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歴史倶楽部 第122回例会

水尾(みお)神社








和田打川に沿って走る車道の南側に境内があり、境内入口は東側。参道入口に大きな鳥居が立ち、鳥居の脇には社号標。




	水尾神社 (みおじんじゃ)高島市拝戸716

	祭 神 : 磐衝別命(いわつきわけのみこと) 比盗_(ひめかみ)

	天平神護元年(765)の創建と伝えられる式内社の古社である。祭神は、垂仁天皇の第十皇子磐衝別命(いわつきわけのみこと)
	と継体天皇の生母振姫(ふりひめ)を祠っている。社域は昔から大であったようで、音羽の大炊神社は、炊殿跡、安曇川町の今宮
	神社、太田神社は御旅所の跡と伝えられ、その社域はかっての繁栄を物語る。古来歌枕として有名な背後の三尾山には、拝戸古墳
	群があり、三尾君の祖の墳墓と伝えられる皇子塚がある。南方1.5kmにある六角形の礎石は神社の鳥居跡であるといわれてい
	る。近江高島駅の北西3Kmほどの拝戸に鎮座する。水尾神社は延喜式に名神、大社に列する古社で、古代この地方に栄えた三尾
	氏一族の氏神である。磐衝別命は古代三尾族の祖先神であり、墓は石川県羽咋市にある。


	創祀年代は不詳だが、『新抄格勅符抄』に、「三尾神 十三戸 神護元年九月七日符」とあり、765年にはすでに著名な神社と
	して存在していたらしい。延喜式神名帳に、水尾神社二座と記されており、昔は、和田打川(水尾川)を挟んで河南社と河北社の
	二社殿が存在していたようだ。現在地は、河南社のあった場所で、河北社は、昭和45年の台風で倒壊し、現在、本殿の隣の小社
	・姫宮として存在している。祭神は、河南社に磐衝別命、河北社に比盗_。三尾君の祖神を祀った神社であるが、一説には、猿田
	彦命と天鈿女命ともいう。『三尾大明神本土記』に「昔 猿田彦命はニニギノミコトが日本巡狩の際、比良山の地に鐙崎・吹御崎・
	鏡崎の三つの尾崎があり通行の妨げとなっていたので押し崩し、その手柄により三尾大明神の名を賜った。・・その住む所を三尾
	郷と名づけた」とある。



参道を歩き、境内に入ると、正面に拝殿。








	高い木立の参道は明るく、おおらかな雰囲気で、高島を代表する神社のひとつにふさわしい佇まい。三尾山の拝戸古墳から続く斜
	面には水尾庭園があり、岳山の大小の岩を配し、豊かな山水が流れ落ちる。かつては広大な神域であったようで、音羽の大炊神社
	は炊殿跡、安曇川の今宮神社や太田神社はお旅所であった。昔から出世や安産祈願に訪れる人が多い。 










	左手には大きな石が転がっていて、立派な池庭がある。案内に「拝戸古墳群」とあるが、どこが古墳群なのかはわからなかった。
	拝戸古墳群は、六世紀に築造された円墳群らしいが、まさかこの庭園は、古墳群をぶっ壊して作った庭園じゃなかろうな。













拝殿の後方には、垣に囲まれた本殿。垣の右横には、境内社の八幡社。垣の中の本殿の横には、小さな祠がある。











エロチックを通り越してここまでやるとちょっと品がないような。もろやん。




	日本書紀に拠れば、近江国高島郡三尾にて継体天皇は生まれたとなっており、現在は田中神社にこの地の祖先が祀られている。
	一説には継体天皇の父「彦主人王」は息長氏の出身とされるが、息長氏も渡来人の末裔と考えられるふしもあり、飛鳥時代以前の
	湖西地域は、和邇氏や大友氏といった新羅系渡来人などが、日本海側の敦賀や小浜あたりから移住し、その先端文化の足跡を残し
	ていった可能性が大である。



歩き疲れたので、ここから高島駅までバスに乗る。近隣にガリバー村などがあって、バスは超満員だった。


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