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歴史倶楽部 123回例会
蜆塚遺跡・浜松市博物館
7月1日(日)







	宿泊したホテルにタクシーを呼んで貰っていたら、観光船から下船した頃ホテルで待っていた。みんなバタバタとおみやげを
	買い込み、本日のコースの最初の見学地「蜆塚遺跡・浜松市博物館」へ運んで貰う。数人での移動は、タクシーを割り勘にす
	ると経済的で便利だ。昨日40分も掛かったバスのコースをタクシーで廻る。




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	<蜆塚(しじみづか)遺跡 
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	<縄文時代>
	この遺跡は既に江戸時代から知られていた。明治時代に学問的な調査の対象となり、最新の調査は昭和58年に行われ4つ目の
	貝塚が発見された。住居跡は貝塚の内側の東西2ケ所にまとまっており、平地式の方形住居28棟の遺構が確認されている。
	墓地も発見され、ヒスイの玉を伴った人骨や腕に貝輪をはめた人骨などもあった。縄文後期から晩期の遺跡と推定されているが、
	この遺跡の特徴は、幅広い東西交流である。ある種の土器には、東日本と西日本の特徴が同時に見られ、ヒスイや黒曜石などこ
	の近辺では産出しない遺物が多く出   土する事から、この遺跡の住人達が100kmを越える行動範囲を持っていたことが窺える。

	服部さん、杉本さんは買い込んだおみやげを提げている。








	浜松市蜆塚公園は、国指定史跡蜆塚遺跡を中心とする公園。蜆塚遺跡は、縄文時代後・晩期(約4,000〜3,000年前)
	のムラの跡である。中央の広場を囲んで住居跡や墓地が並び、貝塚も四ヶ所で見つかっている。貝塚のひとつは、発掘調査当時
	のまま保存され、ガラス越しに貝殻の堆積やその間にはさまれている動物の骨や遺物を観察できる。また公園内には、当時の姿
	を想像して建てられた復元家屋もある。西の一角には、浜松市西部、村櫛町から移築された江戸時代の民家「旧高山家住宅」が
	ある。






	<貝塚保存施設> 遺跡のはずれに、出土した当時の貝塚をそのまま保存した施設がある。土器や石器が捨てられた状態をその
	まま見ることが出来る。










	<蜆塚遺跡の第一貝層断面の様子>
	蜆塚遺跡には、縄文時代後期から晩期にかけての貝塚が、大小四ヶ所ある。北側の第1貝塚は、斜面にあり、厚く貝殻が積もっ
	ているが、ほかの三ヶ所は近代までに畑地として開墾がすすんだため、厚い所でも30pくらいしかない。第1貝塚は、発掘調
	査が終わったあと、合成樹脂で固め、屋根をかけてガラスごしに観察できるようにしてある。貝塚にふくまれる貝は、内湾から
	河口にかけて生息する貝が多く、9割以上がヤマトシジミである。



蜆塚遺跡の地形図




	<蜆塚遺跡第1貝塚の断面>
	縄文時代後期(4000〜3000年前)。約千年間にわたる8つの層が認められる。蜆塚にくらした人たちが捨てた動物の骨
	や土器片が、貝塚の中に混ざっている様子を観察することができる。








蜆塚遺跡のすぐ裏が「浜松市博物館」である。






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	浜松市博物館 
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	エントランスを入るとすぐにナウマン象の骨格模型である。ここから展示が始まっている。博物館の休憩室からは外が見えるよ
	うになっている。「蜆塚遺跡公園」の森がすぐ側まで来ている。と言うより、広い「蜆塚遺跡公園」の一角にこの博物館が建て
	られていると言ったほうがいいかもしれない。










浜名湖周辺では、この「三ケ日原人」も考古学上有名であるが、「浜北人」
というのは知らなかった。大阪の人間は「北浜」と間違いそうだ。

































古代の麻「からむし」で編んだ貫頭衣。早速着てみる。





































三ケ日、蜆塚と並ぶ浜松のもう一つの著名な遺跡「伊場遺跡」(この後訪ねる。)も、独立したコーナーがあった。







西から来た農耕文化の痕跡。







これが「伊場遺跡」を有名にした「木の鎧(よろい)」。実戦用ではなく儀礼用である(とされている)。








	上の記述は重要である。「浜松は全国一の銅鐸出土地」なのだ。これが何を意味しているのかは、じっくり考えていくと、弥生
	時代の西日本と東日本、そして銅鐸を打ち負かす集団の西からの移動、やがてやってくる古墳時代人たちとの関係が見えてくる。
	さらには、記紀神話、神武東征ともつながって、想像は果てしなくつながってゆく。







上左は、東海地方特有な弥生土器「S字口土器」である。縁の断面がS字型
になるところからこう呼ばれる。しかし不安定な形をしているもんだ。







上の土器(埴輪)は、「発掘された日本列島」展に展示されて、私も栗本さん、西本さん、チセちゃんと、京都の綾部博物館でも見た。









































伊場遺跡は、弥生、古墳、律令時代と続く複合遺跡である。「伊場遺跡資料館」には各時代の出土物が並んでいる。
(ちなみに、伊場遺跡の資料館は、ここ浜松市博物館の分館になっている。)























伊場遺跡から発見された木簡によって、この地が「浜松」と呼ばれていた事がわかったのだ。

















博物館の休憩室からは蜆塚遺跡の森が見える。というか、そういうふうに建ててあるのだ。










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