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第128回例会

枚方の古墳を訪ね、淀川の歴史を学ぶ 2007年12月2日(日)大阪府枚方市



	第128回 歴史倶楽部例会 枚方市の歴史を尋ねて−前編−
	古墳・百済寺を訪ねて枚方宿へ


	日時 : 12月2日(日)AM9:30 京阪「牧野駅」集合
	集合 : 京阪電車「牧野駅」改札前
	アクセス: 
		●大阪方面からお越しの方
		  淀屋橋 09:00 − (3駅 京阪本線特急・出町柳行 340円) − 09:21 枚方市 09:25
		  − (1駅 京阪本線準急・樟葉行) −  牧野 09:29    または
		  --------------------------------------------------------------------------------
		  淀屋橋 08:54 − (11駅 京阪本線準急・樟葉行 340円) −   牧野 09:29

		●奈良方面からお越しの方
		  近鉄奈良 08:19 − (7駅 近鉄奈良線急行・京都行 540円) − 08:54 近鉄丹波橋 (徒歩)
		  丹波橋[京阪] 08:58 − (1駅 京阪本線特急・淀屋橋行 300円) −   樟葉 09:13 − 
		(1駅 京阪本線・淀屋橋行) − 牧野 09:16着        または 
		  --------------------------------------------------------------------------------
		  近鉄奈良 08:16 − (4駅 近鉄奈良線快速急行・近鉄難波行 480円) −  鶴橋 08:58 −
		(3駅 JR大阪環状線内回り 160円) −  京橋[京阪] 09:06 − (京阪本線特急・出町柳行
		  340円)  −  09:21 枚方市 09:25 − (1駅 京阪本線準急・樟葉行) − 牧野 09:29 

		●北摂方面からお越しの方
		 JR茨木駅 08:34 −(京阪バス・[3]玉川橋団地,竹ノ内町,枚方市駅北口行き 250円) − 
		  8:54枚方市 − (1駅 京阪本線準急・樟葉行 200円) −   牧野

	費用 : 交通費+入館料(枚方宿:鍵屋資料館)+反省会費用
	持ち物: 弁当・雨具・その他
	行程 : まきの駅出発(9:30頃) − (5分)片埜神社 − (15分) − 牧野車塚古墳 − 
		(40分)− 百済寺跡公園(百済寺跡)− (10分) − 禁野車塚古墳 − (5分)−
		 禁野橋 − (枚方市街を抜けて) − (60分)岡本町・三矢町から淀川堤防へ 
	                (昼食)
        	 淀川資料館 − 三矢町・堤町の枚方宿跡・枚方城跡を散策(120分) − 
		 鍵屋資料館 − (20分) − 枚方公園駅 (適時解散)

	見所 :






	京阪電車「牧野駅」につくと、橋本さんと服部さんが待っていた。今回の例会は服部さん待望の枚方である。今日の道案内は地元の
	服部さんに頼ることにしよう。「枚方」。こう書いて「ひらかた」と呼べるのは関西圏に住んでいる人か住んでいた人かである。
	まず普通では「ひらかた」とは呼べない。「まいかた」とか「まきかた」と呼ぶ人が大半だ。
	「枚方」地名の語源は、一説に神武天皇東征説話に出てくる「白肩津(シロカタツ)」と言う地名が転化して「枚方」となったもの
	だというのがあるが、一般論としては、枚方の「枚」は「平」で平らなことを意味し、「方」は「潟」と言う意味があるのではない
	かと言う。つまり枚方とは、「淀川が形成した平らな潟の上に開けた場所」と言うのが通説である。

	枚方市「楠葉東遺跡」から出土したナイフ形石器は、今から2万年前にこの地に人類が住んでいた証拠となる。旧石器時代から縄文
	時代、弥生時代、古墳時代と、この枚方市に人々が住み着いた痕跡が残っており、市内の遺跡分布は、多くは淀川・船橋川・穂谷川
	・天野川と言った河川沿いに展開している。

	<旧石器時代の遺跡>   
      楠葉東遺跡     男山丘陵の西麓の淀川べり 
      藤阪宮山遺跡    枚方東部穂谷川右岸 

	<縄文時代遺跡>
      穂谷遺跡       京阪バス・三ノ宮 
      津田三ッ池遺跡   枚方東部・津田の北 

	<弥生時代遺跡>
      交北城ノ山遺跡   田口山遺跡   等々

	また、3世紀後半から5世紀にかけて枚方の地には、牧野車塚古墳・禁野車塚古墳などの大規模な古墳が築造された。古墳時代の人々
	も淀川との関わり合いが深かったことがわかる。枚方市には29の古墳が発見されている。仁徳天皇は、淀川でしばしば洪水や氾濫が
	起きて人民が困っているのを見て、それを防ぐために茨田堤の築造という大工事を思い立った。茨田堤は淀川左岸部の河内国茨田郡内
	にあった。今の、枚方・寝屋川の間、または枚方から東生郡野田にいたる所とされている。

	和銅7年(713)に編纂された「播磨国風土記」の「揖保郡」の項に「枚方」という地名が出てくる。「枚方の里 土は中の上なり。
	枚方と名づる所以は、河内の国、茨田(マンダ)の郡の枚方の里の漢人、来たりて、初めてこの村に居りき・・・」。兵庫県の「枚方」
	は今は「平方」となっているが、ここでは、大阪の枚方の漢人が兵庫・揖保郡に来たことを伝えている。これから兵庫より先に大阪に
	枚方という場所が存在したことが分かるし、「古事記」「日本書紀」「風土記」といった文献に、早くから「枚方」や「楠葉」の地名
	が出てくるのは、この地方がいかに古い土地であるかを示している。また、漢人が来たと言うことは、大阪の「枚方」に漢人のムラが
	在った事も示唆している。ことほど左様に枚方の歴史は古く、また遺跡・旧蹟も多いので、とても一日では枚方を見て回るというわけ
	にはいかない。今回の例会が−前編−となっているのはそのためである。またいつの日か、−後編−を企画しようと思う。





伝 阿弖流為・母禮之塚



	牧野駅から片埜神社を目指して歩いていると、「牧野公園」の中になにやら石碑が建っていて、ちらっと「阿弓流・・」と見えたので、
	「もしかしてアテルイ?」と公園の中へ入ってみた。まさしく「アテルイとモレ」の首塚だった。勿論真偽のほどは不明だが、河内の
	国で処刑されたと文献にあるので、ここはほんとに二人の墓かもしれない。




	アテルイ  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	アテルイ(生年不詳 - 延暦 21年旧8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の指導者である。789年に胆沢に侵攻した朝廷
	軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
	史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通
	常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。なお、本項ではアテルイと共に処刑された
	“モレ”についても記載する。

	アテルイは、史料で2回現れる。1つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関
	する記述で、『日本紀略』にある。
	史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802 年の降伏時の記事で、『日本紀略』
	はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。また、「公」
	は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者で
	あったという事だけである。
	征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として、伊佐西古、諸絞、八十島、
	乙代を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。
	この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美
	遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に侵攻した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍
	まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西
	に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたり
	で前方に蝦夷軍約 300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、
	前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を
	塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者 245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損
	害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著
	しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。




	その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と
	志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。
	『日本紀略』は、同年の 4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)が五百余人を率いて降伏したことを記
	す。二人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。し
	かし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑さ
	れた。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在
	の旧河内国内には存在しない。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説
	があった(『大日本地名辞書』吉田東吾)。しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=
	宇山説はなくなった。尚『日本紀略』の写本における地名の異同は、『日野昭博士還暦記念論文集:歴史と伝承』掲載の神英男氏論文
	に詳しい。


	モレ
	モレ(母禮)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指
	導者の一人と見られている。(『日本後記』、『日本紀略』では磐具公母禮)アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されてい
	る。




	<現代のアテルイ像>

	坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。明治
	以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在で
	あった。再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めた点と、一般社会に
	おいて中央に対する地方の自立が肯定的に評価されるようになった点とが、背景にある。アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一
	躍歴史上の重要人物に伍することとなった。
	これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛
	否両論がある。




	 <石碑、顕彰碑>
	上述の枚方市宇山にはアテルイ・モレの胴塚と伝えられる塚がかつてあり(現存しない)、その近くの片埜神社のかつての社地(現在
	は牧野公園内)には首塚と伝えられる塚がある。但し、胴塚と伝えられていた塚は発掘の結果、アテルイの時代よりも 200年近く古い
	ものであることが判明した。1995年ごろから毎年、岩手県県人会などが主催してアテルイの慰霊祭を行っており、片埜神社がその祭祀
	を行っている。もう1つの比定地は枚方市藤阪で、王仁博士の墓とされている墓が、実はアテルイの墓であるとする説がある。
	田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕
	彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。
	2005年には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。
	同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場とし
	て建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年秋に枚方の牧野
	公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。又、JR東日
	本は、東北本線で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。








片埜神社(かたのじんじゃ)





	●片埜神社
	 片埜神社(かたのじんじゃ)は、北河内・交野台地の一角、牧野阪鎮座の延喜式内社。第十一代垂仁天皇の御世、出雲の豪族「野見
	 宿禰(のみのすくね)」が当麻蹴速(たいまのけはや)との相撲に勝ち、その恩賞としてこの地を拝領し、出雲の祖神である建速須
	 佐之男命を奉祀して土師氏の鎮守としたのが草創である。平安中期に野見宿禰の後裔である菅原道真公を併祀、社運隆盛を極めたが、
	 その後、戦国の争乱で幾度かの兵火に遭い荒廃する。
	 後に豊臣秀吉公が大阪城築城の際に、大阪の艮(東北)にあたる当社を錦城の鬼門鎮護の社と定め修築、尊崇してから、河内国北部
	 地方における鬼門方除け・家相方位の守護に霊験あらたかな神様として広く知られ崇敬を集める。慶長七年には豊臣秀頼公が本殿、
	 南門などを修築、造営した。特に本殿は桃山建築の粋として国の重要文化財に指定されている。 




	<有形文化財片埜神社東門・ 南門・石造灯籠>
	 東門は、元は棟門だったが後世に改造され現在では小型の四脚門となっている。建築年代は明らかでないが、構造形式などから室町
	 時代後期のものと見られる。南門は慶長7年の本社社殿再興に続いて再建された四脚門で、近世初頭における建立年代の明らかな数
	 少ない遺構である。石造灯籠は、様式上鎌倉時代の遺品と見られている。東門は昭和47年3月31日に、南門は昭和52年に3月
	 31日に、灯籠は昭和45年2月20日に、それぞれ有形文化財に指定。 






















	大阪歯科大学の向かいに大阪府府営住宅が建っている。この辺りに以下の記事に見える「九頭神廃寺」遺跡があるとの事だったので、ず
	いぶん気を付けて探したつもりだったが見つからなかった。どうやら府営住宅の中にあったもののようだが、せめて説明板くらい立てて
	くれればいいのになぁ。


	●九頭神廃寺   牧野本町1-210の一部
	 九頭神廃寺は北河内で最も早く建立された古代寺院のひとつとして、また高句麗系の軒丸瓦が出土することで古くから知られていたが、
	 開発の波にのまれほとんど宅地化されてしまっている。昭和58年以降、その実態研究に取り組み、主要堂塔の一つである塔基壇やその
	 下層にひろがる前身寺院(もしくは豪族居館)などの検出をみたほか、部分的ではあるが、東・西・北辺の区画溝などの外郭施設が検
	 出されている。寺院経営にかかわる付属寺院の検出は、地方寺院では初のことで、加えて、寺院地の北西角が確定されたことの意義も
	 大きく、寺院地北西部外側で検出された宝幢(ほうどう)遺跡の存在も特筆すべきもの。平成19年月1日、史跡に指定。


	大阪・九頭神廃寺	地方の寺「正倉院」あった  掘立柱建物跡4棟 塀と溝でガード

		
	九頭神廃寺の「倉垣院」とみられる掘立柱建物跡と溝(大阪府枚方市牧野本町で)

	九頭神廃寺の「倉垣院」とみられる掘立柱建物跡と溝(大阪府枚方市牧野本町で) 大阪府枚方市牧野本町の奈良時代(8世紀)の九頭
	神(くずがみ)廃寺で、溝と塀で厳重に区画された中に整然と並んだ掘立柱建物跡4棟が見つかり、古代寺院の倉庫で、奈良・東大寺の
	正倉院に相当する「倉垣(そうえん)院跡とみられると、同市教委と市文化財研究調査会が4日、発表した。地方寺院の倉垣院が発掘で
	確認されたのは初めてで、機能や実態の解明につながる成果として注目される。
	府営住宅の敷地内の道路整備に伴い、4月から調査中で、寺域の北西部で、4メートル四方の3棟と、東西4メートル、南北5・5メー
	トルの1棟の柱穴が南北1列で出土。柱は直径約30センチあったと推定できた。建て方などから4棟とも倉庫で、米などを保管してい
	たらしい。
	建物から西約4メートルで溝(幅1・3メートル、深さ0・2メートル)と塀跡を長さ12メートル分、確認。倉垣院は南北45メート
	ル、東西15メートル以上の規模だったとみられる。寺域の北西角を区画する築地塀跡(幅2・2メートル)と溝(幅1・6〜2・5メ
	ートル、深さ0・3〜0・6メートル)も見つかり、寺域は約140メートル四方と判明。倉垣院はこの寺の中にさらに塀と溝で仕切ら
	れた一郭にあったことになる。
 
	正倉院は本来、役所や大寺院の主要な倉庫群が並んだ一郭のことで、東大寺の正倉院のみが現存しているため、固有名詞として使われる
	ようになった。倉垣院は「額田寺伽藍並条里図」(国宝、奈良時代)や奈良・大安寺の資財帳などに絵図や記載があるが、実態はほとん
	どわかっていない。九頭神廃寺は7世紀後半に渡来系氏族が創建したとされ、これまでの調査で塔跡などが見つかっている。
 	現地説明会は8日午後1時半から。
	菱田哲郎・京都府立大助教授(考古学)の話
	「寺院の経営に関する施設が判明する例はまれ。絵図に描かれた景観とも一致し、古代の寺院や周辺の地域社会を復元できる重要な発見
	だ」(2005年10月05日  読売新聞)



これは枚方市の図書館。まるで「風とともにさりぬ」のアメリカ南部の館のような贅沢さ。「こりゃ、やりすぎやで。」と皆さん。




牧野車塚古墳



●牧野車塚古墳  下の説明板参照されたし。









石碑から憤丘へは石段が造ってあり、憤頂は円く石が布いてあった。





子供達が遊んでいる処が周壕の跡のようである。














旧陸軍造兵廠大阪工場枚方製造所












特別史跡「百済寺跡」







	●特別史跡「百済寺跡」
	 東大寺大仏建立に際し、天平21年( 749)百済王敬福は陸奥国産出の金を献上した功により、翌年宮内卿兼河内守に任ぜられ、以後百済
	 王氏は中宮に住み、百済寺を建立したと考えられている。伽藍配置は日本では他に例を見ない形式で、新羅の寺院建築との関連が注目
	 される。昭和27年3月29日、特別史跡に指定され、43年には全国で初めて史跡公園として整備された。






	枚方市の東方、中宮西之町の標高30mのところに百済寺跡がある。広さ2.6万uもあり、百済郡(現在の大阪・生野区)に居住して
	いた百済王の孫にあたる敬福が、陸奥国の国司であったころ、同国内で黄金が発見され、聖武天皇に献上した。ちょうど東大寺の大仏建
	立に金が不足していたため喜ばれ、褒美として階級特進と宮内卿兼河内国司に任命された。これを契機に、この地に居を構えた。天平勝
	宝2年(8世紀中頃)、百済王氏の氏寺として建立されたものである。




	 <百済寺遺跡出土せん仏> 藤阪天神町5-1
	 せん仏とは仏の姿をかたどった土製のタイル状のもので、仏を安置する厨子を飾ったと考えられている。百済寺は、660年に滅亡し
	 た朝鮮半島の百済王室の子孫である百済王(くだらのこにきし)の氏寺として8世紀後半に建てられたもの。平成13年の発掘調査で
	 発見されたせん仏は、図様から奈良時代に属するものと考えられ、当時の百済寺における信仰のあり方をうかがわせる貴重な資料
	 とされている。ひとつの遺跡から10点以上せん仏が出土した例は全国でも珍しく、府内では、百済寺跡だけ。平成18年1月20日、
	 有形文化財に指定された。




	朝鮮半島の百済国は、633年新羅と唐の連合軍に滅ぼされ、多くの百済人が日本に亡命してきた。すでに日本に渡っていた百済王子の
	禅広は帰国できなくなって日本に帰化した。一族は専門的な知識を必要とする実務的な方面や軍事面に多く任用された。 
	敬福が、官内卿兼河内守任官(今の大坂知事に相当)を契機に、摂津国百済郡を離れ、この交野郡(枚方の地)の土地を賜って移住した。
	その後、一族から俊秀の人たちを輩出し、桓武天皇朝にはその外戚として繁栄した。この寺も、この氏族と繁栄を共にした。 
	この寺は新羅の感恩寺と同型式のもので、伽藍配置は「二塔一金堂」形式である。南から北へ南門・中門・金堂・講堂と位置を占め、金
	堂の前方東西に相対して東塔・西塔が配置されている。百済寺跡の西となりに、百済王神社が鎮座する。枚方の地に根を下ろした百済王
	の末裔・三松氏が建てたものである。 








	大阪・枚方市の百済寺跡で奈良時代の仏レリーフ	2007年12月23日1時13分配信 産経新聞

	大阪府枚方市中宮西之町の特別史跡・百済寺跡(8世紀後半)で、粘土板を焼き固めたレリーフ(浮き彫り)状の仏像「大型多尊●仏
	(せんぶつ)」の破片9点が、同市教委などの発掘調査で出土したことがわかった。阿弥陀(あみだ)如来坐像や、阿弥陀如来を守る神
	将立像の一部で2点には金箔(きんぱく)も残っていた。同様の出土品は飛鳥時代に建てられた寺院から4例見つかっているが、奈良時
	代の寺院からの出土は初めてという。
	市教委などによると、破片が出土したのは、同寺跡の講堂跡西側と金堂跡西側の2カ所。印を結んだ阿弥陀如来像の胸と腕の一部(縦約
	10センチ、横約6.5センチ、厚さ約2.5センチ)と、神将の足の部分(縦約9.5センチ、横約7.5センチ、厚さ約2センチ)
	のほか、如来像の両脇に立つ脇侍の菩薩像の一部とみられる破片も見つかった。
	漆を塗ったうえに金箔を張った仏像下の蓮華(れんげ)座の一部(縦約5センチ、横約4.5センチ、厚さ2センチ)も出土し、全体が
	金色に輝いていたと推測されるという。
	今回、発見された大型多尊●仏は、国内では奈良県斑鳩町の法隆寺や奈良市五条町の唐招提寺の所蔵品などいずれも飛鳥時代の4例しか
	確認されていない。
	百済寺は、749年に東大寺(奈良県)の大仏造営のため黄金を献上した百済王族の末裔(まつえい)、百済王敬福(くだらのこにきし
	きょうふく)の創建とされる氏寺。百済王家は天皇家と姻せき関係にあったとされ、桓武天皇が特に優遇したという。寺は11世紀〜
	12世紀に焼失したとされる。同市教委は「仏教美術の歴史を考えるうえで大変重要な発見」と話している。
	●=傅のにんべんをつちへんに



禁野車塚古墳







	線路沿いにあり、現在は小さな公園になっている。枚方市駅から天野川沿いに約5分程度登ったとろにある。長さ110mの前方後円墳
	で葺き石と埴輪の存在も確認されている。











上の手前部分、平たい台形の部分が古墳の「前方部」である。すっかり削平されている。





	大阪・禁野車塚古墳  大和王権 ゆかりの石材 特別な人物被葬か

	
	禁野車塚古墳で出土した竪穴式石室の石材

	大阪府枚方市宮之阪の前方後円墳、禁野(きんや)車塚古墳から、大和王権発祥の地である奈良盆地南東部に分布する前期古墳の竪穴式
	石室に使用されるのと同じ材質の石材が出土した。産地にちなんで〈芝山火山岩〉と呼ばれるもので、奈良盆地以外でみつかるのは珍し
	い。枚方市教委は、「被葬者は大和王権と密接な関係があった有力者とみられる」としている。同市教委が古墳の後円部南東を発掘。
	墳丘の下部で最大で縦17センチ、横15センチ、厚さ5センチの石材計21点がみつかった。大阪府柏原市の芝山で採れる安山岩で、
	石室が盗掘された際、墳丘の下に捨て置かれたらしい。
	芝山火山岩は、大和王権の有力者が葬られたとされる奈良県天理市の黒塚古墳など3〜4世紀の竪穴式石室で確認されており、この時期、
	大和王権が意図的に使ったとみられている。
	禁野車塚古墳は、出土した埴輪(はにわ)などから4世紀代築造説と、墳丘上でみつかった須恵器の破片などから5世紀代築造説があっ
	たが、今回の発見で4世紀代だったことがほぼ確定した。
	 石材を鑑定した奥田尚・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員(地質学)の話「淀川流域の竪穴式石室には結晶片岩が使われるのが一
	般的だ。大和以外で芝山の石を使っていた神戸市の西求女(もとめ)塚古墳には銅鏡が12面も副葬されており、禁野車塚も大和王権に
	近い特別な人物が葬られたのではないか」(2007年04月08日  読売新聞)



	大阪・枚方の古墳、奈良の「卑弥呼の墓」と規格が一致2008年12月11日 asahi.com

	
	淀川支流の天野川沿いの低地に造られた禁野車塚古墳

	

	 大阪府枚方市の国史跡の前方後円墳、禁野車塚(きんやくるまづか)古墳(3世紀末〜4世紀初め、全長約120メートル)が、邪馬
	台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ〜後半、同約2
	80メートル)と同じ規格で造られた相似墳であることがわかった。枚方市文化財研究調査会などが11日発表した。淀川上流域を支配
	していた有力者の墓と考えられ、卑弥呼と政治連合を結んだ一国だった可能性があるという。(三島庸孝) 
	 同調査会が関西、京都橘、京都府立の3大学と調査団をつくり8月に測量調査した。前方部が三味線のばち形をしているなどの特徴が
	箸墓古墳と共通し、縮尺を調整して測量図を重ねると等高線がほぼ一致したことから、相似墳と判断したという。 
	 調査団によると、ばち形の前方部を持つ箸墓古墳の相似墳は、3世紀中ごろから4世紀前半までに造られたとみられる約20基が西日
	本で確認されている。奈良県内には西殿塚(にしとのづか)古墳(全長約230メートル)など3基がある。他府県では、三角縁神獣鏡
	(さんかくぶちしんじゅうきょう)(銅鏡)が多数出土した京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳(同約175メー
	トル)などがある。 
	 禁野車塚は、丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られた▽大阪府柏原市の芝山産の石材が共に使われた点が、箸墓古墳と共通している。
	この2点の共通要素を含む相似墳は、他には神戸市の西求女塚(にしもとめづか)古墳(同約100メートル)しか確認されておらず、
	禁野車塚の埋葬者は箸墓の密接な同盟者だったとみられる。 
	 禁野車塚は、淀川支流の天野川東岸に面して造られている。1972年に国史跡に指定されたが、墳丘の発掘調査が実施されておらず、
	被葬者は分かっていない。 
	 調査に加わった京都橘大の一瀬和夫教授(考古学)は「大和の勢力は瀬戸内海へのルートを確保するため、大和川(桜井市〜大阪湾)
	沿岸を自ら支配していた。禁野車塚は淀川につながる天野川を押さえており、木津川沿岸の椿井大塚山に並ぶ重要な同盟者だったのでは
	ないか」と話している。 




	淀川水系の源は、言わずと知れた琵琶湖である。滋賀県では瀬田川と呼ばれ、京都盆地で宇治川と名を変え、更に京都・大阪の境の山崎
	で木津川・桂川と三川合流をとげたあと、淀川本流となって大阪平野に入ってくる。この大河がちょうど大阪府内に入った辺りに枚方市
	がある。枚方市内を流れる船橋川・穂谷川・天野川の三本も淀川に注ぐ。その三本の川は枚方市域を通っている。枚方は淀川と結びつき
	が深い都市である。上左は交野市から流れてくる天野川(あまのがわ)。








枚方宿









	●枚方宿
	 東海道は、一般的に江戸と京を結ぶ、品川宿〜大津宿の五十三次と呼ばれているが、伏見・淀・枚方(当時は牧方と記した)・
	 守口の宿場四カ所を含め、五十七次で江戸〜大坂を結ぶ街道だった。しかし、京、大坂の二大都市を結ぶ区間は、人々が大坂か
	 ら京へは京街道、京から大坂へは大坂街道と呼んでいたことや、安藤(歌川)広重や十返舎一九の作品で東海道五十三次の呼称
	 が広まったため、東海道とは別の街道と思われるようになった。
	 当時枚方は、“枚方宿”として栄え、淀川を行き交う三十石船に悪口雑言をなげかけて食べ物などを売る“くらわんか舟”が活
	 気をもたらしていた。現在、町の様子は当時と随分変わってしまったが、まだあちこちに面影を残す“枚方宿”の、過去・現在
	 ・未来の姿を見学した。







	 図は広重の「京都名所 淀川」で三十石船に漕ぎ寄せる「くらわんか舟を描いている。手前の小舟が「くらわんか舟」で、舟上
	 で煮炊きしている様がわかる。














	<枚方宿の成立>
	 河内国茨田郡枚方は、十六世紀末、豊臣秀吉の重臣・枚方城主本多内膳正政康が領有していた。元和元年(1615年)の大阪
	 落城と共に本多氏も滅亡し、枚方城も廃城となったとされている。その後、枚方は城下町から「宿場町」・「在郷町」 (市場
	 町)へと変貌を遂げていった。
	 徳川家康は、慶長六年(1601年)に「岡新町・岡・三矢・泥町の四ヵ村を東海道枚方宿」と定めた。この宿は四ヵ村から構
	 成された特異な宿駅として成立した。枚方宿は江戸へ百二十八里、京都へ六里、大阪へ五里。そして淀川水運の京都伏見と大阪
	 八軒家を結ぶ「三十石船」の中継港として、京都と大坂間の水陸交通の要衝として繁栄した。また、「くらわんか舟」(茶舟)
	 が盛んであったことはつとに知られている。








	<枚方宿の構成>
	 枚方宿は、東海道五十七次(宿)のひとつの宿駅となり、休泊施設や人馬継立においても、東海道筋で屈指の宿場町として発達
	 していった。これは京都と大坂のほぼ中間に位置し、交通の要衝としての役割が重視されたからである。枚方宿は、岡新町村の
	 東見付から堤町の西見付まで、宿場の東西は13町17間(1447メートル)であった。平均二間半(4メートル50)の幅
	 をもつ往還筋の両側には、民家378軒が軒をならべていた。
	 宿の中心は三矢村で、淀川筋と御殿山(枚方丘陵の西端)の狭間に位置し、東西に長く本陣・脇本陣・専門本陣を配し、人足百
	 人・馬百疋(頭)を常備する問屋場(馬借)、そして御高札・郷蔵四ヵ所・紀州侯七里飛脚小屋・定飛脚・荷揚問屋・旅籠屋・
	 船宿・寺院九ヵ所が存在していた。














淀川堤防の上へでて、淀川資料館へ


















上をクリックして貰うと大「淀川両岸絵図」が見れます。










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鍵屋資料館















水面回廊

















万年寺山古墳




アイヌ語では「ひらかた」は「崖の上」を意味し、「万年寺山」の崖は30〜40mの落差があり、断崖の上である。




	<万年寺山古墳>

	枚方上之町に「万年寺山の緑陰」として「枚方八景」にも選ばれた風光明媚なところがある。こんもりと緑に包まれて、突き出た万年寺
	山から見る淀川は、実に美しい。梢の合間から遙かかなたに、摂・丹の山々が見える。間近に、淀川の流れと広がる平野を見ることが出
	来る。今の意賀美(オガミ)神社が鎮座しているところが万年寺山古墳である。4世紀中頃のもので、標高37.7m 形状不明である。
	ここから出土した八面の精巧な青銅鏡(三角縁四神四獣鏡等)は考古学的に注目されるものである。推測するに、埋葬された人物は大和
	朝廷に属して、淀川の治水・水上交通・軍事的利用等の支配権を持つ有力な豪族と考えられる。この頃の淀川は山城・大和から摂津・河
	内をへて大阪湾に出る要所であった。 




	その昔、推古天皇のとき、高麗の僧・恵灌がこの地の風景の勝れているを愛て、山の木立、川の流れが唐の に似ているとして草庵を建
	てたのが万年寺の始まりである。

	ここから枚方市駅へ出て、駅前でうろうろしたあげく、ようやく開いていた店を見つけて反省会。みなさんお疲れ様でした。さぁ、いよ
	いよ師走です。また「忘年会」がやってきますよ。



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