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歴史倶楽部 123回例会
駿府城
7月1日(日)







	徳川家康は慶長12年(1607)大御所として駿府に入り、それまでの駿府城を一回り大きくした城を全国の大名に命じて築城した。
	(天下普請)。駿府城の構造は、三重の堀に囲まれ曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式縄張り
	の平城となっていた。現在三ノ丸は主に公共施設が立ち並び、本丸、二ノ丸は駿府公園となっている。平成になって静岡市が、三十
	億円をかけて、二ノ丸東御門と巽櫓(たつみやぐら)を、正確な資料を基に復元した。








	静岡駅からバスで5,6分乗る。歩いても10分くらいの所にバスセンターがある。目の前に静岡市のどでかい庁舎本館が立って
	いる。ここは駿府町奉行所があったところだそうだ。さらに「駿府城案内」にあわせて進むと、市庁舎本館の正面に、これまたど
	デカイ静岡県庁の本館。現在の静岡県政の府である。この背後に駿府公園が広がる。外堀に沿って新静岡センター方面に歩くと間
	もなく城代橋にかかる。右手には御用邸跡があって、立派な20階建ての市庁舎がそびえる。 








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	駿府城
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	駿府城は、今から約400年前の1585年に駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国を治めるための本拠地として徳川家康の天下
	普請によって築城された。1589年(天正17年)には天守閣を初め二の丸まで完成。1606年(慶長11年)に南・東・北を
	拡張する。1608年(慶長13年)に本丸・二の丸の修築完成、同年12月に本丸全焼、直ちに本丸御殿再建。1610年(慶長
	15年)天守閣完成。1635年(寛永12年)天守閣御殿などを焼失。1638年(寛永15年)御殿・櫓・城門など再建、天守
	閣は再建されず。1707年(宝永4年)の「宝永の大地震」で石垣等倒壊、建物1/3焼失。その後修築されるも、1854年
	(安政元年)の「安政大地震」で建物、石垣など全壊。修復は、1858年(安政5年)に完成。かくのごとく、300年の歳月の
	中に修復と、焼失・地震による倒壊が繰り返されて、明治元年2月の版籍奉還を迎える。




	版籍奉還後、駿府城は明け渡されて国有財産となるも一時は保存する意向も示されたが、結局廃城されることとなり城址の払い下げ
	の問題が起こる。明治維新当時は、追手町外内外11箇所の門及び金蔵、米蔵などもあり、昔時の面影を残していたが、ことごとく
	明治5年ごろまでに払い下げられた。その頃に、大蔵省は全国の城廓等の存廃を定め、処分し、存置のものは陸軍省が管理すること
	になった。この駿府城は静岡県内の他の城(浜松、横須賀、掛川、田中など)と異なり、存続の指定を受けるも何らの保存の方法が
	講じられず、雑草茫茫と生い茂り荒れるままに狐狸の棲処となっていたが、明治7年内務省、その後陸軍省の管轄となる。
	明治22年頃になると、明治政府は廃城処分の方針にて希望者に払い下げる用意を示したことから、静岡市は基本財産として静岡県
	及び陸軍省に払下げ願書を提出した。その願書には、「市民ノ静岡城ニ於ケル感情ハ尤モ深キモノニ有之候」「当市民ハ前段叙述セ
	ル如キ唇歯ノ関係ヲ有スル」とも訴えている。この払い下げの趣旨からも市民の駿府城への思いの高かったことが読み取れる。




	<東御門、巽櫓>(たつみやぐら) 

	東御門は、平成8年に復元された。中には二ノ丸堀から出土した青銅製シャチ(市指定文化財)が展示されている。巽櫓は二ノ丸南
	東の隅櫓で二層三階、平面矩折(かなおり:L型平面形)構造で、平成元年に復元された。














	家康は今川家の人質として19歳までの12年間を駿府で過ごした。不自由な生活に耐えることで忍耐強い性格をつくり、この時の
	臨済寺住職雪斎から教えを受けたことで、天下人としての家康がつくられたともいわれる。
	今川政権崩壊とともに、武田信玄と徳川家康は大井川を境に対立した。 しかし武田は天正3年(1575)長篠の戦いで壊滅的な打撃を
	受け、最後は天正10年(1582)甲斐の天目山で滅亡した。 この戦功で、家康は織田信長から「三河、駿河、遠江、甲斐」の四カ国
	の支配権を与えられた。その後に信濃を加え五カ国の領主になったが、その時の天下を握ったのは豊臣秀吉であった。天正13年
	(1585)家康は浜松城から駿府に移った。家康にとっては2度目の駿府時代である。当時の駿府は相次ぐ戦乱でかなり荒れ果ててい
	たと思われるが家康は精力的に城下と築城に努力した。この間の出来事について「家忠日記」は次のように記している。

	天正15年  1月26日  駿州普請のため、浜名まで出候 
		 10月12日  本城堀普請候 
		 11月 4日  このくるハ(ニの丸)石かけ候 
	天正16年 3月29日  もち舟(用宗)より才木(材木)とどけ候 

	駿府築城工事は天正15年(1587)1月26日から始まり天正17年(1589)5月25日にほぼ完了している。それは今川時代とはま
	ったく異なる城であった。家康は城や城下町の復興より、庶民にかかわりの深い寺社の再建に力をいれたともいう。天正10年(1582)
	臨済寺を再建した。現在でも本堂は国の重要文化財として残っている。












	元亀3年家康は武田信玄と三方ヶ原で戦い、生涯で一度だけの敗戦を経験した。その後信長と力を合わせ武田氏を滅ぼして駿河の国を
	与えられ、そして信長の死後、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を支配する東海一の大名となり天正14年(1586)駿府城に移っ
	た。関ヶ原が終わり徳川幕府の体制作りにめどが付いた慶長10年(1605)、将軍職を秀忠に譲り、翌年家康は修築した駿府城に戻った。
	この地で大御所として天下の実権を握り、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし徳川の権力を確実なものとして、翌年元和2年(1616)75歳で、
	鯛の天ぷらにあたってその生涯を閉じた、と伝えられる。








	<天守閣跡・徳川家康像>

	大御所徳川家康の居城にふさわしく、駿府城の本丸には五層七階の壮麗な天守閣が築かれた。駿府城下も富士山とならんで立って
	見えたと伝えられている。その天守閣跡には徳川家康の像もあり、家康手植えのミカンが静岡のミカンの起源を知るうえで重要な
	ものとして、県指定天然記念物ともなっている。徳川家康は慶長12年(1607)大御所として駿府に入り、それまでの駿府城を一
	回り大きくした城を全国の大名に命じて(天下普請)築城した。駿府城の構造は、三重の堀に囲まれ曲輪を内側から「本丸」、
	「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式縄張りの平城となっていた。現在三ノ丸は主に公共施設が立ち並び、本丸、二ノ丸
	は駿府公園となっている。「天守閣のない駿府城」である。










	<二ノ丸御門跡>

	 二ノ丸へ入る正面出入口で、二ノ丸大手門とも呼ばれた。門は昭和32年に埋められ、約70m東側に新たに出入口が設けられた。
	(現在の駿府公園入口)



	今、駿府城は、駿府公園として静岡県民の憩いの場として静岡市中心街に位置している。戦国の世を生きた今川家から200余年の
	天下泰平をもたらした徳川家へと、日本の歴史は、時の大納言徳川家康が築城した駿府城が政治の中心となって展開するはずであっ
	たが、残念なことにその駿府城は脚光を浴びることなく、幻の城となって今日に至っている。それだけに、今一度の再建へというの
	が静岡市民の願いのようだ。

	皆さんお疲れ様でした。「東海・縄文弥生の旅」いかがでしたか? 登呂遺跡・博物館は残念でしたが、浜名湖で遊覧船にも乗った
	し、清洲城、駿府城も見れたし、まぁ良しとしましょう。西から来た文化が、それぞれの地方で根付き、東へ東へと東進していく様
	は、人間の偉大なパワーを感じますね。見てきたような遺跡を通り過ぎて行った人々によって、稲作は約3,400年で青森県まで
	到達するのですから驚きです。歩いていくしかない時代に、よくやりますねぇ。ホンマに人間の営みは偉大だなぁと感じます。

	さて、また風に吹かれて、次回もどこかへ行きましょう!



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