Music: Carpenters

歴史倶楽部 第122回例会

鴨稲荷山古墳







	鴨川に掛かる「てんのうばし」。元は「天王橋」と呼ばれていて、鴨稲荷古墳の発見後「天皇橋」と呼ばれるようになった。
	橋の欄干には、鴨稲荷古墳から出土した飾太刀の文様である「直弧紋」があしらわれている。






	志呂志神社(しろしじんじゃ)

	鴨川にかかる「てんのうばし」をわたってすぐ右手、鴨稲荷山古墳のすぐ脇にある。社伝によると、創祀年代は宝亀元年。
	日吉三宮とも天皇社とも称された神社だが、式内社・志呂志神社に比定されている古社である。往古は、川中島の白州に鎮
	座し、天下を所知食(しろしめ)す皇孫(瓊々杵尊)を祀り、志呂志神社と称したという。祭神は、瓊々杵尊、鴨祖神、玉
	依姫命の三柱で 、現在は鴨川が支流の八田川と合流する所に鎮座する。祭神は異説として、事代主命や、志呂志(しろし)
	からの付会と思われる白髭明神などがある。



神社入口、台輪の素木鳥居



上左は拝殿。上右と下は、本殿正面と横から。垂れ耳の狛犬がいた。






	かもいなりやまこふん
	鴨稲荷山古墳

	JR近江高島駅の北約3km。鴨川右岸に広がる沖積地に位置する古墳。現在は全くその面影を留めていないが、明治35年の
	県道拡幅工事のさいに発見された当時は、後円部に横穴式石室を持つ前方後円墳で、発見当時は、長さ9m、幅・高さともに約
	1.8mの石室があったとされ、内部には凝灰岩質の刳抜(くりぬき)式家形石棺が納められていた。棺内からは金銅製の冠や
	沓(くつ)などの装飾品や馬具類などが、棺外からは須恵器(すえき)類などの豊富な副葬品が出土しており、古墳の造られた
	時期は6世紀前半という。湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳だった。現在は、田園の中のこんもりした丘である。
	整備され、公園のようになっている。






	当時、稲荷塚と呼ばれていたこの古墳の脇を通っていた道路の改修工事のさい土取りが行われ、そのとき墳頂から石棺が現れ、
	蓋を開けると朱で真っ赤な棺の中が検分されて、京大の濱田耕作、梅原末治両博士による調査報告が出された事から大きく世に
	出た。それ以後数次にわたる調査の結果ほぼ全容が明らかになってきた。この古墳は、もともとは全長50m以上の前方後円墳
	で、埴輪・葺石を持ち、横穴式石室の中に家型石棺が安置されており、金銅製品に彩られた豊富な副葬品を持っていた。金銅冠
	(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾・鏡・玉類・環頭大刀(かんとうたち)・鹿装大刀(ろくそうた
	ち)・刀子(とうす)・鉄斧(てっぷ)などの副葬品は、朝鮮半島の伽耶や新羅の意匠影響を受けているといわれ、ここに被葬
	された首長と朝鮮との関連が注目される。現在は、石棺の周囲が崩れそうになったらしく、石棺を風雨から守る保存処置として
	覆屋が建てられ、窓ガラス越に見学するようになっている。なお石棺は遠くの二上山の凝灰岩で造られている。










	この古墳の被葬者は、高島一帯を支配した三尾族の長の墓だと推測されているが、巨大な石棺や純金の耳飾りなどが出土して、
	その副葬品の豪華さは、藤ノ木古墳などにもひけをとらないほどである。出土した金銅冠、鏡、玉類などの副葬品の一部は隣に
	ある高島歴史民俗資料館で見ることができるが、渡来人の墓だとしても、相当な権力者だったことを伺わせる。継体天皇に二人
	の妃を嫁がした三尾氏の墓という伝承も、何かまんざら伝承でもないような気になってくる。或いは、先ほどの彦主人王の墓は
	こちらのほうが相応しいような気もする。いずれにしても、滋賀県を代表する古墳のひとつであることは間違いない。 





邪馬台国大研究/歴史倶楽部/継体天皇・オヤジの墓