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歴史倶楽部 第122回例会

鶴塚・神代文字・安閑神社・胞衣塚






田中神社の鳥居の脇にたっていた案内板(上)。玉泉寺石仏にも行きたかったが、
ここを廻るとこの後「水尾神社」まで相当な距離になるので、今日は断念した。







鶴塚から300m程歩くと「安閑神社」の大木が見えている。その脇に「神代文字」の石碑がある。








	ここが、継体天皇の第一子「安閑天皇」を祀った「安閑神社」である。以下、「天皇陵めぐり」の「安閑天皇」の項から転載する。


	<第27代安閑(あんかん)天皇>

	異称:  勾大兄皇子(まがりのおおえ:広国排武金日天皇:日本書紀)、
	    広国押建金日命(ひろくにおしたけのかなひのみこと:古事記)
	生没年: ? 〜 安閑天皇2年 70歳(日本書紀)
	在位期間  継体25年(安閑天皇元年)+2 〜 安閑天皇2年(日本書紀)
	父:  継体天皇 第一皇子
	母:  目子媛(めのこひめ:尾張連草香(おわりのむらじくさか)のむすめ)
	皇后: 春日山田皇女(かすがのやまだひめ:仁賢天皇の皇女)
	皇妃: 沙手媛(さてひめ:許勢男人(こせのおひと)大臣の娘)、香香有媛(かかりひめ:沙手媛の妹)、
	    宅媛(やかひめ:物部蓮子大連(もののべのいたびおおむらじ)の娘)
	皇子皇女: なし
	宮:  勾金橋宮(まがりのかなはしのみや:奈良県橿原市曲川町)
	陵墓: 古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ:大阪府羽曳野市古市)


	継体天皇の第一皇子。日本書紀によれば、幼少の時期から器量に優れ、武威にたけ、寛容な性格であったと伝えられる。この時代、
	各地に屯倉(みやけ)が増設された。これは磐井の反乱に荷担して破れた地方の豪族が、許しをこうために献上したと考えられて
	いる。この為国家財政は安定した。
	日本書紀によると「継体天皇」の後を継ぐのは第27代「安閑(あんかん)天皇」であり、その後は「宣化(せんか)天皇」となっ
	ている。しかしここに異説があり、「継体」の後は「欽明(きんめい)天皇」だと言う。
	「上宮聖徳法皇帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)という記録によれば、第29代欽明天皇の治世は41年と記録して
	いるのに、日本書紀では32年にしかならないのである。しかも、継体の死後安閑が即位するまで2年の空白がある。そこで、欽明
	の即位を認めない勢力が、継体死後2年目に安閑・宣化を擁立した、というのだ。つまり継体の死後10年ほど、王権をめぐって2
	つの王統が紛争を続けていたと言う事になるのである。もしそうなら、結果的には欽明がこの抗争に勝利したと言うことになるの
	だが、いささか奇抜な説のようにも見える。しかし継体が20年も大和に入れなかったことや、磐井の反乱がほんとに継体体制が不
	満で引き起こされたものだと考えるなら、継体死後もまだ抗争が尾を引いていたと考えられなくもない。

	4人の皇妃を持ちながら、この天皇には跡継ぎがなかった。そこで天皇は大伴金村に勅を下した。大伴金村は、皇后や皇妃の為に
	も屯倉を設置する事を進言し、小墾田(おわりだ)の屯倉と田部(たべ)の民を沙手媛(さてひめ)に、桜井の屯倉と田部を香香
	有媛(かかりひめ)に賜るよう提案して、天皇も了承した。
	こういう朝廷の動きに対し、各地の豪族の反応は様々であった。県主飯粒(あがたぬしいいぼ)は命令通り土地を朝廷に献上した
	が、大河内直味張(おおしこうちのあたいあじはり)は土地を惜しんで命令に服従しなかった。当然、朝廷は前者を厚遇し、後者
	を冷遇する。やがて、味張(あじはり)は悔いて仕丁(しちょう)を天皇に奉った。
	またこの時代、地方における国造(くにやっこ)の地位を巡る争いも頻繁に行われていたようである。朝廷が争いの仲裁に入り問
	題が解決した後、感謝した国造から朝廷に御礼が献上されたりした記事が見える。

	上野の国立博物館には、安閑天皇の陵から出土したと伝えられるガラス製のお椀がある。出土の真偽は不明だが、当時これを所有
	できたということは、それだけで大王(おおきみ)たる資格を保有していた人物のものだろうと推測できる。
	安閑天皇陵のある古市古墳群には、古墳群というだけあって大小様々な古墳がひしめいている。百舌鳥古墳群に始まって、古市古
	墳群、一須賀古墳群、淡輪古墳群、そして紀州へと続く一連の大阪湾岸に築造された古墳群を考える時、中期渡来人達(初期は北
	九州)が、この湾岸に覇を競い、河内平野から紀州平野にかけて大軍馬団を駆けめぐらせていた光景を想像してしまう。抗う豪族
	をなぎ倒し、民衆を傅(かしず)かせ支配して、あのような大きな墓を築造した。そしてやがて生駒を超え、大和を平らげ、一部
	はそのまま大和に留まり、一部はさらに東へ東へと文字通り駒を進めて関東地方にまで到達した。

	戦いに明け暮れる4世紀は、当然大陸や半島からの使者などが訪れる余裕もなく、記録も残らず、やがて史上「謎の4世紀」と呼
	ばれるようになるが、私にはこの頃の戦いの有様が、口承・伝承として記紀に色濃く反映しているのではないかと思う。初期大和
	王権の記紀に登場する大王達の物語は、大半がこの渡来してきた連中の、日本支配物語なのではないだろうか?
	現在「古墳時代」と呼ばれる時代に、中国・半島からの渡来民族(或いはより北方の騎馬民族が来た可能性も否定しきれない。)
	達が大乱を繰り返し、3世紀にわたって覇権争いを繰り返した結果として、初期大和王朝が成立したのだろう。中央集権、徴税を
	基本とした国家財政の基盤、日本語の原型、地方支配の萌芽、ありとあらゆる国家としての粗形が、この時期に成立して行ったも
	のと考えられる。


	【廣國押建金日命】安閑天皇(古事記)
	御子、廣國押建金日命、坐勾之金箸宮、治天下也。此天皇無御子也。【乙卯年三月十三日崩也。】
	御陵在河内之古市高屋村也。

	【廣國押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)】安閑天皇
	御子、廣國押建金日の命、勾(まがり)の金箸(かなはし)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇に御子無し【乙卯(きのとう)の年の三月(やよい)十三日(とおあまりみか)に崩(かむざ)りき】。
	御陵(みささぎ)は河内の古市(ふるいち)の高屋(たかや)の村に在り。











	三尾里集落の南、平地に築かれた円墳。6世紀の築造と推定される。「胞衣」(えな)とは胎盤のことで、オホド王(継体天皇)
	出産の折りの胎盤をここに埋めたという伝承がある。古墳の上に生えている松は「ごんでん(御殿)松」と呼ばれ、胞衣塚のす
	ぐ南を流れる川が「御殿川」、付近の字名を「上御殿」「下御殿」といい、継体天皇にまつわる伝承で満ちあふれている。






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