Music: Carpenters

歴史倶楽部 第122回例会

安曇川駅から三尾神社旧蹟(安産もたれ石)







	大阪駅に集合して、京都を経て湖西線に入る。京都切り離しの車両に乗っていたので、京都でせっかく座っていた席を立たねば
	ならなかった。西本さんは高槻から、橋本さんは奈良から乗ってきて、安曇川で顔合わせ。


湖西線はずっと琵琶湖を見ながら走るので気持ちがいい。それにしてもデジカメの画像が悪いなぁ。私も買い換え時かなぁ。




	安曇川駅から「もたれ石」を目指して歩き出したら、途中に「惣社神社」というのがあった。祭神は「埴安彦命・埴安姫命、素戔
	嗚尊・奇稲田姫命」である。2組のカップルが祀られているのだが、どうしてここに埴安彦命が祀られているのかは分からない。
	構えからみると村社のようだが、きれいに掃除されていた。とりあえずお参りしてゆく。














	「南市」という信号の角に、「中江藤樹生誕の地」碑があった。へぇー、ここが生まれ故郷やったんか。全然知らなかった。

	中江藤樹 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	中江藤樹(なかえ とうじゅ)、1608年4月21日(慶長13年3月7日) - 1648年10月11日(慶安元年8月25日))
	は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称
	は与右衛門(よえもん)。別号に珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。「別号に■軒(もくけん)、頤軒(いけん)。
	出典 先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成/竹林貫一編」

	<経歴>
	農業中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主加藤家の150石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴く。
	1617年(元和2年)米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が
	死去し、家督100石を相続する。
	1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近
	江に戻った。そこで、私塾を開く。1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤があった
	ことから、門下生から藤樹と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を
	受け、格物致知論を究明するようになる。
	1646年(正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。 1648年(慶安元年)、
	藤樹が亡くなる半年前に郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。その説く所は
	身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。代表的な門人として
	熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。なお、証券ジャーナリスト 中江滋樹 は子孫である。



高島の里は一面田植え直後で、まだ植えている田圃もあった。橋本さんが作業中の人に田んぼの大きさなどを尋ねている。








	継体天皇の母・振姫が妊娠中にもたれかかったという「もたれ石」。三尾神社の跡とも言う。ここを山の方へ行けば継体天皇父・
	彦主人王(ひこうしおう)の墓である。バス停もなんと「陵」(みささぎ)だ。「もたれ石」に寄って、「三重王(みおう)神社」
	から又ここへ戻ってくる事になる。
	一説によれば、継体天皇が今の皇室につながるそもそもの祖先という事になり、孫に推古天皇が出現し、曾孫に聖徳太子がいる。
	その継体天皇がここで生まれたという事になると、この地は皇室の「源」である。もしその説が証明でもされたら、この地はとて
	も今のような、のんびりした牧歌的な村里の景観は保てないだろう。「一説」であり続けたほうがいいのかもしれない。





秀真伝(ほつまつたえ)が出てきた途端、せっかく信じかけていた古伝が何か胡散臭く思えてしまう。







確かに妊娠中のような腹はしてるけど・・・。




邪馬台国大研究/歴史倶楽部/継体天皇・オヤジの墓