ)や画家の「白加」(ハクカ)なども、それぞれの職能や道具を表しているという。
	つまり、飛鳥寺の造営にあたっては、朝鮮半島、中国大陸のみならず、はるかな西アジアのペルシアからも技術者達が渡来してきて
	いたということになるのだ。飛鳥の文化は最初から、こうした国際的な文化を取り入れた文化として出発していたのだ(門脇禎二)。
	まさしく、シルクロードの東の果てではないか。





酒船石遺跡・亀形石造物 (さかふねいしいせき・かめがたせきぞうぶつ)












詳しくは以下の詳細を検討して頂きたいが、斉明天皇の土木工事はまさに驚異と興味に充ち満ちている。













飛鳥浄御原宮遺跡(あすかきよみがはらのみやいせき)




ここが伝承にあるようにほんとの飛鳥浄御原宮跡だとすれば、蘇我入鹿はここで首をはねられた事になる。





浄御原宮復元CGモデル



浄御原宮正殿CG


	飛鳥京		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) は現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される古代都市の、主に飛鳥時代の
	ものを指し示す名称。飛鳥時代の多くの期間は、この地域に天皇 (大王) の宮が置かれており、今日的にいえば日本の首都であっ
	た。そのことを示して飛鳥「京」という名称が用いられる。後の時代の藤原京 (や平城京等) のように全体的に計画されて作られ
	たものだとは考えられておらず、また、発掘調査など考古学的な成果においても全体像を明らかにするにいたっていないため、地
	理的な範囲など「飛鳥京」が指し示すものの実態は必ずしも明確ではない。そのためか、歴史学や考古学的な文脈においても、飛
	鳥時代あたりの飛鳥を指すのに「飛鳥京」という名称が必ずしも使われているわけではない。このような点については藤原京以降
	の「〜京」と呼ばれるものとは対照的といえる。ただし、飛鳥の街に対して「京」の字を使った表記は近年になって作り出された
	わけではなく、古くは日本書紀においても「倭京」や「古京」と表記される例がある。


	飛鳥京跡		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	飛鳥京跡(あすかきょうあと)は奈良県高市郡明日香村岡にある遺跡。7世紀の宮殿の遺構だとされ、日本書紀などに記述される
	飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地であると考えられている。発掘調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって
	存在することがわかっており、おおまかには I期、II期、III 期遺構と3つに分類される。各期の時代順序と、日本書紀などの文
	献史料の記述を照らし合わせて、それぞれ I期が飛鳥岡本宮、II期が飛鳥板蓋宮、III期 が後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の遺構で
	あると考えられており、III期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。
	もともとこの区域には宮らしき遺跡があることは言われており、伝承により板蓋宮の跡だとされてきた。初期の発掘調査で見つか
	った遺構についても国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)として登録されており、この名称で参照
	されることも多い。
	遺構の全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。「飛鳥京跡」といえば上記の宮殿遺構を
	指すことが一般的ではあるが、宮殿遺構の600メートル北の遺跡についても「飛鳥京跡」と指し示されたり、また、宮殿遺構の
	北西の庭園跡(飛鳥京跡苑池遺構)についても「飛鳥京跡で見つかった苑池遺構」と紹介されることもあり、「飛鳥京跡」が指し
	示す対象範囲は人と場合により必ずしも一定ではないようである。






橘寺(たちばなでら)





	橘寺は、聖徳太子の産まれた所とされている。当時ここには「橘の宮」という欽明天皇の別宮があり、太子は、欽明天皇の第四子、
	橘豊日命(たちばなのとよひのみこと:後31代用明天皇)と、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみめみこ)との間に産まれ、
	572年にこの地で生をうけた。「和」を以て貴しとなす、とか「十七条の憲法」とか、その活躍ぶりにより、聖徳太子を巡る話
	題は豊富にある。本当はそんな立派な人ではなく権謀術策の人であったとか、実在を疑う説まである。




石舞台古墳(いしぶたいこふん)



	古墳の編年研究によれば、日本で古墳が築造されたのは4世紀頃から7世紀頃までの300〜400年に及ぶ期間のようである。これだ
	けの期間があれば、古墳自体もその製造目的や築造方法、埋葬品など、初期と終末期とではずいぶんと違ったものになっていった
	に違いない。












	事実、木棺や石棺を直接地中に埋葬し盛り土するような方法から、縦穴式石棺墓、横穴式石室、横口式石槨という墓自体の形式の
	変移や、埋葬品の内容などが初期と終末期では異なっている。一般に古墳時代と呼ばれる時代を、どう区分するかについては学者
	間で統一されていない。前期と後期、に分ける人もいれば、前期・中期・後期とする人、さらには発生期・前期・中期・後期・終
	末期というように分ける人など千差万別である。他にも7時期、8時期に分ける説もあり、こうなると単なるアマチュアである我
	々古代史ファンには、古墳の編年研究などあまり関わりたくない分野のようにも思えてくる。








	ともあれ、この石舞台古墳は、その使用されている巨石の大きさ、石室の大きさにおいて日本屈指の古墳である事は間違いない。
	大体6世紀頃の築造ではないかという意見が多く、一般には「蘇我馬子の墓」として流布されているようである。しかし既に副葬
	品もなく、表土も洗い流されて残っておらず、実の所誰の墓だったのかは永遠の謎である。



	以前、桐井さんが一人でここに来たとき若いカップルがいて、その女性の方が「ここって、誰か住んでたのかしら。」というのを
	聴いて、開いた口がふさがらなかったそうだ。「アホか!古墳て書いてあるやろ、古墳知らんのか、古墳。墓やで墓。と言うてや
	りたかったわ。」と言っていたが、死者が住んでいたと言えば言えなくもない。あるいは馬子の屍(しかばね)が住んでいた。













川原寺(かわはらでら)址










	川原寺(弘福寺)は飛鳥時代に飛鳥寺、大官大寺、薬師寺とともに飛鳥四大寺に数えられた官寺で、7世紀頃の創建と考えられ
	ている。昭和32、33年に発掘調査が行われた結果、2つの仏殿と塔を含む大きな寺院であることが明らかになった。中金堂の南
	に西金堂と塔が対面する独特の配置は、川原寺式伽藍配置と呼ばれる。また川原寺には瑪瑙の礎石と呼ばれる白大理石製の非常
	に珍しい礎石がある。


川原寺復元CGモデル





飛鳥の石造物 亀石・鬼の雪隠・鬼の俎 (かめいし・おにのせっちん・おにのまないた)













全く大きな石造物である。おそらくは古墳の石棺かその付属品、または蓋だろうが、それにしても大きなものを造ったもんだ。



この近くの山中には「益田の岩船」と呼ばれる石造物があるが、あれは大きい。何のためにあんなものを造ったのか理解に苦しむ。






	飛鳥時代をいつからいつまでと決める事は非常に難しい問題である。仮に「飛鳥地方に都があった時代」と規定しても、その都の跡は
	まだはっきりと確定していない。板蓋(いたぶき)の宮にしても浄御原宮(きよみがはらぐう)跡にしても現状では全て「伝」である。
	つまり伝承なのだ。そうだろうと想定しているだけなのである。藤原宮(ふじわらぐう)はようやく全貌が明らかになって、想像以上
	に大きな都だった事が明らかになったが、ここも言ってしまえば飛鳥地方である。ともあれ、およそ6世紀後半から7世紀の終わり頃
	までの約100年間を飛鳥時代と呼んでいるようである。(学者によっては異論もある。)

	秦(はた)氏と並ぶ勢力で歴史の古い渡来一族は東漢(やまとのあや)氏である。百済や高句麗から渡来したと考えられ、本拠地をこ
	の飛鳥の地(現奈良県高市郡明日香村)に定めている。「続日本紀」によれば、8世紀の高市郡の人口の実に8〜9割が漢氏一族だと
	記されている。
	ちなみに帰化人の最大勢力であった秦氏は、4世紀末〜5世紀の頃、新羅や加羅から渡来したとされ、政治権力がまだ飛鳥にあったこ
	ろ早くも京都盆地の開拓に乗り出し、京都から近江一帯に勢力圏を広げた。京都映画村で有名な「太秦」(うずまさ)などは典型的な
	秦氏の居所である。「日本書紀」によれば、欽明天皇の時代全国の秦氏が召し集められたところ、「秦人(はたびと)の戸の数、総
	(す)べて七千五十三戸」だった。
	さらに言えば、奈良盆地から大和川沿いに西へ下ると河内平野にいたるが、ここも又古くからの渡来人の土地である。中心勢力は文氏
	(ふみうじ)で、朝鮮半島からの渡来であることは確かだが出自は定かでない。一族は、南河内の古市郡あたりを拠点にしていた。
	又、白村江(はくすきえ)の戦いで倭が唐・新羅の連合軍に大敗した後、百済からの大量の亡命者達が近江の神前(かんざき)郡や蒲
	生(がもう)郡に集団で入植した。「日本書紀」には人数まで記録されている。ここらが、縄文、弥生から千年以上に渡って行われて
	きた「渡来」のピークだろうと思われる。

	早い時期、北九州や山陰に渡ってきた渡来者たちは、都を近畿に定めてからは同胞や末裔をどんどん近畿に呼び寄せた。そして、たち
	まちにしてこの国の一大勢力となり、やがて他の渡来族或いは縄文人と融和した他の弥生人を征服し大和朝廷を樹立した。そして、飛
	鳥宮、藤原宮、難波宮、平城京、長岡京、平安京と遷都しながら今日に至っている。






<おまけ> 飛鳥の光景・2編

春の飛鳥 と 夕暮れの飛鳥












大阪市・天王寺界隈にて打ち上げ



店が開くまでまだ時間があったので、四天王寺を散策する。













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