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歴史倶楽部 第122回例会

三重生神社



	三重生神社(みおうじんじゃ)  高島市安曇川町 

	式内社である三重生神社は、彦主人王とその妻・振姫(継体天皇の父母)の二神を祀る。彦主人(ひこうし)王は応神天皇の五世孫、
	その妃である振媛(ふりひめ)は垂仁天皇七世孫という。古代、この一帯は「近江国高嶋郡三尾」と呼ばれ、継体天皇の生誕地と伝
	わる。
	日本書紀によると、彦主人王は「三尾の別業(なりどころ)(別邸)」に振媛を迎え、この地で継体天皇が生まれた。安曇川駅以西
	の安曇川町、旧高島町付近一帯が「三尾」とされ、付近には継体天皇にまつわる伝承が多く息づいている。今見てきた「もたれ石」、
	三尾里(みおざと)区には、継体のへその緒が埋まるという「胞衣塚(えなづか)」があり、その塚の上に立つ松は「ごんでんの松」、
	塚のそばを流れる川は御殿(ごんでん)川と呼ばれる。胞衣塚周辺が「別業」との伝承もある。継体擁立に大きくかかわった豪族三
	尾氏の始祖と振媛をまつる水尾(みお)神社や、同氏族長の墓とみられる鴨稲荷山古墳、彦主人王の墓との説もある田中王塚古墳な
	ど、何も知らない人は、ここがそのまま継体天皇の生誕地だと信じてしまいそうなくらい、史跡が多い。



車道から南へ100mほどの緑の参道が続く。




	地元では、継体は三つ子の末弟で、5歳まで三尾で過ごしたと伝えられる。「越前から嫁いだ振姫は、拝殿で三つ子を産み、末子が
	継体天皇となった」、と言うのは史書にはない伝承である。それは、まだ学問的に証明された事実では無い。或いは、将来も証明さ
	れる事はないのかも知れない。しかし歴史学は想像の学問でもあることを考えれば、継体生誕の地ならではの伝承が今も大切に語り
	継がれていると考えた方が楽しい。




	三重生神社はのどかな田園地帯にある。神域はきれいに掃き浄められていて、入口には神社の由来を記す立派な石碑がある。
	
	振媛出産の折、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあり、「この度天より授かる子は天孫の大いなる迹をふむべき男子なり」と。
	そこで山崎社(三尾神社)の拝殿を産所として南天に祈られ、無事に、彦人、彦杵、彦太の三子を安産されたという。故に、当社
	は「三重生」と称され、安産の神でもある。ちなみに、三男の彦太が、後の継体天皇となる。

	「三重生」と書いて「みえう」「みおう」などと発音するらしいが、現在は「みょう」という曖昧な発音になっているという。
	また、御霊権現とも、三つ子の母の社とも呼ばれるらしい。三子から来ているにしても、「三重生」とは変わった名前である。



参道を行き境内に入ると、正面に拝殿、後方に三間社流造の本殿がある。創祀年代は、不詳。





境内社は3つあり、本殿の右手に、足羽神社(足葉神)。本殿左手に、気比神社(仲哀天皇)、その後方に垂井神社(廏戸皇子)。









<石造宝塔> 境内に、鎌倉時代のものと思われる花崗岩の宝塔がある。






	今年は継体天皇が河内の樟葉宮(今の枚方市)で即位してから1500年目を迎える。日本書紀によると、継体天皇は「近江生ま
	れの越前育ち」で、先代の武烈天皇が直系子のないまま没した後、重臣たちに推挙されて即位した。大和に入るまでに20年を要
	し、大きな権力闘争があったことをうかがわせる。即位までの記録は乏しいが、この地には多くの伝承が残っている。








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