Music:imagine
上杉謙信・鷹山の町
2006年9月4日
山形県米沢市
JR米沢駅。列車が福島で仙台方面と分かれたとたん山の中へ入り、米沢の5分ほど前まで山の中ばかりだったので、果たして
こんな処に町があるのだろうかと不安だったが、到着のアナウンスとともに田圃が見えて来てやっと町並みが現れた。これで雪
に閉ざされたらほんとに陸の孤島になる。今は鉄道があるからいいが、昔は江戸へ出るのも一苦労だったことだろう。
業務委託契約で3ケ月だけ勤務した会社。今回は東京から米沢本社を訪ねたのだ。
<上杉鷹山>(うえすぎようざん)
江戸時代、米沢上杉藩は戦の処分などで幕府から領土を減らされ、藩の財政は厳しく村人の生活も困窮していた。上杉鷹山は
10才で宮崎県高鍋藩から上杉へ養子に来て、17才で藩主となり、この厳しい藩の財政を立て直した。人々が豊かになるた
めの多くの事業に取り組み、新しく田圃を作って領土を増やし、そこに水を引くための水路や灌漑池を作った。しかし、晴れ
の日が続くと水不足で米がまったく出来ないことがしばしばあった。鷹山は心痛し、貧困の村人を救うことが出来ないものか
と考え、奉行・黒井半四郎忠寄(くろいはんしろうただより)に調査を命令して、用水事業にとりかかる。藩と村人が一体と
なった一大土木事業とし「黒井堰」(くろいぜき)「穴堰」(あなぜき)という水路を作り、米沢盆地北部の水不足を解消し
て現在の農業の基礎を作った。他にも新しい産業を起こしたり、教育にも取り組み、72才で死去する頃には、藩の借金は殆
ど返却し終わっていた。アメリカの35代大統領のケネディが、最も尊敬する日本人として上杉鷹山の名前をあげたエピソー
ドは有名。上杉鷹山が残した言葉として、今でも企業研修などで使われる言葉がある。「なせばなる、なさねば成らぬ何事も、
成らぬは人の為さぬなりけり。」(鷹山についての詳細は、「米沢市上杉博物館」のコーナー参照。)
松岬神社
(まつがさきじんじゃ)
米沢藩中興の祖、また民主政治精神の草分けとして世界的にも有名な上杉鷹山を祀っている。上杉神社に隣接し、上杉家2代景勝、
10代鷹山、鷹山の師細井平洲、景勝に仕えた名家老直江兼続、米沢藩復興の功臣竹俣当綱、戸善政の6柱を祭神としている。
<伝国の辞>
伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有るまじく候事
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
上杉神社
(うえすぎじんじゃ)
名将上杉謙信を祀っており、現在の本殿は大正12年、明治神宮や平安神宮の設計者として知られる、米沢市出身の伊東忠太博士
の設計になるもの。上杉謙信は上杉家の藩祖。言わずとしれた戦国の雄で、毘沙門天を信仰した仁義厚い武将。ライバル武田信玄
との川中島の戦いは、日本史上に残る名勝負として知られている。上杉家は最終的にこの地へ移ってきたが、仙台の伊達政宗はこ
こで生まれている。
上杉神社に立つ銅像、上杉鷹山。宝暦元年7月20日(1751年9月9日) - 文政5年3月11日(1822年4月2日)
<官職位階履歴>
1766年(明和3) 従四位下弾正大弼
1767年(明和4) 家督相続。ついで、侍従兼任
1785年(天明5) 隠居。越前守に遷任。侍従如元。
上左は、泊まった駅前のホテルの窓から見た「米沢の月」。上右は翌朝の米沢駅。
餐霞館遺跡
(さんがかんいせき)
上杉家御廟所
(うえすぎけごびょうしょ)
上左が謙信の墓所、上右が鷹山の墓所。
籍田の碑
(せきでんのひ)
林泉寺
(りんせんじ)
上杉家奥方、支候の菩提所。直江山城守兼続など重臣名家の墓がある。山門(下)は重臣竹俣家の門を明治35年に移築した
ものだが、上杉鷹山もこの門をくぐった。米沢駅より車で15分。
旧米沢工業高校本館
(きゅうよねがわこうぎょうこうこうほんかん)
現山形大学工学部の前身。明治40年7月竣工。英国人の設計で、ルネッサンス様式の美しい木造建築。国指定重要文化財。
邪馬台国大研究 / 城下町を歩く / 米沢・上杉藩く