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上杉謙信・鷹山の町

米沢上杉博物館・伝国の杜 2006年9月4日 山形県米沢市











 

 



































 

 
















	米沢藩  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	米沢藩(よねざわはん)は、出羽国置賜郡にあって現在の山形県東南部(置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主
	は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万石。

	米沢は戦国時代である1548年から1589年、1590年から1591年の間に伊達氏の本拠地であったが、豊臣秀吉によっ
	て伊達政宗が陸奥岩出山に転封された後、会津に入った蒲生氏ついで上杉氏の支配下に入った。上杉景勝は家老・直江兼続に30
	万石を与えて米沢に入れ、伊達氏、および山形の最上氏に対する抑えとした。
	しかし上杉氏は関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、1601年(慶長6年)に上杉景勝は120万石を30万石に
	減封され、居城を会津から米沢に移させられた。兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢藩が成立する。米沢藩領は、はじめ上杉氏の旧
	会津領120万石のうち出羽国置賜郡18万石と陸奥国伊達郡および信夫郡(福島県福島市)12万石からなっており、米沢から
	は峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣・本庄氏を城代として置いた。
	1664年(寛文4年)に3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、本来なら取り潰しとなるところ、綱勝の舅である会津藩主保科
	正之(徳川家光の実弟)の尽力によって、綱勝の妹と高家の吉良義央の間に生まれた子・綱憲が末期養子に認められ、半減の置賜
	郡内15万石で存続が認められた。
	相次ぐ減封にも関わらず、家臣の数はほぼ120万石の頃のままだった。このため、当然のごとく財政難に苦しめられ、民衆も困
	窮。これに心を痛めた9代目の重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであったが10代藩主治憲(鷹山)の藩政改革
	で財政の再建を果たした。また、置賜郡内の旧領のうち3万石(斉憲の代に上杉領となる)、越後国内に1万石の天領を幕府から
	預かっている。
	戊辰戦争では会津藩の討伐をはかる新政府軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に務めるが、果たせずに奥羽越列藩同
	盟に加わり、その中核を担うこととなった。米沢藩は庄内および越後に出兵したが新政府軍に敗れ、戦後の敗戦藩の処分で14万
	7千石に減封。翌1869年(明治2年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。1871年(明治4年)廃藩置県によって米
	沢県となった。その後、置賜県を経て山形県に編入された。藩主家は1884年(明治17年)、伯爵となり華族に列せられた。

	米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡金山を失って大幅な収入減を受けたが、越後時代から付き従ってきた家臣の
	召し放ちを極力行わず、6千人と言われる家臣団を維持し、針小棒大な表現ではあるが、上杉家は、100万石規模の家臣団を維
	持したと云われている。そのために、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。米沢城は、伊達氏時代からの粗末な平城で
	あったが殆ど拡張を行わず、下級武士は手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせた。このような下級武士のこと
	を原方衆という。
	それでも初期の米沢藩は直江兼続の執政によって新田開発に努め、表高30万石に対して実高50万石と言われるまでに開発を進
	めたが、1664年の半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。これ以降の実高は30万石程度であるが、依然として家臣団は減
	らさなかったので、財政はますます厳しくなった。にも関わらず、綱憲は実の両親である吉良義央夫妻の浪費による負債をしばし
	ば立て替えたと言われている。
	因みに、明治初年の史料を持って比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7077戸、男1万
	2千414名、卒族戸数9474戸、男1万4千029人、であった。一方の米沢藩15万石の上杉家の場合は、内高が30万石
	で、士族3千425戸、男7千565名、族戸数3千308戸、男1万1千980人であった。この比較から、米沢藩の厳しさは
	一目瞭然である。綱憲の孫・重定などは派手好きで奢侈に走り、ついに借財が莫大な額に上ったので、幕府に15万石の返上を願い
	出た程であった。
	1767年(明和4年)、17歳で重定の後を継いだ養子の治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出し、
	倹約令発布、農村統制の強化、桑や漆の植樹、縮織技術の導入、絹織物の専売制実施等の財政再建と殖産興業政策を行って藩財政
	を立て直した。また、特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。また、儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米
	沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にあたった。

	米沢藩では藩主上杉家の実質上の祖である上杉謙信が藩祖として祀られ、その遺骸を納めた甕は遠く越後春日山(新潟県上越市)
	から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置されていた。上杉謙信崇拝に基づいた藩風は越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこと
	もあって独特の誇り高い気風を生んだが、その一方で体面を重んじ、頑固で保守的な面があって、そのことが鷹山の藩政改革の障
	害となったという見方もある。しかし、米沢藩の改革は成功し、治憲・治広の代にには借財を返済し、5千両の囲い金(備蓄)も
	できた。 茂憲は、廃藩置県の際、旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから10万両余を分与。 また、転じての沖縄県令と
	しての治績も評価は高い。


	歴代藩主	上杉(うえすぎ)家 
			外様・国主・大広間 30万石→15万石→18万石→14万7千石

	景勝(かげかつ)〔従三位・中納言、弾正少弼のち越後守〕長尾政景の次男 
	定勝(さだかつ)〔従四位下・左近衛少将〕 
	綱勝(つなかつ)〔従四位下・播磨守、侍従〕 
	綱憲(つなのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕吉良義央の長男 15万石に減知 
	吉憲(よしのり)〔従四位下・民部大輔、侍従〕 
	宗憲(むねのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕 
	宗房(むねふさ)〔従四位下・民部大輔、侍従〕 
	重定(しげさだ)〔従四位下・大炊頭、侍従〕 
	治憲(はるのり)〔従四位下・弾正大弼のち越前守、侍従〕秋月種美の次男 
	治広(はるひろ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕 
	斉定(なりさだ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕畠山勝煕の長男 
	斉憲(なりのり)〔従四位上・弾正大弼、中将〕18万石に加増 
	茂憲(もちのり)〔正二位・式部大輔、侍従〕 14万7千石に減知 伯爵 
















	<上杉鷹山> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆。

	宝暦元年7月20日(1751年9月9日) - 文政5年3月11日(1822年4月2日)。
	江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第10代藩主。官位は従四位下侍従、官名は弾正大弼のちに越前守。領地返上寸前の米沢藩
	再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲(はるのり)だが、藩主引退後の号である「鷹山」の
	方が著名。墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。上杉神社摂社である松岬神社に、祭神として祀られている。

	上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として高鍋藩江戸屋敷で生まれる。母方の祖母が米沢藩第4代藩主
	綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であったことが縁で、10歳で米沢藩第9代藩主重定の養子となる。
	米沢藩後嗣となってから尾張出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服。江戸幕府10代将軍徳川家治の一字を賜
	り「治憲」と改名する。明和4年(1768)に米沢藩を継ぐ。

	受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母

	鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民
	のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底したものであった。藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、
	「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父
	母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、

	・ 自ら助ける、すなわち「自助」
	・ 近隣社会が互いに助け合う「互助」
	・ 藩政府が手を貸す「扶助」

	正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。成人しても少女のようであったと伝えられ、鷹山はよ
	く彼女の遊び相手になっていたという。彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした。しかし後継者が絶えることを恐
	れた重役達の勧めで治憲より10才年上の側室お豊の方を迎えた。17才での決意にも驚くが、正室の運命もそのままに受け止め
	て真摯に対応する姿勢には、鷹山が単に優しいだけの人間ではなくて、余人に代えられない強固な意志を持った人間であることを
	知らされる。この意志があったればこそ、あの驚くような財政難を跳ね返すことが出来たのだろう。

	天明5年(1785)に家督を前藩主・重定の実子である治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが、逝去まで後継
	藩主を後見し、藩政を実質指導した。享和2年(1802)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号する。この号は米沢藩領北部にあった白
	鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。文政5年(1822)に死去、享年72。
	法名:元徳院殿聖翁文心大居士




	上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに3代藩
	主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまった。
	上杉家は18世紀中旬には借財が20万両に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら、かつての会津百
	二十万石時代の家臣団6千人人を召し放つことはなく、このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かった。

	120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾き、年間6万両ほどの支出に対し、
	実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、まるで現代の日本のような借金の上になりたった虚構の、
	機構だった。実態は深刻な財政破綻におちいっていたのである。収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、領民
	数は、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いた
	る物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥っていた。名家への誇りを重んずるゆえ豪奢な生活を改められなかっ
	た前藩主重定は、幕府へ藩土を返上のうえ、領民救済も公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。

 	新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、
	自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展
	した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策
	に努めた。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州
	によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定
	時代に借債を完済した。

	鷹山が行った施策の具体例は、

	■「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅
	花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑
	で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。武士に百
	姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この平和の世には、武士も農民
	の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したのである。
	やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。家臣の
	妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。
    
	■米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、
	そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。もうすぐ鷹山が参勤
	交代で、江戸から帰ってくる頃であった。橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。
	それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」
	とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まって
	いた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ。」
	と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、「農
	民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。
    
	■「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。特に、孤児、孤
	老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か村が救
	援すべきことを定めた。貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていた。そこで鷹山は老人たちに、米
	沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら
	稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一つである。
	さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、自然
	に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えた。31年
	後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増えていたという。

	■天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助。藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が
	春から始まって冷夏となった。翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。鷹山が陣頭指揮をとり、
	藩政府の動きは素早かった。
     
	・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
	・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
	・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ

	鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。
	全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。近隣の盛岡
	藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩で
	は、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死者は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に
	藩民同様の保護を命じている。江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、と
	いう。米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。

	■鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学
	校がぜひ必要だと考えた。しかし、とてもそれだけの資金はない。そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金
	を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでなく、農
	民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、武士も庶
	民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。

	鷹山存命中の藩政改革は、竹俣当綱をリーダとして、産業振興に重きを置いた前期の改革と前期の改革後の隠居から復帰した莅戸
	善政をリーダとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。
	鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、米沢藩の再建が実現したのは、
	鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の
	翌年である。




	35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、以下の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。

	・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
	・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
	・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

	これは、封建時代にあっては驚くような民主政治の精神である。当時の藩主は、臣下や領民を私有物と考えてその根拠を疑うこと
	もなかった時代に、このような考えを子々孫々にまで伝えようと言う鷹山の姿勢には、深く頭(こうべ)を垂れざるをえない。
    
	「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられたが、
	「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉も残しており、山本五十六に強い影響を与えたとされる。また、アメリカ合
	衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上
	杉鷹山を挙げている。その問いをケネディに発した記者は、上杉鷹山の名前を知らなかった。

上杉鷹山と黒田長舒(ながのぶ)




	福岡秋月藩第8代藩主黒田甲斐守長舒(ながのぶ) は、日向高鍋藩主秋月種茂の二男である。秋月種茂は上杉に養子にいった上杉
	鷹山(治憲)の兄。秋月種茂・治憲兄弟の母が黒田長貞の娘、春姫。また黒田長貞の妻、豊姫は米沢藩第4代藩主綱憲の娘である。
	江戸、その他での付き合いを通じて侍たちは、結構全国的な姻戚関係を造っている。



	【上杉鷹山と秋月】
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	奥州米沢藩、九代目藩主上杉鷹山(治憲)は、藩の財政立て直し等数々の功績をあげた江戸時代の名君として有名である。
	アメリカの故ケネディ大統領が、日本で一番尊敬する人物として名を挙げた事で世界に知られるが、鷹山の先祖は秋月氏であ
	る。秀吉に追放された16代・秋月種実(たねざね)と嗣子の17代・秋月種長(たねなが)が移封された日向(宮崎県)高
	鍋藩の秋月氏で、鷹山は、この高鍋藩・秋月氏から米沢藩・上杉氏へ養子に入った。
	江戸時代になっての秋月黒田藩と日向の高鍋藩は、秋月が取り持つ縁で縁戚関係にあったし、また上杉藩ともつながっていた。
	鷹山は高鍋藩6代目藩主秋月種美(たねみつ)の次男であるが、母は筑前秋月黒田藩4代目藩主黒田長貞の娘「春姫」であっ
	た。また、この春姫の母で長貞の正室は、米沢藩4代目藩主上杉綱憲の娘「豊姫」である。
	米沢藩の上杉鷹山(ようざん:1751−1825)、高鍋藩の秋月種茂(たねしげ:1743−1819)、秋月藩の黒田長舒(ながのぶ:
	1765−1808)は、それぞれの藩における”中興の祖”と称された名君だが、この3人は、実は兄弟、親子、叔父・甥の関係に
	あったのである。上杉鷹山の物語は今日広く世間に広まっており、その質実・実直・勤勉さは江戸期における比類無き偉人ぶ
	りを示しているが、この鷹山を叔父に持ち、父に秋月種茂をもった長舒は、この両名君の影響を受けて、秋月黒田藩300年
	の歴史の中でも、最も秋月文化が隆盛を極めたとされる時代を作り上げる。
	藩校「稽古館」を起こし学問所を設立。藩を代表する学者原古処、種痘の始祖緒方春朔、絵画の斉藤秋圃など各界の逸材を育
	て、産業を起こして特産物の生産等を奨励した。また長崎警備の重責を果たしながら西洋文明の息吹にも触れ、秋月眼鏡橋の
	架橋にも着手した。米沢・高鍋・秋月の、それぞれの地域においてこの3君は讃えられ、米沢ではいまでも「鷹山まつり」が
	行われている。
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	イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象
	記を残している。
	南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。 「鋤で耕したというより
	鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを
	豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、す
	べて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山
	に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。
	イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていた
	かどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力
	だったのである。美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒
	をみ、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも
	精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。




邪馬台国大研究 / 城下町を歩く / 米沢上杉藩