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歴史倶楽部 123回例会
登呂遺跡
7月1日(日)



	浜松で予定していた箇所は全て廻ったので、こだまで静岡へやってきた。時間があれば浜松城も見たいなと思っていたが、静岡
	で時間が無くなるとヤバイと思ったので割愛した。しかし登呂遺跡博物館は閉鎖中で、これなら浜松城を見とけば良かった。
	はるばる大阪からやってきて、一日違いで閉館とは。トホホ。




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	登呂遺跡
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	JR静岡駅からタクシ−で5,6分くらいの所に登呂遺跡はある。南北に史跡公園が広がっている。我が国弥生時代遺跡の代表
	とも言うべき「登呂遺跡」は、戦時下の昭和18年に発見されていたが本格的な発掘調査は戦後の昭和22年に開始された。
	戦後の動乱期にあって、人々の心も不安と絶望感が支配していたのか、この遺跡発見のニュースは非常な関心を呼び起こしたよ
	うである。東京大学に「静岡市登呂遺跡調査会」が組織され、あらゆる分野の研究者達が参加した。歴史・考古学、人類学はも
	とより、土木・水利・河川工学、建築、地理学者等も参加している。かってない総合的な体制で開始されたこの調査はマスコミ
	もこぞって取りあげ、広く国民の関心を呼んだ。国会は超党派で予算を可決し、調査は25年まで継続された。次々と報告され
	る成果は、敗戦に打ちひしがれた国民に、「皇国史観」から解放された、明るい、自由な歴史学の息吹を感じさせた。




	登呂遺跡に続きその後各地で稲作・水田跡の遺跡が発見され、現在では縄文時代の遺跡からも水田跡が発見されたりしているが、
	当時は我が国は勿論、世界でも初めて出現した水田跡であった。登呂の地では弥生後期のはじめ頃になってムラや水田が拓かれ
	た。昭和18年に発見された登呂遺跡は、昭和22〜25年と40年に発掘調査され、ムラの北側を流れていた川の洪水で埋れ
	た12軒の竪穴系の家と2棟の高床倉庫、約8ヘクタールの広さの水田の跡が、たくさんの生活道具と共に発掘された。
	遺跡からは、水田跡の他にも水路や畦道、木製品等も発見されて、人口5,60人の集落であると判定された。考古学史上、東
	国の弥生時代遺跡としてはじめて集落が一つの単位で出土し、科学的に確認された歴史的な瞬間であった。
	遺跡には建物が復元され、昭和27年国史跡に指定された。登呂遺跡は教科書に載り、戦後の科学的な実証主義に基づく新・考
	古学の原点となった。




	以下青字部分は「登呂遺跡博物館」のHPから要約。深謝。
	第2次世界大戦中、登呂に軍需工場が建設される事になった。その工事中、水田の下1mの採土から多くの木製品が出土し、さ
	らに水田跡と考えられる杭列も発見された。工事を請け負った鹿島組の配慮で、採集遺物は「中田国民学校」に保管されたが、
	それを見た安本博氏は、登呂が弥生農耕集落の遺跡であり、奈良県唐古遺跡に匹敵する大発見であることを、毎日新聞静岡支局
	の記者にいち早く知らせた。そして昭和18年7月11日付け毎日新聞で登呂遺跡発見が報じられた。新聞の第一報と、静岡県
	から東京の考古学者や文部省への報告により、帝室博物館(現国立博物館)・宮内庁・神社庁・文部省・東京の諸大学などから
	多くの学者が登呂へ訪れた。そして、その遺跡の重要性から、県主催の学術的発掘調査が行われた。工場建設と並行して実施さ
	れるという、軍事的制約下での発掘には限界があったが、現在「登呂遺跡博物館」に保存されている木製品の多くの資料が、当
	時の出土品であることは、いかにこの第1次の発掘が貴重なものとなったかを物語っている。しかし調査は戦争の為そこで中断
	せざるを得なかった。




	登呂に再び発掘調査の手が入る日は、昭和22年である。敗戦によって皇国史観の呪縛から解き放たれた人々は、新たに心の支
	えともなる正しい日本の歴史を強く求めていた。より科学的な考古学の成果で、日本国家の起源は神話から史実へと書き換えら
	れたのである。考古学界では、八幡一郎(東京大学)が中心となり、後藤守一(明治大学)の提言で静岡市登呂遺跡調査会が発
	足した。今井登志喜(東京大学)・八幡一郎・大場磐雄(國學院大学)・駒井和愛(東京大学)・杉原荘介(明治大学)・島村
	孝三郎(東亜考古学会)らが主要メンバーとなり、人類学・地質学・動植物学・建築学・農業経済学などの各分野の学者達がこ
	れに加わり、日本で初めて各学問が連携した総合的、学際的研究が行われることになった。ようやく昭和22年7月鍬入れが行
	われ、本格的な発掘調査が始まることになる。そして登呂発掘の目覚しい成果が報道され世論に動かされた政府は、この発掘を
	国家的事業にすることを決定し、これを契機として昭和23年4月2日に日本考古学協会が発足した。その後、発掘調査は、昭
	和25年まで第2次〜5次にわたって行われ、昭和40年には東名高速道路建設のために第6次調査となる緊急的な発掘調査が
	行われた。




	調査によって西暦2〜3世紀(今から約1,800年前)のころの弥生時代後期の遺跡で、12軒の家と2棟の倉庫から成る集落と、
	約8ヘクタールの水田との農村跡であることが明らかにされた。集落は河原に土砂の積もった自然堤防上に立地し、水田はそれ
	より若干低い湿地帯に営まれていた。12軒の住居跡はいずれも小判型の平面をしており、周囲の土堤を築いた『平地式住居』
	である。上屋は4本柱で支えられ、床面には炉の跡が見つかった。2棟の倉庫は4本柱の『高床式倉庫』で、ムラの中心部に建
	てられていた。倉庫の出入りには梯子が用いられ、柱のつけ根にはネズミ返しがとりつけられていた。水田跡は、約250m×
	400mほどの広さをもち、杭や矢板によってつくられた畦畔で区切られ、約40面の田地が認められた。また、水田の西側よ
	りには全長430mほどの水路が設けられていて、下樋形式の暗渠や、堰などの施設が発掘された。木製の容器、田下駄・鍬な
	どの多種多様な木製品、その他の生活用具が出土している。


	<復元住居>

	登呂遺跡に復元されている建物は、関野克博士が発掘された遺構をもとに銅鐸や土器にえがかれた絵などを参考にして復元した
	もの。復元住居は高さ約5m、小判形の平面の広さは約73u。住居の内側は羽目板をさし並べ、外側に杭をうって土堤をかた
	めている。4本の柱は根元に礎板をしいて、柱の上に梁と桁をかけそれに垂木をもたせている。桁の上に合掌形に材(叉首)を
	組み、屋根の最も高いところに棟木をかける。入母屋づくりの屋根は茅をふき、南西側に出入り口がもうけられている。




	<復元倉庫>
 
	復元高床倉庫は高さ4.3mの8本柱の建物。礎板のしかれた柱は根元から1.2mの部分まで地中に埋まり、地面から1.45
	mの高さの床下部分にねずみ返しをつけている。倉庫の床の大きさ4m ×2.5mで壁は凹状の壁板材を柱で四隅で交互に組み
	合わせた原始的な校倉づくりである。屋根は切妻で茅と杉皮を使っている。出入り口についてはわかっていないので、一木のは
	しごをかけて切妻から稲穂を出し入れしたと推定し復元されている。

	遺跡はこのように、古代の農村の姿が具体的に理解されるので、昭和27年国の特別史跡に指定され、保護保存のために各種の
	手が加えられている。現在遺跡公園として保存されている総面積は、70,182.59平方メートルで、そのうち59,990平方メートル
	が特別史跡に指定されている。内訳は、水田跡面積が24,690.70平方メートルで、森林跡面積が579.95平方メートル、残りが公
	園分面積(居住跡・倉庫跡を含む)39,700.39平方メートルと、博物館・美術館面積5,211.55平方メートルである。




	<復元水田>

	今回は見れなかったが、公園の南側に、登呂遺跡の水田跡の一部が復元されている。現在博物館や近隣の小学校、市民が赤米な
	どを栽培している。水田跡は、住居跡の東南に幅250m長さ約400mの範囲に約8ヘクタールの水田がつくられていた。
	南北にのびる水路の西側に一列、東側に4列の水田が並び、これらの外側は沼地になっていたようだ。田んぼの面に水をたくわ
	えるために、土地の低い側に矢板を打ち並べ、高い側に杭を打ちこんであぜをまもっている。このように区画された田面の数は
	約40〜50枚あったと考えられている。

	昭和18年の第1次調査の際、ムラの中やムラから西南の方向に離れたところにたくさんの木の株が見つかり、数カ所の森林跡
	が確認された。種類と数がわかったものは、スギ16本、シラカシ4本、イヌガヤ3本、ナツグミ2本、エノキ、クスノキ、タ
	ラノキ、マユミ、イヌマキ、ネムノキ、各1本の立ち株が残っていた。発見された森林跡は現在、公園西側の住宅街の中に2箇
	所、第1、第2森林跡として残されている。




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	登呂遺跡博物館
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	<登呂遺跡 再整備へ>

	日本の考古学の起点ともなった静岡市駿河区の登呂遺跡が7月以降、再整備に入る。弥生時代後期の遺跡は昭和18年に発見、調査
	は22年から民俗学、土木工学、自然科学などさまざまな分野の専門家を集めて行われた。しかし当時の発掘技術は低く、平成11
	年度から行われた調査から、根本的な変更を迫られた。遺跡は12軒の家と2棟の倉庫からなる集落と水田約8f、そのうち公園
	は約7f。計画では復元竪穴住居を実際の遺跡の上に建てる。水田跡や水路なども弥生時代に近い環境を整え、博物館もリニュー
	アルする。
	静岡新聞 平成18年(2006年)4月14日付、朝刊より抜粋、転記。




	なんたる不運。なんたる事前チェック・ミス。昨日までで「登呂遺跡博物館」は閉館してしまっていた。昨日は閉館のイベントが
	大々的に行われたと案内板にある。まさかここがそんな予定になっているとはつゆ知らず、実は当初は、昨日ここへ真っ先に訪れ
	る予定だったのを、名古屋の貝殻山資料館が日曜閉館と知ったので、今日と予定を変更したのだ。その時ここのHPも見ておくべ
	きだった。今後三年間かけて登呂遺跡を整備、博物館もリニューアル、となっている。今後三年間は登呂遺跡は見学できないのだ。
	まことに残念きわまりない。皆さん見たかっただろうに、申し訳ない。




	不本意ながら、博物館の内容は、私が前回訪れたときの画像を参照いただきたい。また、三年後に機会が有れば。





次回は建物の中にも復元遺跡を造るようだ、放火やいたずらを防ぐには有効かもしれない。








	登呂遺跡の再整備工事について

	<整備の方針>

	 ●生活と米づくりとが結びついた登呂遺跡の特徴を活かし、弥生時代の集落を正確に復元した歴史公園とします。
	 ●園路や植栽、広場などの公園機能を周辺部に配置します。
	 ●弥生時代の生活の様子を体験できる仕掛けを用意するなど、体験学習の場とします。
	 ●博物館の連携し、全国に情報を発信します。
	 ●来訪者及び近隣利用者の視点に立ち、双方の期待に応えられる要素を備えます。

 	1 北側エントランス	徒歩及び公共交通機関を利用する来訪者の玄関となります。★北側駐車場は廃止します★
 	2 集落復元地区	弥生時代の建物を復元し、家の中での生活も体験できます。
 	3 水田復元地区	弥生時代の水田の様子を復元し、米づくり体験ができます。
 	4 屋外体験地区	雨天でも体験学習がおこなえます。体験工房も設置します。
 	5 学びの広場		各種イベントなどをおこなう広場スペースです。
 	6 メモリアル広場	登呂遺跡整備の歴史がわかるように整備します。

	平成18年度  平成19年度  平成20年度  平成21年度  平成22年度  平成23年度
 	 整備工事   整備工事    整備工事    整備工事    整備工事    看板設置
	 整地     遺構復元    体験学習エリア 建物・周辺整備 水田復元
 	 地形復元   建物復元    水田復元    水田復元

	<平成19年度工事の概要>
	 ・北側エントランスの整備
	 ・造成工事
	 ・復元建物の撤去
	 ・植栽の伐採
	 ・旧考古館等の撤去
	 ・登呂博物館の取壊し	  ※北側より登呂遺跡公園内へ入ることは出来ません※
 
	<平成19年度に利用・見学できない施設>
	 ・北側駐車場
	 ・住居跡
	 ・復元建物
	 ・登呂博物館
 
	工事実施にあたって

	1  登呂遺跡のどこか一部は必ず見学できるように配慮して工事を進めます。
 	2  工事の進み具合によっては新たに通行できない部分や利用できなくなる施設が発生する可能性があります。また、振動や
	   騒音が発生する可能性もありますのでご了承ください。
 	3  水田を復元する区域の植栽は伐採します。(移植工事による掘削から地下の遺構を護るため)伐採した樹木は、体験学習
	   の中で再利用していきます。




	せめてもの記念に、弥生人の彫像達の前で一人づつ撮影。服部さん、博物館見たかったですねぇ。「これが見たかったのに。」
	ホンマにすんません。



三年後にはこれらのブロンズ像はあるのかしらん。遺跡も大半が、「工事中」の囲いの中だった。










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	登呂遺跡発掘調査の歴史 
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	昭和18年1月 戦争のためのプロペラ工場建設により、丸木舟など多くの木製品、土器などが発見される。 
		 7月11日 毎日新聞、遺跡発見を報道する。 
		 8月9日 緊急発掘調査を決定する。調査隊をつくる。写真撮影をはじめる。 
		 8月9〜12日 平面測量、高低測量をする 
		 8月17日〜29日 第1次調査(静岡県) 
		 9月2〜4日 15〜17日 追加調査、再追加調査 
	昭和20年3月 アメリカ軍の空襲をたびたびうけ、遺跡、遺構も被害を受ける 
		 6月20日 静岡大空襲。県立葵文庫に集められていた遺物の一部、発掘調査の記録、印刷中の報告書原稿などを失う。 
	昭和21年12月7日 再発掘のため『静岡県郷土文化研究会』つくる 
	昭和22年3月22日 『静岡市登呂遺跡調査会』をつくる 
		 7月21日 遺跡の名称、「登呂遺跡」と決まる 
		 7月13日〜9月3日 第2次調査(静岡市登呂遺跡調査会)
		 		 『静岡市登呂遺跡調査会』解散。『日本考古学協会』結成。 
	昭和23年7月21日〜9月3日 第3次調査(日本考古学協会) 
	昭和24年7月20日〜9月5日 第4次調査(日本考古学協会) 
	昭和25年8月1日〜9月5日 第5次調査(日本考古学協会) 
	昭和26年3月 復元住居つくられる 
		12月 木製品の中に琴を発見 
	昭和27年3月 復元倉庫つくられる 
		11月 特別史跡に指定される。11,600u 
	昭和30年3月 『静岡考古館』(静岡市立登呂博物館の前身)開館 
	昭和40年3月22〜28日
		 7月21日〜8月15日 
		11月25日〜12月3日    第6次調査(静岡県文化財保存協会) 
	昭和46年9月 『静岡考古館』閉館 
	昭和47年4月1日 『静岡市立登呂博物館』開館 
	昭和48年7月 布片調査(布目順郎氏) 
	昭和53年4月 特別史跡追加指定。48,300u 
	昭和58年12月 青銅製品鉛同位体比分析調査(馬渕久夫氏) 
	昭和59年11月 登呂遺跡発見40周年記念シンポジウム『登呂いま弥生文化を問いなおす』 
	昭和60年6月 復原住居温度等測定実験 
	昭和63年10月 日本考古学協会設立40周年記念静岡大会『日本における稲作農耕の起源と展開』 
	平成4年 『静岡市立登呂博物館』開館20周年 
	平成5年 登呂遺跡発見50周年 
	平成6年3月 登呂博物館1階展示室が参加体験型展示にリニューアル 
	平成9年7月13日 登呂遺跡発掘50周年 再発掘調査開始の式  
	平成9年8月 登呂遺跡再整備にともなう確認調査 第1次調査 
	平成11年9月〜12月 登呂遺跡再整備にともなう再発掘調査(居住域と水田域との境界区域) 
	平成12年7月〜12月 登呂遺跡再整備にともなう再発掘調査(居住域) 
	平成12年8月20日 明治大学名誉教授 大塚初重氏 登呂のムラ長就任式 
	平成13年7月〜11月 登呂遺跡再整備にともなう再発掘調査(居住域) 
	平成14年7月〜12月 登呂遺跡再整備にともなう再発掘調査(水田跡、森林跡) 
	平成15年8月〜10月 登呂遺跡再整備にともなう再発掘調査(居住域などの補足) 

	 ※現在、登呂遺跡再整備工事中












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	静岡市立芹沢_介美術館
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	静岡市立芹沢_介美術館は、わが国染色界の重鎮、芹沢_介氏より、郷里の静岡市に作品とコレクションが寄贈されたのを機に
	開館された。収蔵されている芹沢_介氏の作品800点とコレクション4500点は、年3回の企画展を通して順次公開されて
	いる。また建築家白井晟一の設計による建物も、訪れる人々の注目するところ。
 


時間があったので隣の「芹沢_介美術館」を見学。私は過去二度ここへ来たが、一度もここには入ったことが無く今回初見学。



でもあまり興味が無いので、やっぱり私は退屈だった。








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